アイム・ユア・シンガー   作:ゆーすけ・ぼんど

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あの日キミと見た花火

 

 

「今頃、東北はヤバいんだろうナァ」

 クワタはアコースティック・ギターのチューニングをしながらそう呟いた。

 ボクは過ぎ去った台風の情報を繰り返し伝えるラジオのスイッチを切り、クワタが買い溜めてくれたスポーツ・ドリンクや野菜が入った袋をまとめて持った。

 台風が通過して一日経った。イナムラには何事も無かったかのように、平穏な夏が訪れていた。

 特に台風による影響もなく、避難警報も大事を取って放送されたものだった。津波による被害は皆無だった。復旧作業らしいことも風に飛ばされたゴミを回収するくらいで、たった一日で元のイナムラに戻った。元通りだ。蝉も鳴いているし、陽炎が揺らいでいる。置き去りにされたものは何も無いはずだった。

 ボクは空を見上げた。台風が通過した空は透明度が増しているような気がした。

「それで、話って?」

 クワタはじゃらんと弦を鳴らすと真剣な表情になった。

「キタノのジーさん、逝ったよ。昨日オレが部屋を尋ねた時にはもう冷たくなってた」

 クワタは静かな声でそう告げた。

 ボクは何も言わかなった。そうか、と思うだけだった。

「オレ、何となくあのジーさん苦手だったけど、何だかんだ言っていなくなると寂しいもんだナァ」

「嵐の夜にこのアパートの前を通らない方がいい」

 ボクがそう言うと、まったくだと言ってクワタは笑った。

「でも結局、『ジェーン』を拝めず部屋の中でぽっくり逝ってたからナァ。一寸(チョイト)可哀想な気がするヨ」

「いや、そうと言いきれないよ」

 ボクが首を振ると、クワタは驚いて目を丸くした。

「何でわかるのサ?」

「さあね。でもそんな気がするんだ」

「女の勘ってヤツ?」

「かもね。ボクの勘はよく当たる」

 クワタはタハハと笑って弦を鳴らした。相変わらず綺麗な音だった。

「でも、ミアチャン達も無事で良かったヨ。もうあんな無茶しちゃダメだぞ」

「悪かったよ。必死だったんだ」

 クワタは一昨日の件について、それ以上何も追求しなかった。

「とりあえず、アパートの管理はオレが引き継ぐヨ。侑チャンの面倒は任せてくれ。それにイナムラの知り合い達と口裏を合わせたから、ミアチャンがここにいることはまずバレないと思うヨ。八月いっぱいまでなら大丈夫」

 Thanks、とボクは言って頷いた。

「それともうひとつ」

 そう言うと、クワタは店のレジ脇に置いてあったチラシを一枚ボクに渡した。チラシには大きな花火の写真が載っていた。

「これは?」

「花火大会だヨ。湘南近辺は花火大会が多いンだ。タイミングがいいねェミアチャン」

「これっていつ?」

「明日」

「また急だな……」

 ボクがそう言うと、クワタは豪快に笑った。

「侑チャンと思い出、作っといで。場所は用意してあげるから」

「そんなことできるのか?」ボクは首を傾げた。

「あーダイジョブダイジョブ。オレ友達多いから」

 クワタはそう言うと曲を弾き始めた。ボクが歌った『Toy doll』をアレンジしたものだった。

「クワタ、色々ありがとう」

「いーのいーの。旅は道連れ世は情け、ってネ」

 

 

 ボクはクワタに別れを告げ、二階の部屋へ戻った。玄関を開ける前に、階段の上からイナムラの街を暫く見下ろした。

 暑い夏の午後だった。雪解けのように汗が額に滲み、滴った。蝉の声やどこかから聞こえる風鈴の音に耳を傾けた。汽笛が聞こえてくると、江ノ島方面から江ノ電がせっせと駆けつけた。

 何も変わっていない。ボクはそう思った。

 エアコンの効いた部屋の中に入り──昨日やっと修理の業者が来た。遅い。──クワタから貰ったビニール袋から、スポーツ・ドリンクを一本抜き取った。ついでに冷凍庫からボクの分のアイスを持って、ボクは彼女の元へ向かった。

