歩夢はそれだけ言うと部屋に上がり込んだ。感動的な再会なんてものはなく、ボクに向かって
歩夢は何も言わずどこからかゴミ袋を引っ張り出して、散乱しているゴミをくるみ割り人形のように片づけ始めた。その様子をボクはぼうっと眺めた。どれくらい眺めていたのだろうか。数分かもしれないし、何年も眺めていたのかもしれない。それからボクは邪魔にならなさそうな場所で腰を下ろし、じっと頭痛が収まるのを待った。部屋にはビニール袋ががさがさと擦れる音だけが響いていた。
ゴミが片付くまであっという間だった。歩夢はそのまま止まることなく洗濯機を動かし、冷蔵庫の中を確認し、シンクに溜まった食器を洗い始めた。何処になにがあるのか知り尽くしている動きだった。
「侑ちゃんのこと聞かないんだね」
先に口を開いたのは歩夢だった。洗い物をしながら聞いてきた。第一声がベイビーちゃんなのも相も変わらずと言ったところなのか。歩夢の中でボクの優先度は低いようだった。世界を騒がす『歌姫』など片手間であしらえる。そう言った口調だった。
「歩夢とカンケーないだろ」
ボクはそう言ったつもりだったが上手く声が出なかった。
「侑ちゃん、今私の家にいるよ。昨日由比ヶ浜駅に呼び出されたの。私、急いで迎えに行ったんだよ」
由比ヶ浜。確かいくつか先の駅だったはず。ボクはそんなことを考えながらベイビーちゃんのことを考えた。あの雨の中相当な距離を歩いたことになる。
「侑ちゃん、見たことないくらい酷い顔してた。何があったのって訊いてまともに喋れなかったんだよ」
歩夢の方を見ると無表情で包丁を洗っていた。背筋に軽い電気のようなものが走り、ボクはもう一度吐きたくなった。
「ミアちゃん。侑ちゃんのこと心配じゃないの?」
別に。ボクは慎重に言葉を選んだが結局出てきたのはその言葉だった。ボクは今それどころではい。勿論いろんな意味でだ。
ボクは我慢しきれずもう一度トイレへ駆け込み嘔吐した。吐き出すものは殆ど残されておらず、ただ空気を絞り出しただけの辛い嘔吐だった。
暫くトイレに籠った後、ボクは顔を洗った。多少気分がマシになると思ったが、何も変わらなかった。
部屋に戻ると歩夢は洗い物を済ませており、ベイビーちゃんの痕跡をなぞるように部屋の中を歩いていた。ベイビーちゃんが毎日触っていたパソコンを撫で埃を綺麗にした。電子ピアノの前で立ち止り、鍵盤を何度か叩いた。そのまま箪笥まで行くと貝殻を集めていた瓶を綺麗にし、伏せられていた写真立てを眺めた。
ボクは眼鏡を探し、また同じ場所に座り込んだ。眼鏡をかけると頭痛が酷くなり適当な所へ放り投げた。そしてじっと歩夢が口を開くのを待った。
「ねえ、ミアちゃんは何でここにいるの?」
ボクは何も返せなかった。そう言われればそうだ。ボクは何でここにいるのだろう。ボクは何処にいるのだろう。
「理由がないなら早く出ていけばいいじゃん」
言われなくても出ていくよ。ボクはそう言うつもりだったが、掠れた唸り声しか出なかった。
「だってここに残る理由ないんでしょ?」
まただ。言われてみればだ。さっきから歩夢は正しいことしか言っていない。
「侑ちゃんね、ミアちゃんが虹ヶ咲を卒業してからずっと、なにかある度にミアちゃんのことしか話さなくなったんだよ。ミアちゃんと連絡が取れなくなってからもずっと。まるで蜃気楼に話しかけてるみたいに。ミアちゃんの名前を呼び続けてるの。昨日もだよ。私がどれだけ慰めても、ミアちゃん、ミアちゃんって」
ボクは顔に手を当て頭痛が収まるのを待った。顔中脂汗まみれで前髪がべったりと張り付いていた。しかしいくら待っても鈍い痛みが波のように続いた。兎が何羽も頭の中で飛び跳ねているようだった。
「これ以上侑ちゃんを苦しませないでよ」
「さっきから」ボクはなんとか声をひねり出した。「ボクが悪者みたいじゃないか」
「ここに残ったのもアイツに誘われたからだし、勝手に傷ついて勝手に出ていったのもアイツだ。ボクはアイツに言われた通り、自分のことだけ考えてたんだ。ボクは悪くない」
「それ本当?」
ボクは何も言わなかった。歩夢は何か考えていたようだったが、上手く言葉がまとまらなかったのか溜息をついて間を保たせた。
