イナムラに来て一週間が経った。意識は海へ溶けだし、ゆっくりと地中に根を張り、ボクは少しずつイナムラの一部となっていった。今までのボクが養分となり、新しくも懐かしいボクがゆっくりと育ってゆく。感覚の話だ。
ボクはここでの生活に慣れつつあった。
やることも変わらなくなってきた。活動のリズムは一定で──ボクが数日置きにしか眠れないことを除けばだが──朝と夜の二回、涼しく人の居ない時間に散歩をし、食事は簡単なものを摂る。そして日中は人目を避けて外へ出ず、一日中扇風機の風を物乞いのように待ちわびる。期待できないあてだけを頼りに留まる、実に無秩序な生活だった。
帰れるものなら今すぐにでもステイツに帰りたい。ベイビーちゃんには何度かそう言った。
しかし、ボクの活動休止の話題は留まるところを知らなかった。日に日にSNSやメディアの混乱が大きくなっていた。
その様子を見せつけては「こんなときにアメリカに帰れる?」と、ベイビーちゃんは苦笑いしながらボクにそう言った。
ここまでの騒ぎを引き起こしたことはなかった。有り体に言ってびびっていた。そう思うのもボクがこの穏やかさに慣れつつあったからだろう。
しかし大した刺激が無いのも問題のひとつだった。酒さえ飲まなければ感情の起伏が殆ど起こらない凪のような日々なのだ。一般人なら実に平和的で理想的な生活なのだろう。
激流のようなエンタメ社会から取り残されることはボクにとって結構な死活問題でもあった。SNSじゃ手に入らないディープな情報が手元に入ってこない。それはボクの曲作りの根幹であり、インスピレーションの一端を担っている。売れる曲というの解析から生まれるのだ。多分ファンの大半はボクのことを歌手だと思っているだろうが、ボクはシンガーソングライターだ。曲も勿論作る。
さて、どうしよう。
エンタメの中枢に君臨できないのならいっそ大衆音楽を捨てアートでも目指そうか。ジョン・ケージのように? ダニーが泣きそうだな。
でも、たまには縛られずに作曲するのも悪くないだろう。
心の赴くままに。ボクが考えるよりも先に、ボクの指が快楽を感じる音を先に見つけ出し、身を委ねていると勝手に音楽が出来上がってる。完成したらきっと、それはボクより自由な曲のはずだ。素敵じゃないか。
そんなふうに思慮を巡らせるイナムラの午後は、静かな雨の匂いに包まれていた。
昼御飯の素麺を食べ終わると──これで一週間連続で素麺だ──外は時間をかけて暗くなり、やがて雨が降り始めた。一週間ぶりの雨だった。蒸した風が雨の匂いを部屋に運び、部屋中から湿った匂いがしていた。
ボクは相変わらずベランダのビーチ・チェアに寝転がり、今は空から零れてくる雨粒を追いかけながら、ゆっくりと水音を孕み始めるイナムラの町に耳を傾けていた。
どこかで傘をさす音がきこえ、車が水を跳ねる音が大きくなる。江ノ電がレールを擦る音もいつもより鋭く聞こえた。考えることがないと、いつもより環境音がよく耳に入るものなのだ。
しかしそれはボクにとって快楽的な音ではなかった。雨はあまり好きじゃない。雨が生み出す音を上手く自分の音に還元できない。ボクの耳に入り込み、いたずらに雨の日の記憶を思い起こさせてそのまま通り過ぎてゆく。
雨の日にろくな思い出なんてない。ボクはそう思った。
ボクは真上にある黒い雲のような暗いビジョンを、首を振って払い落とした。そうして空を眺めながらじっと我慢した。
我慢を続けていると、一階の方からアコースティック・ギターのじゃらんという音が聞こえてきた。今日の最初のコードはCだった。間もなくして八十年代位に流行っていそうな、最近ラジオでよく聞く古いジェイ・ポップを奏で始めた。
一階にあるテナントには小さな楽器屋があった。ボクは一度だけ外から覗いたことがある。その楽器屋は主にギターを取り扱っていた。壁にはエレキや、アコギや、ウクレレといった大小様々なギターが飾られていた。外から見る限り、本当にギターしかなかった。そういう店なのだ。悪くない。ボクはそう思った。
