アイム・ユア・シンガー   作:ゆーすけ・ぼんど

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グッバイ、イナムラ・ロード

 

 

 世界は何も変わっていない。線路の上しか電車は走れないように、決まりきった一日が始まる。

 当たり前のように目が覚めたし、人間が与えられた知恵を使わずにはいられないように、ボクは欠伸をしながら伸びた。

 誰だってシャワーを浴びるし、歯を磨いてコーヒーを飲む。そして昨日と変わらぬ世界がちゃんとそこにあるか確認するために、スマホで朝のニュースにざっと目を通す。

 世界は何も変わっていない。

「侑?」

 変わったことといえば侑の姿が無かったことだけだった。

 ボクが目覚めた時、既に彼女はいなかった。起きてからすぐに部屋中を見て回ったが、彼女はどこにもいなかった。諦めたボクはとりあえずシャワーを浴びた。朝のルーティンを一通りこなす途中でキッチンに立ったボクは、そこでようやく書置きを見つけた。

『散歩に行ってきます。心配しないでください』

 やれやれ、とボクは首を振った。

 今日はボクがステイツに帰る日だった。

 

 

 ボクはベランダのビーチ・チェアに座り、二杯目のコーヒーをゆっくり飲みながら海の方を眺めた。

 イナムラはまだ目覚めきっておらず、朝日は空を染め切れていなかった。車の音さえ聞こえなかった。聞こえてきたのは風と波の音だけだった。今、この時間の世界は最も無防備な姿をボクに見せていた。ボクもいつか、こんな無防備な姿を恋人の前で晒すのだろうか。とボクは思った。

 やがて早すぎる出勤を強いられた車が増えてきた頃、ボクはカップを片付けた。そしてぐるりと部屋を見渡した。

 始発の江ノ電が来るまでにはまだ時間があった。ボクは早く目覚めすぎていた。何もすることがないのだ。

 荷造りも昨日済ませた。元々持っていた荷物も少ないし、持っていくものも無い。お土産はとっくの昔にあっちへ送った。

 今更二度寝する気にはなれない。そして侑も帰ってこない。

「困ったな」ボクは口に出してそう言った。

 ボクは本当に困っていた。

 そんなボクを気遣ったのか、いいタイミングでスマホが震えた。ポケットの中からスマホを取り出し画面を見ると、普段からボクより早起きしていそうな人からの着信だった。ボクは応答ボタンを押した。

『ミアちゃんおはよう。ちゃんと起きてて偉いね』

 ボクはムッとしながら答えた。

「歩夢。ボクを子ども扱いしてるな?」

『大きくなったねえミアちゃん。歩夢お母さんは嬉しいよ』

「からかうな」

 ボクがそう言うと、歩夢はあははと笑った。

『でもごめんね、見送りできなくて。最後にもう一度ミアちゃんの顔が見たかったな』

「仕方ないさ。ボクにはボクの時間があるし、歩夢には歩夢の時間がある。それに二度と会えなくなる訳じゃないんだ。ちゃんと、また帰ってくるよ」

『信じていいんだよね?』

「ボクはミア・テイラーだぞ?」

『それ、私達以外に言っちゃダメだからね』

 歩夢は笑った。それにつられてボクも笑った。

『あ、ねえ、侑ちゃん起きてる?』

「侑ならボクより早く起きてる。今頃イナムラ中を点検してるんじゃないかな」

『点検?』

「それか貝殻を拾ってる」

『え、いないの?』歩夢は驚いた声でそう言った。

『もうっ、侑ちゃんったらこんな時に……』

「侑にも侑の時間があるんだろ」

『心の準備ってこと?』

「さあ、どうだろうね」

 ボクは壁に掛けられた時計を見た。

「歩夢、ボクそろそろ行かなきゃ。最後にイナムラを少し歩きたいんだ」

『そっか。わかった』

「それじゃあ──」

『ミアちゃん』

「どうしたの?」

『侑ちゃんのこと、ありがとう』

「お礼を言いたいのはボクだ。歩夢、ボクと侑を助けてくれてありがとう」

 ボク達は少しだけ黙った。何となく電話を切るタイミングが見つからなかった。

『ミアちゃん、いってらっしゃい。体に気をつけてね』

「うん。歩夢も。それと侑を頼んだ」

『わかってるよ。任せて。それじゃあね』

「ああ」

 通話はそこで終わった。

 

 

 ボクは唯一の荷物であったリュック・サックを背負い、ポケットにスマホと財布が入っていることを確認した。そしてもう一度ぐるりと部屋を見渡し、忘れ物がないか確認した。

 玄関で靴を履くと、眼鏡を忘れていたことに気づいた。ボクは部屋に戻り、もう一度部屋をぐるりと見渡した。メガネはパソコンの前に置かれていた。

 ボクは眼鏡に手を伸ばそうとしたが、少し考えてやっぱりやめた。ボクにはもう必要ない。根拠もなければ誰に言われた訳でもないが、とにかく必要ないと思い込んでいた。世界は何も変わっていない。歩夢も何も変わっていない。しかし、ボクが起きると侑がいなかったように、何かとても些細な変化が起こっている気がしてならなかった。ボクが問題なく眼鏡を見つけられたように。