ボクと久しぶりに再会できた人は上手く話せなくなるのだろうか。
「でも」歩夢は言った。「許せない」
「侑ちゃんのやりたいことくらいやらせてあげてよ」
「ボクには関係ない」
「ミアちゃんにしかできないことなんだよ」
「ボクを巻き込まないでくれ」
「ねえ、どうしてそんな酷いこと言えるの? 侑ちゃんはずっとミアちゃんと夢を──」
「覚えてないっつてんだろ!」
「最期かもしれないんだから侑ちゃんの望みくらい叶えてあげてよ!」
ボクは言葉の意味を理解できなかった。勢いよく立ち上がったボクは頭までアルコールが回り、眩暈を加速させた。歪む視界の中で、酷い頭痛の中で、必死に言葉の意味を考える。がつん。兎が頭を殴る。言葉が出ない。兎は喋らない。
ボクはどんな顔をしていたのだろうか。何も話さないボクを見て、歩夢は泣き出しそうな表情から少しずつ顔色を変えた。
「知らないの?」歩夢は続けて言った。「聞いて、ないの?」
ボクは首を振った。これくらいしかリアクションが取れないのだ。
歩夢はどこか不憫そうな表情になると、箪笥の一番上の引き出しを静かに引いた。中からいくらかのチラシや葉書をどかし、最後にA3サイズの茶封筒を取り出すとそれをボクに渡した。中を見て。言葉に出さずとも歩夢はそう言っていた。
ボクは眼鏡を拾い、頭痛に耐えながら茶封筒を何度か裏返し眺めた。表には東京の何処かにある大学附属病院の名が大きく印刷され、名前の脇には桜のロゴがあしらわれていた。ボクは鋭く息を吸って中にあった一枚の紙を取り出した。
その紙には無機質な文字で診断書と書かれていた。診断された日付は約一年前だった。
文字は感情を持たず義務的にアイツの病状を語っていた。聞いたことがある病名だった。何年も前に死んだ栄誉ある英国の物理学者、その人も確か同じ病気だった。とボクは思い、そこで完全に思考が停止した。
「侑ちゃんはね、もうピアノが弾けないの」
その続きを補完するように歩夢が口を開いた。
「少しづつ力が入らなくなるの。気づかなかった? 侑ちゃん、前より歩くスピードも遅くなったし、高校生の時なんかより信じられないくらいか弱くなってるんだよ」
ボクは立っていられなくなり、蹲りながら続きを浴びていた。ボクは明らかにショックを受けていた。それで力が入らなくなったのだ。何故こんなにショックを受けているのかわからなかった。頭の中で兎が飛び跳ねた。一音。音が響いた。
「それでも侑ちゃん、やり残したことがあるって稲村ケ崎に引っ越したんだよ。最期くらい好きにさせてくれって」
「病人に、そんなこと──」
「もちろん皆反対したよ。侑ちゃんにはお金もなかったし。でもね、昔の仲間が支援してくれて、やっと叶えてあげられたんだ」
「叶えるとか、夢とか、そういう次元の話じゃないだろ……お前ら皆……アイツを見殺しにする気かよ!」
「もう皆どうしていいかわからないの!」と歩夢は怒鳴った。歩夢の怒鳴り声なんて初めて聞いたかもしれない。歩夢の顔を見ると怒りと不安が入り混じった顔で泣いていた。
「侑ちゃん私達に何も言ってくれないんだよ?!」
歩夢はボクの顔を鷲掴み無理やり目を合わせた。激情に高ぶる歩夢を見るのも初めてだった。何もかもが曖昧なボクにはもう、歩夢の胸中を推し量ることができなかった。
「皆侑ちゃんの力になりたくて……でもミアちゃんしかわかってくれないって……皆少しずつ侑ちゃんと離れ離れになって……もうおかしくなりそうなの! ねえ、わかる?! 毎日弱っていく侑ちゃんが遠くにいる気持ち! いつ動けなくなるかわからないんだよ?! 知らないうちに指も動かせなくなって、助けも呼べなくなって、そのまま息もできずに孤独に死んでいくんだよ?! もう心配で、心配で、気が狂いそうなの! でも、侑ちゃんはもう、私達に心を開いてくれないの! ねえ、わかる?!」
やめて、やめて、くれ。ボクはかすかな声で歩夢に伝えていた。
歩夢はひとしきり吐き出してしまうとその場に泣き崩れた。アイツの名前をただ繰り返し呼びながら声を上げて泣いていた。
「こたえてよお」歩夢は言った。「侑ちゃんを突き動かすのは何?」
「十年前、侑ちゃんと何を約束したの?」
