アイム・ユア・シンガー   作:ゆーすけ・ぼんど

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ミアの海岸物語

 

 

 誰かが呼んでいる。誰だ。

「熱い」

 老人は言った。「ジェーンが来る」

「いらない。水が飲みたい」

 ボクは、誰だ? 

「ねえ、どうして?」誰かが言う。

「ボクが悪いんだ。ボクが……」

 誰かが立っている。

「ボクを、殺して」

「だめだよ、おねえさん」

 盲目兎が振り返る。大きな口をあけて──。

「ねえ、ミアちゃんの夢ってなに?」 

 

 

 プツリとイメージが切れた。

 

 

 

 

☂️

 

 

 

 

「臭っ」

 自分の体臭で目覚める人なんて、一体この世にどれ程いるのだろうか。意識を獲得した直後にこんな冷静で馬鹿げたことを考えているくらい、ボクは無事でまともなのだろうと思った。

 ボクは光で痛む目をなんとかこじ開けた。知らない天井だった。どこかで聞いたことがあったような気がしなくもないが、端的に説明するならこれが一番手っ取り早かった。

 そう、ボクは知らない天井を見上げている。

 大抵の人は混乱して飛び上がるのだろうか、とボクは思った。何せ最後の記憶は冷たいアスファルトの上に突っ込んだシーンなのだ。つまり天井がある場所に勝手に移動するはずがない。同じ状況に放り込まれた人がいるのなら、冷静さで競ってみたいものだった。

 まだぼうっとしているが頭の回転は上々だった。おそらく自分から発せられた臭いが、ボクをやたら冷静にさせていた。

 頭が回るならと、ボクはピンぼけした視界で最低限の情報収集を始めた。

 まず、ボクは知らない部屋にいる。

 部屋の細部は全く捉えられないが、熱い太陽の熱線が注ぎ込まれている。蜂が飛ぶような音を出しながら回る扇風機が、ボクがいる部屋にぬるい風を絶えず送り込んでいた。その風が熱線の温度を辛うじて中和し、煽られた風鈴がやる気のない音を鳴らしていた。蝉の大合唱に負けて、殆ど部屋の音はかき消されていたが。

 なんとか首を動かし近場を見渡すと、枕元に充電されているボクのスマホが置かれていた。その隣には空のペットボトルと市販の薬らしきもの。薬を見て脳裏を過ぎったのはあの日、ボクの記憶がプツリと途切れた荒れた夜。おそらく熱でも上げていたのであろう。そんな予兆はあった。

 誘拐? 

 ボクはそう思ったが、考え直した。誘拐にしては対応が手厚すぎる。体から異臭を放つまで汗をかいたはずなのに、着ていたTシャツは──下着はなかった──洗いたての芳香剤の香りがした。掛かっていたタオルケットからも、天日干ししたばかりの暖かい太陽の香りがした。

 親切すぎる。それとも最近の誘拐犯のトレンドは人質に最上級のもてなしをすることなのだろうか。実に日本らしい、とボクは思った。

 布団の中でもぞもぞと体を動かすと、怠さは感じたが動けない程ではなかった。ボクは鉛のような体をなんとか起こし、布団からはい出た。動き始めると不規則に揺れる振り子のように頭が揺れた。それと同時にじわじわと頭に血が上り、血圧が正常値に近づくのを感じた。眼鏡を探すために手当たり次第に手を伸ばしていると、詳細な環境音がボクの優秀な耳に向かって集音器のように集まりだした。

 最初に聞こえたのは水を流す音。扉が開き、閉まり、ひたひたと素足で移動する音。今度は冷蔵庫の音。素早く開閉されたあと、ビニールみたいなものを割く音がした。そして再度足音が迫る。

 間違いなく生活音だった。病み上がりのボクに心拍数の上昇は少々辛かった。心臓が強く打つ度、頭も痛んだ。

 ボクは身近にあった物で身構えようとしたが、ぼやけた視界では武器らしい武器が見つけられなかった。溜息をついたボクは諦め、無抵抗の意志を示すためもう一度布団の上に寝転んだ。