「Hi、ただいま。調子はどうだい?」

 風邪を引いてしまった侑は、タイヤの転がる音のような、声とは言えない声でおかえりと言った。

 侑は寝込んで二日目だった。

 

 ボクはこの二日間を侑の看病に費やしていた。

『ジェーン』から連れ帰った翌日、侑はとんでもない熱を上げてぶっ倒れた。

 必要なものはクワタが買ってきてくれたし、御飯の指示は電話越しに歩夢がしてくれた。歩夢は事情があってすぐには来られなかったが、何も慌てるようなことは起きなかった。

 数時間おきに汗を拭き取り、下着を替え、洗濯機を回した。歩夢の言う通りにお粥を作り、侑に食べさせた。侑は喉が潰れて殆ど何を言っているのかわからなかった。ボクが世話をする度に、泣きながら唸り声を発し、頷いていた。

 クワタから追加の救援物資を貰ったその日の夕方、歩夢が玄関扉を突き破る勢いで部屋に飛び込んできた。その頃には侑の喉の調子もだいぶ良くなっていた。

「歩夢」と侑は呟いた。

 二人は初対面のように、目を丸くして見つめあっていた。歩夢は喋るよりも先に侑の上に馬乗りになり、手を顔の横まで振り上げた。侑はさらに驚いていた。歩夢は唇を噛み、手を震わせながらずっと何かを言おうとしていたが、結局言葉にならず侑の上で崩れた。

「ばか」と歩夢は言った。

 歩夢は侑を抱きしめ、ばかと繰り返し言いながら大声で泣いた。

「ごめん」

 侑も繰り返しそう言いながら、大声で泣いた。

 何も変わっていない。ボクは胸を撫で下ろした。

 

 

 侑の看病は歩夢が引き継いだ。侑は泣き疲れたのかぐっすり眠っていた。歩夢が晩御飯を用意している間に、ボクは作曲の続きにようやく取り掛かった。

 詩は気づいたら完成していた。無意識のうちに書いたのだろうか、とボクは思った。そして残すは編曲と微調整。しかし、ここでレコーディングはできない。

 いつの間にかここでする作業は全て終わっていた。ボクは首を傾げて暫く考えたが、面倒なので考えるのをやめた。イナムラでは不思議なことがよく起こる。そう思った。

 ボクは完成していた曲のファイルをスマホに転送した。そのファイルと歌詞のデータをまとめ、曲作りの手伝いをしてくれる何人かの仲間と、ダニーへ向けてメールを送った。

 暫く歌詞を眺めているとスマホが震えた。電話の主はボクのよく知る人で、多分今までの人生の中で最も迷惑をかけた人だった。ボクは外に出て応答ボタンを押した。

 ひぐらしが鳴いていた。

 少し冷たい風が吹いた。

 御飯の匂いが風に乗る。

 ボクはお腹をさすった。

 波の音が聞こえてきた。

『やあ、久しぶりだね』とダニーは言った。

「起こしてしまったね」とボクは言った。

『寝ていられるもんか。君の声をこうしてもう一度聞けるんだ。寝ていられない』

 ダニーは声を震わせて言った。

『ファイルを確認したよ。新曲の完成おめでとう』

 ダニーは鼻を啜りながら言った。

「ねえ、実はこの曲ボクが作ったんじゃないんだ」

『どういうこと?』

「ダニー、やりたいことができたんだ。もしかすると、これまで以上にキミに迷惑をかけてしまうかもしれない」

 ボクがそう言うと、ダニーは五秒以上の時間をかけて考えた。

「ダニー?」とボクは呼んだ。

『ああ、聞いてるよ』ダニーはそう言った。

『君からそうやって言われたことあったっけ?』

 ダニーは笑った。

「からかわないでくれよ」

『すまない。構わないよ。君が望むことなら何でも叶えよう。それが僕の仕事だ。ミア、僕を頼ってくれて、ありがとう』

 ボクは赤くなった空を見上げた。

「詳しいことは後でゆっくり話す。長い話なんだ。寝ないでくれよ?」

『わかった。いい酒を用意して待ってる』

「それから、そっちに戻ったらすぐにこの曲のレコーディングをする。完成したら彼にも聴かせたいんだ」

『MCの友人だね。了解だ。すぐに仕事に取り掛かれるようにする。いつ戻る予定だい?』

「九月になったら戻る」

『手配しておこう』

「ダニー」

『何だい?』

「ありがとう。頼りにしてる」

『……あまり僕を泣かせないでくれ』

 ボク達は久しぶりに笑った。

 

