アイム・ユア・シンガー   作:ゆーすけ・ぼんど

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C調オヤジとミア・テイラー

 

 

 翌日、ボクはクワタのバモスに乗って茅ヶ崎へ向かっていた。ボクの後には楽器や機材が所狭しと積まれていて、縮小されたロック・フェスのように不協和音を鳴らしていた。歩夢はベイビーちゃんの様子を見に一度自宅まで戻った。退院後、彼女は歩夢の家に居たらしい。ライブが始まるまでには戻る。歩夢はそう言った。

 昨日の晩クワタ達は、ボクが楽譜を渡してからすぐに練習に取り掛かった。歩夢が持っていた音源も頼りに、とてつもないスピードでアレンジを完成させた。音楽と仲がいい連中なのだろう。往年の相棒といったように音はクワタ達の要望に応え、自由自在に組み上がっていった。ボクはクワタ達をプロかなにかだと思っていたが、クワタ達は否定した。

 彼らのバンド活動はあくまで趣味だった。なんだか勿体ない。ボクは正直にそう思った。

 バモスは順調に江ノ島を超えて、湘南の海岸線を走っていた。強い海風で車が揺れる。外を見ると、工場の排ガスのような雲が烏帽子岩のずっと遠くまで続いていた。そして相模湾は白波立っていた。風になびく毛布のように波が襲いかかる砂浜には、サーフ・ボードを抱えた人達が良い波を今か今かと待ち続けていた。

 クワタはラジオをつけた。ニュース・キャスターは本州に接近している台風の情報を深刻に伝えていた。

「台風こっちまで来るかなァ」クワタはそう言った。

「サーファーだらけだ。台風が来るのに」

「来るからこそ、だヨ。今頃イナムラにも結構集まってるンじゃないかなァ」

「イナムラに?」

 ボクは首を傾げた。

「『イナムラジェーン』聞いたことあるかイ?」

『ジェーン』。ボクはどこかでそれを聞いたことがある。波に飲まれてゆくサーファーを見ながらしばらく考えていると、その名はキタノから聞いたことを思い出した。そのことを伝えると「キタノのジーサンかァ」と、納得したようにクワタは言った。

「でも名前しか知らないんだ。『ジェーン』って一体何なんだ?」

「イナムラに来た伝説の大津波のことだよ」

 少し長くなるヨ。クワタはそう言った。ボクは黙って頷いた。

「『シェーン』が観測されたのは二回。一九六五年と、その二十年前。サーフィンさえまともに伝わっていなかった時代だ。まるでイナムラの海の水が全部、イナムラに押し寄せて来たンじゃないかと言われるほどの大津波だったらしい」

 大津波。ボクはベイビーちゃんと再会したあの夜のことを思い出した。あの日もそうだった。ボクの目の前には壁のような津波が迫り、ボクとベイビーちゃんを確かに吞み込もうとしていた。それが幻覚だったのか、それとも本当の津波だったのかは知らないが。もしかしたら、『ジェーン』はその比ではないのかもしれない。

「ありえない」ボクは首を振った。

「でもホントのことなんだ。半世紀以上も前の話だけどネ。イナムラに住んでる人に言い伝えられているんだ。それで今の時代になってもまだ『ジェーン』は生きている」

「そしてそれを信じている人がいる」

 クワタは頷いた。

「『ジェーン』が来るときには伝説の予兆があると言われてるンだ。まず伊豆の方に金目鯛が大量に集まってくる。それから、光明寺にある龍の目が赤く光る」

 クワタはエア・コンを消して車の窓を開けた。吹き荒れる海風は磯の匂いさえ置き去りにして走り抜けていった。

「そして、イナムラの町で波の蜃気楼を見る」

「波の蜃気楼?」

 馬鹿馬鹿しい。ボクはそう言って笑った。

「でもそれは本当に起こったンだ。年寄り達は皆『ジェーン』のこと知ってたヨ。当時若かった命知らずのジジイ共は、皆がその波に乗ることを狙って待っていたんだって。俺もそいつらから話を聞いたンだ。まあ皆死ンじまって、その年代で残ってるのはキタノだけだけどネ」