「ふえ?」

 ボクは声の方向を向いた。やはりこの視界では誰が何をしているのか、詳しく捉えられなかった。

 しかしその敵意のない間抜けた声は、タイムカプセルを掘り当てるかのようにボクの脳内で記憶の掘削作業を始めた。

 あの夜、ボクは懐かしい声を聞いた。それは間違いではなかった。

「みあひゃん?! おひはの?! はらだはらいひょうふ?!」

 肺活量検査のホースを咥えているような喋り方に、ボクは少し戸惑った。宇宙人にでも誘拐されたのだろうか。

「⋯⋯ねえ、眼鏡はどこ」

 ボクは起き上がって、試しにそう言ってみた。ちゃんと人間なら伝わるはずだ、と思っていた。

 人影は阿波踊りのように慌てて動き出し、盛大に転んだ。落ち着きなよ。ボクがそう言うと人影は聴いたことのある笑い方をし、ボクに眼鏡を手渡した。

 ボクは眼鏡を掛け、ピントが合うまで何度か頭を振った。二回深呼吸をして、それから声の主を見た。

 やはり間違いなかった。

「……侑」

 侑。高咲侑。

 彼女がそこにいた。

「とりあえずそれ食べなよ」

 彼女はアイスを口に咥えたまま、犬のように大きく肯いた。

 実に感動的な再会だ、とボクは思った。

 そして実にボクは冷静だった。

 

 

 

 

 

 

 高咲侑のことを話そうとすると、いつも何から話せばいいのかわからなくなってしまう。今のボクは彼女に関することが溢れすぎて、話す順序が上手く組み立てられないのだ。

 逆に当時のボクは高咲侑のことについて、語れることが少なかった。有り体に言えば、彼女に関する記憶の大半が抜け落ちていた。

 それがあの時、高咲侑と十年ぶりに再会した『歌姫』だった。

 とりあえず思い出せる範囲で彼女の説明をするのなら、その十年前に遡ることになる。かつてボクがお台場にある虹ヶ咲学園にいた頃、彼女とボクは同じスクール・アイドル同好会に所属していた。彼女はマネージャーと作曲を兼任する同好会の一員だった。

 その高咲侑が今、目の前にいる。

 やはりボクは冷静なまま再度状況を整理した。

 当時の三年生の卒業と同時に、ボクは短期留学の期間を終えステイツへ帰った。だからといってその時限りの関係だった訳ではない。当分の間メッセージ・アプリでの交流はあった。しかし今となってはその関係さえ続いているのかわからなかった。ボクは彼女達との連絡手段をとある理由で失い、もう何年も経つ。侑どころか他のメンバーの安否すらわからないのだ。

 そういえば、連絡手段を失ってから一度ショウ・ランジュと再会したことがあった──懐かしい名だ──彼女もまたボク達と同時に短期留学を終え、地元の香港へ帰ったはずだ。どんな理由ときっかけがあって彼女と再会したかは覚えてないし、どんな話をしたのかも曖昧だった。彼女は短期留学を終えてからも、かなりの頻度で同好会へ遊びに行っていたことを自慢していた気がする。その頃ボクの元には作曲の仕事が入るようになり、それとは別に『歌姫』の原型が既に出来上がっていた。多忙だったボクはそれ以来、卒業してからは一度も同好会のメンバーに会えたことはなかった。勿論、ランジュともそれきりだった。

 冷たいと言われ、記憶障害まで疑われそうだが、どうしようもなく紛れもない事実だった。

 まあ何が言いたいかというと、目の前でアイスを齧り、頭を抑えている侑がボクの記念すべき日本での再会者一号である。

 

 

 アイスを食べ終えた侑は知らない場所へ移された動物のように、そわそわと落ち着かない様子だった。ボクがあまりに冷静に考えすぎて、会話もろくに弾まなかった。一般女子なら金切声を上げながら聞いてもいない近況と体調の報告会を始めるのだろうが、あまり無意味なことに費やす体力はなかった。