 

 晩御飯を食べた後、歩夢は侑の膝の上で寝てしまった。十年もの間頭を悩ませた一つの関係が終わり、新しく生まれ変わろうとしているのだ。誰だって疲れ、寝てしまう。

 侑は一度歩夢の頭に手を伸ばしたが、一度躊躇った。そして暫く自分の手を見つめた。

「労ってやりなよ」

 ボクがそう言うと侑は肯き、恐る恐る頭を撫でた。歩夢は嬉しそうに寝息を立てた。それを見た侑も優しく微笑んだ。

「歩夢。今までごめんね。ありがとう」

 まるで初々しいカップルだった。熟年夫婦のような二人がそう見えることなんてあっただろうか。未発見の遺跡を掘り当てた気分だった。ボクは今、歴史的で貴重なシーンを見ているのかもしれない。そう思った。

 ボクは二人の関係が元に戻りつつあるのを見届けると、日本酒を飲みながらベランダで夜空を見た。相変わらずアルコールが回る感じはしなかったが、香りと味だけで十分満足できた。

「ねえ、ミアちゃんはもう帰っちゃうんだよね」

 侑は六等星のようなか細い声でそう訊いた。

「ボクはもう長くここには居られないんだ」

 そっか、と侑は言った。ボク達の間に沈黙が流れた。やがて侑は静かに泣き始めた。堪えようとしていたが、我慢できずに流れた涙だった。

「ミアちゃんと離れたくない」

 ボクはコップを置いて侑の傍に座った。そして頭を優しく撫でた。彼女は親の言いつけを受け入れられない子供のように何度も首を振った。

「大丈夫。ボクはどこにも行かない。ずっと侑の傍にいる」

「本当?」

「ボクはミア・テイラーだぞ? 嘘はつかない」

「……嘘つき」

 そう言ってボク達は笑った。

「明日、キミに渡したいプレゼントがあるんだ」

 侑は静かに頷いた。

「だから今日はもう寝て、風邪を治してくれ」

 侑は頷き、歩夢を起こさないように布団に潜った。

「まったく、キミは相変わらずボクがいないとダメダメだね」

「今のミアちゃんに言われたくないなあ」

 そう言って、ボク達はもう一度笑った。

「いい子だ。おやすみ」

「うん。おやすみ」

 ボクは歩夢にタオル・ケットをかけ、部屋の照明を消した。ベランダに出てまた暫く日本酒を飲んでいると、背中から静かな寝息がふたつ聞こえてきた。

 星がよく見えた。ボクはじっと星を眺め、微かに聞こえる風の音に耳をすませていた。

 

 

 

☂️

 

 

 

 侑の風邪はすっかり治っていた。結局朝まで寝ていた歩夢はそれを見届けると朝御飯を用意し、悔しそうな顔をしながら自宅へ帰った。どうしても外せない用事がある、と歩夢は言っていた。

 ボク達は久しぶりにのんびりした一日を過ごしていた。もう作曲する必要がなくなった侑は、久しぶりの暇をどうやって潰そうか悩んでいた。

 朝食を食べるとイナムラの温泉へ行きたいとボクは提案した。侑は喜んで準備をした。

 温泉に入ったあと、侑が買ってきてくれたアイス・ティーを飲んだ。そして岬に登り、江ノ島を眺めながらサーファーを数えた。人が海沿いに増えてくるとボク達は隠れながら帰り、どうせならとクワタの店に逃げ込んだ。

 クワタと昼食を食べ、午後はクワタのギターを聴き、歌いながら過ごした。ボクは侑に上手く歌えるコツを教えた。クワタと侑はボクが生まれるよりずっと前の古いジェイ・ポップのことを教えてくれた。あっという間に午後は過ぎ去っていった。本当にあっという間だった。

