アイム・ユア・シンガー   作:ゆーすけ・ぼんど

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カリフォルニアの少女

彼女へ

 そしてボクへ

 

 

 

☂️

 

 

 

 思い出せないことばかりなのに、夏になるとその少女のこともボクは今でもよく思い出す。蜃気楼のような彼女達のことを。

 いつかの夏、ボクは一週間カリフォルニアにある別荘に滞在した。その別荘はステイツで人気のとあるMCが所有していて、近くには人気の無い小さなビーチがあった。

 MCと知り合ったのは彼の受け持つラジオへの出演がきっかけだった。ボクと彼は二十以上の歳の差こそあったが、妙にウマが合いすぐに仲良くなった。程なくして、ラジオ番組のテーマソングを作成してほしいというオファーを受けた。歌手として歌声を提供するだけではなく、シンガーソング・ライターとしての仕事だった。

 歌うだけではダメだ。君が作らなければ意味がない。

 彼はそう言って頭を下げた。無論ボクは二つ返事でそのオファーを受け、スケジュールをこじ開けた。

 

 別荘には小さなスタジオが併設されていた。レコーディング・スタジオ、DTMブース。文句の付けようがない設備が揃っていた。別荘の周りはいつもどこからか風に乗ってきたBBQの匂いが漂い、見かける車は大体キャデラックかテスラのSUVだった。そして他人に干渉している人間が珍しくいなかった。所有車以外に自慢するものがないのだろう、とボクは思った。

「いい場所だよ。あちこちで歌が聞こえる。あともう少し丁寧に歯を磨いてくれれば百点なんだけどね」

「街中にミントの香りが漂っているなんて私は嫌だね。ああ、そうだ。聖歌隊に混ざっちゃいけないよ。君の歌声が聞こえてしまうと暇を持て余している連中、ここをコーチェラと勘違いしてしまう」

「オーライ」

 ボクは肯いた。

 

 ボクは初日から早速作業に取り掛かった。エア・コンの効いたブースの中、休憩する間も惜しんでひたすら音符を打ち続けた。パソコンに向かった途端、溜め込んでいたアイディアが一気に溢れ出た。信じられないかもしれないが、これがボクの本職なのだ。クリエイターにとってアイディアを溜め込むことは、ときに性欲を発散できない環境に置かれるよりも辛い。何段階にも分けられる欲求の外側で、歌うだけでは解消できない何かが作用しているのだ。

 モニターを睨み続けるボクを彼は興味深く見学していた。ブランデーを片手に様子を見に来た彼とアイデアの打ち合わせをし、また打ち込む。その片手間に彼と歌詞を考えノートへ殴り書く。その繰り返しの中で、彼は積極的に意見を出してくれた。付け焼き刃の音楽知識まで披露してみせた。正直、ボクは驚きを隠せなかった。

「随分と入れ込んでいるね」ボクがそう訊くと、彼は笑いながら「面倒臭いこだわりがあるだけさ」と言った。

 久しぶりの作曲は心地よかった。深海から浮上し、暖かな陽光で冷えきった体を温め、新鮮な酸素を肺いっぱいに取り込んだような気分だった。

 

 当時のボクはそれなりに規則正しい生活を送っていた。休憩時間は捨てても寝る時はちゃんと寝た。そして朝起きてからと夕方の一時間程、別荘の周りを散歩した。高ぶる熱を鎮め、心身のケアと、頭の中にあったアイデアを整理する為に必要なことだった。

 その少女に出会ったのは別荘に来て二日目のことだった。同じステイツなのにあまり見慣れない土地を、ボクは大雑把な地図を描くように歩幅を数えながら練り歩いていた。沈む太陽に向かって歩いていると、やがて散歩コースのひとつとして勧められた小さなビーチに辿り着いた。

 そこに少女はいた。

 彼女はただ黙って海を眺めていた。派手な装飾が何ひとつ無い白いシャツワンピースを纏い、体いっぱいに夕日を受けていた。

 その姿はあまりに眩しく、彼女自身が発光しているように思えた。赫く染め上がったワンピースは体のラインを黒く映し、恐ろしいほど細い躰を浮き上がらせていた。腕や脚も老木の枝のようだった。申し訳なさそうに膨らんだ双丘が、辛うじて十代辺りの少女であるという認識をボクに与えた。そして泥を塗りたくられた名画のようにニット帽が不自然に目立っていた。