「えっと……久しぶり?」と侑が訊いた。

「何で疑問形なんだよ」

 ボクがそう言うと侑は驚き、申し訳なさそうな顔をした。明らかにボクの顔色を窺っていた。

「何?」とボクは訊いてみた。

「えっと、具合、まだ悪い?」

「良くはない」

「そっか……ねえ、もしかして何か怒ってる?」

「考え事してるだけだよ」

「それ、伊達メガネじゃないんだ」

「ちょっと黙っててくれ」

 ごめん、侑はそう言って頷いた。

 視界が回復すると侑を含め部屋の詳細が取り込まれた。といっても部屋は殺風景なものだった。対面式キッチンを挟んだ向かい側には、デスク・トップ型のパソコン。その横にはカバーがかけられた電子ピアノがあった。部屋の隅に追いやられている卓袱台と、五段程のプラスチック製の箪笥。箪笥の上には貝殻が入っている瓶と、伏せられている写真立てが置かれていた。それ以外テレビやベッドすら置かれていない。不自然な程広々としている部屋は、自分が扱える道具だけを残しているように見えた。

「キミは」ボクは部屋の観察を終えたあと、ようやく口を開いた。「ここに住んでるのか?」

「そうだよ」

 侑は笑顔になって肯いた。そういえば表情がころころ変わる奴だった、とボクは思った。

 ボクは不自然な部屋に住む侑すら不自然に見えた。成長が止まっているかのように、十年前からその姿はまるで変わっていなかったのだ。

 デニムのショート・パンツに、丈が長く袖のないレースのシャツ・ワンピースというシンプルな格好。思い出せる範囲で変わっている点を挙げるなら、ツイン・テールを解き髪を下ろしていることと、左腕に肩から手首まで伸びた黒いサポーターが不自然に目立っていること。このふたつだった。

 部屋、侑。この場所だけが時代や環境といった流れから切り離され、取り残されているような気がした。

 情報集種に励んでいると、部屋の中に踏切の警報音が鳴り響いた。間を開けずに金属が擦れる嫌な音と、電車が伝える轟音が部屋の中で暴れ回った。

「江ノ電だよ。ここのすぐ隣に駅があるんだ」

 音に興味を惹かれていたボクを察してか、会話の切り出しに悩んでいた侑は説明してくれた。

 数分の停車後、ごとんごとんという音を出しながら江ノ電は離れていった。

「今日、何月何日?」

「え? 八月一日だけど」

 あの日は確か、七月三十日──どうやらボクは丸二日寝込んでいたようだった。

「キミがボクを運んでくれたのか?」

「そう、大変だったよ」

 侑はようやく緊張が解けてきたのか、ボクが知っているテンションで話し始めた。

「じゃあ、ボクが倒れた場所からあまり遠くへ移動していないんだな?」

「うん。海はすぐそこだよ」

 侑は肯いた。

 そしてボクが知りたい情報はもうひとつ。

「二日前、津波に飛び込もうとしてたのもキミなんだな?」

 侑の笑顔が消えていた。侑は微動だにせず、ずっとボクの目を見据えていた。

 

 

「なあ、答えろよ」

 ボクは半分脅すように訊ねた。

 しかし侑は黙ったままだった。一度何かを考えるように目線を逸らし、またボクの目を見て溜息をついた。

「気にしなくていいよ」

 侑は静かに続けた。

「ミアちゃんは気にしなくていいよ。もう済んだことだから」

 ボクは首を左右に振った。

「いいや無理だろ。納得できる説明を──」

「説明したところで」侑はボクの言葉を遮るように続けた。「ミアちゃんは理解してくれないよ」

 そう言って侑は笑った。無理やり笑っているような顔だった。

「これは私自身の問題なんだ」

 聞き覚えのあるセリフに、ボクは口をつぐんだ。

「そんなことより、なんでミアちゃんがここにいるかのほうが気になるんだけど」

 そんなこと? 