「じゃあ、キタノもその一人だった?」

「多分、というか毎日ガラガラサーフ・ボード引っ張って、天気が荒れる度に外に突っ立っているンだからそりゃあそうでショ」

 キタノはまだ、『ジェーン』を諦めていない。

「無茶だ」ボクはそう言った。「あの老体でサーフィンなんてできっこない」

「さァてね」クワタはそう言った。

「でもやってみなくちゃわかンないだろ。人間どれだけ無茶無謀だって言われても、命の続く限り試さずにはいられないタチなんだヨ」

「青春だね。ダサくて結構結構」そう言ってクワタはタハハと笑った。

「なあ、クワタにもそんな夢はあったのか?」

「そりゃ勿論」

 赤信号で車が止まるとクワタは一瞬ボクを見て、故郷を眺めるように目を細めて遠くを見た。

「色ンなことを夢見たヨ。夢見る度に呆れられ、仲間だと信じてた人に見限られ、沢山ブチのめされた。それでもね、とにかく若さだけを頼りに突っ走ったヨ」

「それで、どうなったの?」

「たっくさん失敗したヨ。世間知らずの若造がチョーシこいてただけ」

 信号が変わり、バモスは軽快に加速し始めた。

「でもね、オレ全然後悔してないの。何でかわかる?」

 ボクは首を振った。

「今のオヂサンがあるからだヨ。色ンな経験が、沢山の痛みが、今こうして人生楽しんでるオヂサンを作ったから」

 タハハ、とクワタは笑った。

「夢を追いかけるのに大事なのってさ、叶えたとか、駄目だったとかの結果じゃなくてね、その過程にあるものなンだよ。ネェ、ミアチャン。夢っていうのは果実なんだよ。ミアチャンみたいな若いコは、その果実の種を必死に育てている最中なんだ。経験や痛み、悩みは肥料になる。肥料を巻き続けるとやがて芽は出るけど、それが花になって果実を宿すのか、枯れてしまうのか。今すぐにはわからない。でもね、その種を育てるための肥料はケチっちゃダメなんだ」

「後悔するってこと?」

「そういうコト!」

 車は海岸沿いの道を逸れ、細い路地に入った。少しづつ離れていく荒れ果てた海が、サイド・ミラーに映っていた。

「そろそろ着くよ」とクワタは言った。

「ねぇ、クワタの芽はもう育ったの?」

 ボクはそう訊いた。

「わかンないや!」クワタは豪快に笑った。

「だって若い時に蒔いていた肥料のおかげでバンドが結成できて、そのおかげでこんな年になっても、まだ新しいステキな経験ができるんだよ? オレはまだまだ肥料を蒔いてる途中なンだよ」

「ステキな経験?」ボクは首を傾げた。

「さ迷えるお姫様のエスコート」

「キミの音楽はボク専用のレッド・カーペットになれるかい?」

「そうなってくれると音楽バカも冥利に尽きるヨ。ミアチャン、こんなオヂサンにステキな経験をさせてくれて、ありがとうネェ」

 そう言ってクワタは笑った。歳を重ねる度に人々から忘れられてしまう、心の底から零れた無邪気な笑顔だった。ボクは何も言わず頬を掻いた。

「ネェ、ミアチャン。人生楽しい?」

 その問いにボクは答えなかった。

「苦しんでるね。それも青春。結構結構」

 車が風でぐらりと揺れた。

 

 老人ホームに到着すると、クワタ達はすぐに機材のセッティングに取り掛かった。機材の運び出しが終わると、ボクは空っぽになった車の後部座席に隠れて、クワタ達が呼びに来るのを待った。

 ボクはシートを倒して寝転び、これからのことを考えた。今、空っぽだったボクの中に様々な形の積み木が放り込まれていた。ベイビーちゃんの前で繰り返してしまった失敗と後悔を経て、ボクは放り込まれることを許可した。あとはその積み木で塔を作り上げるだけ。絡まるツタが伸びてゆき、地上で花を咲かせられるような高い塔を。

 ボクはクワタの言葉を思い出した。ボクはひとつの花をとうの昔に腐らせていたと思っていた。『歌姫』という花のことだ。

 ボクが脇目も振らず必死に守っていた花は、いつの間にか果実となって世界中に種を蒔いていた。カリフォルニアの少女にも、その父親にも。クワタにもだ。『歌姫』はただの果実ではなかった。世界中に蒔いた種は『歌姫』という果実が発する光で光合成を繰り返した。

そしてそれは育っていた。『歌姫』という花が放つ光で育った、夢という弱々しい芽。ボクはその芽を見ていなかった。何色かさえわからない花を守るのに必死だった。ボクはその花と芽のどちらも守らなければいけなかったんだ。それが『歌姫』の存在理由。

 誰しもがその光に手を伸ばそうとする。

 ボクは脇に置かれていた兎のお面を掲げた。

「楽しんでるか?」と兎は訊いてきた。

「サイコーだね」とボクは答えた。

でもまだ足りない。『歌姫』は救われても『ボク』は救われていない。もっと深く潜らなければ。

ボクは『歌姫』という花の根を知る必要がある。

ボクはもう何となく理解していた。この花はボク一人の力で育てられたものじゃない。深い地中の奥底に彼女がいる。根が絡まり動けなくなった彼女。そしてボクもいる。虫に食われ腐りかけたボク。

ボクたちにはまだ光が届いていない。このままでは何もできない。彼女との約束を果たすどころか、彼女を救うことも、『歌姫』の責務も果たせない。

『痛みと犠牲』盲目兎は言った。あるいは兎のお面が言った。

「もう痛みは十分だろう?」

ボクは右膝と左肘の絆創膏を剥がした。擦り傷にはかさぶたができていた。

そして兎のお面をもう一度まじまじと見た。

これは博打だ。これで何も得られなければボクにもうあとは無い。

 ボクを思い出すために。ボクが今まで歩んできた短い人生のなかで、光を追いかける人々が望む偶像に最も近かった十四歳のボクに。最も理想の『歌姫』だったあの頃に戻る為に。

