始発の電車が通り過ぎる音を聞くと、いつもボクだけが時間の流れから取り残されているような気がした。ボクの中に辛うじて残っている目的でさえ、江ノ電が持ち去ってしまうような気がしていた。
朝が来る度にボクの中は空っぽになる。部屋のベランダから隣の家の屋根越しに見える、何も浮かんでいないぼやけたイナムラの海のように。船さえ浮かんでいない海はなにも描かれていない青いキャンバスのようだった。
そのキャンバスに何かを描けと言われたら、ボクならまず船を浮かべる前に灯台を建てる。GPSが壊れた船が最終的に頼らざるを得ないのは人工の光だけなのだから。
「ミアちゃんおはよう。早起きだね」
「起きてないよ」
ボクが辿れと言われたその道に光は届かない。用済みだと朝日によって排除された月の光さえなかった。
「⋯⋯また、眠れなかったの?」
ベイビーちゃんは小さくため息をついた。
ボクの連想ゲームはこうして終わり、また朝が始まる。
「居心地が悪いわけじゃないんだ。ボクの別荘には負けるけどね」
意外にもベイビーちゃんは早起きだった。朝があまり得意ではないと聞いていたが、アルバムの最初のページ程に褪せた古い情報となっていた。果林を起こすエマのように、ベイビーちゃんも歩夢にモーニング・コールをしてもらっていたらしいが、真相は十年の間で隠されてしまった。
ボクも昔は朝に弱かった。十代前半以前の話だ。『歌姫』になってからは規則正しい生活を心がけていたし、ここ数年は盲目兎のせいでそもそも眠ることを避けていた。
眠れなければ夢は見ない。
イナムラに来てから二度目の日の出を見た。風邪で寝込んだ時、何日分か寝溜めしたかのようにボクは一睡もできていなかった。
眠れない夜は暇そのものだった。今後のことを考えようにも上手く考えがまとまらなかった。スマホをいじるのにも飽きていたし、この部屋には本どころか雑誌さえ一冊も無い。説明が数分で終わる、ミニマリスト予備軍のような何もない場所なのだ。箪笥の中に何かないかと訊いてみたが、ベイビーちゃんは絶対触るなと釘を刺した。指紋の形を確かめている方がまだ暇つぶしになった。
隅々まで身体検査を終えてしまうと、ボクは諦めてベランダに置いてあったビーチ・チェアに腰掛けながら、一晩中星を眺めた。ゆっくり星を見るのは久しぶりだった。やがて、ボクは何故星が眺められる場所が限定されてしまうのかを考え始めた。たまに海岸通りを走る爆音のバイクにその思考をかき消されては舌打ちを夜空に放ち、また初めから同じことを考えてを繰り返していた。おかげで朝日が昇る頃には、体中に虫除けスプレーと蚊取り線香の臭いがしっかり染み付いていた。それでも盲目兎のうざったい質問攻めにあうよりは幾分マシだった。
「なんとかしなきゃね」
ベイビーちゃんは洗濯物を干しながらそう言った。
「なんとかって、どうするのさ」
ボクは一時間ぶりとなる七杯目のブラック・コーヒーを啜りながらそう訊いた。
「まずそのコーヒーやめなよ」
ボクは鼻を鳴らした。
「カフェイン摂りすぎだよ。エナジー・ドリンクじゃないだけマシだけど」
「エナドリはやめた」
「どうして?」
「体に悪い」
ベイビーちゃんはやれやれといった風に首を振った。
「なんでもやりすぎは体に悪いんだよ。あと眠らないことも」
「それでもう何年もやってきたんだ。慣れてるよ」
「ミアちゃんが何で死んでないのか不思議だよ」
「知らないのか? 『歌姫』は死なないんだ」
「あー、はいはい」
ボクは朝日を拾う眼鏡を頭にかけ、ぼやけている洗濯物を眺めた。
「でも見てて不安になるから家主の言う事に従ってもらおうかな」
洗濯物を片付けたベイビーちゃんは、ショート・パンツとオーバーサイズ・Tシャツというシンプルな寝巻きの上に、虹ヶ咲学園指定のジャージを羽織った。ジャージは二年生のものだった。
「散歩に行こ、ミアちゃん。動いていれば眠くなるかもよ?」