 置き土産にしよう。とボクは思った。

 ボクは改めて靴を吐き、玄関の戸を開けた。

 部屋を出る直前、ボクはもう一度振り向いた。そして一ヶ月の間、ボクを守ってくれた部屋に向かってありがとうと言い、そっと扉を閉じた。

 

 

 アパートの階段を下りてボクは深呼吸をした。アスファルトが蒸される前の夏の朝の香りだった。住宅地のど真ん中は爽やかな香りとは言えなかったけれど、相変わらずタイム・カプセルの中のような不思議な香りだった。

 ボクは振り返ってアパートを見た。クワタのギター屋の軒上には、キタノがいつも引きずっていたサーフ・ボードが飾られていた。傷だらけのサーフ・ボードは朝日を反射し、輝いていた。

「じゃあな」ボクはサーフ・ボードに向かってそう呟いた。

 海の方へ向かって歩こうとすると、静かな海の朝にはうるさすぎる足音と陽気な声がボクを引き留めた。

「ミアチャアン、一寸(チョイト)待っとくれェ!」

 クワタは転びそうになりながら、アパートの階段を駆け下りてきた。

「騒がしいぞクワタ。どうしたんだよ」

「いやァ、ミアチャンのサイン貰い忘れたの、思い出してネェ」

「そういえばそうだったね……悪い、今書けるものを持ってないんだ」

「だからほっぺにサイン、チョーダイ」

「ボクの生歌で我慢しろ」

 ボクはクワタの肩を叩いて言った。クワタはタハハと豪快に笑った。

「おはよう。朝から元気だね。わざわざ見送りに来てくれたの?」

「そりゃあネ。一言挨拶くらいするのが人情ってもんだろう?」

「生憎その人情を持ち合わせていないヤツが一人いるけどね」

 ボクがそう言うと、クワタは不思議そうに辺りを見回した。

「あれェ、侑チャンは?」

「さあね。今頃浜辺を綺麗にしてるんじゃないかな」

「そっかそっか」

 クワタはそう言うと大きく伸び、ラジオ体操を始めた。

「またいつでも遊びにおいで」

 ボクは肯いた。

「夏になったら、また歌いに来るよ」

「あ、でもバカンスなら湘南の方がいいンじゃない?」

「湘南に行ったら侑が拗ねるだろ」

 そりゃそうか、とクワタは言って笑った。

「クワタ、世話になった。ありがとう」

「こちらこそ、楽しかったヨ」

 そう言ってクワタは右手を突き出した。ボクはそれに応え、固い握手を交わした。クワタはボクの肩を叩き何度か頷いた。

「いっといで。元気でナ」

「ああ。それと、侑のことを頼む」

 

 

 それからボクは侑と歩いた散歩のコースを辿った。裏路地を抜け海へ出ると冷たい潮風の音が鳴った。朝日は海を照らし、その反射で空気中の水分でさ光り輝いているような気がした。

 短い砂浜には幾つかの足跡が刻まれていた。その足跡のひとつを適当に辿ると、岬へ上る階段まで続いていた。

 ボクは長い階段を上り岬の頂上を目指す。海浜公園の中には珍しく誰もいなかった。静かな朝だった。雀の鳴き声がよく聞こえた。早く起きすぎたセミが鳴いていた。波の音がイナムラに響いていた。