 それだけで話を切り上げようとした侑に、ボクは苛立って頭を搔いた。

「そんなことどうでもいいだろ?」

「いや、ミアちゃんのがここにいるほうが深刻な気がするんだけど」

「キミの命とボクの動向を天秤にかけないでくれ」

「私にとってはミアちゃんの方が大事なの」

 ボク達は暫く睨み合っていたが、ボクは先に諦めて首を振った。

「ボクが答えたら、キミも答えてくれるのか?」

「答えられることなら」

 ボクは溜息をついた。

「じゃあまずシャワーを浴びさせてくれ。臭くて仕方ない」

 ボクがそう言うと、侑はそうだと言いながら手を叩いた。

「いいところがあるんだ!」

 そう言うとボクの制止を無視した侑は、ぱたぱたと動きながらタオルや着替えをかき集めた。

 侑は最低限外を出歩けそうな服をボクに無理やり着させ帽子をかぶせると、バス・タオルと着替えが入ったバッグをボクに押付けた。その間ボクは太陽の高さを確認し、また駅構内に滑り込んできた江ノ電の車体から、吐き出された人の数を数えていた。

「待ってよ。ボクが今外に出るのはマズい」

「大丈夫だよ。今日平日だし」

「ていうかどこ行くのさ。泳ぎに行くわけじゃないよね」

 違うよ。侑はボクにマスクを手渡しながら答えた。

「いいところだよ」

 侑は悪戯っぽく笑っていた。

 

 

 

☂️

 

 

 

「ねえ、お湯が黒くて濁ってる」

「そういう泉質なんだよ」

「なんかヌメヌメしてるし」

「それだけ効能があるってことだよ」

 外に立っているよりもマシな温度のお湯に浸かりながら、ボクは思い通りに情報が得られないことにムッとしていた。

 ボクは侑に無理やり手を引かれ、何も聞かされぬまま外へ出た。丁度一日の中で一番暑い時間だった。西日が町全体を炙り、その光が家の外壁で照り返し、海風は熱風になっていた。

 人気のない路地裏を進むと大きな温泉施設の裏手にたどり着いた。そのすぐ横は海で、見覚えのある海岸通りがあった。道路は混みあっていて、コンプレッサーが唸る車の行列が苛立ちながらすれ違っていた。

 こそこそと建物に入るとボクはトイレに押し込まれた。渋々待っていると扉を開けた侑が手招きをし、ついて来いと促した。受付の前を通ると、侑は受付のおばさんと談笑し手を振りあった。受付にいたおばさんはボクに頭を下げた。

 侑はこの町に随分と馴染んでいるようだった。辺りを見回しながら不審に歩くボクの方が、今この小さな町で最も浮いてた。

 施設の二階にある浴場から見る景色は、ボクの視力と機嫌が悪くなければ絶景そのものだった。眼下に広がるサファイア色の海はワイキキ・ビーチに負けず劣らずの景色で、その上を小さな黒胡麻のようにサーファーが滑っていた。見える景色の左端には大きな切り立った岬があり、右端を見ると海岸沿いから伸びた蜃気楼に霞む小さな島が浮いていた。

「あれは、江ノ島?」

「そうだよ。湘南はすぐそこ」

 ボクはなにかが引っかかった。まるで取り残した魚の骨が喉に引っかかるように、忘れかけていた本来の目的がちくりと痛んだ。

「⋯⋯じゃあ、鎌倉は?」

「すぐ反対側にあるよ。江ノ電で二十分位だったかな」

「ええ?!」

 勢いよく立ち上がりながら叫んだボクの声は、無人の浴場内で綺麗に反響し、開け放たれた大きい窓から湯気と共に出ていった。ボクが目指していた鎌倉は目の前だった。自分の所在が明らかになり、どっと肩の力が抜けたボクはざぶんと湯船に沈んだ。

「鎌倉に行きたかったの?」

「……事情があるんだよ」

 ボクはなるべく包み隠さず言おうと情報を整理していると、それを聞いた侑は立ち上がった。

「長くなりそうだから、出よっか」

 一応心身共にさっぱりしたボクは、話すことを考えながら侑の後を追った。

 風呂に浸かっている間、もうひとつ侑の変化を見つけた。サポーターで隠されていた左腕に、肩から手首まで続く長い火傷の痕があった。

 

 

 

☂️

 

 

 

 侑はそのまま家に帰らず、ボクを海岸通り下の函渠まで連れてゆき、ここで待っていろと言いどこかへ行った。函渠には小川が流れていて、反対側は砂浜に繋がっていた。車が真上を通り過ぎる音と波の音が混ざり、ノイズのような音が函渠内に響いていた。波の音だけ聞き分ける暇つぶしをしていると、侑は冷たいフルーツ・ティーを持ってゆっくり歩いてきた。近くのカフェからテイク・アウトしてきたものだった。紫と黄色の二色が綺麗なグラデーションを作り出し、輪切りにされた薄いレモンが浮いていた。一口飲むとジャスミンの香りが口いっぱいに広がり、積もるばかりだったストレスがほんの少し和らいだ。

