ある夢を見る。
その夢の中でボクは確かに存在していて、けれどもその夢は虚像のようにまるで不確かなものである。音が聞こえ、匂いを感じ、手触りがあって、目はその曖昧な景色を捉えている。誰かが笑い、誰かが泣き、誰かがずっと音を奏でている。
それでも、その夢は不確かである。
その夢はアニメーションの原画のようだった。
セピア色の背景に浮かぶのは、色鉛筆で乱雑に塗られた色と無造作にひかれた黒い線。線は図形のように組み合わされたものもあれば、蛇のようなぐにゃぐにゃの一本線もある。本棚のように規則正しく並んでいる線もあれば、ある線は不規則な前後運動をしている。何かの役割を果たしているように見えたが、ボクにはそれが何なのか見当もつかなかった。
上を見る。そこが上なのか下なのか、はたまた正面なのか。それさえボクにはわからなかった。ただ便宜上向いた方向を上とするなら、頭上は赤だった。そして眼前にはマジック・アワーの空のような、深い青の上に重ねて塗られたオレンジ色が見えた。
ボクはそこに座り、遠くに存在しているぽっかり空いた穴を見つめている。それは手を伸ばせば掴めそうな気もするし、誰も辿り着けない場所にあるのかもしれない。光源たる太陽か、月か──距離感がわからない。何もわからない。曖昧すぎる。
さらに感覚を研ぎ澄ませる。
柔らかな感触と冷たい空気。風が吹くと地面から粒子のような小さな粒が舞い上がり、溶けるように散って消えた。
「海」と試しにボクは言ってみた。
それによって蒸発した水分が雲になるように明確なイメージが完成する。いずれも子供の落書きのようなのに、これは海でどこかの景色だという認識を突然ボクに与えた。
イメージを広げる。
どこかの街。ボクは波打ち際に座り陽を眺めている。きっとあの穴は夕日だ。ボクを照らす熱線が、まるでどこかへ行けと無理やり突き飛ばされるような朝のそれとは違う。
イメージが組みあがってゆくにつれてボクは激しい既視感に襲われた。自分の描いた漫画が知らない誰かの手によって、許可なく映像化されたような気持ち悪さが続いていた。
でも何かが違う。それが何なのかわからないのに、耳元で囁かれるように違うと誰かが言っている。
音に集中する。波の音……音?
波の音に混ざって何かが聞こえてくる。
それは安っぽい木琴とも鉄琴とも言い難い──オルゴールが近いかもしれない。そんな音がボクの隣から聞こえてくる。一音、間を空けてまた一音。不規則で無作為な音がただ鳴り響いている。
音がする方を見ると、そこには兎が居た。
黒い兎だった。
音の出処は小さなトイピアノだった。黒い兎が鍵盤を撫でている。そして適当な所で動きを止め、一音。それを繰り返している。それを片手──右の前脚だけで繰り返している。ボクにはそれが何かの確認行為のようにも見えた。
「やあ」と兎は言う。「待っていたよ」と続けて言う。
待っていた? ボクを?
