仲間たちの姿が再び見えなくなり、足元の水も消え去った。
周囲の空気が変わり、視界は黒一色に染め上げられる。
音が吸い取られたような沈黙の中に、金属の軋むような冷気が漂っている。
「ここにも通路や小部屋はなし、と」
ブッシュワーカーだけが、すぐそばに立っていた。
彼の言う通り、ここは第四、第五階層と同じく円筒状の空間のようである。
「なんでオレまで……」
壁は深い闇をたたえた黒い金属で構成されている。
中央の床には、何もない。
平らな円形の広場がぽっかりと空いており、その周囲を取り巻くように、壁際には黒鉄の螺旋階段が静かに伸びている。
見上げれば――天井はない。
円形に穿たれた開口部から、夜空が見えている。星が滲み、風がゆっくりと空気を動かす気配がする。
空の南側はまだ赤い。塔の外で見た大火の
「おい、あの穴って――」
「黒雷竜が出入りするための穴、だろうね」
当然だが、竜の姿など今はどこにもない。
だが、中央の広場には巨大な何かが、確かにそこに居たような気配があった。
軽く焦げたような跡、爪が抉ったような傷、かすかな獣臭さ。
迷宮機能の例に漏れず、それらの痕跡は今にも消え入ろうとしている。
「この第六階層で最後ってことさ」
わざわざ語られずとも分かる。
ここが終点、ネームレスタワーの頂。そして、終わりの場所なのだと。
会話の間にもブッシュワーカーは壁際へと進み、さっさと階段を上り始めている。
ここまで来たなら、最後まで見届けるしかない。
バリスタは腹を括り、彼の後に続いて螺旋階段の一段目を踏んだ。
「なあ。さっきお前が言ってた、オレを選んだ理由って――」
「竜を倒す願いがどうこうって話ね。あれはウソだ」
「…………は???」
「なんか間が持たなかったからさ。皆を納得させるのに、何か言わないといけないのかなって」
バリスタは愕然となり、言い返す言葉がすぐには出てこない。
「お前なあ……」
「まあ、嘘つきは僕だけじゃないけど。まったく、よく言うよなあ」
何かを思い出したのか、前を行くブッシュワーカーからは軽く笑ったような気配がした。
あの場に、彼以外にも嘘をついている者が居たというのか。
どうでもいい情報すぎる。
自分が選ばれた理由も、バリスタはどうでもよくなってきた。
天井の開口部が近くなり、階段の終端も迫る頃。
星空から射す冷たい光が差し込んでいる。そして、声がした。
『待ち侘びたぞ』
声の主は、初めから終点に居たかのように――そこに立っていた。
水面のように揺らぐ空間に、朱と翠の鮮やかな衣。
それは帝国の一部で着られていたような民族衣装、吟遊詩人が稀に用いる様式にもよく似ている。
絢爛でありながら、どこか古めかしい。それを着るのは黒髪の童女――いや、童女の姿をした何者か。切り揃えられた毛先は無造作に散らされ、意図的に乱されたような洒脱さがあった。
顔立ちは幼く、しかし表情は不敵。
軽く目を細めた笑みは、無邪気というには冷たく、威厳というには遊び心に満ちていた。
甘さと冷たさ、気まぐれと威厳。判別不能な揺らめきに、目を奪われる。
「お前は――」
『さあ、続きを見せてみよ。塔の試練に相応しい結末を』
彼女の声には、どこか楽しげな調子さえある。
「あなたが
記憶を探るかのように、ブッシュワーカーが首を傾げた。
『この塔を創った迷宮生成術師は、『名前』とは物事に意味と形を与え、その可能性を封じる呪いと考えたのじゃ。事実、あのゼファーは名を与えられたことにより――滅亡そのものの概念から一歩、こちら側の常識に引き込まれた怪物となっておる。本来ならば、視認できるのかどうかも怪しいほどの存在じゃろう』
ブッシュワーカーはふむふむと頷いているが、バリスタには全く意味が分からない。
『この塔で竜に抗おうとする者に名は要らぬ。故に
「あっ……? もしかして、オレらの本名が呼ばれないのって――」
『元はそういった
呼び名を変えた程度で何らかの効果があるとは思えない。
ネームレスはさておき、今の登塔団のほうは本当に何も無いのだろう。
ゼファーの言い伝えといい、昔から続く無意味そうな風習にも、歴史を辿れば成立しただけの理由があるのだ。
『そしてもう一つ、竜に抗うために始められ、それと知らずに街の者が続けたことがある』
「登塔団以外にも、んな連中がいたのかよ。それってなんなんだ?」
『街の衛兵に代々受け継がれている、《弩弓兵》の存在じゃ』
――え……?