泣き続ける歩夢にかける言葉も見つからず、ボクはただ黙っていた。
「『歌姫』なら、叶えてよお」
ボクは歩夢を放って部屋から飛び出した。
今のボクに気持ちの整理なんてことはできなかった。必要以上の情報が沈没しかけている船から投げ捨てられ、渦潮の中心へと集まっているのだ。ボクはただその中心でじっと蹲り、荷物とぶつかって痣を増やしていただけだった。
眼鏡を忘れてきた。いつ落としたっけとボクは思い、一度玄関を振り向いたが諦めた。こんな状況でも身の危険になると、変に冷静なことを考えてしまうものだとボクは思った。酔いの醒めない中、ボクは転ばないよう手すりにしがみつきながら階段を下りた。視界なんて殆どなかった。
ぼやけた白線をめがけて道路に出た。丁度イナムラの駅から発車ベルが聞こえてきた。今が何時なのか。空の色や太陽の位置さえぼやけて確認できなかった。
おい、と呼び止められる。ボクは何度か首を振り、声が聞こえてきた方向を探した。
「こっちだよ、酔っ払いが」声は右側から聞こえてきた。
声の主はキタノだった。
「随分やつれてんな。騒ぎやがって」
キタノは舌打ちをしてそう言った。ボクは無視してまた歩きはじめると、足元に置いてあった何かに足を引っかけて転んでしまった。右膝と左肘を思い切り擦った。体を駆け巡るものが痛みなのかさえわからずその場に座り込むと、擦った場所からどろりとした液体が伝って流れた。どうやらボクにはちゃんと赤い血が流れているようだった。
ボクが足をひっかけたのはサーフ·ボードだった。
「痛えか?」
ボクは首を振った。それから少し迷って、わからないと言った。
「じゃあ、ちゃんと痛えって思えるまで頭冷やしてこい」
そう言ってキタノはボクの頭になにかを乗せた。恐る恐る触ると、それはただのキャップだった。
ボクはよろめきながら立ち上がり、また白線を辿って歩き始めた。江ノ電が上げた金切り音が少しずつ遠のいていった。
ぼやけた風景の中、ボクは感覚だけを頼りに歩いた。車の音が聞こえてくると、ボクは近くにあった電柱やコンクリート塀にしがみついてやり過ごした。アイツと通った散歩道は日が高いこの時間でも殆ど人通りはなく、ボクは視線に怯えず歩くことができた。もう誰かの視線なんて気にならなかったはずなのに、結局『歌姫』と呼ばれたボクはその名に浴びせられる視線を気にしていたのかもしれない。
この街に『歌姫』なんていなかった。
ボクはいつものように家の脇を通り、道路下の函渠を潜り、イナムラのビーチへ出た。ボクは止まることなく歩き続けた。途中、何度か白い流木に足を引っかけ転んだが、体中砂まみれにして立ち上がり歩き続けた。その時、怪我した膝を何度か擦りまた血が出てきた。ボクは血のついた手で砂を払い、汗を拭った。
手を着きながら階段を上り、気づいた時には岬の上にある東屋に辿り着いていた。もう行き止まりだった。
ボクは東屋のベンチに倒れ、蹲った。そして海の方向を眺めた。江ノ島らしきものが水彩画のように浮かんでいた。今は夏なんだ、とボクは思った。ボクはこれから巡ってくる季節を順番に思い出していった。秋が来て、冬が過ぎ……春……春。これ以上思考は発展しないと思いそこでやめた。途中誰かが声をかけた気がした。無視し続けていると、声の主は諦めて帰っていった。やっと正真正銘の孤独がボクの元へ訪れた。
蝉の鳴き声、海の音、風の音。全ての音が頭痛の波と重なるのを感じながら、ボクはそっと目を瞑った。
「よお、久しぶり」
盲目兎はそう言って、両手でトイ・ピアノを弾ていた。その音は以前のような一つの音が乱打されただけの音ではなかった。伝えたいという明確な意思を持ち、ひとつのフレーズがメロディーとして完成されていた。
「やっとおれと会う気になったんだな」
「ボクに選ぶ権利なんてあったか?」
「おまえがイナムラに辿り着いてからはな。結構退屈だったんだぜ」
フレーズを一通り弾いてしまうと、盲目兎はまた新しい音を探し始めた。一音。以前と変わらぬ夢が再開された。
そうか、とボクは思う。盲目兎は曲を弾く為に音を探していたんだ。この曲はなんだろう。どこかで聞いたことがある。
