やあ、久しぶりだね。本当に、久しぶり。
あれから連絡を取れずにすまなかった。もっと早く、私は連絡を取るべきだったんだ。こうして文字を打つ度に、一文字一文字に娘との思い出が流れ出てしまうのではないかと思い怖かった。娘がいない現実を受け止めきれない私がいた。それでも今、こうして君にメールを送ったのは、きっと君はどこかで責任を感じているんじゃないかと思ったんだ。責任……と言うのが正しいのかは知らないけど、きっとまじめな君のことだ。今でも心のどこかで引きずっている。違うかい? 違っていたらすまない。
でも、だから君は今、舞台の上へ戻ってこないのだろう? 少なからず関係しているんじゃないかと思ってしまったんだ。
だから私はこうしてメールを打っている。歌姫ではなく、友人としての君へ。
君はもうマネージャーからすべてを聞いている前提で話を進めさせてもらうよ……私はやっと立ち直りつつある。いや、慣れつつあると言った方がいいかもしれないね。
もう二年も経った。最近ようやく朝を迎えるのが怖くなくなってきた。前より時間がかからなくなった食料の買い出しに、違和感を感じなくなってきた。娘の写真を見ても、涙が出なくなってきた。
私と関わりがある人々は皆、以前のような振る舞いを見せる私を見て胸を撫でおろしていた。
でもね、皆の安堵した顔を見る度驚いていたよ。
皆の私を見る目が、皆の目に映る私が信じられなかった時期があった。私は自身のことを最低で薄情な奴だと思ったよ。もうあれだけ愛した娘のことを忘れてしまったのかってね。
ふとした時に、娘の面影を私が暮らすこの世界で探してしまう時があるんだ。
私はたまにだが、今でも娘の部屋を掃除しベットを整えてしまう。妻と家事は分担していたからね。妻が料理を作り、私が洗濯をし掃除をする。もう癖のようなものなのさ。そう、癖で掃除してしまう。おかしな話だろう。娘の部屋は最期に使った時のままなんだ。
こうしてメールを打っている今でも、私の部屋のドアをノックしてコーヒーを持ってきてくれるんじゃないかと思っているし、今日、娘とどんな話をしようなんて思っている。
信じられないだろう?
でも本当なんだ。
これを痛みと呼ばずしてなんと呼ぶ。
そしてこの痛みは確かに私の中にある。蛇が肚の中を這いずり回るように、私の中に巣食っている。
それでも人間というのは不思議なものなんだ。痛みを抱えたまま歩けてしまうんだ。
人は弱い。痛みに弱い。
私は二年もの時間をかけて思い知らされた。
それでも歩んでいけるのはなぜだろう。そもそも私は歩けているのだろうか。歩いていたとしたらどこを歩いてるのだ?
私はずっとそのことを考えていた。
なあ、ミア。もしも本当に心の底から愛した人を失ったとき、君はどうする?
悲しみに明け暮れて、眼を傷つけるだけ泣き腫らして、それが終われば愛した人の面影が失われていくことに怯えて、それでも私たちは生き続けて。
そんなんじゃいつか擦り切れてしまう。想い、祈るだけじゃ足りないんだ。
だから、私達は残すんだ。
目に見えるものを。
匂いで思い出せるものを。
手で触れられるものを。
そして歌で聴けるものを。
私達は残す為に生きている。
だから君に頼みたい。多分、同じ痛みを抱えている君にしか頼めない。
あの日完成させられなかったあの歌を。
愛する娘に手向けるあの曲を。
私にとって歩き続ける原動力となるように。
君にとって、新たな夢を紡ぐ自信になるように。
私はもう一度、君に、『歌姫』に頼みたい。
あの日、依頼した歌を完成させてほしい。
いつでもいい。連絡を待っている。
その間私は頑張って歩いているよ。私の全てを消費して。
それが私の新しい夢だからね。
P.S.