 ボクは、これから『歌姫』を殺す。

 

 

 

☂️

 

 

 

 暫くぼうっと待っていると、誰かが車の窓を数回ノックした。飛んでいる蜂を捕まえるように意識を現実に戻すと、歩夢が外に立っていた。迎えの役は歩夢が請け負っていたようだった。

 ボクは車を降りて体をほぐした。歩夢は車に鍵をかけると、風で暴れる髪を抑えながらボクを施設の裏口から案内した。

 ライブはもう始まっていた。防音設備が不十分な小さい施設の中でかき鳴らされている音は、電流が走るように壁を突き抜けて施設全体で反響していた。控室替わりになっていた事務室に入ると、職員の姿は見えなかった。それでもボクは念のため髪を一つ結びにし、コンタクトを入れ兎のお面をつけた。

 歩夢は適当な職員用の椅子に座ると髪を整えた。そしてじっとボクを見て、クスクスと笑った。

「おい、こう見えてボクは真剣なんだぞ」

 歩夢は笑いながらごめんと言った。そして短く溜息をつくと、仮面を付け替えたように真面目な表情になった。

「侑ちゃんだけどね」歩夢はそう言った。

 ボクは黙って頷いた。

「侑ちゃん、一日中部屋に閉じこもってるんだ。あの人……私の旦那さんが在宅ワーカーだからたまに様子を見てもらってるけど、御飯も全然食べてくれないって」

 ボクは溜息をついた。首を振って、それから頭を搔いた。なにかの隠しコマンドみたいだったが、世界が変わるわけではなかった。

「このままだと侑ちゃん──」

「わかってる」ボクはそう言った。「人は後悔しないために肥料を蒔くんだ」

「ベイビーちゃんが夢に殺される原因の大半はボクだ。必ずなんとかする。でも、その気持ちを責任という言葉で片付けたくない」

 ボクはお面を外して歩夢の目を見た。彼女の瞳もまた、どこまでも真っ直ぐにボクを捉えていた。

「ボクは、一人の人間としてベイビーちゃんを助けたい」

 歩夢は視線を逸らし天井を仰いだ。

「ミアちゃんだって被害者だよ」

 歩夢はそう言って視線を戻した。優しい笑顔だった。

「ねえ、覚えてる? 侑ちゃんとミアちゃん、たまに二人して徹夜で作曲やってたこと。遅刻ギリギリで私とエマさんが起こしに行って、私が二人まとめてお説教して。何回やっても懲りないミアちゃん達に私、結構本気で怒ってたんだよ?」

 ボクは黙って首を振った。

 それでも歩夢は目を細め、微笑んだ。

「でもね、私はそんな二人が好きだった。一度夢中になっちゃうと中々止まらない、自由な二人を見てるのが好きだった。そして今でも好き」

 歩夢、ボクの口から自然と名前が零れた。

「私はもうあの頃のように二人と同じ目線で話すには歳をとりすぎちゃったし、侑ちゃんとは違った意味での代え難い大切な人もできた。私には二人の夢を手伝ってあげられる力はもう無い。でもね、応援はできる。侑ちゃんが私達を応援してくれたように、今度は私が二人を応援したい」

 そう言って歩夢は立ち上がるとボクにハグをした。そして優しく頭を撫でてくれた。ボクは目を瞑り、歩夢の柔らかな優しさを感じた。

「だからまず、私達二人でミアちゃんを助けないとね。侑ちゃんを助けてあげるために」

 ボクから離れると歩夢は兎のお面を指さした。お面をつけると、少しだけ兎に生まれ変われたような気がした。今ならほんの少し高くジャンプできる。

「今のミアちゃんは何者でもないよ。お面が隠してくれる。まあクワタさんがそこまで考えてるとは思えないけど」

 歩夢がそう言った瞬間、事務室の扉が開いた。そこから顔を覗かせたクワタが、辺りを警戒している兎のような顔で「呼んだァ?」と言った。ボク達は顔を見合わせクスクスと笑った。

「そろそろ出番だヨ、ミアチャン。オレの後ろついてきて」

 ボクは肯き、お面をつけなおした。歩夢に向かって行ってくると言うと、彼女は握った拳をボクの前に突き出した。

「これは?」

「おまじないだよ。仲間が私にしてくれた大切なおまじない」

 いってらっしゃい。歩夢はそう言った。

 ボクは拳を歩夢の拳にぶつけ答えた。

 

 

 

☂️

 

 

 

「緊張してる?」

 クワタがボクにそう訊いた。

「まさか。ボクを誰だと思ってる」ボクは鼻で笑った。

「だよネ。ヨッシャ! じゃあミアチャン、楽しんで!」

 クワタはホールへと続く扉を開け放った。他のメンバーが繋いでいた雑談のようなMCを引き継ぎ、小さなライブ・ホールを掌握した。

「実は今日、ここで歌わせたい人が居るンだ。ワケあって顔は見せられないけど、サイコーに歌の上手い奴なんだ。ここで一曲、披露してもいいかァーい?!」

 会場が拍手で包まれる。

 ボクは一歩を踏み出した。

 

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