ボクはステージのセンターに立つ。普段ボクが歌う十分の一にも満たない会場を統べる。場違いな兎が引き起こす奇妙な空気を、起床ラッパのようにクワタのギターがかき回す。
残響。不思議とボクの心臓は荒波のような鼓動を全身に伝えた。手に持ったマイクを強く握りしめる。
そして静寂。死に際に見せる命の煌きのような弦の振動。それがボクの呼吸が重なったとき、ドラム・ティックのカウントが鳴り響き、ボクはすべてを置き去りにするつもりで息を吸い込んだ。
「
Three, two, one, let’s go!」
ボクは音に包まれる。
フォーミュラ・カーのように急加速したボクの熱は瞬く間にクワタ達と同調し、ボクの煽りに彼らは応える。
「
Hey hey hey hey!」
『Toy Doll』。ベイビーちゃんの部屋で見つけたその曲は、十年前、かつてボクがスクール・アイドルと呼ばれていた時に歌った曲だった。彼女が作り、ボクが歌った。
「
Hey hey hey hey!」
会場を掌握する。兎のお面をかぶった謎の人が、知る人ぞ知る十年前の曲を歌っているのだ。施設の利用者や職員までもが呆気にとられ、ボクの歌を聴き入った。
なんて酷い歌だろう。ボクはそう思っていた。
半月以上も不摂生な生活を続け、ルーティンだったトレーニングの類はすっかりボクから抜け落ちていた。その怠惰がまるで歌に現れていた。妙に息苦しい。声が上手く出ない。潰した喉がまだ感知していない。ボクは首を思い切り振った。
関係無い。捻り出せ。
「
当時の振り付けなんて覚えていない。でもそんなものはどうでもいい。その場にふさわしい動きを体が勝手にしてくれる。
「
Baby!
Let’s go!」
歩夢が見える。歩夢はスマホを構えてボクが歌う姿を動画に収めている。
クワタ達を感じる。彼らが奏でる音は何処までも自由に聞こえた。その音がボクをどうしようもなく滾らせる。イナムラの真夏の日差しのように、ボクの体を熱くさせる。
会場が見える。『歌姫』としてステージに立っていた時のことを思い出す。ボクの歌を聴いてくれた人達の顔が、こんなにも鮮明に見えたことが今まであっただろうか。
観客達が見える。言葉の壁があってもボクの想いは伝わっている。そして皆の気持ちもボクに伝わっている。サイリウムを突き上げるようにとまではいかない。けれど、その気持ちは表情や歓声に現れている。
違和感。
まただ。こんな時に。
でも何だ? 不快感を伴うそれと違う。
「
Baby!
Three, two, one, let’s go!」
──なあ、ベイビーちゃん。
キミが作った曲は十年もの時を経て蘇った。たとえどれだけの時間が過ぎ、あの頃の輝きが過去のものになっていたとしても、キミの曲が放つ魅力や想いは荒波にも侵されず輝いている。時代や人種を超えて伝わっている。
聞こえているかい? この歓声が。
ボクは今、最高に嬉しいんだ。キミにも見せたかった。
観客たちの笑顔を。
キミの作った曲を歌うボクを──。
「ねえミアちゃん。さっき見た夢の話の続きなんだけど……」
「くどいねキミも。夢は夢で終わらせればいいじゃないか」
「それは自分自身に対しての裏切りだよミアちゃん」
彼女はそう言った。