少し迷ったあと、ボクは肯いてコーヒーを飲み干した。新品のラジオについているストラップに手首を通し、申し訳程度の変装として髪を一本に纏め、マスクを着けた。それからベイビーちゃんの後を追いかけた。
ラジオの周波数を調整しながらアパートの階段を降りていると、階段下から話し声が聞こえてきた。
ベイビーちゃんの声と、どこか聞き覚えのある舌足らずな老人の声。スパイのように建物の陰から覗き込むと、いつか見たように老人はウッド・デッキにどかりと座り込み、立てた杖を震える手で掴みながら、ベイビーちゃんに険しい視線を向けていた。その視線にベイビーちゃんは臆するどころか、まるで近所のマダム達が定期開催する井戸端会議のようなテンションで話しかけていた。
やがてボクの視線に気づいたベイビーちゃんが、手招きをしながら彼に敵意がないことを大袈裟に説明し始めた。ボクは渋々会話に混ざった。熱線を放つ朝日と老人からの冷たい視線に刺され、もう一度風邪を引けそうな気分だった。
「この人はキタノさん。アパートの管理人さんだよ」
一応彼の機嫌を伺って軽く会釈すると、キタノは蝿でも追い払うかのように鼻を鳴らした。
「おめぇさん、生きてたのか」
「お陰様でね。随分いいホテルを紹介してくれてありがとう」
キタノはシワひとつ動かさず、品定めするようにボクの頭の先から爪先まで眺めた。彼とは仲良く話せる気がしなかった。仲良くなりたいとさえ思えなかった。こんなことを思うのは初めてかもしれない。ベイビーちゃんは感電したように固まっていた。
「えっと、事情はこの間説明した通りで──」
「騒ぎにならねぇなら何でもいい」
キタノはそう言うと杖に全体重を乗せ、ぶるぶると震えながら立ち上がった。そして乾いた杖の音を立てたながらアパートの陰へと消えた。やがて重たい扉の音が鳴り響くと、金縛りから解かれたようにベイビーちゃんがびくんと跳ね上がった。
「えっと、知り合い?」
ベイビーちゃんは恐る恐るボクに訊いた。
「ボクはそう思ってない」
ボク達が熱線にじりじり焼かれていると、もう一度扉の音が鳴り響いた。かつかつと音が響くと、アパートの陰から幽霊のようにキタノがはい出てきた。そして一切口を開かずボクの方へ何かを放り投げた。驚いて咄嗟にキャッチすると、それはニューヨーク・ヤンキースのロゴが入ったつば付きの帽子だった。
「さっさといけ」
キタノはそう吐き捨てると自分の部屋へと戻って行ってしまった。
「何なんだよジイさん」
「ツンデレなんだよ」
ベイビーちゃんは笑いながらそう言って歩き出した。ボクは一応帽子を隅々まで検品した。異常がないとわかると帽子を被り、ベイビーちゃんの後を追いかけた。
ボク達の散歩コースは裏路地を駆使してイナムラを一周する。イナムラの道路は葉脈を拡大し一部を切り取ったような道をしていた。毛細血管のように細い道のあちこちから主要道路である海岸通りへ抜けられる。二日前に待たされたあの函渠は、人目を避けて砂浜へ行くにはうってつけの抜け道だった。
砂浜へ出ると海に反射して威力を増した朝日がボクの目を突き刺した。目が慣れてくるとボクは辺りを見回した。小さなビーチだった。湘南方面には水平線に並んで、朝日に霞む江の島が寝坊しているように浮かんでいた。岬と岩に挟まれた足跡ひとつないイナムラのビーチには、波の音だけが静かに響いていた。
「砂が黒い」
ボクは爪先をぐりぐりと砂に押し付けた。砂に混じったガラスの破片や小さな貝殻が朝日に照らされ、夜空に浮かぶ星のように輝いていた。
「砂鉄が混ざってるんだよ」
そう言ってベイビーちゃんは波打ち際を歩き始めた。ボクは波打ち際から離れて歩いた。
ベイビーちゃんはサンダルに襲いかかる薄い波を蹴飛ばしながら進んでいた。たまに打ち上げられた海藻や、白い枝や、普通の貝殻に興味を示しては、海藻だけを海に向かって投げていた。まるで我が子を谷底に突き落とすライオンのように容赦なく投げていた。そして拾った貝殻はポケットに仕舞っていた。
「それ楽しいの?」