 侑はボクが飲んでいる姿を満足そうに見届けると、砂浜に向かって歩き出した。なにも説明されぬまま、ボクはまた侑を追いかけた。

 

 不自然に砂浜から浮き上がった石畳の橋を飛び越え、先程の温泉内から視界の左側に捉えた岬へと進んだ侑は、整備された階段をゆっくり登り始めた。何度か角を曲がりながら岬の頂上へ辿り着くと、そこには小さな東屋があり、中には備え付けのベンチがあった。日が傾き赤く染まり始めた江ノ島を眺められる位置に座った侑は、ぽんぽんと隣を叩いた。ボクはそれを無視し、向かい合うように座ると侑は少しだけムッとした。

「……髪、伸ばしたんだね」

 会話の切り出しを考えていると、侑は江ノ島よりもボクを眺めてそう言った。

「ロングも似合うよ。その、眼鏡もいいね」

 また関係無い話しが始まるのかと思ったボクは、毛先を弄りながら頷いただけだった。

「誤魔化さないで、正直に答えてくれよ」

 ボクがそう言うと侑は静かに笑った。

「答えられることならね」

 侑は釘を刺すようにもう一度言った。

「話の続きだけど、鎌倉に行こうとしていたのは知り合いの……カウンセラーがいるからなんだ。ライブが終わったあと、相談したいことがあって訪ねたかったんだ」

「かうんせらあ?」侑は不思議そうに首を傾げた。

「それはどうでもいいんだ」ボクがそう言うと、侑は何も考えずに肯いた。

「ボクのライブがあったのは知ってるかい?」ボクがそう訊くと侑は「勿論」と言った。

「でもおかしいよね。横浜でライブしてたのに、どうしてわざわざ遠回りして江ノ電に乗ってたの?」

「ボクのファンに追いかけられて、適当な電車に乗って逃げてたら、知らない街にいた。そこから江ノ電に乗った」

 侑は呆れながら苦笑いした。「それでここに……」

「ミアちゃんも凄いことするね。大胆というか、軽率というか」

 確かに、とボクは思った。もう少し上手くやれたはずだ。どれだけ正当化しながらあの夜を振り返ってみても、ボクの知名度を考えると誰が見たって軽率すぎる行動だった。

「風邪、だったんだよ」

 ボクは苦し紛れにそう答えた。これも正当化だ。

「危険すぎるよ」侑は言った。「まるで逃げたしてきたみたいだね」

 ボクはアイス・ティーを飲みながら少しばかり潮風を感じていた。プラスチック容器から、がらと音が聞こえてきた。

「まあ、そうなるね」

 ボクがそう言うと侑は目を見開いた。

「捨てたわけじゃないけど、逃げた。一時撤退ってやつさ」

 侑は黙ったままだった。

「とにかく一度、『歌姫』から遠ざかりたかった」

「嫌になったの?」

「嫌、ともちょっと違うんだ。夜行バスの運転と同じなんだ。霧に包まれたハイ・ウェイに乗って、ひたすらまっすぐ進む。景色も見えないし曲がり角もないけど、ずっと緊張していて……なんていうか……」

 わからない、とボクは言った。上手い言葉が見つからなかった。ボクは突然、盲目兎のことを思い出した。

「飽きた、わけじゃないんだよね?」

 ボクは肯いた。

「でも、なんで走ってるのかわからない」

 ボクはもう一度肯いた。

『お前は何故歌姫になった?』盲目兎にそう訊かれた気がした。

「ミアちゃんは、迷子なんだね」

「そうかもね」ボクは両手の指先をくっつけながら答えた。

「十年前にもボクは悩みを持ってた。あの時は璃奈に助けられた。でもあの時とはまるでなにかが違う。悩みのタネも、質も、大きさも」

「ミアちゃんを助けてくれる人はいないの?」

 ボクは首を振った。「わからない」

 ボク達は同時にドリンクを飲んだ。潮風と冷たいドリンクは火照った体を少しだけ冷ました。

「ねえ、覚えてる?」

 侑はどこかで聞いたことのある切り出し方で話し始めた。

「十年前、私達がまだ虹ヶ咲にいた頃に約束したこと」

「約束?」

 ボクは少し考えた。しかしどうしても思い出せなかった。小石を踏むように、不思議な違和感だけが残った。ボクが答えずにいると侑は段々悲しそうな顔になり、そっかと一言だけ零した。