午後になるとその店からアコースティック・ギターの音が聞こえてくる。どの曲も名前さえ知らなかったが、それが古い曲だということはわかった。そして、その曲達はボクはまだちゃんと音楽を愛せていると再確認させてくれる程、ボクを音の世界へ引き込んだ。
通りすがる人しか知らない小さなコンサートは、ボクの唯一の楽しみとなっていた。
ボクは指でリズムを取りながら深く音に潜る。考えたこともなかったメロディーを体に覚え込ませる。成程面白い。拍手がしたい気分だった。
悪くない。ボクはそう声に出して言ってみた。
「そこ、濡れない?」
ベイビーちゃんはヘッドホンを耳から外し、ボクにそう訊いた。
「いや」ボクは首を振った。
「そっか」とベイビーちゃんは短く返し、興味を失ったようにパソコンの画面へ視線を戻した。
ボクがこうして色んな音を自分へ入力している間、ベイビーちゃんはパソコンに向かっている。そしてひたすら作曲をしている。毎日だ。午後から深夜まで、ボクがとりとめもなく自分のことを考えている間、ベイビーちゃんはずっと画面にかじりついてマウスをひっきりなしに叩いていた。
随分と意欲的だ。ベイビーちゃんを見ていると、十四歳あたりのボクを思い出す。そういえばボクもああだった。昔の話だ。作曲の仕事もデビュー当時に比べ増えてはきていたが、それでも昔のように三日三晩パソコンに齧り付くなんてことは減ってしまっていた。
歌っている方が有名だし仕事もそっちの方が多い。
悪い気はしない。しかし物足りない。
物足りない。
この不足感はどこから来るのだろうか。
「ねえ、ベイビーちゃん」
ボクが呼びかけると少しだけ間を開けて、ベイビーちゃんはヘッド・ホンを外して振り向いた。
「どうしたの?」
「ピアノ、使わないの?」
ボクはそう言いながらベイビーちゃんの隣を指さした。そこには埃が積もらないようにカバーをかけられた電子ピアノがあった。
ベイビーちゃんは作曲でピアノを使う人だった。あの異常な上達速度は今でも思い出せる。初めて会ったときとボクが虹ヶ咲を去る頃には、比べ物にならない程ピアノが上手くなっていた。相当真摯に向き合っていたのだろう。その勢いで音大にまで合格したのだから間違いなくある種の才能があった。
しかし今、ベイビーちゃんはピアノを使っていない。ボクがここに来てから毎日作曲しているのに一度もピアノに触れていない。
十年前よく見ていた光景のはずなのに、そこには明確な違和感があった。
「うん」とベイビーちゃんは肯き、自分の両手を眺めた。
何度かゆっくり握り、開いた。まるで義手を馴染ませているみたいだった。
「使わなくても作曲はできるから」
ベイビーちゃんは静かに笑った。
物足りない。
ボクは何も言わずにまた空を眺め始めた。雨は少しずつ弱まり、いつの間にかアコースティック・ギターの演奏会は終わっていた。
熱いシャワーを浴びながらボクは一日を振り返る。これも日課のひとつだ。
得たのもは?
違和感、不足感、そしてまた一日を無駄にしてしまったという後悔。どれも喉に食べ物を詰まらせたような静かな焦りと不快感を生むものばかりだ。
ボクは髪に含まれたお湯を絞り落した。
もう少しポジティブにいこう。
ボクはギター屋から聞こえてきた音を思い出した。
あるじゃないか。ボクの音楽に還元できそうな、ちょっとした発見。
しかしファイルは作ったのにデータが空っぽの作曲アプリを思い出し、ボクは溜息をついた。わざと大きくついた溜息は小さなユニット・バスの中で嫌がらせのようにこだました。
体のだるさを感じる。ボクは壁に手をついてシャワーから降り注ぐお湯に身を委ねた。シャワーの水圧に負け、今にも崩れて流されそうな気がした。ここに来てまともな運動は散歩しかしていない。寝不足のせいで、毎日吐きそうになりながらこなしていたトレーニングなんてひとつもしていない。
ボクはこんなにと弱かったっけ?