 ボクは光源に吸い込まれるように彼女に近づいていた。そしてしばらく彼女を後ろから眺めた。ニット帽は頭をすっぽり覆い、歪な形をしていた。髪の生え際がわからないのだ。そのニット帽からは髪の毛ひとつはみ出ていない。高所から滝つぼを覗き込んだ時のような、緊張と恐怖が混ざり合った動悸をボクは感じていた。

 不自然で、不格好。神秘的な美しさと、今にも消えそうな危うさ。失礼なことを言うが、あの小さな躰には最も完成に近いアートのような奥深さが秘められていた。美しく、そしてどこか懐かしい。そんな彼女に、ボクは目を奪われていた。

 黒い影が落ちて我に返ると、彼女は不思議そうな顔をしながらボクの顔を覗き込んでいた。

「おねえさんは海を見に来たの?」

 ああ、とボクは曖昧な返事をした。彼女もあまり興味を示さなかったのか、ふうんとだけ言ってまた海を見た。ボクも彼女に倣って海を眺めた。波と風の音だけが響き、彼女は何も言わなかった。特に言うことも見つからなかったボクは少しだけ申し訳ない気分になり、静かにその場を去った。

 翌朝、覚醒しない頭を振りながら同じ道を歩いた。何をしているのだろう、とボクは思っていた。昨日のビーチに少女はいなかった。

 

 夕方もまた同じビーチを目指した。昨日と同じ綺麗な夕焼けだった。やはり彼女は同じ場所に立って海を眺めていた。

 今度は躊躇うことなく彼女の隣に立って海を眺めた。少女は一度ボクを見て、何も言わずまた海を見た。そうしてしばらくじっとりとした潮風を浴びていた。彼女からは何も喋らなかった。ボクは急に、何でもいいから喋らなければいけない気がした。

「海が好きなのかい?」

 ボクはそう訊いた。面白みはなかったが、今はそれで十分な気がした。彼女は笑顔とも取れない哀愁が滲み出ている表情でボクの顔を覗き込んだ。

「海の向こうにあるものを想像するのが好きなの」

 少し歩きたい。彼女はそう言ってゆっくり歩き始めた。ボクは彼女の後ろを着いて行った。彼女は砂の感触を確かめるように、一歩一歩を確実に踏みしめていた。

「じゃあ、海は?」

「海かぁ」彼女はそう言うと、うーんと声に出しながら少しばかり悩んだ。「あんまり好きじゃない」

「どうして?」

「引きずり込まれそうになる気がするの。深く、冷たい深海に。どれだけ抵抗しても海流と水圧に押し戻される。そうして深海の闇の中で、少しづつ溶かされていく想像をしちゃうの。自分がわからなくなっていく。それが怖い」

 少女は続けた。「でもね、実はそこに幸せがあるの」

「幸せ」とボクは繰り返した。

「そう。体の全てが深海の闇に溶け込んだ時、初めて気づく幸せがある。多分だけどね」

「多分?」

「確かなものじゃないんだよ。幸せは人の数だけあるからね。その人にとって正しい幸せは死ぬまでわからない」

 少女はサンダルに入り込んだ砂を洗い流すように、ばしゃばしゃと音を立てて浅瀬を歩き始めた。

「ボクには海の向こうを想像しているキミの顔の方が、よっぽど幸せに見えたよ」

「そう?」

 彼女は実に少女らしい笑顔を浮かべていた。

 

 翌日、普段通りモニターを睨んでいた。何ら変わったことはなかった。新しいアイデアを持ってきた彼に大丈夫かと肩を叩かれるまで、ボクはただずっと睨み続けていた。

 