『付いてくるがよい』
ネームレスは階段の上から、塔の外側へと姿を消す。
上がってこいと言っているのだ。恐らくそこは屋上なのだろう。
屋上といっても大部分は竜のための開口部であり、床があるのは外周部の縁だけだと思われた。
ブッシュワーカーは再び階段を上り始め、バリスタがそれに続く。
上からネームレスの声が響く。
『のうブッシュワーカー? 汝、何故バリスタを選んで連れてきた。水鏡に映った姿は汝自身であったのに、わざわざ同行者として指名までしおって』
第五階層の試練でブッシュワーカー自身も、竜に挑むのは自分だという自覚があった。
それでもバリスタを塔の頂上に連れて行くべきだと、ネームレスに交渉した。
そういうことになる。
『さしずめ、汝には最初から
屋上に出る。
円環状の回廊は星の光に晒され、遥か下方には夜の大陸が広がっている。
そして、屋上の通路には点々と、見慣れた構造物が置かれている。
それは、地上の城壁に備えられたものと同じ旧時代の遺物。
あの『弩弓』と同じ形をした兵器が全部で8門――地上同様、八つの方角に向けて設置されていたのだ。
「こいつは……」
『地上から二百四十メートル。こんな場所にある兵器など戦争の役には立たん。この弩弓で狙うべき標的は、ただ一体しか存在せぬ』
「…………!」
『何か質問はあるかの』
ブッシュワーカーがすぐさま返答する。
「気になるのは、この場所自体が黒雷竜に対して無防備に見えることかな」
『この塔は周囲の空間も含めて絶縁領域でな。屋上に出ていても奴の雷は通らん。まあ、直接喰われることはあるかもしれんがの……』
「近付かれる前に、決着を付ける必要があるわけか」
先に聞かれてしまったが、バリスタにも質問はある。
歴戦の狙撃手である彼は、この武器の問題点にすぐ気付いた。
「いや、待ってくれ。ドラゴンの最大飛行高度はどのくらいなんだ?」
『千メートルを優に超える。この場所よりも遥か高空じゃな』
「だったらこんな場所に弩弓を置いても誤差じゃねえか。『塔の壁を登る』ようなもんだ……」
掴みかけた希望が、もろくも崩れ去るような失望を覚えた。
バリスタの情緒は忙しく乱高下を続けている。
『面白いことを教えてやろう、バリスタよ。――空気というものは本来電気を通さぬ。自然界の雷は空雲から地上まで落ちているように見えるだろうが、実際には数十メートル程度の短い
――よく分からない……。
『そして、黒雷竜は小さい』
「小さい?」
『考えてもみよ。天空に広がる雄大な雲海に比べれば、あの黒トカゲなどゴミカスのようなものであろう。ブッシュワーカー、汝は分かるか?』
「黒雷竜には、雷に本来必要な
『その通り。空中では奴の雷などほんのわずかな距離しか届かぬ。地上に対しての攻撃も、高度二百メートルまでは降りる必要がある。塔の屋上より、いくらか下じゃな』
途中の話は全く意味不明だったが、最後の部分だけは分かる。
「それじゃあ……!」
『この街の民を守る目的なら、弩弓の位置などこの高さで充分。ネームレスタワーそのものが、黒雷竜と戦うための砲台じゃ』
*
バリスタは弩弓の点検を始めていた。
なにしろ二百年以上、誰も使っていない兵器である。
しかし――
「どこも問題ねえな……」
「この弩弓も迷宮の一部なんだから、壊れても復旧するよね」
どうやらそうらしかった。
むしろ地上の同型よりも状態がいい。
『ゼファーの奴が戻ってくる前に聞いておこうか。どちらが竜を倒す?』
「えっ? それはどっちかに決めるもんなのか?」
「弩弓同士の場所は離れてるし、多分この南東の1門しか使わないでしょ」
ゼファーが南東から戻ってくるなら、他の弩弓の方位角を調整して戦うのは確かに効率に欠ける。
弩弓を2門使うよりも、観測手を置いたほうがいいのかもしれない。
だが、ネームレスが聞いているのは、果たしてそういう意味なのだろうか。
弩弓を直接扱う技術だけならば、バリスタのほうが一歩勝る。しかし――
逡巡するバリスタに、ブッシュワーカーが後押しするように告げる。
「バリスタ。今こそ貸しを返してもらおうか」
「貸し――」
あれは3月のことだった。
熊に襲われた人たちを、弩弓による狙撃で助けた事件。
この出来事とブッシュワーカーの機転により、バリスタは辛くも登塔団に残留することが出来たのだ。
「お前は、全部最初から……」
「僕のことはいい。君の本音はどうなんだ」
「本音……オレは――」
あの、竜に燃やされた街並みを見たときのことだ。
――燃やされたのが、金持ちの住んでる南側地区だけで、まだ良かった……。
そのようなことは、とても口には出せぬ。
――生まれ育った北側地区じゃなくて、本当に良かった……。
そのように思わなかったなどと言えば、嘘になる。
そんなことを考えてしまう自分が許せない。
そんな己が、どうして皆を代表して戦えようか。
バリスタが、この街の出身であるからこそ芽生えた本音。
だが、それでも――
――『君が弩弓兵を目指すというなら、その技術。――この街の人たちを、守るために使ってほしい』
そうだ、この街の者だからこそ――
乗り越えなければならない。
生き残った者たちを、守らねばならない。
死んでいった者たちの、無念を晴らさねばならない。
――ゼファーは今ここで、オレが倒す。
バリスタの矢が届く相手であるならば、倒せぬ道理などはない。
『どうやら、覚悟は決まったようじゃの』
ネームレスが両手を胸の前にかざし、その上に。
なんらかの力が、収束する気配がする。
バリスタのような魔力に対して鈍い人間にすら、それははっきりと感じられた。
力は徐々に細い、そして黒い影を成し、この世に顕現する。
時刻は深夜。
日付はとうに変わっており、12月が始まる。
『受け取るがよい。この世で唯一、黒雷竜を封印せしめるもの。これぞ――』
ネームレスの手から宙を漂い、バリスタの両手の中に収まるそれは。
未知の金属で形成された、細長く真っ黒な棒であった。
詩人の歌に出てくるような竜殺しの武器。そんな都合の良いものは、存在した。
ただしそれは、学者が言っていたような魔剣などではなく――
バリスタは一目で理解する。
これこそがこの弩級で使われるべき、正規の『矢』なのだと。
『竜殺兵器――《