違う、弱くなったんだ。
惨めだ。『歌姫』が聞いて呆れる。
ボクは感情さえ過ぎ去ろうとしている、秋が深まったニュー・ヨーク・シティを思い出した。イースト・ビレッジの裏路地で、ボクと似た人間を見たことがあった。自重を支えられない人間。落書きされたシャッターにもたれかかり、寒さに震え、通りすがる女性の胸をぎらついた目で追っていた。
やめろ。くだらないことを考えるのはよせ。
ボクは頭を振り、水気を払った。つうとボクの体の線をなぞるように雫が伝わった。
ボクはいつもより力を込めて身体を洗った。
「ミアちゃん」
のぼせているんだ。色々と。
シャワーから出たボクは涼むために、扇風機をベランダの窓の前に移動させ裸のまま堂々と立った。扇風機の風と潮の香りをほのかに孕んだ夜風が、煮え立ったボクの頭を少しずつ冷やしていった。雨が降った日の夜は好きだった。風は冷たく、空気は澄み、夜空がいつもより綺麗に見えるからだ。
「ミアちゃん、服着てよ」
そんなボクを見て、ベイビーちゃんは何度かボクの名前を申し訳なさそうに呼んだ。何度か深呼吸を繰り返し動悸が収まった頃、ようやくボクはベイビーちゃんの方を振り返った。ボクが振り返るとベイビーちゃんは磁石の反発のように顔を逸らした。
「涼んでたんだよ。見てわかるだろ」
「わかるけど·····」
「それとも何? 日本には涼み方にすら作法があるのか?」
「モラルの話だよ。いい歳した女の子が普通素っ裸で仁王立ちなんてしないよね。まさかミアちゃん家の中では裸族なの?」
ボクは少しだけ思い出そうとした。確かに自室で一人の時はたまにやっていたかもしれない。丁度バス・ローブが見当たらなかったとき、ボクは裸のままベッドで寝た。
「別にいいじゃないか。見られて困ることないだろ?」
「せめて下着つけてよ!」
ベイビーちゃんは耳まで真っ赤になっていた。
「おいおい」とボクは言った。「冗談だろ?」
しばらくベイビーちゃんを見ていたが、彼女は一度もボクの方を向かず小刻みにぷるぷると震えていた。ボクは溜息をつきながら床に置いていたバス・タオルを拾い、わざと衣擦れを立てながら部屋を歩いた。
「服着た?」
「うん」とボクは言った。
勿論服なんて着ていない。下着すら着けていない。こんな刺激のない場所なんだから、たまにはいたずらしたっていいだろう、とボクは思っていた。
ボクはベイビーちゃんの真後ろに立っていいよと言い、わざと振り向かせた。ベイビーちゃんが振り向くと同時にバス・タオルをはだけ、自分の体を見せつけるようにベイビーちゃんに詰め寄った。
ほらとボクは笑うと、ベイビーちゃんは間抜けな声を上げながらゲーミング・チェアから転げ落ち、逃げるようにボクから距離を取った。
おいおい冗談だろ?
