ボクは決まった動作を正確に繰り返す。そしてダニーのペニスは彼の意志とは関係なくボクに懐柔され、正しく射精した。
それだけだけでボクの不足感と加虐心は一時的に満たされ、ボクは正しくボクでいられると再確認できた。違う。そうしていなければ、どうにかなりそうな気がしてたまらなかった。
うまく落ち着けないままボクは立ち上がり、冷え切った古い体を削ぎ落すようにぬるいシャワーをゆっくりと浴びた。そうしているうちに、汚い考えや穢れたボクを記憶の奥底へと封じ込めた。
シャワーを終え、体も拭かず裸のままで部屋に戻る。ダニーも裸のままだった。ダニーは着替える気力すら残っていないのか、ベットの背もたれに寄りかかり項垂れていた。シーツのシワをひとつひとつ確認しているようにも見えた。
ボクはテーブルの上にあった眼鏡をかけ、ダニーのスラックスから煙草とガス・ライターを抜き取った。そしてホテルの窓を開け、煙草を咥え手間取りながら火をつけた。こうするのも何度目なのか忘れてしまったが、何度やっても慣れなかった。
そしてじっと、未だに眠らない見知らぬ異国の街を眺めた。乱立するビルと、鏡のように光を反射している川、そして海。都会が吐き出す重たい空気と潮風が混ざり合い、どろどろとした気持ち悪い空気を部屋に運んだ。
ボクはこれとよく似た臭いと景色をどこかで見た気がする。世界中を転々としているとたまに雰囲気が似ている街がある。その街に根付き形成してきた文化は違うはずなのに、一度訪れたことがあるような既視感に襲われることがある。
ここもそうだ。よく似てる。しかしどこに似ているか思い出せない。煙を吐く度に、頭から血が引く度に、どうにも身体中が痛む。何時間も同じ姿勢でつまらない映画を見ているような痛み。よくできたワンシーンが全体のつまらなさでかき消され、どれだけそのシーンを思い出そうとしても思い出せない。そんな痛みだった。
「間違ってる」
ダニーは静かに言った。
「間違ってる」
もう一度言った。ダニーを見ると、頭を抱えて何度も首を振っていた。
「ミア、もうやめてくれ。これ以上君を、妻を、裏切りたくない」
ダニーは泣いていた。それは半分、ボクの為に流された涙だった。
「僕は君を助けたい。でも、こんなこと……正しくない」
煙草を弾く。灰が風に舞い、ビルの灯りと溶け合って消えた。
あの夢を見始めてからだ。ライブの直前になると酷く生きているという実感が湧いてこない。ボクは地面に足をつけて歩き、呼吸をし、食事を摂って、血を身体中に行き渡らせるという人間のシステムが、正常に作動しているのかさえわからなくなる時があった。
ボクがちゃんとボクである自信がライブ直前になって失われる。子供の頃、ステージ袖で感じたあの恐怖とは別物の恐怖を感じていた。
ボクはツアーが始まると同時に、この恐怖を打ち消しメンタルを整えるためボクなりのやり方を模索し始めた。
初めのうちは目に付いたケータリングをひたすら食べた。どれも忘れ去られたかのように味がしなかった。酒も試した。ボクには合わず、何口か飲んで吐き出した。
何度か物を壊してもみた。空き瓶を叩き割ってみたり、鏡を割ってみた。散り散りになった破片を見ていると、いつかボクもこうなると思い込み始めた。そうなってからはすぐにやめた。
それが数ヶ月続いたある日、ライブ会場の外を彷徨いていた猫を触っていると何となく落ち着いた。手のひらに伝わるほんのりとした温かさ。首や頭の裏を掻いてやると全く予想できない動きをする。
鼓動。
とにかく生き物に触れたかった。
その触れたいという欲求を性欲に変えるまでさほど時間はかからなかった。
そしてあっという間に歯止めが効かなくなった。
何故なら傷つく人が最小数で済んだからだ。
タオル・ケットを持つ手が止まった。はけ口、とボクは思った
ボクの瞳は映像としてベイビーちゃんを捉えているのに、意志を持つ視線は彼女を捉えていなかった。
あの頃と変わらない毛先が緑に染められた艶のある髪。毛先からなぞるように視線を上へ動かすと、整った顔。リラックスした様子で机に頭を預けているベイビーちゃんは正確に寝息を立てていた。半開きになった口からは少しだけ涎が垂れていた。部屋の照明が反射して、てらてらと街明かりを反射する夜の海のように光っていた。
