アイム・ユア・シンガー   作:ゆーすけ・ぼんど

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C調オヤジ、御乱入

 

 

「Hey,起きなよベイビーちゃん」

「ぅん……?」

「起きなって。ボク、もう行かなくちゃ」

「……何で起きなくちゃいけないの?」

「人類の科学力が未熟だからだ」

「意味わかんないよ」

「そのうちわかるさ」

「……なんだか幸せな夢を見ていた気がするんだ」

「へえ、どんな?」

「うーん、上手く説明できない。でも、暗かった」

「暗い? Nightmareじゃないのかそれ」

「真っ暗だったってことだよ。何も見えないの。そこでじっと待ってたの。なんていうか、深海みたいだった。でも水の中じゃないんだ。草の匂いがして、枝が擦れる音がして、虫や鳥の声が響いてた。風も吹いてたっけ。草原だったのかな」

「ふーん。それで?」

「私は、動物か何かだったと思う。暗く何もない草原のど真ん中で、私は何かを待ってずっと口を開けてるの。ずっとね。餌でも待ってたのかな。まあ夢なんだから体は動かせなかったけど、身動きひとつなくずうっと待ってるの」

「随分変な夢じゃないか」

「あ、そうだ。それでね、私の隣に兎がいたの。仲間だったのかな。その兎は私みたいに待ってるんじゃなくて、自分から餌を探して走り回っていたの」

「ちょっとまって、真っ暗じゃないのかよ」

「真っ暗だったよ。でもその仲間の兎の姿だけはっきり見えたんだ」

「それで、その兎は活発に餌を探し回ってた」

「うん」

「でもキミはただ待っていた」

「うん。待ってた。ぴょんぴょん跳ねる仲間を目で追いかけながらね。でもさ、よくわからないけど幸せだったんだ」

「餌を横取りされることが?」

「ううん。違うと思う。幸せそうに動き回る仲間を見て、私も幸せになってたのかな」

「ベイビーちゃんは随分安い幸せを好むね」

「安いかどうかは人によるよ。ミアちゃんにとって私の夢は幸せに感じないかもしれないけど、夢の中の私はそれで充分幸せに感じたんだ。幸せの形なんて幾らでもあるってことかな」

「苦しみの無い幸せ」

「まあ、夢の中だけどね」

「じゃあ、現実のベイビーちゃんはどうなんだよ。キミはそれで幸せなのか?」

「そんなわけないじゃん」

 

 

 

☂️

 

 

 

「起きた?」と歩夢が言った。

 目線の位置が高かった。頭の大きさが倍くらいになった気分だった。少しづつ頭が稼働してくると、ボクは歩夢の膝の上で寝ていることがわかった。歩夢は先に起きていたようだった。彼女はまるで我が子を愛おしそうに見つめるように目を細め、ボクの頭を撫でていた。

「どれくらい経ったの?」

「もう夕方だよ。お腹は? 空いてる?」

「少し」

「じゃあ何か簡単なものでも食べよっか」

「ねえ、歩夢」

「うん?」

「朝のことは忘れてくれ」

「嫌だ」

「忘れてよお!」

「いーやーだ」

 

 

 ボク達はとりあえず部屋に残っていたインスタント・ラーメンを食べ──歩夢が料理をすると何でも美味しくなるのは何故なのだろう──今後のことを話し合った。といっても主な議題はベイビーちゃんのことだ。その前にボクは、歩夢のことについて少し聞いた。

 歩夢は結婚して神奈川に住んでいる。そしてボクを除いて唯一ベイビーちゃんがイナムラに住んでいることを知っているらしい。月二回ほどベイビーちゃんの様子を見に来ては、部屋が荒れ果てないように清掃と維持をしていると歩夢は言った。

 ベイビーちゃんはそんな歩夢に対して来なくていいと毎回話すそうだ。来ると連絡があった翌日には必ず鍵を開けっぱなしにして。やはり怯えていたのだろうか、とボクは思った。何かの本で見たことがある。人間、放っておかれると死ぬ。兎と同じだ

 今までのベイビーちゃんの生活に関しては、ボクが見たものと変わらないようだった。

 余命の宣告を受けてからすぐにイナムラに移り住んだ。そしてパソコンにかぶりついている。ボクの名前を九官鳥のように繰り返し呼び、一日を過ごしている。いくらかの資金援助で残り少ない命を繋いでいる。それがベイビーちゃんだった。多分誰が見ても感想は変わらない。歩夢はそう言った。ボクの記憶にあった彼女は砂の城のように跡形もなかった。