 夜、ボクは侑の手を引きながら歩いた。

 クワタが教えてくれた裏道は、ボクが知らなかった岬へ登れるもうひとつの階段へと繋がっていた。

 岬へ登る階段の目の前には、工事中につき立ち入り禁止と書かれた看板が置いてあった。

 クワタはそれを無視して登っていいと言っていた。階段を上ると、丁度ボク達がいつも使っている階段にぶつかったが、その階段の前にも規制線が貼られていた。海浜公園は蜂の巣のように人が詰まり、全員が江ノ島の方を向いていた。人払いのスケールがデカすぎる。ボクと侑は顔を見合わせて笑った。

 ボク達は急いで階段を登り、頂上に人が居ないことを確認したあと、東屋のベンチに座った。 

 そして花火が打ち上がった。

 江ノ島で打ち上がっていた花火はイナムラから見ると少し小さく、だいぶ音が遅れて聞こえてきた。

 侑を見ると、目を輝かせながら静かに花火を見ていた。

「綺麗」と侑は零した。

「こんな綺麗な花火、久しぶりに見たよ」

「うん。私も」

 そうして暫く、花火を眺めていた。

「侑」とボクは言った。

「ん?」侑は首を傾げてボクを見た。

「ボク、新しい夢ができたんだ」

 

 

 

☂️

 

 

 

「ボク、新しい夢ができたんだ」

 ボクがそう言うと、侑は大きく目を見開いた。そして暫くボクを見つめたあと、花火の方へ視線を戻した。

「夢?」侑はそう訊いた。声が震えていた。

 ボクは肯いた。「大切な夢だ」

「それって私との約束よりも大切?」

「違う、そうじゃない。キミとの約束が形を変えて、新しく生まれた夢なんだ」

「生まれ変わった、夢」侑は繰り返して言った。

「そう。だからボクひとりじゃ叶えられないし、キミ一人でも叶えられない。ボク達はもう一度同じ方向を向いて歩くんだ」 

 侑は黙って聞いていた。

「これはキミとボクで叶える新しい夢だ」

 ボクはそう言ってスマホを取り出し、イヤホンを着けた。片方をボクの耳にはめ込み、もう片方を侑の耳にはめ込んだ。

「聴いてくれる?」とボクは言った。

 侑は不安そうな顔で頷いた。

 息を吸うと、花火の音が小さくなった。

 ボクは侑の手に自分の手を重ねた。そして音楽アプリの再生ボタンを押した。

 

 

 

☂️

 

 

 

 

 歩く道に落ちる灰色の影

 自分の顔を最後に見たのはいつだろう

「なんとかなるさ」で片付けるのは簡単だけど

 心の奥にある答えは 本当にそれでいいの? 

 

 毎日が晴天にはならないことなんて分かっている

 それでも頑張ってみれば少しぐらい光は見えるかも

 

 まだ夢見てるんだ

 この気持ちに嘘はつけない

 まだ見たことのない世界を見てみたい

 煌めく日差し

 高くまで飛んでいくよ

 雲を切り裂いて

 空高くへ fly free

 心描く景色 私だけの道

 自分らしくあることを誰も止めることはできない

 

 まだ夢見てるんだ

 

 

 

☂️

 

 

 

「キミの歌だ」ボクはそう言った。

 花火の光は暗い夜空を照らす。その光は新たな生命の誕生を祝福する光のように、ボク達を包み込んだ。

 ボクは侑の手を握る。侑はそれを強く握り返す。

「いつか大人になってボク達が有名になったら、キミが曲を作り、ボクが歌う。あの日、ボクが日本を去る日、そう約束したね。やっと叶えることができた。こんなに簡単なことなのに、ボク達は随分遠回りしてしまった。遅くなってごめん」

 侑は首を振った。

「それじゃあこれからの話をしよう。茅ヶ崎でキミの歌を歌った日、聴いてくれた人達の笑顔を見て思ったんだ。ボクひとりじゃあんな笑顔は作れない。今まで『歌姫』として歌っていて、あんな笑顔を見たこと無かったんだ。あの笑顔はキミの曲が作ったものだ。ボク達二人で笑顔を作り出せたんだ。たとえ侑一人の力では評価されなくても、ボク達が力を合わせればきっと、世界中に響く歌が作れる。