髪の隙間からは少し汗の滲むうなじが見え隠れしている。オーバー・サイズの白いタンク・トップは、穴という穴から不安になるほど白く華奢な躰を覗かせていた。
背骨の形が控えめに主張され、たなだらかな曲線を描く背中。ノースリーブの袖口から見える脇。そして生地が辛うじて形を保たせている乳房。下着の類は何も着けていなかった。
ボクは大きく息を吸い、深く息を吐いた。徐々に呼吸のタイミングがベイビーちゃんの寝息と重なった。
綺麗に手入れされた脚。寝間着のホット・パンツは太腿の付け根が見えそうな程丈が短く、機能的に何の意味も持たないスリットからは、無難な白い下着がほんの僅かに見えていた。
タオル・ケットがいつの間にか床に落ちていた。段々ベイビーちゃんとの呼吸が合わなくなった。
視界が歪む。思わずデスクに手をつくとベイビーちゃんは小さく唸り体をよじらせた。太腿を擦り合わせる音が妙に耳にへばりついた。彼女の顔がよく見える。汗で濡れた額に、前髪が情けを求める女郎のようにくっついていた。
ボクそっと蝶を捕まえるように慎重に手を伸ばした。そして彼女の前髪を払った。ベイビーちゃんは動かなかった。
そのまま顔の輪郭に沿って指を滑らせた。
震える手で頬をなぞり、小さな顎をなぞり、唇をなぞった。
少しでも気を抜けば爪を立ててしまいそうになった。
涎で指が濡れる。もう一度唇をなぞり、首筋に指を這わせた。ベイビーちゃんはくすぐったそうに一瞬体を跳ねらせた。
確認作業のようにわざと音を立てたボクの呼吸が部屋に響いていた。何度か上手く呼吸できず、生唾を飲み込む気持ち悪い音がした。それが何かのスイッチのようにも聞こえた。
ボクは一気に息を吸った。
そして吐き出しながら白い首筋に向かって大きく口を開ける。彼女の頭を左手で鷲掴み、右手をタンク・トップの穴から滑り込ませ──
「……ミア、ちゃん……わたしが……たすける」
灰皿へ煙草を押し付け、バス・ローブを纏いスマホを確認した。
午前二時。最後に寝てから丁度二十四時間だった。煙草を吸い終わるまでダニーはベッドの上から一度も動かなかった。
ボクはグラスいっぱいにワインを注ぎ、味わいもせず一気に飲んだ。どうせ味なんてしない。
「ダニー」ボクは彼の名を呼んだ。
彼は黙っていた。
「ボクは何をしてるんだろうね」
ボクは自室のルーム・キーを探し、ダニーの返事を待たずに入口へ向かった。ドアの隙間から人が来ないことを確認し、すり抜けるように廊下へと出た。
「君は逃げている」
ドアが閉まる瞬間ダニーはそう言った。
部屋には静かな寝息が響いていた。
タオル・ケットに身を包んだベイビーちゃんは優しく体を揺らしながらデスクに突っ伏している。
ボクはラジオを掴み、書置き替わりに舌打ちを部屋に残して深夜のイナムラへと出た。
深夜のイナムラは深海のように穏やかな静寂に包まれていた。三日月よりも太い中途半端な形の月が退屈そうに光を放ち、街頭の灯りが辛うじて照らす薄暗い路地に家の影を落としていた。
ボクはいつのも散歩コースとは違う道を選んだ。道幅の広い車通りのある道。イナムラに来て初めて通った道。ボクは道路の真ん中を進み、家の影をよけながら歪なステップを踏んだ。
普段の半分以下の時間で海岸通りに辿り着いたボクは、普段歩けない歩道を堂々と歩けることにようやく気がついた。海岸通りは海が反射した月明かりと街灯が照らし、明るかった。道は変わらずそこにあった。まるでボクを待っているかのようにも見えた。
やれやれ。
波の音がボクを透過して響く。波の音を聞く度に何度も記憶が頭をよぎった。カリフォルニアの少女。スタチュー・オブ・リバティが凄む嵐のアッパー湾。埋め立てによって歪な形をした遠い異国の海。そして盲目兎と海らしき場所。余計なものばかりだ。そして海ばかりだった。
何の因果だろうか、とボクは思った。そしてボトル・メールのことを思った。誰かがボクの記憶を海へ流している。それは海流に身を任せ、広大な海を漂い、長い時間と偶然を経てボクの元へと還りつつあった。
海流に乗る。
ここでの生活はボクをどこへ運んでいるのだろうか。アイツとの再会はボクをどこへ繋げるのだろうか。
ここに来てからボクは自力で何をした?