「で、ミアちゃんの出番って話」と歩夢は言った。

「最善は尽くしたいんだ」

「自分の為に?」

「キミ達の為にも」

 まずボクがしなければいけないこと。それは十年前の約束を思い出すことだ。と言っても、簡単に思い出せるのならもうとっくにやっている。

 今までに起こった記憶のフラッシュバックにきっかけや法則があるとしたら、それはボクのいちばん深いところで眠っている何かだ。その何かが誰かによって刺激され、ボクを呼んでいる。刺激しているのはベイビーちゃんなのだろうか。

 あともう少しで何かが掴めそうなのに、そこから先がどうしてもわからなかった。波。とボクは思った。

 ベイビーちゃんが使っていたパソコンを見た。勿論パソコンが教師のように、丁寧に答えはこうだと話してくれる訳じゃなかった。しかしあのパソコンは一度口を滑らせた。ボクにヒントを残したのだ。波に乗るためのヒントを。

「ベイビーちゃんはボクに新曲を歌わせようとしていた?」

「新曲?」

 そう言うと歩夢は酷く驚いた。

 ボクはベイビーちゃんのパソコンを起動させた。歩夢は不思議そうにボクの後ろから画面を覗き込んだ。少し待ってからユーザーを選択すと、パスワードの入力画面に切り替わった。

「Oh, shit! 別に誰にも覗かれないだろ」

「新曲って……私初めて知ったよ。侑ちゃん何も言ってくれなかったし。ピアノだって──」

「ピアノを使わなくても作曲くらいできるさ。ベイビーちゃん、シロウトじゃないんだろ?」

「確かに音大には行ってたよ。二年で辞めちゃったけど」

「腕の火傷の件?」

 ボクがそう訊くと、歩夢は顔をしかめて知ってたんだと言った。

「いや、詳しくは」とボクは言って首を振った。

 歩夢はしばらく考えてからこの話はやめようと言った。

「でも歌わせるって、もしかして、侑ちゃんとした約束のこと?」

「さあね。でもボクとベイビーちゃんの関係を辿るにはもうこれしか手がかりがない」

 ボクはそう言って天井を仰いだ。ベイビーちゃんも天井を仰いでは、こうしてシミの数を数えていたのだろうか。

「これが侑ちゃんのやりたかったことなのかな」

 歩夢は納得いかない顔をしていた。無理もない、とボクは思った。大抵の夢なんて理解されないのだ。不可能だと思われそうなものを追いかけるからそれは夢に成るのだ。

「わからないよ」

 歩夢は溜息をついてそういった。

 勿論ボクにもわからない。ベイビーちゃんは歩夢にそうしていたように、ボクにも多くを語らなかった。そしてボクも多くを語らなかった。それが様々な関係の中ですれ違いを生んで今に至る。躓く程度だったズレは、いつの間にか大きな崖となってボクの前に立ちはだかっていた。

 わからない、とボクは言った。でも詰みではない。凪だ。ボクはキタノのサーフ・ボードを思い出した。ベイビーちゃんが生きている限りいつか小さな風は必ず吹く。それがどれだけ小さくても波を生み出すかもしれない。ボクはその波に乗るのだ。いくらか身軽になった今なら乗れるかもしれない。

 でもその風はいつ吹くのだろうか。

 凪いでいる海の上で干からびる前に吹いてくれるのだろうか。

 結局その日はお互い、ロクな意見を出せずに終わった。

 

 

 歩夢は何日か泊ると言った。ベイビーちゃんは今、検査入院をしている。どうやら定期的なものらしい。もっとも検査が終わっても生まれ変わりでもしない限り、ボクと顔を合わせたがらないと思うが。とにかくボクが一人になるといろいろ不安だ。主に部屋が。歩夢はそう言っていた。

 翌日、歩夢は食材の買い出しと着替えを取りに出かけた。その日珍しくちゃんと眠れたボクは──何故か盲目兎は出てこなかった。法則性があるのだろうか──歩夢より先に起きて散歩をし、驚いていた彼女を見送った。歩夢は本当に驚いていた。