 少女のことは何も知らない。住んでいる場所も、ニット帽のことも、彼女の身の上について何ひとつ訊いたことはない。だから彼女の髪のこともボクの憶測の域を出ない。

 彼女もボクのことは何も訊かなかった。サングラスとキャップで顔を隠していたボクを、ミア・テイラーだと気づいていないようだった。これも憶測だが。

 ボクらは特に中身のない会話を切れかけた蛍光灯のようにぽつぽつと続けていた。ボクらの間には目に見えない線のようなものがあった。その線を超えようとすると、彼女は必ず小難しい話をしてはぐらかそうとする。

 

「おねえさんと話してると、なんだか気持ちいいな」

「光栄だよ」

 カリフォルニアに来て四日目、彼女との三回目の夕日を見たその日、その線が少しだけ曖昧になっていた気がした。何となくそう思った。それは沈む太陽を見つめる彼女の目がいつもより細く、まるで夜が来ることを恐れて鳴く子犬のように見えたからかもしれない。

「私ね、いつか遠い異国を旅してみたいんだ」

 彼女は波打ち際に腰を下ろし、太陽が海へ呑まれていく様をじっと見つめながらそう言った。

「そう、写真家······旅行作家もいいな。私が見て感じたものを残したい」

「いい目標だ」

「目標じゃなくて夢って言ってよ。この世に私が何かの形として残ることが夢のひとつ」

 でも。そう言って少女はニット帽をくしゃりと掴んだ。沖へ流されていく自分の浮き輪を眺めているような表情だった。

 ボクは少女の頭を撫でた。その手を少女は掴む。凪いでいる春の海のような、暖かな時間だった。

「想い続けていればいつか誰かの胸に残るさ」

「誰かが私の鏡になってくれるだけじゃ駄目。目の前にあって、確かに触れられるものを残したいの。人なんて簡単に忘れちゃう生き物なんだよ?」

「薄情すぎやしないか?」

「お姉さんもいつかわかるよ」

「ボクも忘れてしまうってこと?」

「或いはもうそうなってる。それを見て見ぬふりしてるだけ」

 少女は立ち上がり、ワンピースに付いた砂を丁寧に払った。

「鏡なんて、都合がいいだけだし壊れやすい」

 ボクも彼女に倣って立ち上がる。すっかり太陽を飲み込んでしまった水平線がぼやけて見えた。

「なあ、もっと楽しい話をしようよ。他に夢はないのかい?」

「あるよ。叶いそうにない夢がもうひとつ」

 少女はまた笑って言った。

「私だけの為に歌う『ミア・テイラー』の歌が聴きたい」

 

 翌日、一日中雨が降った。町中に染み付いた焦げと磯の香りをゆっくりと洗い流す静かな雨だった。ボクは別荘のリビングで、ブラック・コーヒーを啜りながら海の方をずっと眺めていた。

 少女のことを考える時間が長くなった。それに比例するように作業の速度は遅くなっていた。

「調子が悪かったようだね」

「そんなことないさ」

 ボクがそう言って笑っても、MCの顔は丁度今の天気みたいに晴れなかった。彼はソファの背もたれに腰掛けコーヒーを一口飲み、時間をかけて煙草を吸った。

「もう少し調整したらいい出来栄えになるよ。なんとか歌詞も完成したし、明日レコーディングする。まあ予定通りとまではいかなかったけど、安心してボクに任せてよ」

「慣れない環境に連れてきてしまった私にも責任がありそうだ」

 ボクは首を振った。

「いや、すまないボクのせいだ。ここはいい場所だよ。最近考えが上手くまとまらない日があってね」

「ちなみにだが、あとどれ位で?」

「三日あればキミに産まれたてのベイビーを抱かせてあげるよ」

「わかった。『歌姫』に任せるよ」

 もう少し休憩しよう。そう言って彼は二本目の煙草に火を着けた。吐き出された紫煙がシャンデリアの光に掻き消された。

「ねえ、もしかして急いでる?」

 ボクがそう訊いても、彼は黙って煙草を吸うだけだった。ボクは諦めてコーヒーを啜った。

「なあ、キミに夢はあるか?」

 彼が二本目の煙草を消したとき、ボクはそう訪ねてみた。

「あるさ。もうすぐ叶う」

「そうなのか?」

 ボクは首を傾げた。

「ああ。『歌姫』が叶えてくれる」

 

