外は到底出歩けるような状況ではなかった。
あちこちで何かが転がる音がし、雷が鳴り、アスファルトを削る勢いで雨が叩きつけられていた。おまけに突然サイレンまで鳴り始めた。気を抜くとボクも何処かへ飛ばされそうな気がした。この世の終わりだ、とボクは思った。
「ミアチャアン!」
後ろから声がかけられる。振り向くと雨合羽を着込んだクワタは手摺にしがみついていた。
「津波警報だ! 避難しなきゃア!」
そう言ってクワタはボクの腕を掴んだ。
「うるさい! 離せ!」
ボクは風に負けないよう踏ん張りながらクワタの腕を振り解こうとした。
「海に行かなきゃいけないんだ!」
「何言ってンだ?! バカな真似はよせ!!」
「侑が来ているんだよ!!」
「侑チャン?!」
ボクはクワタの力が緩んだ一瞬の隙に腕を振り解き走った。クワタが何か言っていたような気がしたが、何も聞こえてこなかった。
道路に出ると、海の逆方向へ逃げる群衆が押し寄せていた。車が道路を塞ぎ、その隙間を縫って走る人たちがいた。ボクはその流れに逆らって海を目指した。
侑がイナムラにいる証拠なんてどこにもなかった。それでも人をかき分けながら走り続けた。予感だ。こんな時でもボクの予感は当たる。
彼女と散歩したコースを駆使しながら走り続けると、それなりに早く海岸通りに出ることができた。ボクはイナムラに来た日、侑と再会した砂浜へ降りる階段を目指した。
雨と共に冷たい海水がボクの上から降り注いだ。岸壁にぶつかる波は巨大な手となって、逃げ惑う車を鷲掴み海へ引きずり込もうとした。
階段に辿り着いたが侑の姿はなかった。緊急事態を言い訳に仕事を放棄した信号機が、繰り返し黄色く点滅しているだけだった。
ボクは辺りを見回した。そして他に彼女がいそうな場所を必死に考えた。
江ノ島の灯台が辛うじて発していた、頼りない光がボクの目に入る。それにはっとして反対側を向いた。海の水を飲み込んでいる怪物のようなシルエットの岬がそこにはあった。東屋だ、とボクは思いまた走り出した。
車の切れ目を見計らって道路を突っ切り、海浜公園を封鎖していたチェーンを飛び越えた。そして幅の広い石畳の階段を飛ばしながら駆け上がった。
服も靴も、もうとっくにずぶ濡れで走りづらかった。呼吸が喉に引っかかり、血の味がした。
「侑!」
それでもボクは彼女の名前を叫びながら、止まることなく走り続けた。
岬の先端まで辿り着いた。木々に覆われたそこに雨が届くことはなく、風の音だけが横切っていた。酷く静かだった。世界で最後に残された、安全な場所のように思えた。
侑は東屋のベンチに座り、荒れ狂う相模湾を見つめていた。
「久しぶりだね、ミアちゃん」と侑が言った。
「久しぶりだね、侑」とボクは言った。
「元気だったかい?」
ボクがそう訊くと、侑は何度か首を傾げて苦笑いをした。
「まあね」侑は無理に笑って言った。
「正直に言いなよ」そう言ってボクが笑うと、侑もつられて静かに笑った。
「どうだったかな。忘れちゃったよ。あんまり元気じゃなかったかも」
「ここにいれば本当に元気じゃなくなるよ。風邪引くよ。帰ろう、侑」
「ごめん」侑は続けた。「帰らない」
侑はそう言って微笑んだ。ボクには彼女が笑っていないのがよくわかった。昔、同じ理由で笑わなかった奴がいる。
「もう戻る意味ないよ」
「どうして?」ボクは首を傾げた。
「私の夢はもう叶ったんだ」
だから、もういい。侑はそう言って立ち上がると、雨に濡れることも構わず岬の先端へ行った。そして手摺りを掴み、底の見えない穴を覗き込むような目で海を見下ろした。
「ミアちゃんが、叶えてくれたんだよ」
ボクは首を振った。
「ボクは何もしていない。まだ夢は何も始まってないんだ」
「もう終わったんだよ。私の夢は叶ったんだよ」
ベイビーちゃんは振り向き、引きつった笑顔を見せた。
「もう一度ミアちゃんの歌を聴ければそれで良かったんだ。知ってるんでしょ? もう私は何も望めない。何処にも行けない。だからせめて、『歌姫』じゃなくてミアちゃんの歌が聴きたかった。それ以外何も要らなかった。ミアちゃんと喧嘩しちゃった日、改めて思ったよ。もう私は何も望んじゃいけないんだって。ミアちゃんのライブの日、日本に戻ってきた日、『歌姫』の歌を聴いた時にわかってたはずなのにね」