『歌い続けろ』と盲目兎が言った。
何もしていない。
ボクは海流がぶつかる場所で、海底へと引きずり込む渦潮の流れに乗せられていただけだ。
「何が『歌姫』だよ」
ボクは海に向かって話しかけた。
ざぶんという音がした。
ボクは海岸通りを鎌倉方面へと歩いた。
ベイビーちゃんに買ってもらったアイス・ティーの容器にプリントされたロゴと、同じロゴが塗装されていた店があった。もう少し歩くと一週間前ベイビーちゃんと行った温泉があった。その道路を挟んで反対側には、岬の東屋へと続く海浜公園があった。
全て、ちゃんと定位置にあった。
入口らしき場所には申し訳程度にチェーンが張られ、車両立ち入り禁止と書かれている看板がぶら下がっていた。どうしてボクが歩く道を制限されなければいけないんだ?
ボクはそのチェーンを跨いで公園へ入った。設置されていた慰霊碑は──ベイビーちゃんに慰霊碑だと教えてもらった──夜空を仰いでいた。ボクは潮風に導かれ、先端へと続く石畳の階段を上った。
岬の頂上につくと、以前ベイビーちゃんと会話をした東屋は月の光を浴びて、朽ちた寺院のように影を落としていた。そこには人の形をした影もひっそりと混ざっていた。
ボクは恐る恐る影を踏んた。バレる心配よりも深夜にこんな場所にいる人に少しだけ興味が湧いていた。きっとボクと同じ人間なのだろうと思った。
人影はボクの足音に気づき、ゆっくりと顔をこちらに向けた。そして鼻で笑った。聞いたことのある嘲笑だった。ボクはその声に落胆し、影を土足で踏み荒らした。
「おい、まだ朝じゃないぞご老体」とボクは言った。
「夜更かしのしすぎだ、クソガキ」と影は返した。
東屋にいたのはキタノだった。彼は東屋のベンチに座り海を見ていた。相変わらずその姿勢で固定されてしまったかのように杖に全体重を乗せ、震えていた。そして彼の横には立てかけられたサーフ・ボードがあった。
「ボクは大人だ」ボクはそう言って東屋を通り過ぎ、手摺りに身を預け海を眺めた。あるいは江ノ島を眺めた。というよりどこも眺めていなかった。正直、この景色が見飽きていた。
ボクらは一言も喋らなかった。特に話題もないし、一週間経っても話したいと思わなかった。
ボクはしばらくラジオから流れるジェイ・ポップと、パーソナリティのつまらない話しに耳を傾けていた。月の位置が少しだけ動いたことに気づいた頃、後ろからかつんと乾いた音がした。どうやらキタノも粘っているようだった。
「ここにはもう飽きたか」突然キタノが口を開いた。
ボクはラジオの音量を少し下げ、東屋の方を向いた。キタノは相変わらず海ばかり見ていて目が合わなかった。
「まあね」とボクは言った。
「板切れで遊んでる連中が邪魔で満足に泳げやしない」
キタノは東屋の壁にもたれかかった。
「そりゃあここら一帯サーフィンの聖地だからな」
「そうなのか?」ボクは首を傾げた。
「昔からな。いい波が来るんだ」
ふうん、とボクは言った。
「あと、たまに夜もうるさい」
「単車は子守唄にするもんだ。でもな、この時間になると静かになるんだ。暴走族だって寝る」
そう言われてボクは意識して風の音を聞いてみた。確かに静かだった。意外と悪くない、とボクは思った。
風が止まるとラジオから午前三時の時報が鳴った。何もかも寝静まる時間だ。風だって眠る。
「お前さん、有名人なんだってな。仕事はいいのか」
キタノはボクにそう訊いた。
「迷惑なら出ていくさ」
「違ぇよバカヤロウ。上手くいってないんだってな」
ベイビーちゃんめ。そう思ってボクは溜息をついた。
言い訳としては上等だが上手くいっていないわけじゃなかった。実際に仕事だけ見れば上手くやれていた。間違いなく絶頂の最中でボクは歌っていた。歌えていたはずだった。表面上の話だ。
そんなボクを盲目兎は許さなかったのだ。
『おれはおまえだ』と盲目兎は言った。
あるいはボクがボクを許さなかった。それをどう説明する?