「何恥ずかしがってるんだよ」
「お願いだから服着て!」
「女同士だからいいだろ」
「裸を見るのが怖いの!」
そう叫んだベイビーちゃんは頭を抱えながら蹲り、濡れた小型犬のように震えていた。そんな彼女を見てボクはしばらく立ち尽くしていた。動けなかった。裸を見せびらかしたいわけじゃない。
世の中にはこういうことが苦手な人もいる。わかっている。
でもベイビーちゃんはそれに分類される側の人間だったのか、ボクはどうしても思い出せなかった。十年前、彼女はそんな素振りを見せたことはない。
過去の彼女と今の彼女の差にボクは混乱しながら、冷えた体をやっとの思いで動かし服を着た。すまないとボクが言うと、ベイビーちゃんはようやく顔を上げ首を振った。
そして沈黙。凍傷になりそうな突き刺さる沈黙だった。
「大学生のときにね」
その沈黙を先に破ったのはベイビーちゃんだった。
彼女はボクと温泉に入って以来、常に外さなかった左腕のサポーターを外し火傷の痕を見せた。
「付き合ってた彼氏がいたんだ。あの人、けっこう音楽の業界で有名なプロデューサーの息子でね。まあ、そのコネもちょっとは使わせて貰えないかなってずるいことも少し考えてたけど、それを差し引いても最初は凄く素敵な人だなって思ってたんだ」
最初はね。ベイビーちゃんはそう繰り返した。
「いい。もういい。やめてくれ」
ボクは首を横に振った。大体想像できてしまった。もういい。のぼせてしまう。
また沈黙。江ノ電が通り過ぎる音がやけにうるさく響いた。ボクは何も言わずに彼女から離れた。ふらふらと洗面台の前に立ち、髪を拭き、ヘア・ミルクを念入りに塗り込み、時間をかけて髪を乾かした。時間を稼がないと、ベイビーちゃんになんて話しかければいいのかわからなかった。
きっと誰だってそうするだろう。ボクはそう思った。きっと同じ話をされたら、された人全員がまず時間を稼ぐ。そうして当たり障りがなく、誰も傷つかない優秀な言葉を探し、話す。それで終わり。あとは時間が戻るだけ·····それで元通りに修復できる強い関係なら。
ボクはいらない手順を踏んだんじゃないのか?
だとしたら何故そう思う?
ボクは鏡に映る自分をしばらく眺めた。鏡の中のボクはまるでホラー映画を見た時のように顔を強張らせていた。
おい。なんだよ。お前はボクだぞ。怖がることないじゃないか。
ボクは首を振った。すると鏡の中のボクも首を振った。
違うのか? じゃあ何に怖がっているんだよ。
いくら考えても優秀な答えは出てこなかった。
ボクは洗濯機にタオルを投げ込み、冷蔵庫へ直行ししばらく物色したあと、スポーツドリンクを手に取りかぶりつくように飲んだ。
日本酒が欲しかった。
部屋に戻るとベイビーちゃんはサポーターで火傷を隠し、部屋の隅で足を抱えて蹲っていた。
ボクは静かに溜息をついた。
「きっとバチが当たったんだね」
先に口を開いたのはベイビーちゃんだった。その方がきっと誰も傷つかない、とボクは思った。
「バチ?」ボクは首を傾げた。
「ちょっとでも楽な道に進もうとした罰だと思う」
ボクは何も言えずに聞いていた。
「私にちゃんと人を見る目がなかったから、歩夢まで巻き込んじゃってさ·····色々終わった頃には大学は中退してたよ」
「歩夢?」ボクがそう訊くと、ベイビーちゃんは左腕を撫でた。
「歩夢が助けてくれたんだ。どうやったかは知らないし、あの人がそのあとどうなったかも知らない。私が部屋に引きこもってる間に全部終わってたから。全部終わって、歩夢に泣かれた」
そう言ってベイビーちゃんは自虐的に鼻を鳴らした。
「忘れた方がいい」試しにボクはそう言ってみた。
「忘れる?」
「この前みたいに日本酒を飲むんだ。たらふくね。そしたら忘れられる。嫌な記憶も、余計な感情も全部」
「お酒飲みたい気分じゃない」
「一口飲めば止まらなくなるよ」
「でもそれって一時的なものじゃん」
「構わないだろ。ベイビーちゃんが言ったことじゃないか。逃げようって。何が悪いんだよ」