 侑。ボクはキミの歌を歌いたい。侑が新しい曲を作るんだ。それを世界中に届けて、あの笑顔で溢れさせたい。キミが作り、ボクが届ける。これがボク達の生まれ変わった約束だ。そして、新しい『歌姫』の形だ」

 侑は頷いた。

「たとえ残された時間が少なくても構わない。キミが望み続けるのなら、ボクは侑の夢を叶えたい。最期の時まであの景色を侑に見せてあげたい。それがボクの新しい夢」

 侑はずっと上を向いていた。

「ボクを、キミの『歌姫』でいさせてくれ」

 侑は黙ったまま頷いた。何度も頷いた。

「二人で新しい夢を叶えよう。だからもう、泣くのはやめよう」

 それでも、侑の涙は止まらなかった。何かを言おうとしても上手く喋れないまま、花火が終わるまでずっと泣き続けた。

「ボクのために笑っておくれ、侑」

 最後の花が夜空に散った。残り香を運んでいた風はボク達を包み、新たな場所へ続く道の予感を残していった。

 

 

 

☂️

 

 

 

「電気、消すよ」

 ボクがそう言うと侑は何も言わず頷いた。今まで溜め込んでいた涙を放水するように、花火が終わってからもずっと泣いていた。泣き止んだと思っていたら、少し目を離した隙にまた泣いていた。

「泣きすぎたよ」

 ボクは侑の隣に寝転びそう言った。侑はだって、だのミアちゃん、だのと文になっていない単語を思い出したかのように呟くばかりだった。

 やれやれ、とボクは思いながら侑の頭を撫でると、それで少しは落ち着いた様子だった。

 侑がうとうとし始めたのを確認したあと、ボクはそのまま背を向けて、暗い部屋の隅を見つめた。自分の布団へ行きたくても、侑がシャツの裾を掴んで離さないのだ。ボクは小さく溜息をついた。

 暫く何も考えずにいると、終電の江ノ電がイナムラ駅に駆け込んだ。振動が部屋を揺らし、金切音が響いた。江ノ電は少しの間停車し、そしてまた走り去っていった。

 この音も聞けなくなるのか。ボクが思っていると、背中に軽い振動を受けた。

「起きた?」

 ボクがそう訊いても侑は何も答えず、ボクのお腹に手を回し抱きついた。

「ねえ、ミアちゃん」

 侑は久しぶりに言葉らしい言葉を、ボクの背中へ話した。

「うん?」

「ミアちゃんは私のこと好きなんだよね?」

「うん」

「じゃあ今ならえっちしてくれるの?」

 ボクはまた溜息をついた。多分イナムラで吐き出した溜息の中で、一番大きく深い溜息だった。

「あのさあ、ほんっとキミって奴は──」

「ねえ、どうなの?」

 ボクは諦めて暫く真剣に考えた。

「しないよ」とボクは言った。

「どうして?」

「やっぱりキミは、そそらない」

 侑は何も答えない代わりに、ボクの背中へ顔をぐりぐりと押し付けた。ボクも侑も何も言わなかった。春の凪のような静けさだけが部屋の中に落ちていた。

 やがてシャツが濡れてゆくのをボクは感じた。その温かさは水溜りの波紋のように広がった。

「ミアちゃん」

「うん?」

「ありがとう」

 やはりボクは何も言わなかった。

 イナムラの夜に冷たい風が吹いた。悲しげな風鈴音がささやかな季節の変化を告げていた。

「侑、寒くない?」

「うん。大丈夫。あったかい」

「涼しくなったね」

「うん」

「もう夏も終わるね」

「うん」

「今年は暑かったよ」

「暑かったけど、短かったね。夏」

 それきり侑は何も話さなかった。やがて静かな寝息と彼女の鼓動がボクの体に伝わった。

 ボクは盲目兎のことを考えながら眠りについた。しかしどれだけあの夢のことを思い出しても、二度と盲目兎がボクの夢に出ることはなかった。

 

 

 

☂️

 

 

 

「もう、いいんだね?」

「うん。ミアちゃんがいるから大丈夫」

 

 

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