「あなた本当にミアちゃん?」と歩夢はボクに向かってそう言った。正直に言うとボクは少し傷ついた。

 歩夢が出かけた後、ボクは昨日のようにベイビーちゃんのデスクに向かい、パソコンの前で思案に暮れた。画面は相変わらずパスワードを要求していた。ボクはベイビーちゃんの誕生日や、彼女と関わりがある歩夢、旧同好会メンバーに関連することなど、どんな些細な数字でも思いつく限り入力してみた。しかしどれもはずれのようだった。最後にボクの誕生日を入力してみたが、結果は変わらなかった。誰かが崖の上からオイルを撒いているような気がした。

 あれほど盲目的になっていたベイビーちゃんのことだ。きっとパスワードもボクと何らかの関係があるに違いない。でもそれに関連する記憶を掘り起こすためにはベイビーちゃんの解読が必要で……駄目だ、とボクは思った。同じところを回り始めた。きっと間違った海流に乗ってしまったのかもしれない。

 ボクは人差し指を濡らして風を感じ取ってみた。勿論フリだ。しかし風鈴さえ揺らせない弱々しい風ばかりで、扇風機によって乱された風があちこちから吹いていた。ボクは溜息をついた。

 ボクの記憶の底には一体何が埋められているのだろう。

何もわからないまま夏だけはちゃんとやってきた。

 

 

☂️

 

 

 

「やァ、やァ、こんにちワ!」

 その怪しさの塊のような喋り方をする陽気なオッサンに話しかけられたのは、二日後の昼下がりのことだった。ボクは数日間彼女のことだけを考え、少し疲れていた。

 歩夢と昼御飯の話しをしていたボクは、美味しい焼き魚が食べられる定食屋を思い出して提案した。歩夢は喜んでそれを受け入れた。ボクは彼女の様子を見に行った歩夢が帰ってくる前に、二人分の塩鯖弁当をテイクアウトして受け取りに行ったその帰りだった。

 何の前触れもなく、気配さえ感じさせず、突如オッサンはボクの前に立ちはだかった。

 格好がもうオッサンのそれだった。アロハ・シャツと短パンから出た腕や脚は毛を蓄え、肌は十分に日焼けしていた。そして白髪の混じった髪をオール・バックにして、顔中に刻まれた皺を大げさに動かしながら笑っていた。

「キミがミアチャン? うおお本物、チョー美人だネィ。オヂサン驚いちゃったヨォ。すごいネェ~」

 こいつ、なぜボクがここにいることを知っているんだ? 

 逃げなきゃ。でもどこへ? ベイビーちゃんの部屋の玄関の前には丁度オッサンがいる。走って逃げる? 駄目だ弁当が崩れる。歩夢が悲しむ。

 ボクは初めて遭遇するジャパニーズ不審者に冷静さを欠こうと──いや、とっくに欠いていた。

「あ、それでさァ。ミアチャンにお願いがあるんだケド。一寸(チョイト)でいいからオヂサンとお話してくれないかナァ」

「ぼぼ、ボクはおおおお金なんて持ってないぞ!」

「お金ェ? 脅してる訳じゃないンだからサァ。ネ! お願いッ!」

「し、知らない人と話しちゃいけないってMamが言ったんだ!」

「そんなこと言わずにさァ。ネッ、ネッ? このとーり! 一寸(チョイト)だけだからさァ!」

 そう言ってオッサンはボクの前で拝み始めた。時折飛んでくるウインクがボクの背中をぞおっと撫でた。身体中に蝸牛が這っているような気分だった。

「ぃ、いやぁ……誰かぁ……Help……」

「ダイジョブだってェ。悪いようにはしないからさァ」

「ぼっ、ボクはこう見えて純愛派なんだぞ!」

「え? 何の話ィ?」

 一体何の話だろうか。ボクにもわからなかった。

 オッサンはジリジリと距離を詰めてきた。今すぐ泡でも吹いて倒れたい気分だった。余計頑丈に生んでくれた母を想い、祈った。嗚呼、ボクの命運はここで尽きるんだ。夢半ばでジャパニーズ薄い本のように犯されるんだ──。