「でも思い出せない」盲目兎はそう言った。
ボクは光源から目を逸らした。そして風とトイ・ピアノの音だけに耳を傾けた。
「なあ、ボクはもう手遅れなんじゃないのか?」
「波のことか?」
「ボクは……ボクはまた同じ失敗をした」
盲目兎は黙っていた。
「あの少女のことばかり思い出すんだ。ボクは『歌姫』を言い訳にして少女の夢を叶えてやれなかった。少女だけじゃない。その父親の夢もだ。ダニーの想いを裏切った。ボクを慕っていた人に、酷いことを言った。酷いことをしてしまった。『歌姫』を言い訳にして」
アイツにも、同じことをしてしまった。
「もう繰り返したくないって、後悔したくないって、必死にやってきて、でも必死になればなるほど、ボクが通ったあとには傷つけてしまった人達ばかりがいて」
アイツも、傷つけてしまった。
「なあ、どうしてこうなるんだよ。教えてよ」
「おまえもうわかってるだろ。いい加減認めろ。おまえは痛みと犠牲の使い方がヘタクソなんだよ」
一音。その音はなによりも激しく、力強く響いた。
「痛みと犠牲が伴わない夢なんてこの世にあるもんか。皆等しく夢を見る。そして皆等しく傷ついて、失って、その代償で叶えていく。得るものばかりが美化されて描かれる空想上の夢なんて子供の時に終わってるんだよ」
一音。
「まあ、おまえと同じ奴も近くにいるらしいがな」
一音。一音。一音。一音。一音。一音。一音。
突然の乱打で鳴らされたその音はあっという間にひとつのフレーズとなり、また新たな意志を持った音が繋がった。
盲目兎は今まで完成したフレーズを繋ぎ合わせ、初めて鳴らされた音から順番に弾き始めた。まだ曲と言えるようなものでは無かったが、その音はボクの中で確かに響き渡った。
懐かしい。ボクはそう思った。
「でも大丈夫だろう?」盲目兎は続けた。「歌はまだ止まってない」
「歌は止まってない」ボクは繰り返して言った。
「そうだ。でもこれから大きな波が来る。信じられないくらいの高さの波がな。だからおまえはまず備えなきゃいけない」
「どうやって」ボクは首を傾げた。
「言ったろう。身軽になるんだ。下ろせる荷物を一度下ろすんだ。手伝ってくれる人は必ずいる。歌を紡いでいる人がいるようにね。だからまず身軽になれ。波に浮べるようにな。大丈夫。時間ならまだある。今ならまだ取り返せる」
盲目兎は珍しくボクの方を見た。相も変わらず視線が合わなかったが、少しだけ笑っていたような気がした。
ボクはその場で立ち上がった。砂を払ったあと、ボクはぐっと背中を伸ばしてみた。それから一歩を踏み出そうと体に力を入れた。
「求め続けろ」とボクは言った。
「そうだ。求め続けろ」と盲目兎は言った。
「おまえは何故『歌姫』になった?」
目覚めた。目覚めることができた。あれだけ飲んで死ななかったのは奇跡かもしれない。視界は相変わらずぼやけていたが、酔いは醒めていて目眩も止まっていた。
ボクは東屋で一晩眠り続けていた。日はぐるりと一周し、空は青白かった。朝だ、とボクは思った。
止まることのない循環に、江ノ島はやれやれとでも言いたげに起きる準備をしていた。冷たい夜風が吹くと木々は揺れ、波の音をイナムラへ運んだ。その風は残った酒気をどこかへ持ち去った。
帰ろう。ボクはそう思った。
「ミアちゃん?」
薄暗い部屋の中にドアの軋みが響き渡ると、歩夢はゆっくり顔を上げた。明かりもついていない部屋の中で、朝日を待ちわびる蕾のように蹲っていた。部屋の中はなにひとつ昨日と変わっていなかった。多分、歩夢は一睡もしていない。
歩夢は腫れた目をそっと撫でるとボクを見てひどく驚いた。ボクは全身は砂まみれで、血まみれだった。あちこちに着いた血は赤黒くなり、擦ったところには石のような血の塊がくっついていた。
「怪我、ミアちゃん、血が」
「ねえ、歩夢」とボクは言った。
「どうすれば、ボクはもう一度『歌姫』になれる?」
歩夢は驚いた顔のまま黙っていた。少しの間黙って、ゆっくり首を振った。
「どうすれば、全ての痛みを抱えたまま歩ける?」
歩夢はまた少しの間黙った。口を開き、何かを言おうとしては何度も躊躇った。
「わからない。それができるかどうかは、人によるよ」