「そうだ。おまえがここに来るのをずっと待っていた」
一音。音が響く。そうだ。これはボクの夢だ。ボクの中だ。何を思っても筒抜けなんだ。だったら、とボクの口がやっと開く。
「ここはどこ?」
「さあね。知らない。おれは目が見えないからな」
盲目の兎。盲目兎。
「でもおまえはここを知っている。おまえはここを求めている」
「求めている?」
ボクがそう言うと、盲目兎はゆっくりボクの方を向く。やはり視線は合わず、硝子の向こう側を見ているようだった。
「そう。求めている。だからおれはピアノを弾いている」
一音。
「意味がわからない」
「おれにもわからんよ。でも、おまえが求めているからここがある。そしておれがいる」
「ボクがその音を求めている?」
「そう」
「ボクがこの景色を求めている?」
「そう」
ボクは首を振る。「やっぱり思い出せない」
一音。
「わからなければ歌え。思い出せないなら歌を求め続けろ。いいか? 歌うんだ。場所も立場も関係ない。たとえ観客がいなくても、絶対に歌を絶やしちゃいけない。歌い続けている限り、必ず歌はおまえが求めた場所へ運び続けてくれる。おまえが求めた場所へ辿り着くまで、おれもピアノを鳴らし続ける」
一音。頭の中で反響する。痛みだ。酷く頭が痛い。
「もう、いい」
「なあ、おまえは『歌姫』なんだろう?」
「うるさい」
「おまえは何故、『歌姫』になったんだ?」
「やめ、て、くれ──」
いつもここで夢は途切れる。
こんな夢をボクは毎晩見る。
『ミア、今どこにいる?』
雨音と強烈な風が織り交ざった轟音にかき消されそうなマネージャーのか細い声は、電話越しに確かに人の名前を呼んでいた。それがボクの名前だということに気がつくまで少しの時間を要した。自分の名前がまるで豪雨で風化して読み取れなくなった、銅像のネーム・プレートに書かれている文字のようだった。
『さあね。知らない』
ボクは素っ気なくそう返した。
何故なら本当に知らないからだ──勿論この街のことだーー見覚えなんてあるわけがないし、地名すら聞いたことがなかった。ボクはさほど日本に詳しいわけではない。お台場周辺以外、鎌倉に何度か足を運んだことがあるだけだ。
ボクは流されるままこの街に辿り着いた。つい三十分程前にいた横浜に比べ、ビルは半分ほどの高さで乱立していた。駅前特有の四方八方に伸びた道路が、レースのカーテンのようになびく暴風雨によって隠され、道の先が見えない迷路のようになっていた。そもそも道なんて本当にあるのかさえわからなかった。
この街はボクを受け入れていない。ごうごうと絶え間なく吹き荒ぶ風がボクを拒絶している。なんとなくだがボクはそう思っていた。たとえどこかで野垂死ぬ運命だったとしても、この街はただの経由地にすぎなかった。
濡れるのにうんざりしていたボクは迷路から逃げ出し、雨から逃げ惑う野良猫のようにビル陰に隠れていた。とにかく雨と人目から逃れたかった。もっともこんな雨の中出歩いている人は、日曜日なのにスーツを着て、重たいものを引きずるように歩いている人達だけだったが。
『迷ったのかい?』
マネージャー、ダニーは深刻そうな声で訊いた。
『そうだね。ずっと迷ってるよ』
『じゃあそこにいてくれ。すぐ迎えに行く。位置情報を送ってくれ』
『悪いけど』ボクは続けた。『戻らない』
ボクがそう言うと彼は黙った。きっと五秒黙る。それが彼の考えて発言する時の癖だった。
通話に少しだけノイズが混ざる。
風の音が大きくなった気がする。
すぐ近くからがさりと音がする。
ボクの前髪が濡れて垂れ下がる。
彼の溜息が通話に意識を引いた。
『冗談ならやめてくれ』
彼は疲れきった震え声でそう答えた。
『ボクが冗談を言うときなんてあったか?』
『自分の立場がわからない君じゃないだろう』
少しだけ彼は声のトーンを上げて言った。
『君らしくない』
『ボクらしさって何だよ。キミだって知らないだろう?』
風の音が一層強くなった。この風はボクの邪魔ばかりする。
『君が不安定だったことは知っている』
ボクは黙って聞いていた。
『無理させてしまったのは本当に申し訳なく思っている……キミの異常が発覚したのはツアーの直前だったからね』
『いいんだ。気にしてなんてないさ』
『でもこのツアーが終わったあと、休養を取って、治療を受けられる手筈も整っていたんだ』
ボクは治療という言葉が妙に引っかかった。
『僕にできることならなんだって協力したさ』
『……ダニー』
『なのにまた君は一人で抱えてどっかへ行こうとする。昔からそうだ。どうして一人で無茶をしたがる』
『ダニー』
『どうして僕達を頼ってくれないんだ!』
『ダニエル!』ビルの隙間で叫んだボクの声は風の音で消えた。『ねえ、聞いて』
五秒以上待った。彼は何も言わなかった。
『きっと他人にはどうしようもできないんだ。治療とか、薬とか、カウンセラーでも……なんとなくだけど……』
上手く説明できない。ボクがそう言うと『直感かい?』と彼は言った。
『予感、かもしれない。でもこれはボク自身の問題なんだ』