「……何してるのミアちゃん」

「あ、歩夢ぅ!」

 女神の救済とは買い物袋を引っさげて施されるものなのだ。イナムラに来て初めて学んだことだった。ボクは尊厳と引き換えに歩夢の陰に隠れた。

「変なオッサンがいる!」

「はぁ?」

「エッ?! 酷ッ!」

 歩夢はオッサンを睨んだ後、すぐに呆れた顔になって()()と言った。

「こんにちは。クワタさん」

「久しぶりだね歩夢チャァン! また美人になったネェ」

「はいはいどうも」

「今度お茶行かなァい? 鎌倉にオシャレな──」

「行きません」

 オッサンの定型文のようなナンパを軽くあしらう歩夢を見て、ボクの頭は混乱が止まらなかった。

「……What?」

「あれ? 侑ちゃんに教えられてないの?」

 そう言って歩夢は、やれやれと溜息をついた。

「この人はお隣のクワタさん。ただのチャラい人だから言ってること真に受けちゃ駄目だよ」

「あ、そう言われれば自己紹介まだだったネ。お隣のクワタだヨ。下でギター屋やってるんだ。ヨロシクネ~」

 安心しろミア・テイラー。お前はちゃんと置いてけぼりにされている。ボクの中で誰かがそう言った。

 

 

 という訳でボク達はやっと塩鯖弁当を一階の楽器屋でつついていた。どさくさに紛れてベイビーちゃんの部屋に上がり込もうとしたクワタを、歩夢は睨みを利かせて制止していた。しかし、どうしてもと言うクワタに情けをかけ今に至る。

 クワタは店の奥にあった座敷にボク達を通すと、卓袱台と座布団を出してボク達を座らせた。そして冷たい麦茶を出してくれた。そしてボク達が弁当を食べるのを満足気に眺めた。

 クワタは鯖の骨を取り除くボクを見て、箸使うの上手いネェと褒めた。ボクが食べづらそうにしていると、歩夢はまた睨みを利かせて助けてくれた。タハハとクワタが笑うと、店の方からアコースティック・ギターを持ち込みチューニングを始めた。肝心の弁当は羞恥で味がわからなかった。

「ミアちゃんをいじめないでください」

「いぢめてないヨォ。いつにも増してキビシーねぇ歩夢チャン」

「クワタさんは侑ちゃんにも同じことした前科がありますからね」

「タハハ、ゴメンって」

「次はありませんから」

「コワッ。歩夢チャン怖いヨォ」

 今の日本にはまだクワタのような、若い女性にトライ・アンド・エラーを繰り返す陽気なオッサンが残っていたのか。ボクは何もかもが一周して関心まで覚えた。

「それで、ボクに話って?」

 ボクがそう言うと、クワタはチューニングを終わらせ曲を弾き始めた。曲名も知らない古い曲でアレンジもされているようだったが、八十年代のジェイ・ポップのような雰囲気が感じられた。

 クワタは一曲弾き終わるまで勿体ぶり、また調子良くボクに向かっていった。

「『歌姫』にお願いがあるんだヨ」

 

 

 

☂️

 

 

 

「『歌姫』にお願いがあるんだヨ」

 クワタはそう言った。ボクは箸を動かす手を一度止めた。

「生憎、休業中なんだけど」

「知ってるヨ。だからこれは非公式なお願い。ボランティアだよボランティア」

 ボクは麦茶を一気飲みして一息ついた。頭の中を一瞬誰かが駆けていった。心配そうにボクを見ていた歩夢に大丈夫と言い、ボクは麦茶を注いでまた弁当に手を伸ばした。

「で、どうかナ」とクワタは言った。

「話だけでも聞くよ」とボクは返した。

 クワタはアコースティック・ギターをそっと床に置くと、自分のコップを持ってきて麦茶を注いだ。これから夏休みを迎える小学生のようにウキウキしていた。

「オレ、こう見えてバンドやってるんだヨ。イベントとかあればさ、神奈川に散らばっている仲間とたまに集まって、ステージに上がって歌ってるんだけどネ。毎年夏になると茅ケ崎にある老人ホームから歌ってくれって、お願いされるんだヨ。知り合いが務めてるんだ。そのツテでネ」