「歩夢もこんな気分だったのかな」

「悪いけど、昔話に付き合っている暇はないんだ」

 侑はがくりと下を向いた。自分の両手を眺め、何度か握ったり開いたりを繰り返しながら黙ってしまった。

 ボク達はまともに会話を続けられず、交互にアイス・ティーを飲んで間を繋いだ。声がひぐらしにかき消されているのではないかと思う程静かだった。

「十年ぶりに再会する仲間との会話って、こんな雰囲気じゃないと思うんだけど」

 侑はアイス・ティーを飲み干して言った。

「ボクは真剣なんだ」

 そう言ってボク達はまた黙った。確かに言われた通りかもしれない。ボク達は再会のきっかけからして不自然すぎる。できることなら今すぐ逃げ出したい気分だった。

「迷惑なら帰るよ」

「どこに?」

「ステイツ」

「元々帰るつもりだった」侑は驚いた顔でボクを見つめた。

「本気でひとりで帰れると思ってるの?」

「なんとかするよ。その為に鎌倉に行こうとしたんだ」

「無理だよ。またどこかでバレて、騒ぎになっちゃうよ」

「じゃあどうしろっていうんだよ!」

 氷の音が鳴り響いた。侑は驚いた顔をしていた。

「すまない。怒鳴るつもりは──」

「ここに残ればいい!」

 侑は咄嗟に立ち上がり、ボクの声に負けない声で怒鳴り返した。一瞬ひぐらしの鳴き声が止まった気がした。

「ちょっと待ってよ無茶苦茶だ。なんでボクがここに残らなきゃいけないんだよ」

「逃げたいんでしょ、『歌姫』から。だったらもう少し賢く逃げればいい。もうちょっと周り見ようよ。危険を承知で鎌倉に寄ってアメリカに帰るのと、安全な私の部屋の中でじっくり考えるの、どっちがいい?」

「ボクにそんなことしてる時間は──」

「あるでしょ? 無計画で無茶するくらいなんだから」

 そう言って侑はスマホをいじり、SNSの画面をボクに見せた。トレンドはボクの名前と活動休止の話題に支配されていた。今更ボクが声明を出したところで手遅れだし、こうなってしまっては時間以外に解決する方法はなかった。すまない、とボクは心の中でダニーに謝った。

 時間はある。侑はそう言った。

「ねえ、悩みを解決する方法って刺激を貰ったり時間任せにする以外にも方法はあるんだよ」

 侑はプラスチック容器を振り、がらがらと氷を鳴らした。

「何でそう言い切れるんだよ。キミがボクの悩みの何を知ってるんだ?」

「だってそのふたつでどうしようもできなかったから、ミアちゃん逃げ出したんでしょ?」

 ボクは侑の顔から目を逸らした。手には汗が滲んでいた。

「そういう時人が頼れるのって、もうルーツしかないんだよ」

「ルーツ」ボクは繰り返して言った。

「ルーツを辿るしかないんだよ。今まで自分が残してきた足跡を、ひとつひとつ思い出して戻っていくの。一番確実だよ。ミアちゃんが探してる答えは、多分そのどこかにきっと落ちてる」

「なんでそう言い切れるんだよ」

「人は過去に縋らないと生きていけないから」

 侑はさも当たり前のようにボクに向かってそう言った。

 ボクが知っている彼女とはなにかがずれている気がした。彼女に対して持っていたイメージが間違っていたのか。それとも十年という時間が彼女を変えてしまったのかは定かではない。しかし今の発言が、どうにも彼女の口から出てきたのが信じられなかった。ずっとだ。ボクはここに来てからなにかのズレを感じ取っている。認識のズレ。考え方のズレ。新しい発見をする度にボクの中の彼女に亀裂が入ってゆく。

 過去に縋る? 