ボクはキタノの質問になんて言えばいいのかわからなくなった。
「ちやほやされても所詮人か」
キタノは鼻を鳴らした。
「複雑なんだよ。アンタが考えてるよりもずっと複雑で難しい問題なんだ」
「つまんねぇ」キタノはそう言って石畳の目地を杖でなぞっていた。
「そう捉えるから無駄につまんねぇことで悩むんだよ」
「暇人は発言が自由で羨ましいよ」
「言うだけタダだぜ」
「ムカつくんだよそれ。何で年寄りってどいつもこいつもそうなんだよ」
「自分の人生に後悔があるからだ」
キタノは急に真剣な顔つきになって言った。
「まあ、単に生き方を押し付けてる奴もいるがな」
キタノは位置を確かめるように杖を何度か打ち付け、ぶるぶると震えながら立った。左足を引きずりながらボクの隣に並び、吸い付くように手摺りに掴みかかった。手摺りが倒れてしまうのではないかと思うくらい揺れた。
「若いうち余計な事考えねぇで、もっと突っ走るもんさ。止まってる時間が勿体ねぇ」
「外野にいる連中は皆好き勝手そういうんだ」
「お前さんの仕事は外野の顔色を伺うことなのか?」
ボクは腹が立ち始めた。
「あまり適当なこと言うなよ。ボクが背負ってるものを何も知らないくせに」
「背負う?」キタノはそう言ってハーフ・パンツのポケットをまさぐり、煙草を取り出して震える手で火を着けた。
「無責任に逃げ出した小娘が一丁前に何言ってんだか。お前さん、何で逃げ出してしまったのかすらわかんねぇんだろ」
ボクは何も言わなかった。
「だから難しく捉えるなつってんだ。お前さんが思い出さなきゃならねえのは義務や責任の背負いかたじゃねえ」
キタノはポケットから携帯灰皿を取り出し煙草を突っ込むと、激しく咳き込んだ。
「死にかけのくせして何言ってんだよ。言ってみろよ。ボクに必要なものはなんだ?」
「夢だ」とキタノは言った。「お前さんに夢はあるのか?」
ボクは鼻を鳴らした。「くだらない」
「ボクはもうガキじゃない。そう言って信じると思うか?」
ボクがそう言うと、キタノはまた煙草に火を着けた。今度は二口ばかり吸うと激しく咳き込んだ。
「一九六五年、忘れもしねぇ」
「おい、誰が昔話に付き合うって言ったんだよ」
「まぁ聞け。年寄りの話ってのは聞き流しても聞いとくもんだ」
ボクは溜息をついた。
「お前さんと同じ位だったか。あん時俺には夢があった。下らねぇ夢だったが初めて持った夢だった。それをこの稲村ヶ崎で叶えるチャンスが巡ってきた。でも俺はその夢を叶えなかった。恋人が病気で倒れてな。まあ大した病気じゃなかったがどうしても心配だった。医療費を稼ぎに行かなきゃならねえと思った。誰から見たって選択の余地なんかねえ。俺もそう思ってたさ。
でもな、後になって恋人にこっぴどく叱られたんだ。アイツがあんなに怒ったのは後にも先にもなかった位にな。一生に一度しか無いかもしれないチャンスを何故捨てた。そう言われた。そん時ゃ信じられなかったよ。自分の身よりも人の夢が叶うことを願う人間がいるなんてことにな。でも良かったんだ。後悔はねぇと思ってた。それから結婚して、都会へ出て、忘れようと努めたさ。でも気づいた時またここに戻っちまった。あっちでアイツと骨を埋めてもよかった。でも戻ってきちまった」