きっと盲目兎の問いに答えられないボクのせいなんだ。
どこかから飛んできた新聞紙が目の前を通り過ぎていった。風に殴られながら飛んでいた新聞紙は、奇跡的にビルの壁から生えていた雨樋に引っかかったが、狂ったように降り続ける豪雨で溶かされていった。
『ねえ、頼っていいならひとつだけ頼みがあるんだ』
『なんでも言ってくれ』
『ボクを放っておいてほしい』
風音が聴覚を支配する。
急に風向きが変わった。
雨がボクにぶつかった。
全身ずぶ濡れになった。
新聞紙に同情していた。
『戻って来ると約束してくれるかい、ミア?』
『約束する。絶対だ』
『何かあったら許さない』
『心配ないよ。ボクは『歌姫』だ』
『……メディアへの対応くらいは任せてくれ』
『それじゃあ』それきり彼は喋らなくなった。彼が電話を切る合図だった。
彼は電話を切る時も五秒待ってから切る。
一。
二。
三。
四。
『ねえ、ダニー』
ボクの口は勝手に動いていた。彼が反応するまでの間、必死で話すことを考えた。
『どうしたんだい?』彼は思いのほか間を開けて反応した。
『その、キミには本当に感謝しているんだ。キミがマネージャーになってくれなかったらと思うと──』
『よしてくれ』ダニーは笑いながら言った。
『本当によしてくれ。まるで一生のお別れみたいじゃないか』
『ちゃんと謝りたいんだ。キミと、キミの……パートナーにも。ボクはとんでもないことをしてしまった』
『気に病むことはない』彼は続けた。『彼女はわかってくれたよ。僕の仕事のことも、君のこともね。そして僕も、君のことは十分理解しているつもりだ』
ボクは何も言えなかった。
『その話はとっておこう。また会えるんだろう? 次にまた会えた時、幾らでも聞くよ』
ダニー。ボクはその名を呼んだ。その続きが出てこなかった。
『次にこうして話せるときは、お互い裸じゃなきゃいいね』
『よしてくれ』
ボクは溜息をついた。
それだけ言って通話は終わった。
読み終えた本のようにスマホを眺めると──あれだけ啖呵を切ったのに──赤いバッテリーが目についた。ボクには時間がなかった。いろんな意味でだ。でも目の前に広がる暗闇を見つめていると、時間なんて無限にあるのではないかと勘違いしそうになった。目の前にある時間は正しい時間ではないのだ。ボクは自分にそう言い聞かせ、手早く鎌倉へ行く方法を調べた。数分後にこの街を出立する電車があった。江ノ電。名前くらいは聞いたことがある。立ち止る時間など誰も与えてくれない。ボクはそんなことばかり考えていた。
ボクはノースリーブ・パーカーのフードを深くかぶり、豪雨をかき分けながら暗い迷路を進んだ。殴りつける雨は晒していた腕や脚を叩き、服は水をあっという間に吸い込んで重くなった。
駅構内へ逃げ込むと丁度発車のアナウンスが流れた。急いで電車の中へ滑り込むと肩を濡らした乗客が数人、床に着いた泥を見つめていた。まるで昔い映画のワンシーンのように遠い故郷への想いが、見知らぬ景色に目まぐるしく上書きされる悲しい旅人の気分だった。
雨粒がついた眼鏡のレンズを裾で拭いていると、面倒くさそうに電車は発進した。車体は風によって必要以上に揺れ、不安になる軋んだ音をあちこちから上げていた。
ボクは先頭から一番遠い場所に陣取り、しつこく曇る眼鏡を十分に拭いたあと外を眺めた。二枚の硝子を隔てて見るどす黒い世界は酷く曲がって見えた。ピントを車窓に合わせると、そこには今まで迷惑をかけてしまった人達。これから多大な迷惑をかけてしまう人達のシルエットが、外から差す光で浮かんでは消えてを繰り返していた。そこに警報機の赤く強い光が一瞬だけ差し込むと、そのシルエットは消えボクの姿だけが車窓に映る。ボクの姿だけが不安定な灰色のシルエットに見えた。
自分の顔を最後に見たのはいつだっただろう。
そこまで考えると、ボクは盛大にくしゃみをした。体中の関節が数ミリずれたような気がした。
やめよう。とボクは思った。ボクにはすべきことがある。
ボクは座席の陰に隠れるようにしゃがんだ。リュックを抱き込み、そして電車の揺れに身を任せ思考を闇に放り投げた。
その夢は一寸たりとも微動だにしない。ボクが意識を手放してから数秒、その夢は録画したドラマのようにボクの中に現れる。再生されると言った方がいいのかもしれない。耳からは波の音と鬱陶しいピアノの音が入り込み、海の生き物が生きていた証がほのかに香り、肌は冷たい海風を感じさせた。ボクは夢の中で殆ど正常に存在している。異常なのは視覚だけだ。
この夢を見始めてから随分目が悪くなった。おかげで砂浜はモザイクにしか見えず、失敗したラテ・アートのように線が夕日の色と混ざっていた。
その中でボクは相も変わらず砂浜に腰を下ろしている。この夢の存在は必ず決まった役を延々と繰り返す。黙って座っている。それがボクの配役だった。少なくともこの時までは。
どうやら電車で気を失ったようだ。ボクは考える。そういえばこの夢はもう何年見続けていたっけ?