不確かな記憶の中で、ボクは正確に敷かれた石畳の上を歩いていた。もしくはアスファルトの歩道だったかもしれないし、砂の上だったかもしれない。隣には彼女がいた。彼女は笑っていた気もするし、もしかしたら悲しんでいたかもしれない。そしてボク達は何処かへ向かっていた。お互い向かう場所は違っていたかもしれないが、その足並みは揃っていた。
「面倒だね。色々と解かなきゃいけない謎だらけだ」
「でも面白そうじゃない? 夢とは自分に向けられた何かのメッセージなんだよ、ミアちゃん」
「それ、誰から聞いたのさ?」
「え、ネットに書いてた」
「適当だな」
ボク達は赤焼けた街を歩く。それは朝日だったかもしれないし、夕日だったかもしれない。
どうしても思い出せない。
「じゃあ、例えばこれが未来の予知だったとしたら」
「苦しみのない幸せが待っている。仲間が元気に餌を追い求めている様子を、間抜けた顔で見つめているね」
「そんな未来なら受け入れたくない」
「苦しみたい?」
「苦しみの先にしか幸せはないんだよ。もし苦しみのない幸せがあるとしたら、それは今までの私達に対する否定だよ。そんなこと私はしたくない」
ボクは指を鳴らした。
「うん。よく分からないけど面白くなってきたね。どうせやるならもっと詳しく解釈してみよ」
彼女は肯いて考え始めた。暫く考えてから彼女は立ち止まり、手摺に身を預け景色を眺めた。海だ。ボクは思い出した。彼女は海を見ていた。記憶は海によって繋がれている。探そうと思えばそこにあるのだ。クリストファー・コロンブスがステイツを発見したように。
「あの夢の何が気に入らないかってね」
彼女は溜息をついた。
「仲間の兎が必死に動き回ってるのに、私はそこで止まったままなの」
「だって動けないじゃないか。仲間の兎以外何も見えなかったんだろ?」
「そうじゃなくてね。幸せだったってことは、夢の中の私はそこで満足してたんじゃないかなって」
「現実のキミならどうする?」
「仲間の兎を追いかけるよ。何も見えなくても、その幸せを捨てたって構わない」
ボクは口に手を当て暫く考えた。影が伸びていることに気がついた。これは夕日だったんだ、とボクは思い出した。もうじき陽が沈む。
「その仲間の兎が」ボクは続けた。
「キミの為に餌を探し回っていたんだとしても、その思いやりを否定して捨てるかい?」
「同じ場所を目指していないのなら」
風が吹き、彼女のツイン・テールが揺れた。そうだ、とボクは思い出した。彼女は昔、髪を結んでいた。そしてボクは髪が短かった。
そんな時代もあった。彼女もボクも、虹ヶ咲の冬制服を着ていた。
これは十年前の記憶だ。
「今までと同じだよ。私達はひとつの場所に集まっていても、見ている方向はバラバラだった。広い世界に旅立ってもそれは変わらない。ひとつ違うのは、助けてくれる仲間がいないだけ」
でも、と彼女は言った。
「そんな孤独な世界のなかで、同じ夢を持って同じ方向を見てくれる人がいたら、どれだけ素敵なんだろうなあって」
「ボク達みたいに?」
「そう私達みたいに」
ボク達?
ボクは何を言っているんだ?
ボクは彼女と同じ方向を見ていた?
そうか、とボクは思う。
これが約束なんだ。約束はボク達を同じ方向へ歩かせた。そしてボクは『歌姫』と引き換えに自分を失くし、彼女は死にかけている。
その先に『歌姫』があるのなら、ボクと彼女は十年前、一体何を約束した?