つまらないメールですまなかった。今の私にはこれが限界なんだ。許してくれ。
それと私の娘のことは君のマネージャーから聞いているはずだ。だから私も、君のことを君のマネージャーから聞かせてもらった。
君のプライベートを覗くような真似をして本当にすまないと思っている。
でもね、世界中の人が君を心配している。君の帰りを待っている。その中で、力になれそうな数少ない人間のうちのひとりが私なら、私は君の力になりたいんだ。
その日も雨だった。キタノと話してから実に三日経っていて、イナムラには思い出したかのように三日連続で雨が降っていた。ラジオは土砂災害の情報と遠くで発生した台風の情報をスイッチャーのように交互に流していた。
ベイビーちゃんはこの三日間ずっとパソコンにかぶりついている。突然憑りつかれたように、ずっとだ。おかげで最近インスタントのものしか食べていないし、溜まった洗濯物が洗濯機から溢れていた。部屋の中には雨の音と、カタカタとキー・ボードを操作する音だけが響いていた。
その間ボクはキタノの言葉を思い出し、ずっと考えた。甲子園は聴かなかった。というかこの部屋にいて一度も聴かなかった。そして作曲も何ひとつ進まなかった。
「できた」
高咲侑はそう言った。
「曲ができたよ。ミアちゃん」
いかなきゃ。ボクはそう思った。
プログラミングされたボクの脳は今、『歌姫』として最も最善な言葉を突きつけるために口を動かした。
「ねぇ、誰だっていつかは誰かの助けになりたいと思うときがあるのよ。そう思う人にはね、人種や、国籍や、職業や、年齢、性別。そして時間さえ超えた、純粋で潔白な力が働くのよ。テイラー、それは一体どんな力だと思う?」
「知るか」
そうボクに聞いてきたカウンセラーのことなど、とっくの昔に声も顔も忘れてしまったが、ニューヨーク・シティに初雪が降った日に交わしたその会話だけはふとした時に思い出せた。本当にたまにだ。例えばお気に入りだった絵本のページをぱらぱらとめくっているときだった気もするし、その絵本を売ろうか、それとも捨てようかと悩んでいるときだったかもしれない。
カウンセラーはボクの態度を見て怒るわけでもなく、真面目に話を聞くように諭すわけでもなく、ただ黙ってボクの目を見ようとしていた。ボクはそのカウンセラーと目を合わせなかった。
ひとしきり視線を浴びせたあとカウンセラーはスタ・ジャンの内ポケットから煙草を取り出し、勿体ぶりながら火をつけ、ゆっくりと煙草を吸った。そのどこか余裕そうな所作にボクはさらに腹が立った。
話題を変えましょうか。カウンセラーはそう言った。ボクは指でコツコツと机を鳴らしながら促した。
「例えばアナタを野生の雄兎だとしましょう。それもアナタは怪我が原因で目が見えない」
「は? 何それ」
聞き流してもいいから話させてちょうだい、とカウンセラーは言って煙を呑んだ。
「自然の世界じゃ致命的な怪我ね。それでもアナタは鋭い嗅覚と立派な耳を頼りに奇跡的に生き残ってきた。危険が見えなくても野生の感と生存本能がアナタを生き長らえさせたってワケ。そんなある日、アナタはその鼻で感じ取るの。その匂いはアナタを酔わせ、どうしようもなくムラムラさせた。目に見えなくてもわかる、雌兎の匂いだったのね。アナタは子を残したいと強く願うわ。目的も理由もなく、本能で。本能なら仕方がないわね。そして雌兎もこう言うの。〈アナタの子を残したい〉って」
「兎は喋らない」
「アナタって絵本作家に嫌われそうね。まあいいわ。アナタは本能にかまけておっぱじめようとするわ。でもね、ふと動きを止めるの。アナタを生かしてきた危機感知能力が、アナタを理性的にさせたの。本当に子作りしてもいいのかってね。アナタはすべてが疑わしくなった。そもそもこの匂いは本当に雌兎の匂いなのかって。雌兎の死体を使っておびき寄せる肉食獣の狡猾な罠なんじゃないかってね。そこでアナタは聞いたの。〈おれは目が見えない。おまえが本当に兎なのかもわからない。だからおれを信用させてくれ〉ってね」
カウンセラーはそこまで言うと立ち上がり、部屋に備え付けられた電子ケトルのスイッチを入れた。紙コップとティー・パックをふたつ準備し、お湯が沸くまでの間二本目の煙草に火を着けた。
「まずアナタはここはどこなのか聞いたわ。雌兎は丁寧に答えた。ここは海の近くよ。次に自分の顔のことを聞いたわ。酷い怪我、両目が潰れてる。でも私は好きよ。とっても男らしいわ。雌兎はそう答えた。そして最後の質問をする。何故おれなんだ。健常な雄は沢山いるだろう。雌兎はこう答えるの」
カウンセラーは紙コップをボクの前に置いた。
「アナタだから追いかけてきたってね」
話を聞きながら、ボクは血管の先からびりびりと痺れる感覚を覚えた。やがてそれが体の中心へ到達すると頭のてっぺんまで駆け上り、何かが弾ける音がした。その炸裂音がボクの耳を狂わせ、発せられた音を体内で反響させた。
「いい加減にしろ!」
『イイカゲンニシロ』
ボクは紙コップを腕で払った。
「何がカウンセリングだよ! くだらない!」
『クダラナイ』
カウンセラーはじっと机から滴る紅茶を見つめていた。魚影を探すキングフィッシャーのような目つきだった。怒りの矛先が定まらずもう一度椅子に座ったボクを見て、また煙草に火を着けた。