「責任逃れみたいだ」思わずボクの口からはそう零れていた。

「いいじゃん別に。逃げようよ。全部捨てて」

「おい、ボクもキミも大人なんだぞ。そんなベイビーみたいな真似できるか」

「あ、それ懐かしい。その調子だよミアちゃん」

「ちょっと黙っててくれ、ベイビーちゃん」

 ボクがそう言うと彼女は嬉しそうに黙った。

 ベイビーちゃん。ボクは昔、彼女のことをそう呼んでいた。確かに懐かしく、なんとなくしっくりくる呼び方だった。

「で? 責任逃れを偉そうに説くベイビーちゃんは、二日前にそれを実践しようとしたわけだ」

「あー、その話なっちゃう?」

 ベイビーちゃんはそう言って笑うと、東屋から出て近くの手摺りに寄りかかった。そして夕焼けに染まったずっと遠くの景色を眺めた。

「気になるのはわかるけど、もうその話は解決するからいいんだよ」

「解決?」ボクは意味がわからないといった風に首を傾げた。

「ミアちゃんが此処にいてくれるなら大丈夫ってこと」

「おいまて、ベイビーちゃんの都合のいいようにボクを誘導しただけじゃないか」

「でもミアちゃんにとっても都合はいいでしょ? ミアちゃんはゆっくり時間が確保できる隠れ家を手に入れた。もう騒ぎになるリスクを抱えなくていい」

「ウィン・ウィンだよ」ベイビーちゃんはそう言った。確かにそうだったが、すんなり納得できるわけがなかった。

「ミアちゃんはただ傍にいてくれるだけでいい。自分のことだけ考えてればいい。私が守ってあげるから」

 ベイビーちゃんは振り返って言った。

「ねえ、ここで一緒に暮らそう?」

 夕日に陰るベイビーちゃんの笑顔が、少しだけ引きつって見えた。

「逃げちゃおうよ、ミアちゃん?」

 嫌に湿ったぬるい夏風が、ボクの頭を撫でた。

「ボクを守る? キミが?」ボクは鼻を鳴らした。「どうやって?」

「昔のやり方をするだけ」

 ボクは溜息をついた。その昔が思い出せないから信用できないのだ。

「『歌姫』のルーツはそこにあると?」

「ある」

 またベイビーちゃんは言い切った。ボクはもう一度溜息をついて首を振った。

 ボクは水っぽくなったアイス・ティーを飲み干して考えた。よく考えてみると、ボクに退路は残されていないような気がした。霧の中で上下感覚さえわからなくなり、いつの間にかロープが一本垂らされた袋小路に迷い込んだみたいだった。そのロープだって、信用して掴んでいいものなのかわからない。そういう具合だった。

『求め続けろ』見えないロープの先で盲目兎がそう言った気がした。

 こうなったのは誰のせいだ? 

 ボクのせいだ。これはボクが無責任に霧の中を突き進んだ結果だ。

 誰が責任を取る? 

 嵐の中で、津波に向かって進むベイビーちゃんの姿がフラッシュバックした。

 ボクは額に滲んだ汗を拭った。

「別に、キミの心配をしたいわけじゃない」

 ボクはベイビーちゃんを指差してそう言った。

「うん」

「それに、ボクはキミの助けなんて必要ないし、約束のことも知らない。ボクはボクなりのやり方でやる」

「……うん、今はそれでいいよ。嫌でも思い出すし」

 ボクは溜息をついた。

「そういえば、この町の名前をまだ聞いてない」

「稲村ヶ崎」ベイビーちゃんは言った。

「ここは稲村ヶ崎。鎌倉と湘南の間にある町だよ。皆イナムラって呼んでる」

 ぬるい風でベイビーちゃんの髪がぶわりと揺れた。遠くで波が岩にぶつかる音が聞こえてきた。ボクはその音がどうしても耳から離れなかった。

「ねえ、テレビを買って」

「え? そんなお金無いよ」

「じゃあラジオでいい」

「何に使うの?」

「甲子園を聴く」

 

 

 

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