この先を思い出せ。この先を求め続けろ。
「ねえミアちゃん。このまま海を見に行こうよ」
「すぐそこにあるじゃないか」
「もっと近くで見たいんだよ」
彼女は歩き出す。ボクもそれについて行く。
影は更に伸びていた。ボクにはもう時間がなかった。この先のことを思い出せないのに、もうじき終わってしまうと直感的に理解していた。歌が終わってしまうように、それは刻一刻と迫っていた。
「ねえミアちゃん。もしミアちゃんが夢の兎のように立ち止まってしまったら、私が手を引っ張ってあげる。だからもし私が立ち止まってそこで満足してしまったら、ミアちゃんが引っ張ってくれる?」
彼女はそう言った。
そう言って、不安そうな顔で微笑んでいた。
「やっぱりベイビーちゃんにはボクが必要だね」
ボクはやれやれと溜息をついた。
「いいよ。だってボクは、キミの──」
「Idol、ミア・テイラーだ!!」
歌が終わった。そしてボクは兎のお面を脱ぎ捨てそう叫んだ。
会場はボクの歌を超える拍手で包まれるはずだった。興奮などすっかり忘れ去られ、晩夏のような熱気だけが会場に籠っていた。そして皆打ちつけようと掲げた手を止めてボクに視線を集めていた。ボクの荒い呼吸だけが施設内に響いていた。
歩夢は塞がらない口を手で隠していた。
クワタは七夕を一ヶ月間違えた彦星のような顔で驚いていた。
施設の利用者や職員は目の前にいるミア・テイラーに脳の処理が追いついていなかった。
「えぇぇぇぇぇぇ?!」
クワタと歩夢の絶叫が重なった。
「クワタ! 最高の演奏だったよ! Thanks!!」
クワタは何度か頷いた。
「歩夢、帰ろう!!」
施設の人達の視線が一斉に後ろを向いた。
歩夢も何度か頷くだけだった。
車を借りる。ボクはクワタに伝えた。クワタはまた何度か頷いた。動かない歩夢の手を引いて出ていくまでの間、一言も言葉らしい言葉は聞こえてこなかった。
「See you again!」
ボクはそう言い残し、堂々と施設の正面玄関から出ていった。
「え? ミア・テイラー? 嘘、マジ?」
「どこかで聞いたことがあるねえ……」
「ハラさん、あれじゃよ。ええと……」
「あー、ミア・テイラー……が大好き……な、オレの姪っ子なんだよォ……ええと……コスプレして……歌いたいってさァ! どう? ソックリだったでショ? ハハ……アレ? 皆? チョット、聞いてる?」
「信っっっじられない」
「ゴメンって」
歩夢が涙目になりながら怒鳴り、ボクは笑ってそう言った。
ハンドルを握り暫く湘南の海沿いを走って行くにつれて、歩夢はやっと理解してきたようだった。赤信号で止まる度歩夢は頭を抱え、ああ、とか、どうしよう、とか言いながら唸っていた。
「無事にイナムラへ返してくれよ、ペーパー・ドライバー?」
「後でゆっくりお話ししよっか、ミアちゃん」
ボクは窓から空を見上げた。未だ冷めない体の熱さとは裏腹に、焼却炉のような暗く重い雲が辺り一面に広がっていた。
さて、とボクは思った。名前と顔を明かしてしまった。完璧に勢い任せだった。でも後悔はない。
『歌姫』という仮面を捨てる。とてもリスキーな賭け。それはボクに忘れていた記憶の断片を見せてくれた。
そしてボクが望み、汚れ、忘れ去られてしまった『歌姫』の本当の姿を見せてくれた。ボクが、守り通していたもの。誰もボクを縛る人なんていなかった。ボクはあの場で誰よりも自由だった。ボクに絡みついた縛りが全てなくなった瞬間、ずっと待ち望んでいた『歌姫』が産声を上げた瞬間だった。
自由な歌を自由に歌いたい。同じ畑の人間なら誰しも一度は夢に見る。そして歳を重ねる度、責任を負う度、忘れ去られてしまう。そんなシンプルで当たり前のことを大切にしたい。伝え続けたい。これがボクが『歌姫』だった。その原点のひとつにスクール・アイドルがいる。
たったそれだけの話だったんだ。言うだけなら簡単にできる。でも、それを守り通せる人がどれだけいるのだろうか。
ボクは本当に恵まれている。そしてつくづく親友達に助けられた。
「璃奈」とボクは言った。
「え? 璃奈ちゃん?」