でも。歩夢は続けた。
「きっと歩み出す一歩目は、自分の痛みを受け入れるところから始まるんじゃないかな」
ボク達はしばらく沈黙していた。歩夢はずっとボクの目を見ていた。朝日が部屋に差し込む頃、ボクはようやくその場に座り息を吐いた。
「聞いてくれる?」とボクは言った。
「侑ちゃんの為になるのなら」と歩夢は言った。
ボクは全てを話した。
アイツに話した表向きの『歌姫』ではなく、もっと深い、深い穴の底で沈んでいる『ミア・テイラー』のことを話した。
少女のこと。その父親のこと。ダニーのこと。傷つけてしまった人たちのこと。傷つけられたこと。そして、アイツとの約束を忘れてしまったこと。大切な何かを欠落させてしまった『歌姫』のこと。痛みを見捨ててしまっていたこと。それが生んだ後悔のこと。その後悔すら置き去りにしたこと。とにかく思い出せることを洗いざらい話した。
こんな話をするのは初めてだった。本当に誰にも話したことはなかった。歩夢の同情が欲しかった訳では無いし、アイツのために泣いている歩夢を見て、羨んだ訳でもない。ただボクは、とうとう話すべき時が来たんだと思った。波、とボクの中の誰かが言った。表面張力によって踏みとどまっていた壺の水が溢れるように、ボクの過去はとめどなく流れていった。
歩夢は黙って聞いていた。時折頷いたり、ほんの少し険しい表情になった。彼女は鉢皿に溜まった水を吸収するように、静かにボクを受け止めていった。
全てを話し終えた時、朝日が部屋の中に差し込んだ。久しぶりの気持ちで迎える朝だった。ボクにはこの気持ちがどういったものなのか説明できなかったが、爽やかな夏の日差しがゆっくりとボク達を包み込んでくれた。今のボクにはそれだけで十分だった。
歩夢は天井を仰ぎ深呼吸をした。それからボクにシャワーを浴びてきてと言った。とりあえずボクはそれに従いシャワーを浴び、体を綺麗にした。熱い湯を浴びると、怪我をした右膝と左肘に染みて酷く痛んだ。声を上げてしまうほど痛かった。
シャワーから上がると、歩夢は怪我の手当てをしてくれた。念入りに消毒し、絆創膏を貼ってくれた。ボクは痛みに耐えきれず低い声で唸った。我慢して、と歩夢は優しい声で言った。
「昔を思い出すなあ」と歩夢は言った。
「またアイツの話?」
ボクがそう訊くと、歩夢は首を傾げて微笑んだ。
「駄目?」
「いいや、ボクも昔を思い出したんだ。あの時歩夢はボクの後輩だったね」
「年下のね」
それから歩夢と朝御飯を食べた。全部歩夢が用意してくれた。お粥と、少し薄めの味噌汁。そして卵焼きを作ってくれた。卵焼きは甘く、優しい味だった。無理して食べなくていいと歩夢は気遣ったが、ボクは残さず食べた。
彼女は手早く食器を片付けると布団を敷いた。とりあえず寝よう。ちゃんと寝て、ちゃんと正しい手順で起きよう。歩夢は欠伸をしながら言った。
ボクが横になると歩夢もボクに背を向けて横になった。その頃になると、始発の江ノ電がイナムラの駅から発車する音が聞こえてきた。電車の地響きが部屋を揺らし、それからまた静かな朝が戻った。
「ごめんね」と歩夢はいった。
「どうして謝るんだよ」
「私、侑ちゃんのこともだけど、ミアちゃんのことも何も──」
「ねえ歩夢、そういうのは起きてからにしよう」
「そっか。じゃあちゃんと寝ないとね」
「うん。そして正しく起きるんだ」
本当に静かな朝だった。蝉の声さえ遠のいていくような夏の一日がまた始まった。
「歩夢」
「うん?」
「どうして、そんなに優しいの?」
「大好きだから。侑ちゃんも、ミアちゃんも。皆のことが大好きだから。この想いは十年前から変わらないよ」
ボクは枕に顔を押し当てた。しばらくすると、じわりと暖かいものが枕を濡らした。どれだけ我慢しようと思っても枕は濡れ続け、怪我は痛んだ。
肩を震わせていたボクに気づいて、歩夢はそっと頭を撫でた。ボクはとうとう我慢しきれず歩夢の胸の中で静かに泣いた。
彼女の胸の中でボクは謝り続けた。少女のことを想い、彼女の父親のことを想い、ダニーのことを想い、ボクが傷つけてしまった沢山の人のことを想い、謝り続けた。
「侑」とボクは言った。
歩夢はそっとボクを抱きしめてくれた。