興味本位で訊いてみると、ベイビーちゃんはぽかんとした顔をボクに向けた。ベイビーちゃんは何も答えぬまま目を泳がせ、やがて我が子の行く末を思い悩む親のように顔を顰めながら水平線を眺めた。
「どちらかといえば、楽しくないかな」
ボクはため息をついた。
「じゃあ何でやってるのさ。ボランティアがしたいならもっと真面目にやったらどうだい?」
「いやそういうんじゃなくてね、あるべきものをあるべき場所に還してるっていうか」
ベイビーちゃんは上手い言葉がまとまらなかったのか、首を傾げた。
ボクもわけがわからなかった。
ベイビーちゃんは近くにあった手頃な白い枝を手に取ると、散らばっている細かい海藻をつついては器用に枝先で掬い上げ、また海へと投げた。それは何かの選別作業にも見えなくもなかったが、やはり自然現象に抗うそれに何の意味も感じられなかった。
一時的な清掃作業、とボクは思った。
「例えばさ、いつも家の鍵を置いている場所に鍵がないと不安にならない?」
ベイビーちゃんはそう言った。
「んん、まあ」
「そういうのを見ているとね、ちゃんと決められた場所に戻したくなるんだよ」
「海藻の定位置は海?」
ベイビーちゃんは肯いた。
「じゃあ貝殻は? 何で貝殻は海に戻さないんだよ」
「貝殻はもう死んでるからいいの」
ボクは首を傾げた。どれだけ考えてもベイビーちゃんの基準を理解できそうになかった。
「結局自己満足ってこと?」
「そうなのかな」
ベイビーちゃんは笑いながら海藻の返還作業を続けた。果たして海底から自然淘汰されたこの海藻に戻る定位置があるのかは知らないが、ベイビーちゃんの変わった癖に口出しする気はなかった。
心底どうでもいい。
やがて少し遠くに浮かんでいた数人のサーファー達が、浜へ向かって泳いできた。それを見たボクたちは足早にその場から離れた。立ち去る前にベイビーちゃんがいた場所を見ると、やはりそこだけが不自然に綺麗になっていた。人工的に綺麗にされた砂浜は、一部だけ異世界へ切り離されたかのように酷く浮いて見えた。
その後ボク達は車や人を避け、細い路地裏をこそこそと散歩した。迷路を進むように道の先を確認しながら忍び歩くそれは、散歩というより探検しているような気分にさせた。
探検家、ミア・テイラー。確かにイナムラはボクにとって未踏の地だし、ビルひとつない新鮮な景色は目の保養になった。その分、飽きも早かった。景色の大半は住宅の外壁なのだ。住宅地はどう捉えてもただの住宅地だった。
それでも探検家よろしく、少しでも興味を引いたものは立ち止まって確認するようにした。ベイビーちゃんの歩くペースが無理やり散歩に連れ出された老犬のように遅かったからだ。それに、一体何に気を使っているのかはわからないがろくに会話もなかった。ボク達の間を埋めているのは、やたら古いジェイ・ポップを流しまくるラジオだった。ベイビーちゃんのペースに合わせて歩くのがとにかく退屈で仕方がなかった。
塗装中の橋の欄干。放置されている朽ちた工事用の看板。古い遮断機。赤黒く不気味に光る線路。敷き直されたアスファルトの白線。どでかい新築の一軒家。小さなあばら家。時代に合わせた真新しさと、守ってきた古さが入り乱れた不思議な感覚を覚える町。
歪に見えるのに、奇跡的に統率の取れた光景だった。訳のわからない色の殴り書きがアートとして評価されるように、アンバランスが違和感なく収まっていた。そこが定位置であるかのように。
それがイナムラに抱いた感想だった。
違和感がない、違和感。
イナムラには不要なものがない。なのに何かがズレている気がした。アスファルトの亀裂が段になって、ちょうどそこに躓くような苛つくズレ。
もしかすると、最初からズレているのはボクなのかもしれないと思った。ボクはまだ定位置にいないと、町全体がボクに伝えている気がしてならなかった。
この町にとって、ボクはただの異物なのだろうか。
やがて近くにあった警報機か鳴り、遮断機が降りた。遠くの金切り音が迫り、地面から伝わる振動が徐々に大きくなっていった。
異物はどうなる?