そうだ、考える。そして気づく。ボクは考えられることに気づく。
随分長く忘れていたがこれはボクの夢なのだ。明晰夢のような──少し違う気がするが──ものだ。この夢で感じたことは現実に返ってくるがコントロールできない。それがボクの見ている夢だ。
そうだ。コントロールだ。ボクは顔を上げる。
目に映るのは渦を巻いた夕焼け。
ボクはこの夢のコントロールを考えていなかった。
ボクは今までこの夢に耐え、無視を決め込んでいた。ある時ボクは夢を見る原因は気の持ちようだと言った。古臭い根性論だ。しかしある人はこれを精神疾患のひとつだと言った。どうやらボクは健常者扱いされていないらしい。
コーヒーにミルクを注ぐように少しずつ自分を取り戻す。
ボクはまともに考えられているじゃないか!
『歌姫』を一時的に放り投げたことで考える余裕ができたのだろう。火照る体で海風を感じながらボクはそう思った。
「言われたろう? おまえは抱え込みすぎなんだ。重すぎる船は浮かばないよ」
盲目兎はそう言った。
「もっと身軽になるべきだ」
「ボクが身軽になると誰が幸せになる?」
盲目兎はうんざりしたように一音、トイ・ピアノを鳴らした。これは良い徴候なのかもしれない。
「良い徴候でもあるし、悪い証明でもある」
「変化を求めることがか?」
「それは良い傾向だよ。変化を怖がっちゃいけない。人は年を重ねる度に変化を受け入れられなくなるからね」
「万人に言えることじゃない」
「大抵はそうなのさ」
一音。
「じゃあ一体ボクの何が悪いのさ」
「おまえは何も変わっちゃいない」
いつ頃からだっただろうか。ボクは目が悪くなっていることに気づいた。
スマホの細かい文字やパソコンの画面に映るものが、何重にも重ねられている割れたガラス越しに見た黒い鳥のようになっていた。ボクは色んな家具の角に足をぶつけながら自室の窓を開け放ち、ニューヨーク・シティを見下ろしてみた。車も人も何もかも怯えたダンゴムシのように転がっているように見えた。
ボクはダニーに勧められた眼科へ行き──と言うか無理やり行かせられた──ありとあらゆる目に関係した検査を一日かけて行った。「ミア・テイラーの眼球」にどれ程の希少価値があったのか知らないが、とにかく徹底的に検査をされた。終わる頃にはホルマリンに詰められた自分の眼球のことしか考えられなくなっていた。
一週間後、ボクはサイズの合わない不格好な眼鏡をかけてもう一度その眼科へと赴いた。「テレビを見るときは部屋を明るくして離れて観ましょう」。眼鏡屋に提出する診断書にはこの言葉が添えられた。
わからないことや不安があったら何でも聞いて。検査を担当した五十代くらいの女医はボクに向かってそう言った。会話の九割がボク宛てのラブ・コールだった女医から、初めて聞いた医者らしい言葉だった。
「コンタクトは嫌だ」
「ミア・テイラーの為にもコンタクトにすることを勧めるわ」
「目が見えなくなることで、その、何かもっと他のものが見えなくなる時ってある? そう、例えば……過去とかさあ」
「それは私の仕事じゃないわ」
ボクは眼科の玄関に置かれていた看板を蹴り飛ばしながら帰った。
「潮の満ち引きみたいなものだ。わかるかい?」
一音。ボクは首を振った。
「人の中にはね、いつも波があるんだ。それはさざ波のように小さく静かでもあり、津波のように大きく恐ろしいものでもある」
「波?」
「そう。波だ」
ボクはじっと考え込むふりをして景色を眺めた。ぼやけた線は本物の海のように前後に動き波打っていた。そしてボクは「波」と小さな声で繰り返した。
「小さい波は大丈夫なんだ。でも大きな波は駄目だ。すべて攫ってしまうんだ。時間が巻き戻らないようにね」