 東屋に辿り着いたボクは、そこから江ノ島を眺めた。江ノ島は海が反射した光で蜃気楼のようにぼやけて見えた。

 イナムラが発する音も景色も、ボクの中にはっきりと伝わっていた。眼鏡を通さず見たイナムラは限界まで縮小された世界のように美しく、綺麗だった。

 暫く風を感じてぼうっとしていると、スマホのアラームが鳴った。寝坊防止用の為にセットした電車到着前の予告アラームだった。

「またね」ボクはイナムラを見下ろし言った。

 それに答えるようにざぶんと波の音がした。そして最後に、一度辺りを見回した。

 結局侑は散歩コースの何処にもいなかった。

 ボクは裏路地を使って小走りで駅まで戻り、ホームに立って江ノ電を待った。

 その道中にも侑はいなかった。

 仕方ないさ、とボクは自分に言い聞かせた。また会えるんだ。毎年夏に、必ず。また会いに来る。

 やがて遠くから警笛の音が響き、金属音とともに江ノ電が地面を揺らした。減速した江ノ電は寸分たがわずボクの目の前に扉を運び、ゆっくりと開け放った。

 ボクは少し躊躇ってから一歩を踏み出し江ノ電に乗り込んだ。発車のベルが鳴り響き、ボクの溜息を掻き消した。

「ミアちゃん!」

 ボクの名前が聞こえた。ボクを呼ぶ声だ。その声は電車のエンジン音やアナウンスの音に邪魔されず、ボクの耳へと確かに届いた。

「侑?! 一体何処に行って──」

 電車のドアが閉まる。

 眼鏡を必要としなくなったボクの眼は、ありのままのイナムラを見せた。そしてこれから世界の全てを見せることになる。見たかったものも。そして見たくなかったものも。

 彼女は確かに侑だった。扉を一枚隔てた向こう側に立っていた。その姿は昨日まで見ていた彼女とかけ離れていた。

 ボクが最後に見た時より少しだけ身長が伸びていた。彼女は虹ヶ咲にいた頃よりも背が伸びていたのだ。そして信じられない程体が細くなっていた。その手足には肉らしい肉がついておらず、電車の振動で崩れてしまいそうなほど、身体は細かった。こけた頬をさらにくぼませ、侑は笑っていた。

 そして十年前と唯一変わらぬツインテールだけが、風に揺れていた。

「ゆ、う?」

 これが侑だった。今まで見てこようとしなかった、本当の姿だった。

 ボクは扉を力無く叩いた。もう遅いとわかっていても、扉が何かの間違いで開くことを祈っていた。

 今すぐ彼女を抱きしめたかった。

 もう何処にも行かない。そう言いたかった。

 夢も約束も、何もかも捨てて向こう側へ戻りたかった。でもそれは叶わなかった。

 ボクを見て、侑は首を振った。

 電車がゆっくりと動き出す。

「いってらっしゃい!!」

 侑はそう叫んだ。

 ボクは電車の揺れでバランスを崩し、椅子に手を着いて転ぶのを防いだ。そうしている間にも江ノ電は進み続けた。侑の姿はあっという間に小さくなっていった。

 侑はずっと笑っていた。あの頃のように。

 ボクは床に座り込み、何度も侑の名前を呼んだ。背中に受けた温もりと鼓動。そして彼女の顔を交互に思い出し、しがみつくように名前を呼んだ。血が滲む程唇を噛み、何度も震えた深呼吸をした。

 隣駅に停車した揺れでようやくボクは立ち上がった。ボクは適当な場所に座り、サングラスをかけキャップを被った。そして電車が動き出すのを待った。電車には誰も乗ってこなかった。やがて扉は閉まり、ゆっくりと江ノ電は発車した。

 暫くすると江ノ電はトンネルの中に入った。狭いトンネルの中で金属音が反響し、ボクの耳を突き刺した。

 ボクはスマホにイヤホンを差し込み、耳を塞いだ。そして音楽アプリを立ち上げ適当なプレイリストを選択し、再生ボタンを押した。そして離れゆくトンネルの入口を、ずっと見つめていた。

「いってくる」

 ボクは入口に向かってそう言った。

 

 

 

☂️

 

 

 

 ここから先、何も書き記すことはない。ボクの夏休みはこれで終わりだ。ここから先のボクは、皆の知る『歌姫』だ。

 一ヶ月の休止を経て、ボクは世界中を回った。そして『歌姫』としてライブを開催した。覚えているだろうか。当時ニュースを騒がせた、チャリティー・ライブのことを。ボクは例えどんな国であれ、満遍なく回るようにした。勿論全てとまでは行かなかった。渡航が叶わなかった国もある。それだけがボクの心残りだ。

 ライブ・ビューイングだけでは伝えきれないこともあるからね。

 色んな憶測が飛び交っていたが、あれはボクの意向だ。音楽は自由であるべきだ。その意思に賛同してくれた人々が協力して、ボクを支えてくれた。ボクの我儘に付き合ってくれた人達には、本当に感謝してもしきれない。今この場でもう一度言おう。そしてこれからも、何度だって言おう。

 ありがとう。

 そして皆いい加減知りたいはずだ。

 ボクが一曲だけ、動画サイト以外に公開していない曲を歌ったことを。

 その曲を作ったのがこの日記に記した彼女。

 侑だ。

 侑は毎年夏に、ボクに新曲を用意してくれた。そして毎年夏に彼女の元へ帰ったボクはそれを歌い、真っ先に動画として残した。全世界に届くように。

 侑は値段をつけたくないと言っていた。だから動画で残した。正式なリリースもサブスクリプションにも公開していないのはそれが理由だ。これについてもメディアはどうでもいい陰謀を見出そうとしていたが、ボクはその全てを否定する。

 誰も理解なんてできやしないのだから。

 

 

 五曲。

 これが彼女が遺した曲の全てだ。

 そしてあの夏から五年後。クリスマスの夜に、侑はボクの目の前で息を引き取った。

 自力で呼吸さえできない体になっていた。

 それでも彼女は、ボクに向かって確かに言った。

「ありがとう」と。

 ボクは彼女が起こした奇跡を、死んでも忘れない。

 

 

 彼女が死んで一年半が経った。また夏が来た。

 

 

 

☂️

 

 

 

 ブログの更新はここで止まっている。

 

 

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