「久しぶりに会いたくなっただけだよ。今どこにいるの?」
かつての同好会メンバーの名が、ボクの口から出たことに歩夢は顔を綻ばせた。しかしすぐ悲しそうな顔になった。
「ごめん、わからないんだ。世界一周の旅に出てからそれきり……」
「それ本当だったのかよ」
車は海岸通りに出る。
さて、とボクはもう一度思った。
でもまだ足りない。完璧な『歌姫』になる為に必要なファクター。
ベイビーちゃんだ。
『歌姫』の誕生には彼女が深く関わっている。彼女が居なければ成り立たない程に。それをさっきのライブが証明した。多分あの場で違う歌を歌っていたら、ボクは思い出せずにいた。何となくそういう予感があった。ボクの予感はよく当たる。
海流に身を任せたのは間違いではなかった。ボクは上手く波に乗れている。
ベイビーちゃんと交わした会話。その先を知りたい。
ボクが今、彼女の為にできること……。
車が風で揺れた。ここへ来た時よりも更に風は強くなっていた。揺れる度に歩夢はハンドルを強く握り締め、泣きそうになりながら運転していた。締め切られた窓からは隙間風が入り込み、ひゅううという鋭い音がした。
やがて江ノ島の横を無事に通過し、見慣れた海岸線が浮かび上がる。分厚い雲のせいで太陽の位置がわからない。今が何時なのかもわからなかった。
「これからどうするの?」
歩夢はボクにそう訊いた。
「どうもこうも、やることは変わらない。ベイビーちゃんの為に動くよ」
そっか、と歩夢は言った。何か言いたそうにしていたが、結局歩夢は何も話さなかった。
江ノ電が真横を通り過ぎる。ボクは静かに目を瞑った。
ベイビーちゃんの部屋に戻ると、歩夢は車を返しに茅ケ崎へ戻った。お話しは引き延ばされた。巣の中に潜り込んだ兎のように、とりあえず自分のテリトリーに戻れたボクは一息ついた。
ゆっくりシャワーを浴びた後、インスタント・コーヒーを準備し、電子ケトルにスイッチを入れた。そしてラジオのスイッチを入れた。ラジオは十八時の時報を流した。お湯が沸くまでの間、ボクはラジオから流れる台風時情報に耳を傾けた。神奈川のローカル局は、車で聞いた時よりも深刻そうに台風の情報を伝えていた。
暫くベイビーちゃんのデスクに座りディスプレイを眺めていると、歩夢が買い物袋を下げて帰ってきた。歩夢は小鳥に餌付けする親鳥のように何か言いたげにしていたが、諦めたようで溜息をついた。
「何か掴めた?」と歩夢は訊いた。
「大収穫だ。感謝祭をやらなきゃ」
ボクはそう答えた。
それからボク達は晩御飯を食べた。歩夢はチキン・カレーを作ってくれた。それにコンソメ・スープと海藻のサラダが並べられた。食べている間歩夢は、ボクと暴風が吹き荒れている外を交互に見ていた。
「歩夢、一度帰った方がいい」
ボクがそう言うと歩夢はスプーンを置き、ボクの顔をじっと見た。
「いつ?」
「御飯を食べたらすぐにだ」
歩夢はもう一度外を見てから言った。
「大丈夫なの?」歩夢はそう言った。
「大丈夫だよ。頑張って散らかさないように──」
「そうじゃなくて。侑ちゃんのこと」
ボクは彼女のパソコンを眺めた。ボクが抱えていた問題は半分解決していた。もう半分を解決するには、ベイビーちゃんの問題を解決しなければいけない。きっと彼女がボクに残っているもう半分の問題を解決してくれる。
これも予感だ。
「大丈夫」とボクは言った。
「なんとかするって言っただろう」
「約束してくれる?」
「ボクはミア・テイラーだぞ?」
「あんまり信用できないんだよね、それ」
ボクは何か言い返そうとしたが、諦めて溜息をついた。
「心配しなくても、歩夢にもちゃんと手伝ってもらうよ」
そう言うと、暗い表情をしていた歩夢は少しだけ笑った。
「何でもする。私は何をすればいい?」
「まずボクの髪を切ってくれ」
ボクがそう言うと、歩夢は口に運んでいたチキン・カレーをスプーンから溢した。
「切るの? 私が?」
「ボクは美容室に行けないだろう?」
「ちなみに、長さは?」
「キミがよく知るミア・テイラーにしてくれ」