ボクは溜息をついた。一音。それはまだボクが話すターンではないと教えるような音だった。ボクは開きかけた口を閉じた。
「でも、おまえはまだ間に合う」
「間に合う?」ボクはもう一度繰り返した。
「そうだ。波はまだ来ていない」
盲目兎は優しく鍵盤を撫でた。図書館の本棚に収まっている本の背表紙を懐かしむように撫でるような手つきだった。
「歌はまだ続いている」
一音。どうやら目的の本は見つかったようだった。
「ボクは歌から逃げたんだぞ。キミの忠告を無視して歌を絶やしたんだ」
「言っただろう、歌はまだ止まっちゃいないって」一音。「物語は始まったばかりだ」
「おまえが歌うことを止めても、おまえが波にさらわれないよう誰かが歌い続けている。おまえの為に歌い続けている。だから今、おまえのすべきことは何もかわっちゃいない。おまえが深海へ引きずり込まれないよう食い止めているその歌を、絶やさなければいい」
一音。歌い続けろ、と盲目兎は言った。鳴らされ続けている壊れたベルのような音が耳障りになっていた。
「誰かって、誰だよ」
「さあね。おれは目が見えない」
ボクは溜息をついた。
それからしばらくの間、ボクと盲目兎の間に会話はなかった。波の音がして、たまにトイ・ピアノの音が鳴り響いていた。耳障りな音のはずなのに、その静かな時間は不思議とボクを穏やかな気持ちにさせた。随分長くこの夢を見てきたがこんな気分になったのは初めてのことだった。
「さあ、そろそろ日が沈む。起きる時間だ」
盲目兎はそう言って、今まで鳴らしていた音をもう一度繰り返して鳴らした。間隔を開けず鳴らされたその音は不思議と曲のように聞こえてきた。短い演奏会が終わるとボクは顔を上げてもう一度夕日を眺めた。さっきからまるで位置は変わっていなかった。
「忘れるな。求め続けろ。歌い続けろ」
耳鳴りがする。頭痛がする。これだけは変わらないんだな。ボクはそう思った。
「いつも胸に問い続けろ」
やがて景色を形成していた線がぼやけて太くなり、解け、視界を黒く染め上げた。平衡感覚が失われてゆく黒の中で、盲目兎の声とトイ・ピアノの音だけが反響していた。
「おまえはなぜ、『歌姫』になった?」
その黒はまるで深海のようだった。
『──当列車は──台風──駅に、停車しており──』
ロボットのようなアナウンスで目を覚ました。酷い寒気で一度身震いすると、急発進した車のように思考が回りだした。
いつまでたってもぼやけた視界が回復せず、眼鏡を触ってみると外側のレンズが曇っていた。ボクは舌打ちをしながら念入りにレンズを拭き、回復した視界で辺りを見回した。いつの間にか電車の揺れは止まっていて乗客はボク一人だけだった。
現在地をスマホで確認しようとするとスマホの画面はいつまで経っても反応しなかった。ボクは役立たずになった板切れをリュックに突っ込み、ホテルでも探そうと電車を降りた。
電車を降り辺りを見回すとそこは想像していた鎌倉の町とはかけ離れた姿をしていた。そもそも本当に鎌倉なのかと疑った。
駅のホームなんてものはなく──勝手なボクの想像上の話だが──土手にちょっと立派な駐輪場を設け、川の代わりに線路が走っているような場所だった。駅員さえいなかった。寂れた田舎町。しかもさっきまでいた街より酷い。それが正直な感想だった。
暴風雨のせいで駅構内の照明はどこも照らさず、ただそこで光っているだけだった。その明りを辿り狭くて小さい改札口を出ると、辺りはさらに暗くなった。左を向くと踏切があり、線路が境界線のように敷かれていた。右を見ると、底の見えない穴のような暗い道がひたすらまっすぐ続いていた。吸い込まれるのではないかと思ったボクは逃げる様に線路を渡った。