 六日目が終わろうとしていた。ビーチに行けるのもこれで最後だった。ボクはすっかり覚えてしまったビーチへの最短距離を、正確な時間をかけて歩いた。それが少女に出会うための儀式のようなもだった。

 その日、ビーチには人がいた。このビーチで少女以外の人を見るのは初めてのことだった。二組のカップルが、雨で綺麗に均された砂浜を無神経に歩き回っていた。その中で少女は同じ場所に立っていて、少しだけ居心地悪そうに何度か辺りを見回していた。お気に入りの絵を破かれた気分だった。

 カップル達の視線が外れるのを見計らって、ボクは足早に少女へ近づいた。少女はボクを見てニット帽を撫でた。

「少しうるさいね」

「仕方ないさ」

 それだけ言葉を交わし、ボク達は夕日を見た。陽は殆ど沈み、昼と夜の境目にはドス黒い雨雲が牛柄のように散らばっていた。

「そういえばまだ訊いてないね」

 突然少女はそう言った。ずっと別れの切り出し方を考えていたボクは予想していなかった質問に驚き、頭の中で積み立てていた言葉がばらばらと崩れた。

「あなたには夢はあるの?」

 少女はそう訊いて微笑んだ。

「教えて? ()()()()()()()

 一瞬、すべての音が消えた気がした。カップル達の笑い声や風の音が響き、振動で言葉がふるい落とされると、ボクはやっと自分の名が呼ばれたことに気がついた。

「何で知って──」

「わかってたよ。最初から全部。おねえさんがミア・テイラーだってことも。今日で会えるのが最後だってことも。おねえさんが私の為だけに歌えないことも」

 もう波の音しか聞こえなかった。胡散臭く愛を囁く言葉も砂を踏み荒らす音も、黄昏も、全てが遠くなり深海へ消えてしまったようだった。

 いつの間にか膝をついていたボクは、キャップとサングラスを捨てた。どれだけ視界がぼやけても、少女の鳶色の瞳から目を逸らすことができなかった。

 少女の頬を撫でる。ボクの手に少女はそっと手を重ねる。少女の手は冷たかった。けれど、少女の温もりは確かに伝わってきた。

「なにが、『歌姫』だよ」

 少女は何も言わなかった。

「こんな、小さなキミの夢ひとつ叶えてあげられなくて、何が『歌姫』だよ」

 ただゆっくりと頷いていた。

「赦してくれ。こんな、不自由なボクを」

 静かにボクを受け入れていた。

「夢ひとつ()()()()()()()ボクを、赦してくれ」

 新曲が完成したら、世に送り出す前に必ず聴かせに来る。だからこのビーチで待っていてくれ。そうボクは少女と約束した。彼女はただ黙って頷いた。その時少女が見せた悲しげな笑顔が、二度と復元できない硝子細工のようにボクの目に焼き付いていた。

 そしてカリフォルニアでの全日程を終え、ボクはニューヨークへと戻った。

 

 

 

 

☂️

 

 

 

 ニューヨークに戻ったその日、マネージャーから少女の訃報を聞いた。

 

 

 

☂️

 

 

 

 一体どこから整理したらいいかのわからない、散らかったデスクのようだった。何故マネージャーは彼女のことを知っていたのか。何故彼女はボクのことを知っていたのか。何故、彼女にあんなに惹かれたのか。

 そして何か忘れている気がした。もっと、もっと大切なことを忘れている。猛毒を持った蜂の針が体内に残るように、全身に不快な痺れが広がっていった。

 結局彼に依頼された新曲は完成しなかった。

 

 ニューヨークに戻った数日後、マネージャーから少女が埋葬された墓地の場所を聞いたボクは、マリーゴールドの花束を片手にひとりでその墓地へ向かった。雨の中、白い墓石が規則正しく立ち並ぶ墓地の中を歩いた。スニーカーには水が染みて、芝生から滲み出た泥が纏わりついた。

 少女の墓はすぐに見つかった。

 少女の墓の前で、ニューヨークに戻ってから音信不通となっていたMCが、泣き叫びながら蹲っていた。

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