ウルは、微睡みの中にあった。
ラストに接触したときともまた違う、霧の中で溺れているような、ぼんやりとした感覚だ。その只中で、遠くから声が聞こえてきた。
『……たん』
「ん……?」
ゆら、ゆら。
体が小さく揺すられているのを感じる。
『にーたん!』
「アカネ……?」
瞼を開けば、視界は真っ赤に染まっていた。顔を覆い尽くす液体と固体の中間のような感触は、ウルにとって慣れ親しんだものだ。少し前までは、毎日顔に浴びていた気がする。
それを引き剥がすと、アカネは姿を変える。
小さな妖精のように変化した彼女は、楽しそうにクルクルと空中を飛び回る。それに相対するウルは、驚愕と感動で半々といった様子だった。
「何で、ここに」
だって、アカネは。
ウルの視界に、過去の風景が重なる。崩れていく神殿の中へと向かっていく彼女の姿が、無垢な精霊の姿と重なり合った。
そんなウルを心配してなのか、彼の額をぺちぺちしながらアカネは首を傾げる。
『なにが〜?』
「何がって」
ウルが周囲を見渡す。
そこにあったのはもはや見慣れてしまったウーガの自宅ではなく、ボロボロの宿だった。それどころか、身に纏っている衣服もボロ切れに近い品物だ。今の、曲がりなりにも黄金級だったウルの生活環境では無い。というか、ウルは魔界に居たはずだ。ここはどう見ても、イスラリアの宿だ。
様々な情報が入り乱れて、最終的に一つの線で結ばれる。
「……そうか」
ありえない。
なら、これは泡沫に咲いた一瞬の夢想。つまり、夢だろう。
『ほんとに変だよ?にーたん』
「なんでもない。ありがとな、アカネ」
アカネの頭を人差し指で撫でる。
アカネは困惑したように目を細めるが、それはそれとして嬉しそうだった。
『なんでさ』
「そういう気分なだけだ」
こんな状況で幸せな夢を見る自分に呆れながら、指先に帰ってくる感触を噛み締めた。
たまには、悪くないだろう。
『……じゃなくて!きょうはおでかけするってにーたんがいったんでしょ!?』
「お出かけ?」
◆
その後、彼なりに情報を精査した結果、ある程度状況を理解することができた。
この夢の中では親父に借金を押し付けられることはなく、アカネが借金のカタになることも無かったらしい。だからウルは冒険者に成らず、名無しとして日々を生きているようだ。
『んで、どこいく?』
「どうするかなぁ」
人目に付かない様変形したアカネに話しかけられ、ウルは首を傾げた。
周囲を見る限り、何処かしらの衛星都市であるらしい。屋台などが見られることからそこそこ栄えているようなので、アカネと買い物をしながらうろつくことなんかも考えたが……
「如何せん懐が」
ここではウルはしがない名無しでしかない。
冒険者をやっていた時のように、気軽に食べ物を買ったりするほどの余裕が無いのだ。冒険者の自分、現実では忌み嫌っていたそれがどうにも羨ましく感じた。現金なものである。
「急に金が湧きでもしたらな」
ふと、そう呟いた。
それに呼応するように、ウルの手元に唐突に重みが圧し掛かった。
「うおっ……」
『きんか!?』
そこに現れたのは、革でできた袋。
少し開いた口からははちきれんばかりに詰め込まれた金貨が顔を覗かせている。
「流石夢、だな」
『なに、あぶないおかねなん?』
「安全な奴だ。多分」
『ふあん』
夢のお金、というと怪しいものな気がしてくるが、恐らく大丈夫だ。
「何か飲み物呑むか?」
『うーん……』
「折角だし使うぞ」
アカネはまだ出所のわからない財源を信用していないようだったが、それでもウルは半ば強引に押し切る。
せめて夢の中では、良い思いをさせてやりたい。死地に赴く妹の姿を思い浮かべながら、ウルはそう思ったのだった。
『なら、くだもののやつ』
「了解」
屋台に向かっていくウルに追随しながらも、アカネは不思議に思う気持ちを隠せないで居るのだった。
◆
『うんま~』
誰にも見られない様、物陰に隠れながらウルはアカネに飲み物を飲ませる。
幸せそうな声を上げる妹に、ウルは思わず微笑んだ。
『ん~』
「どうした?」
そんなウルを見て、アカネは唸る。
精霊の姿に戻り、ひらひらとウルの顔を眺めては、不思議そうにまた唸っていた。
『へんなかんじ。ほんとになんかあったん?』
「……まぁ、無いって言ったら噓にはなるよな」
口頭では伝えきれない位には色んなことがあって、だから、ここにはもう戻ってこれない。
名無しで居た頃が幸せだったとは、口が裂けても言えないのは確かだ。一日一日を生きる事すら不安定で、何回も迫害されて、その度に傷つきもした。それでも、碌でもない世界の真実を知った後だと、どうも輝いて見えてしまう。奈落の奥底だと思っていた場所が、崩れかけの
『そーなん』
そんなウルの心情を知らないからか、または察しているからか。
アカネは無関心に飛び回り、やがて形を変える。それは、アカネが精霊憑きになる前、只の少女であった頃に非常に酷似した相貌だった。
『あたしはなんもなかったよ。なんもかわってない』
「そうか」
アカネの頭に手を伸ばす。
彼女は抵抗することも無く、ウルの手を受け入れた。
『ずっと、にーたんのいもうとだから』
「……そうか」
ああ、戻りたくない。このままでいいならどれだけ。
一瞬、そう願ってしまった。アカネは自由になった。だから、あの選択をした。あの選択ができるように、背中を押した。そんな事、わかっている。でも、それでも、こんな未来があったとするのなら、何も知らずにアカネと過ごせたのなら、それはきっと幸せで。
心の中でぐちゃぐちゃに混ざり合う後悔に突き動かされて、ウルは唇を噛んだ。
アカネが、頭の上に乗せられた手を握った。金属のように冷たくて、とても、温かかった。
「俺は、ちゃんとできたか?」
『うん。にーたんは、ずっとさいこーのにーたんだよ』
「……なら、良い」
すりすりと、アカネが掌に頭をこすりつける。
猫のようなそのしぐさが可笑しくて、途轍もない程に愛おしかった。
「そろそろ、行く」
『そっか。きをつけてな、にーたん』
底抜けに明るいようでいて、寂しそうな声色でアカネは語る。
夢の中でのアカネは、ここで独りになってしまう。それでも、妹は背を押してくれた。もう、止まれはしない。
路地裏に進んでいく。建物に太陽神の光は遮られて、ウルの歩く道の先には暗闇だけが広がっていた。
ウルの姿が、黒に溶けていく。一人になった赤錆の少女が、顔を上げないままに呟いた。
『じゃあな、にーたん』