「おい」
渡り切った直後のことだった。その声は周囲の轟音の中で狙撃手のようにボクを捉えていた。どこから聞こえたのかわからず左右に首を振っていると、もう一度おいと右側から聞こえてきた。
その声の主はレンガ調の外壁が貼られたアパートの、テナントらしき店先にある小綺麗なバルコニーに座っていた。声の主は老人だった。
その老人は雨に濡れるのも厭わずバルコニーに腰掛けていた。杖を立てて押さえつけていたその腕は小刻みに震えていて、ボクが進もうとしていた道の先を見ていた。そして老人の足元には九フィートほどありそうな傷だらけのサーフ・ボードが置かれていて、強い風が吹くたびにバタバタと音を鳴らして揺れていた。
「おめぇだよ小娘」と老人は言った。
どうやらボクに話しかけているのは間違いないようだった。
「死にたくなきゃさっさと家に帰んな」
老人はぶっきらぼうにそう言った。掠れた声で、やけに舌足らずな喋り方だった。
「心配してくれるならホテルの場所を教えてほしいんだけど」
「んなもんこの町にねぇよ」
ボクは久しく腹が立つのを覚えた。老人を睨むだけ睨み、これ以上何も言わない役立たずだと判断したボクはその場を離れようとした。
「この先の海岸通り沿いに貸別荘ならある。泊めてくれるかは知らねぇ」
この少ない会話でボクの頭の中には数々の罵倒が浮かんできたが、ボクはそのすべてを我慢し
「気ぃつけな。こんな夜には、『ジェーン』がくるかもしれねぇ」
『ジェーン』。その言葉にボクは一瞬気を取られた。誰かの名前か。それとも名無しか。心当たりなんて勿論なかったボクは、すぐに考えるのをやめた。
「ボクはシスターじゃない。懺悔なら教会でやってくれ」
それだけ言ってボクは立ち去った。老人は何も言わなかった。老人は一度もボクと目を合わせず、すっと海の方を睨み続けていた。
何度か路地を曲がりながら進むと、老人が言った海岸通りにはすぐに出た。目の前にはマップ・データが壊れたゲームのように、一面の黒が広がっていた。
信号機の赤いランプだけが帰る場所を失った魂のようにふたつ、ぽつんと浮かんでいた。稲妻が遠くで走ると信号機の光と重なり、光る龍の目のように見えた。
波が岸壁にぶつかった衝撃で小さな揺れが起こっていた。轟音と同時に勢いよく水柱が上がり、未だに弱まらない雨と混ざり合った海水の飛沫がボクに降りかかった。予想よりも遥かに海は荒れていた。
その波から必死に逃げてきたであろう一台の車が、左から右へボクの目の前を通過した。風に煽られながら走る様は、銭形に追いかけられているフィアット500を駆るルパン三世のようだった。
その車のヘッドライトがボクの目の前を照らした瞬間、その明りは道路を挟んだ目の前に人影を映した。一瞬のことだった。気のせいかとも思ったが、暗闇に目が慣れてくると確かにそこには人影があった。その人影はこれ以上進めないはずの暗闇の方を向いて立っていた。
人がいる。それもこんな荒れた夜にだ。
その事実を確かに認知する頃には、ボクの体に異変が起こっていた。背筋を撫でられているような身震いが止まらない。腕を撫でると錆びた鉄のように冷たく、鳥肌が立っていた。
まさかな。とボクは思った。
「まさかな」今度は口に出してそう言ってみた。まるで誰かに話しかけているようだった。ボクの独り言にその人影が反応してくれたらどれ程よかっただろう。
そんな妄想もむなしく、人影は暗闇へ吸い込まれていく。全身の感覚が鋭く、肌を切り裂くナイフのような痛みが風と共にボクを襲った。打ち付ける雨でさえ痛いほどだった。