ベイビーちゃんはそう言うと、手摺りをよじ登り乗り越えた。
「待って!」
「来ないで!!」
ボクが走り出すと侑は叫び声を上げた。乗り越えると上手く着地できず、芝生の上に転がった。ゆっくり立ち上がると、岬を囲う石垣の上に腰を下ろした。本当の岬の先端だった。背後には母なる海が口を開けて待っている。
「ミアちゃんが悪いんだよ」
侑はそう言った。
「あの日、やっと諦めることができたのに。偶然イナムラにミアちゃんが来たせいで、私はまた望んじゃった。縋りついちゃったんだよ」
「夢を夢で終わらせるのは、自分への裏切りになる」
ボクがそう言うと、侑は顔を強ばらせた。
「キミが言ったんじゃないか」
侑は何も言わなかった。一瞬、更に強い風が吹き荒れた。ボクは地面に手を着き飛ばされないように耐えた。侑はバランスを崩しかけたが、なんとか石垣の上に留まった。
「何で⋯⋯思い出したの?」侑はそう訊いた。
「ああ。全部ね」ボクはそう言って肯いた。
侑は少しの間下を向いて何かを考えていたが、静かに首を振った。
「もう遅いよ」
「遅くない。だからボクはここに残っている」
侑。彼女の名前を呼んだ。侑は黙ったまま首を振っていた。
「侑、もう一度ここからやりなおそう」
「無理だよ」
「まだボク達は夢の途中じゃないか」
「私は、もう──」
「まだ叶えられる」
「どうしてそんなこと言うの?」
侑今にも泣き出しそうな顔でボクに訊いた。
「ねえ、何でなの? 何でそんなに優しいの? 私が病人だから? ミアちゃんも、歩夢も。同好会の皆も。クワタさんも、キタノさんも。皆、どうしてそんなに優しいの?」
ボクは嵐を忘れられるよう、穏やかにその問いに答えた。
「キミが、大好きだから」
侑は黙ったままだった。
「ボクも、皆も。キミが大好きなんだ。恋愛とか、血の繋がりとか、そんなことどうでもいいくらいに、キミのことが好きなんだ。その想いはたとえどれだけ歳を重ねても変わらない。やっと気づいたんだ。ボクは沢山の人に愛されていた。そしてキミもだ。キミも沢山の人に愛されている。
動画を見ただろう? ボクがキミの曲を歌う動画を。あそこに『歌姫』はいなかった。それでも聴いてくれた人たちの想いはひとつだった。キミの曲が、心をひとつにしたんだ。それってキミの曲が、キミの想いが愛されたって証拠だろ?
今すぐに受け入れろとは言わない。少しづつ慣れていけばいい」
だから、とボクは言う。
「もう一度、侑を愛するチャンスが欲しい。キミがボクを愛してくれたように、ボクもキミを愛させてくれ」
もう一度風が吹く。侑の後ろに視線を移す。
そこは暗闇だった。いや、とボクは思い直した。
『ジェーン』だ。
岬の上にいるボク達を覆う程の巨大な津波が、目前まで迫っていた。轟音と共に迫り来るその壁は、雨や風さえ飲み込んで進んでいた。
「侑」
ボクはもう一度彼女の名前を呼んだ。
そしてゆっくり歩みを進める。彼女は口をつぐんで、夢と拒絶の間で揺れ動いているように見えた。
「怖がらなくていい。だから──」
ボクは手摺りを掴み、彼女へ手を伸ばした。
「一緒に帰ろう?」
轟音と共に激しい閃光が、ボクの感覚を奪った。
稲光が龍のように海を走る。
電流を纏った壁は天に向かって形を変え、螺旋を描いた。海水は雲を貫き、散らばる雨と共にイナムラへ降り注ぐ。
龍は雲の切れ目から夜空へ登り、夏の星座をなぞりながら散り散りになって、消えた。
その龍の先端に、サーフ・ボードを気持ちよく駆り波を滑った男の姿をボクは見た。
たとえボクがノーベル文学賞を貰える程の文豪だったとしても、あの時のことを上手く説明することはできないだろう。どれだけ考えても科学的に説明することは不可能なのだ。ボクは自分の目で見たものを、感じたことを、ただ書き記したにすぎない。
だからボクはもうひとつ残す。
ボクの腕の中で泣きじゃくる、人生の中で最も愛した人のことを。
「ミアちゃん、私、夢を叶えたい」
わかってる。ボクはそう言って彼女の濡れた髪を撫でた。
「まだ、死にたくないよお」
ボクは静かに肯いた。
台風の目から覗く夜空には星が瞬いていた。
「帰ろう、侑」
侑は静かに肯いた。