答えは簡単。取り除かれる。
そして江ノ電が持ち去る。空っぽになる。
『おまえは何故、歌姫になった?』
今そんなこと関係ないだろ。
『ジャパン?』
マネージャーはそう言うと、十分に日焼けしたその顔をくしゃくしゃにした紙のように顰めボクを睨んだ。
『ああ、日本でライブがしたいんだ』
ボクがそう言っても彼は動かなかった。
マネージャーはコツコツと机に打ち付けていたボールペンを手の上で回し、ふいに放り投げた。やたら勿体ぶって吐き出された酒臭いため息にボクは不快感を覚えた。その後もすぐに会話を続けようとしなかった。格好つけて頭を搔いてみたり、今度は指で机をコツコツと叩いてみたりと、わざとらしく煮え切らない態度をとっていた。
『歌手としての人気はもう十分すぎるはずだろ』
『十分ならこれ以上手を広げなくてもいいだろう』
マネージャーの言ってることが信じられなかった。
ボクはもうステイツに留まる器じゃない。世間はボクを認めてくれていたしボク自身もそう信じていた。
もっと世界へ飛べる。そうなれば日本なんて簡単に行ける。
自信過剰ではなく、本気でそうなると未来の自分を見据えていた。そうでなくては──ボクの目的が達成されない。
『テイラー』
彼はボクをテイラーと呼ぶ。一度もミアと呼ばれたことがない。虹ヶ咲を去って、初めて会った頃からずっとそうだった。彼はボクを名前で呼ばない。
『君が新曲を歌うと音楽配信サービスでは何ヶ月も一位を独占し、この時代にCDの売上まで凄まじい数になる。メディアは君を盲信的に褒め讃え、君の曲を聴く一般人は君をマリアのように崇める』
マネージャーはレザー・チェアに全体重を預け、ボクを下から覗き込んだ。本人は真面目なのかもしれないが、ボクから見たその顔は酷く歪んで見えた。嗤っているようにさえ見えた。
『それでいいじゃないか。仕事も、売上も、知名度も、十分にある。君の仕事は、今の君を維持することだ。いいかテイラー。長く居座り続けるコツは高望みしないことだ』
『そんなこと望んでない!』ボクはそう言った。『金も名声も興味無い。ボクがどこで歌おうがボクの自由だろう!』
『なあテイラー。セブン・ティーンのテイラー。君はここに来て三年間、何を学んだ?』
マネージャーは明らかに態度を変えてそう言った。
『いいか? お前はこの事務所の商品だ。ずっとそうだ。俺が歌う場所を決め、お前は俺の指示に従って歌う。お前が固執していた作曲ももうしなくていい。この事務所はそういうシステムで成り立っている。だから今のお前がある。世論なんて関係ない。これは事務所の総意だ。それで今まで上手くやってきた。それを忘れるな』
テイラー家の一端を俺は握っている。
実際そう口には出さなかったが、汚い輝きを放つその目はそうボクに訴えかけていた。
『勘違いするなよ。お前は照明だ。星じゃあない』
単なる方向性の違いで片付けられるものではなかった。テイラー家に頼りたくなかったボクの名を売り込んでくれたことには多少感謝しているし、この事務所との関わりがなければ今頃どうなっていたかわからない。
『いつかわかる日が来る』
もっと人を見るべきだった。
そして、信用してはいけなかった。
もっと早く気づくべきだった。事務所の人々はボクを金の成る木としか見ていなかったことに。仕事に慣れてきた頃に感じていた異様な疎外感に……。
嵐の夜だった。ボクはマネージャーにもう二度と関わるなと告げ、波立つハドソン川へとスマホを投げ捨てた。そのスマホには幾らかの思い出が詰まっていた気がしたが、激しい後悔と虚無感が襲っていたあの時のボクには何の慰めにもならなかった。
そしてボクは初めて姉さんを頼った。
数ヶ月後、今のマネージャーであるダニーを紹介された。
彼は物分りがよく、優しい顔で人当たりも良かった。
彼なら上手く立ち回ってくれるだろう。また一からのやり直しだったが、今度は上手くいく。予感めいたものをボクは感じていた。
『初めまして、ミア・テイラー。君のマネージメントができることを光栄に思うよ。話は聞いている。僕は君の意志を最大限に尊重できるように努力するよ』
『じゃあ、まず最初のお願いをしていいかい?』