「もう逃げても私には得られるものが無いんだよ」
後にも先にも動けない。ベイビーちゃんはそう言った。彼女の時間は止まっている。
もうやめよう。ベイビーちゃんはそう言って定位置であるデスクに戻り、ゲーミン・グチェアの高さを調整した。
「抱えてたって辛いだけだろ」
そう最後にボクは吐き捨てた。実はボクも日本酒が飲みたかっただけじゃないのか。ボクはそう思った。
するとベイビーちゃん何か思いついたようにあっと声を上げ、くるりとボクの方を向いた。そしてじっとボクを見つめた。ボクは首を傾げた。彼女と目が合わなかった。ボクの体のどこかをずっと眺めていた。
「何だよ」ボクがそう訊くと、無表情なベイビーちゃんとやっと目が合った。
「抱いてよ」彼女は感情のない声でそう言った。
「は?」
「だから、えっちしようよ」
「ちょっと待ってくれ」
ボクはこめかみを抑え、彼女の言葉の意味を深く考えた。しかしその矛盾はどう捉えても矛盾のままだった。
「熱中症にでもなったのか?」
「ねっ、ちゅー、しよ」
「ふざけんな」
「忘れた方がいいって言ったのはミアちゃんだよ!」
「言ってることが矛盾してるし何の繋がりもないんだよ!」
「だからえっちをはけ口にしようとしたじゃん!」
ベイビーちゃんは深く溜息をついた。そしてああと低く唸りながら頭をがりがりと掻いた。溜息をつきたいのはボクの方だ。
「裸が怖いどこにいったんだよ。ボクは饅頭か」
「よく知ってるね。でも食べるより食べられたいな」
「なあ、ボク達はきっと素麵を食べ過ぎたんだよ」
「お願いだから本気で心配してるその目をやめて」
冗談だろ、とボクは言った。あまり気分のいい冗談ではなかった。まるで共同作業の申し込みだった。作業的セックス。ボクは首を振った。
本当にどうしちゃんっただよ、ベイビーちゃん。
「で、どうかな」
「い、や、だ、ね」
ボクはできるだけ嫌味ったらしく言った。ベイビーちゃんはまた無表情に戻っていた。
沈黙。今日で三度目だ。こういう日もある。けれどいい加減にしてほしいし、できることならやめてほしい。ボクの定位置がわからなくなる、とボクは思った。
「私じゃ嫌?」
「キミを抱く理由もメリットもない」
「私にはある」
「ボクにはないね。無意味だ。それに気分じゃない」
「えっちに恨みでもあるの?」
「キミじゃそそらないって言ってんだよ。身の程を弁えろよ
「そこまで言わなくても」
ボクはようやく溜息をついた。サービスで舌打ちまでした。
ボク達はしばらく睨み合っていたが、ベイビーちゃんは諦めたのか、ゲーミング・チェアに深く腰かけ天井を眺めはじめた。ばかみたい。そう言って手で顔を覆った。
まともじゃない。ベイビーちゃんの今の言動ではなく、彼女がこうなった原因の話だ。
きっとベイビーちゃんが切れる現実逃避というカードの中で、快楽に逃げることが最も手っ取り早く、確実で、最小数の人間が傷つくだけだったのだろう。そうでなければこんな発言簡単にできる訳がない。
傷つくのは彼女だけだ。浸り、溺れる程呼び起こされるトラウマ。きっと左腕の傷は酷く痛んだはずだ。
矛盾。そこまで考えて突然思考が止まる。まるで地面の突起物に足をひっかけたように、突然頭が真っ白になった。
最終の江ノ電が部屋を揺らし、部屋の中の何かが静かな軋みを上げた。その音のおかげでボクは辛うじて意識だけは放り投げずにすんだ。
「なあ、本当につまらない冗談はもうやめてくれ」
ボクはそう言った。言うか迷ったが、言うべきだと何となく思った。
「うん。本当にごめん」
「それにボクはキミみたいに毎晩大声で善がる程、今は飢えてない」
「え? 聞こえてたの?」
「え? ジョークなんだけど」
「え?」
「え?」
ベイビーちゃんは顔を赤くし、ボクは考えるのをやめた。
「寝る!」
布団を引っ張り出し巣作りしている間、おかしいな。とか、寝てるの確認したはずなのにな。とか言う声が聞こえてきたがボクはそれを全て無視し、ラジオの音量をいつもより大きくして寝転がった。