「無理、無理だって! 前髪整えるのと訳が──」
「これもベイビーちゃんの為だぞ」
歩夢は暫く言葉になっていない言い訳を発していたが、ボクの目を見てやがて諦めたように溜息をついた。
晩御飯を食べ終わるとボク達は卓袱台を寄せ、そこに広く新聞紙を何枚か敷いた。ボクは段ボールに座り、眼鏡を外した。散髪ケープの代わりに穴を開けたゴミ袋を被った。カバーがかけられていた姿見をボクの目の前に置くと、歩夢は大きく息を吸い込み、そして吐いた。
「失敗しても、文句言わないでよ?」
「ああ、頼む」
歩夢はそう言うと霧吹きで髪を湿らせた。何度か櫛を通しある程度の束を作り上げると、鋏を構え少し躊躇った。震えた鋏がボクの首筋に触れ、ひやりとした。
「い、いくね?」と歩夢は言った。
「いつでも」とボクは言った。
じょきん、という音がした。こんな重苦しい音を散髪中に聞いたことはなかった。歩夢は切った紙の束をボクに見せた。三十センチ位あるブロンドの束は部屋の照明を反射し、不気味に光っていた。
ボクは歩夢を見て一度頷いた。歩夢も頷くと、今度は躊躇いなく鋏を動かし始めた。じょきん、という音がするたびに床にボクの髪が落下し、音を立てて散らばった。
歩夢は何度かスマホで散髪のコツを調べた。慣れない手つきで毛先を整えた。顔の近くに鋏が来る度に刃が触れ、悲鳴を上げながら謝った。ボクは目を瞑り、鋏が起こす細かな振動に身を預けた。
そうして二時間が経った。丁度映画一本分だった。その間ボクは喜びも怒りもしなかった。何も考えない、無感情的散髪だった。
「ど、どうかな」と歩夢は言った。
その声でボクは目を開ける。眼鏡が無かったから少しぼやけて見えたが、鏡の前に映っていたのは間違いなく十年前のミア・テイラーだった。少しだけ寝癖がついていた。直し忘れただけだ、とボクは思った。
歩夢、と名前を呼び彼女の方を向いた。彼女は疲れ切った顔をして体を跳ねらせた。
「ただいま。久しぶり」
ボクがそう言うと歩夢は一瞬驚いた顔になり、それから少しずつ目を潤ませていった。
「おかえり」
歩夢はそう言ってボクを抱きしめた。
ボクがシャワーを浴びている間、歩夢は掃除機をかけて片付けてくれた。シャワーから出る頃にはすっかり部屋は元通りになっていた。
ボクが髪を切りシャワーを浴びている間に、風はさらに強くなった。もう殆ど嵐だった。雨と雷が足りないだけだった。
「電車は間に合う?」
「うん。大丈夫」
歩夢はの荷造りは済んでいた。
「もうひとつ頼みたいことがあるんだ」
何でも言って、と歩夢は言った。
「今日のライブ、動画で撮ってただろ。それをベイビーちゃんに見せてくれ」
歩夢は何も言わず頷いた。
そしてボクはイナムラ駅まで歩夢を見送った。江ノ電は一分の遅れもなく到着した。この風の中よくやるよ、とボクは思った。
「侑ちゃんをよろしくね、ミアちゃん」
別れ際、歩夢はボクに向かってそう言った。
ボクが頷くと扉が閉まり、ぎしぎしと音を立てながら江ノ電は住宅の谷の中へ消えていった。
アパートへ戻ると、クワタの店の前にキタノが立っていた。傍らにはサーフ・ボードが置かれていて、相変わらず海の方をずっと眺めていた。
おい、とキタノは言ってボクを呼び止めた。
「部屋から出んじゃねえよ。こんな日には──」
「『ジェーン』が来る?」
「そうだ。わかってんだったらさっさと──」
「来るといいね。『ジェーン』」
ボクがそう言うと、キタノはボクの方を向いた。しわくちゃな顔は相変わらず表情が読み取れなかったが、驚いているのだろうかと思った。
「おかしいだろ」キタノは静かにそう言った。
「何もおかしくない」
「笑いたきゃ笑え」
「笑わない」ボクは首を振った。
「アンタよく似た人を知ってるからね」
キタノは何も言わず、また海の方を見た。
ボクも真似して海を見た。深い暗闇がそこにあるだけだった。
部屋に戻り、ボクはデスクに向かいパソコンの電源を点けた。少し待つとPINパスワードの入力が求められた。
「ただいま、侑」
0331。ボクはそう打ち込む。
彼女の扉がひとつ、音を立てて開いた。