『なんなりと』
『ボクをテイラーと呼ばないでくれ』
「ねぇ、ベイビーちゃん」
「うん?」
「ジェーンって、何だか知ってる?」
「さあ。知らない」
電車は何事もなく通り過ぎた。
午前七時の時報が静かなイナムラに反響した。
「ミアちゃん、そろそろ帰ろっか」
ボクは長い長い欠伸で返事をした。
部屋に戻ると、立っていられない程の眠気がボクを襲った。ベイビーちゃんに声をかけてもらいながら何とかシャワーを浴び、少しでもと用意してくれた朝食を無理やり突っ込んで、ボクは布団へと倒れた。周囲の環境なんて気にならない程朦朧としていた。この部屋はボクを世界から切り離し、天蓋のように包み込んでくれた。
爆音のバイク、蝉の声、星、定位置。去る江ノ電。
ボクはすべてがどうでもよくなった。
そして気絶するように眠った。
意識がはっきりすると変な違和感に襲われた。ハンガー・ラックにお気に入りの帽子が掛かっていなかったような、何かが物足りないという違和感。
ここは夢の中で、景色は落書きみたいで、ボクは相変わらず砂浜に腰を下ろしていて、じっと海を見つめて、静かな波の音を聞いている。
静かすぎる。
いつもなら聞こえてくるはずのピアノの音も、耳障りな盲目兎の声もない。夢としては実に理想的な静けさが保たれていた。悪夢じゃない限り、これこそ理想的な夢の在り方ではないかとボクは思った。そう思うと、違和感なんてすぐに気にならなくなった。
余計なものが無いと案外心地の良い夢だった。まるでお気に入りの音楽を流しながら、自分のベッドに入って微睡んでいる時のように穏やかな気持ちになった。
「おうい、助けてくれ」
それを邪魔するのは夢を夢だと思ってしまう余計な認識だった。無知程幸せなことはないのだ。
辺りを見回すとちゃんとトイ・ピアノもあったし、盲目兎もいた──余計なものだ──ボクは度々夢の中で起こる変化に、変な希望を持たされうんざりしていた。
盲目兎は波打ち際で、ボクの反対側に向かって手を振っていた。わざとやっているのか疑ったが、ボクが溜息をつくとその長い耳をぴくりと跳ねさせこっちを向いた。正確に言えばこっちを向いただけで、ボクを見ていなかった。
「いたのか。助けてくれよう」
「何でだよ」
「戻れなくなったんだ」
「おかしいだろ。そっちには行けたんだから自力で戻れよ」
「においを辿ってきたんだ。音ににおいなんてないよ」
盲目兎の近くにはいくつかの貝殻が転がっていた。盲目兎はひとつを手に取り掲げ、ボクに見せながら説得を続けた。
我慢できなくなったボクは砂を叩き、渋々立ち上がって砂を払った。盲目兎のところまで行き、耳を鷲掴みにして持ち上げると、優しく扱ってくれと言いながらじたばた暴れた。
トイ・ピアノの椅子に座らせると、貝殻も持ってきてくれと盲目兎は言った。ボクは舌打ちをしながら貝殻を集めた。貝殻は光を通さなくても、青空のように透き通っていた。試しにひとつ持ち上げてみると、中からしゃらんという音がした。
「それが音階になる」
盲目兎は得意げに言った。
その貝殻をすべて拾い上げ盲目兎の近くに並べると、盲目兎は鼻を細かく動かしながら手探りで貝殻を探した。化石の採掘のように慎重に貝殻を探し当て、それから持ち上げた貝殻を耳に当てた。ボクは定位置に戻り、また腰を下ろして海を眺めた。
「いい音だ」
盲目兎はそう言って鍵盤を叩いた。もう一回別の音を叩いた。少し間が開いた後、また別の音を叩いた。三回違う音を叩いた。納得がいかなかったのだろうか。
「おれは目が見えないからね」と盲目兎は言った。
「いい加減ボクを覗くのをやめてくれ」
「何度も言ってるだろう。おれはおまえだ。お前が怒れば激しい音を出し、悲しめば切ない音を奏でる」
「じゃあボクがキミを望まなければ?」
「無駄さ。ふさわしい形になって現れる」
ボクは溜息をついた。
「結局、おまえが望んでいなくても心の一番深いところで求めているのさ」
一音。ボクは何も言わなかった。
「さあ、もうじき目覚める時間だよ」
「このまま一生起きていたいね」
「死んじまうよ。お勧めしないね」
ボクは静かに目を瞑った。
「おまえは何故『歌姫』になった?」
ちょっと黙っていろ。