「冗談だよね?」
また一歩、波へ向かって進む。嫌な予感だけがボクの中でただひたすらに加速を続ける。
「ねえ、待ってよ」
ふと、ボクは人影の奥へ視線を移した。
そこには壁があった。高い壁。それが信じられない高さの津波だと気づくのにボクはしばらく時間がかかった。まるでコミックのようだった。それは世界の全てを順番に飲み込んで、次はボク達を飲み込もうとしているような津波だった。
ボクは目の前の景色が何ひとつ信じられなかった。現実とは思えない。津波も、目の前にいる人がこれから何をしようとしているのかも。それなのにビリビリと体に伝わる危険信号のようなものだけはリアルな感覚だった。
「ちょっと待ってよ嘘だよね」
逃げなきゃマズイ。ボクも巻き込まれる。でも足が動かない。
動かないと思い込んでいた。でも違う。動いている。逃げようというボクの意に反して勝手に動いていた。
赤信号を無視して道路を渡る。
壁に向かって突き進んでいる?
ボクは知らぬ間に息を上げ、その人影に向かって走っていた。
ボクは何をしている?
呑まれたらどうする?
残してしまう人達は?
『歌姫』はどうなる?
何か忘れていないか?
様々な感情や人達が頭をよぎっては通り過ぎていく。今思い返せばそれは割とあっさりした走馬灯だった気がした。
走りながら沢山のことを考えすぎた。その間四秒。そして五秒目──。
「ふざ、けんなァァァ!!」
六秒目のボクは木の枝と勘違いしそうな細い腕を掴んでいて、やたら軽いその人影を引きずりながら来た道を全力で戻っていた。どぶんという波がアスファルトにぶつかる音が真後ろで聞こえた時には、ついさっき通ってきた路地の中まで逃げ込むことに成功していた。
勿論、思わず助けてしまったこの馬鹿も。
ずっと感じていたソナーのような危険信号みたいなものが収束していくと、代わりに腹の底からぐらぐらと煮えたぎるものが一気に昇る感覚がした。一体見ず知らずの人に何を怒っているのかわからなかったが、とにかく腹を立てた。許せない。ボクがそう思う理由も権利も無いのに、ハイになって考えられなくなっていた。
「お前な! せめてそういうのは人目のない──」
人目のない所だと許されるのか? 出任せで発した激情に対しての疑問が一瞬頭に浮かんだ瞬間、ぶつんと頭の中で何かが切れる音がした。体が揺れる。波のせいで辺り一帯揺れているのかと思った。
違う。そう思った時には世界がぐるりと反転し、さっきの津波のような壁──地面が波打ってボクに迫っていた。
揺れているのはボクだった。
「おまえ、さ、あ」
突然足の感覚がなくなった。膝から崩れ落ちても痛くもなんともなかった。
「あ、れ⋯⋯なん、で──」
地面を流れる雨を感じる。酷く冷たい。
「ミアちゃん?」
そして遠い昔に聞いた気がする懐かしい声を最後にボクの意識は途切れた。
こうして振り返っていると、実にばからしくフィクションのような夏だったと思う。
でも確かにその記憶はボクの中にあり、歳を重ね時間が過ぎ去っていく度に波によって浸食されていく。その浸食は今でも止まらず、ボクの中を荒らしまわっている。
だから今、ボクはこうして残している。今のボクが最も信用できる言葉という方法で。
これから記すのは本当にボクが体験したことであり、紛れもないミア・テイラーの記憶だ。
信じてほしいなんて思ってないし、誰かの胸を打つような願いも込めない。
これはボクがボク自身に向けて残すものであり、幾年ぶりにその夏を思い出して、ありのままを書き記すただの日記だ。
しかし願わくば、この記録が少なくともボクが肉体的な死を遂げるまで永遠であることを、ボクは唯一望んでいる。