 クワタは麦茶を半分くらい一口で飲んだ。

「ミアちゃんにはそこで、一緒に歌ってほしいんだ!」

 クワタはそう言って立ち上がり、ガッツ・ポーズをした。「えぇ?」と歩夢が冷ややかなリアクションを送った。

「ボクが歌う? 何で?」

「ズバリ! オレが見たいから! 私利私欲上等!」

 タハハ、とクワタは笑った。歩夢は呆然と口を開けていた。ボクは呆れて声も出なかった。

「あのさぁ──」

「わかってる! ミア・テイラーともあろう人がノコノコ人前で顔を出せないって話だよネ!」

「いやそれもあるけど──」

「と言うワケで顔バレ防止のお面を用意したヨ!」

「ボクの話を聞けぇ!」

 クワタは卓袱台の上にお面を置いた。お面は兎を模した形で、混ざりかけのセメントのような灰色をしていた。それを見てボクは溜息をついた。

「なあ、マジでボクの話も聞いてくれ。確かに世界は活動休止中と報道してるけど、ボクは今、色んな事情を抱えてるんだ」

「事情ネェ」

 クワタは残った麦茶を飲み干して、また注いだ。

「ボクだって歌いたいよ。でも今は以前のように歌えないんだ。キミが期待している『歌姫』のようには歌えない」

「色んな事情で?」

「そう。色んな事情で」

 へえ、とクワタは言って何かを考えていた。しかし上手く考えがまとまらなかったのか、またアコースティック・ギターを抱え曲を弾き始めた。今度はもっと古い、六十年代の洋楽を彷彿とさせる曲だった。

「そもそも、お面で顔を隠してもボクの曲は歌えないだろ。バレちゃうよ。キミ達のバンドの曲を覚えて合わせるならまだしも……ねえ、その老人ホームでのライブはいつ?」

「明日だヨ」

「急だなぁ!」

 ボクは怒鳴った。怒鳴って、それからすぐ冷静になった。もう一度麦茶を飲み干した。誰かがもう一度頭の中で駆けた。気づけば弁当はなくなっていた。ボクはクワタが奏でるメロディにじっと思考を委ねた。

 歌への愛まで廃れてしまった訳ではない。それでもボクが歌うことによって引き起こされる副作用が計り知れないのだ。休止中とはいえミア・テイラーのネーム・バリューは健在している。バレてしまったら最後──予想するまでもない。

 ボクは自分と、もう一人の自分との間で揺れていた。

「ネェ、今歌いたいって言ったよね」

 クワタはボクにそう訊いた。

「歌いたいよ」

 ボクははっきりそう伝えた。

「それって『歌姫』の意思?  それとも『ミア』チャンの意思?」

 クワタは笑ってそう言った。笑いながら綺麗事を言う奴らなんていくらでも見てきたが、クワタのそれは不思議と不快な気分にならなかった。

 それは、とボクは言い、そこから先を答えられなかった。

「歌は自由であるべきだヨ」クワタは言った。

「何かに縛られているようじゃ、詩はただの説明文になって、曲は環境音に成り下がっちまう。伝えたいという意志と、歌いたいという意思を乗せて、そこに感情を込めて初めて歌は歌になるのサ」

『歌姫』には釈迦に説法だったかな、とクワタは笑った。

 クワタは曲を弾き終わると麦茶を一息で飲み干した。ぬるくなっていたのか、んんと唸り少しだけ顔をしかめた。

「楽しいだけじゃ食っていけないのはわかるケド。ミアチャンくらいの有名人、もうチョットわがままやってもまかり通ると、オヂサン思うけどなァ」

 まあ無理強いはしないよ。クワタはそう言ってまた曲を弾き始めた。

 ボクは卓袱台に肘をついて考えた。いや、歌いたいという意思は本物だ。それについて答えはもう出ていた。しかし、ボクのわがままするとしてその事後処理は誰がするのだろうか。ボクがその責任を取るとしたら? 

 ベイビーちゃんとの約束にケリをつける前に、最悪ここから去ることになる。

 悩んでいるボクを見て、歩夢はボクの肩にそっと手を乗せた。

「大丈夫?」と歩夢は言った。

 ボクはそれに頷いた。

「少し、考える時間が欲しい」

 ボクはクワタにそう言った。クワタは笑いながら答えた。

「勿論。オヂサン待つことには慣れっこだからネ」

 

 

 

☂️

 

 

 

 ベイビーちゃんの部屋に戻った。ボクは再びデスクに向かい、兎のお面を眺めながら考えた。

 歩夢は冷蔵庫を整理しながら晩御飯の仕込みをしていた。一階からはアコースティック・ギターの音が響いていた。殺風景だったボクの夏に、ようやく生活感という色が戻ってきた。

 歩夢はボクを気にかけながら家事をこなしていた。仕込みが終わると洗濯をし、掃除をした。一階から聞こえてくる音楽はいつの間にか厚みを増していた。明日の練習なのだろうか、とボクは思った。ドラムやベース、キーボードといった音が混ざり合い、そのすべてが自由を謳歌していた。