キタノは深く深呼吸をした。
「俺は夢と、夢を叶えるために必要な犠牲を天秤にかけて夢を捨てた。まあ人として当たり前だな」
「でもその夢を忘れられなかった」
ボクがそう訊くと、キタノはゆっくり肯いた。
「ずっと引きずってた。後悔はねえって言い聞かせても、結局稲村ヶ崎のことを考えてた。アイツもそれをわかってた」
キタノは短くなった煙草を吸い、また咳き込んだ。そして携帯灰皿で火を揉み消した。
「お前さんみてぇな若モン見てるとな、俺と同じ失敗して欲しくねぇって思っちまうんだ。それでどうしても言いたくなっちまう。後悔しない方を選べってな」
「それって必要な犠牲は払えってことだよな」
「人の道を外れねぇ程度にな」
気付けば辺りに植えられている木々の輪郭がくっきりと見えた。空を見ると黒い雲が夜の闇から抜け出して浮き上がっていた。そして月もとっくに沈んでいた。月も寝る。
「夢は人を生かし続ける。叶わねぇって思った瞬間から人は死ぬ」
キタノはそう言った。
「なあ、お前さんにもあったんだろ。夢ってやつが」
「夢」ボクは声に出してそう言ってみた。
それからボクは何も言えなくなった。何故かわからないが混乱していた。その言葉は津波のようにボクの中を荒らしまわっていた。ボクの中で浮き彫りにされていたズレや不足感を尽く砕き、どす黒い深淵へと引きずり込んだ。
ボクは手摺にもたれながらその場にしゃがみ込んだ。そして荒れ果てた思考の中へ飛び込んだ。
夢。ボクの夢。
ボクの夢って何だっけ。
ボクは海を思い、そして天秤のことを思った。
天秤はとっくの昔に傾いたまま錆びついていた。
「おい」
杖で軽く小突かれボクは現実に思考を引き戻した。ボクは短いようで相当長く考えていたらしい。キタノは少し苛立った様子でボクを見下していた。
「もう帰れ。朝だ。寝ろ」
ボクは曖昧な返事をキタノに残しその場を去った。
帰りは来た道をそのまま戻った。そうしないと戻れない気がした。いつも使っていた散歩道がわからなくなってしまっていた。
途中ランニングをしていた人に声をかけられた気がした。何を言われたのか覚えていない。何か言ったかもしれないし、無視したのかもしれなかった。そうしてもうじき夜が明けるイナムラを、ボクは不確かな足取りで歩いた。波の音も風の音もしなかった。
部屋に戻るとベイビーちゃんは腕をだらんとぶら下げて、デスクからずり落ちそうになっていた。ボクは何度か肩を揺らし、布団で寝なよと言った。彼女は唸り声ともつかない返事をあげながらゾンビのように床を這い、鈍い音を立てて布団に倒れた。そしてうわごとのようにボクの名前を何度か呼ぶと、すぐに寝息を立てた。ちゃんと寝ているのを見届けるとボクも布団へ寝転がった。そしてじっと紺色になりつつある天井を見つめて、それから目を瞑り眠るふりをした。
忘れるな。そうボクは頭の中で繰り返していた。ボクは『歌姫』だ。待っている人がいる。帰る場所はあそこじゃない。約束も知らない。アイツに何と言われようが知ったこっちゃない。考えろ。ボクは流されるだけの海藻じゃない。
ボクの夢はどこに置いてきたっけ?