 そうだ。本来音楽は自由であるべきなんだ。

 音楽を嗜む者なら誰しも最初はその理念を掲げているはずだ。それもいつしか忘れられ、そしてもう一度辿り着く場所だ。言わば原点。

「ルーツ」ベイビーちゃんはそう言った。

 ボクは今、自分の原点を見つめ直せる場所に立っている。いちアーティストとして、こんなに恵まれていることは滅多にない。

 ベイビーちゃんはどうなのだろうか。ボクはそう思った。いや、ベイビーちゃんは原点だけはしっかりしていたと思う。それ以外何も見ていなかっただけで。

 それでも、彼女は自由だったのだろうか。

 対してボクには原点が無い。いや、忘れてしまったというのが正しい。それに原点に戻ろうとすればするほど、『歌姫』という立場が邪魔をする。ベイビーちゃんなこういう時どうしただろうか。今の彼女ではなく、あの頃の彼女なら……。

 そこまで考えてボクは溜息をついた。

 イナムラに来てから本当によく溜息をつくようになった。幸せ以外の何かも吐き出そうとしているのだろうか。ボクはそう思った。

 ベイビーちゃんはどうだったっけ。彼女にはもう吐き出すものは無いのだろうか。それとも抱えているままなのだろうか──。

「ちょっと待ってよ」とボクは言った。

 突然独り言を言ったボクに、歩夢は驚いた。

「ど、どうしたの?」

 歩夢は心配そうに訊いた。おかしい人が二人に増えたのだ。それはもう心配していた。

 大丈夫、とボクは言った。そして思考の海にまた潜り込んだ。

 ボクはボクのことを考えていたはずだ。それなのにどうしてベイビーちゃんに結び付く? 

 ボクはあみだくじを思った。どこをスタートに選んでも、ゴールには彼女がいる。そんな感じだ。

 ベイビーちゃん、とボクは思った。

 ボクの原点にはベイビーちゃんがいる? 

 もしそうだと仮定して、ボクは思い出そうとした。

 彼女と関わるボクの原点。すなわち彼女と深い関わりがあった十年前。ボクが虹ヶ咲にいた頃、ボクは彼女から何を貰ったのだろう……。

「あ」

 衝撃は突然訪れた。ずっと探し続けていた人と、曲がり角を曲がるとばったり出くわした時のような気分だった。

「ああ!」

「ひいっ、ミアちゃん?!」

 ボクは飛び上がり、ベイビーちゃんのデスクを調べた。目当てのものがないとわかると、診断書が入っていた箪笥を調べた。引き出しを引っこ抜き、中に入っていたものを全て引っ張り出し、隅々まで調べた。

 歩夢は涙目になりながらボクの奇行を見守っていた。箪笥の周りは関係の無い書類が散らかった。怒られるのは後でだ。

 一番下の最後の引き出しを調べると、そこにはアルバムがあった。まるで記憶を封じ込めたボクみたいに、ベイビーちゃんの思い出が詰められていた。ボクは一切の遠慮をせずそこに踏み込んだ。

「あった」

「な、何が?」

 それは一番奥に押し込まれていた。もう終わったことだと思い出さないように、忘れたいと願うように引き出しの隅に追いやられていた。

 そのファイルの中には、色褪せてボロボロになったノートが何十冊も挟まれていた。数あるノートの色はボクの記憶を刺激し、錆び付いた歯車が再び動き出すように当時のことを思い出させた。

「それって……もしかして!」

 歩夢も驚いていた。彼女にとってもそれは過去のことで、本当ならば笑い合いながら、酒の肴にして懐かしむべき記憶なのだ。

 ボクはそのノートの中から自分の色だったものを探しだした。その中で、今の限られた環境で歌える最も現実的な曲を選び出し、ボクは部屋から飛び出てクワタの元へ向かった。

 ギター屋の扉を勢いよく開け放つと、演奏は中断されクワタは目を丸くした。他のバンドのメンバーも、浜に打ち上がった鯨を見たかのように驚いていた。

「ミアチャン? どうしたの?」

「クワタ! これ、弾ける?」

 ボクはボロボロになっていた、ベイビーちゃんが途方もない苦労と愛を詰め込んで作り上げた楽譜をクワタに渡した。

 クワタはしばらく楽譜に目を通した。他のメンバーもつられて目を通す。最後のページまで見ると、クワタは目を輝かせた。他のメンバーも笑い合い、頷きあった。

 クワタはタハハと笑うと満面の笑みで言った。

「オヂサン達に任せなさい!」

 

 

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