「信用できるはずないわよね。自己防衛に慣れすぎてしまっているもの。でもアナタの目の前で話しているのは本当に雌兎だったの。雌兎はアナタを信用させようと必死に質問に答え続けるわ。雌兎も子を産みたくて必死なのよ。食物連鎖の底辺にいて、突然訪れる死に怯えているのね」
「ボクにはこんな遊びに付き合ってる暇なんてないんだぞ」
『コンナアソビニツキアッテイルヒマナンテナインダゾ』
カウンセラーはボクを無視して続けた。
「そう、ちょうどこんな風にね、どれだけ雌兎が説得しようとアナタはついに信用することはなかった。目を潰されてから目に見えるもの全てだけじゃなく、動機の根本にある本能さえも見えなくなった。可哀想な兎ね。こうなってしまうともう一度信用するのは難しいわね。氷で覆われた完成された世界に不純物が入り込んでくるもの。拒絶し続けるアナタにはやがて孤独が死をもたらす」
カウンセラーはそこまで言い切ると大きな溜息をついた。吐き出された煙が視界を覆い、籠った煙が部屋中を曇らせた。ボクはカウンセラーを睨んで換気扇のスイッチを入れ窓を開けた。
「兎はアナタよ。『歌姫』」
「お前にボクの何がわかる」
『オマエニボクノナニガワカル』
「わからないわよ。全然。私が知れるのは今の『歌姫』を形成した情報だけ。だからこれはカウンセリングでも何でもないわ。判明している情報のリストアップよ。だってアナタ、自分で自分のことさえわからないんでしょう」
わからない。ボクは日が落ち薄暗くなった摩天楼を眺め自分のkptpを考えた。寒いとカウンセラーが言った気がする。それでもボクは重たい雪の降る光の海に向かって無音の叫びを発し続けた。ビル風が室内へ雪を運ぶ。大きな雪の塊がボクの頬へぶつかり静かに溶けた。
「思い出せないんだよ、自分のことなんて」
『オモイダセナインダヨ』
「でも、もうどうでもいいんだよ」
『モウドウデモイインダヨ』
「動機なんてもういらない。だって、ボクは、もう大人だ」
『オトナニナレヨ』
「関係ないわよそんなの」
「ボクは、『歌姫』なんだ」
『ボクハ、ウタヒメ』
「知ってるわ。でも知りたいのはそこじゃないでしょ。アナタも、私も──」
「結局あのデブが言ったことは正しかったんだ。『歌姫』なんてただの照明だ。その名をもって生まれ落ちた日からボクのやることは、その照明が曇らないように磨き続けることなんだ。もう誰だっていいんだよ。磨き続けられれば。その役目がたまたまボクに割り当てられただけなんだ。ボクはその責任を果たさなくちゃいけないんだよ」
「それはアナタの意志なの?」
「もうボクは死んでるんだよ!」
『モウオワッタンダヨ』
その時、ボクは初めてカウンセラーの目を見ようとした。カウンセラーはボクと目を合わせなかった。苦痛に満ちた表情で何もない一点を見つめていた。手を震わせながら煙草の火を消し、また新しい煙草に火を着けようとしていたが、中々上手く火が着かなかった。
「アナタはもう、泣いている理由さえどうでもいいのね」
そう言われてボクは自分の頬を触った。溶け切った雪が頬を濡らしているだけだった。ボクは泣いているのか?
やっと火を着けた煙草を二口ばかり吸ってしまうと、彼女はまだ震えている手で煙草の火を消した。彼女は静かに帰り支度を始めた。キャップ・ラックに掛かっていたニット帽をしばらく眺め、迷った末にかぶった。
「最後に言わせてちょうだい」聞き流してもいいから。カウンセラーはそう言った。
「アナタが『歌姫』をそう捉えている限り、今の話は誰にもしちゃいけないわよ。もし誰かが今のアナタを知ってしまったら」
カウンセラーがドアを開け放つ。外のノイズが見えない壁のようにボクと外の世界を分け隔てた。
「アナタのことを想い、慕い、追いかけてきた人達、皆取り返しのつかない傷を負うわ。私も……そして勿論、アナタもね」
意識が戻る。感覚が戻る。けれど、ボクは本当に戻ったのだろうか。
気づいたとき、ボクは彼女を押し倒し、荒げた息も整わないまま首と体を掴み床に押さえつけていた。彼女はずっとボクの体を繰り返し叩き抵抗していた。信じられない程弱々しい力だった。彼女は小さな声で唸り、顔を歪ませ、際限なく涙を流していた。
ボクは息をするのも忘れて必死に考えた。
彼女になんと言ったのだろう。
拘束を解く。彼女は両手でボクの体を叩き、じたばたと暴れながらボクから逃げ出した。渾身の力でボクを押しのけたつもりなのだろうが、ボクはびくともしなかった。彼女はよろめきながら掴めそうなものを探し必死に立ち上がろうとしていたが、上手く立てなかった。そのまま壁に背からぶつかり、力の入れ方を忘れてしまったかのように座り込んだ。何度も首を左右に振り、何かを喋ろうとしていたが声の出し方さえ忘れているようだった。それはボクも同様だった。
「ひ、どい」彼女は絞り出した声でそう言った。
違う。聞いてくれ。ボクの口は場つなぎの弁明を必死に声に出そうとしていたが、体の機能が何もかも正常に動作していなかった。
「わたしは……ただ……ミアちゃんと……また……やくそく……」
彼女は壊れた玩具のように、繋がりのない単語をぽつぽつと零していた。
ボクは体の底から何かが湧き上がってくるのを感じた。それは煮えたぎった溶岩や電流なんてものではなく、もっと違う、熱く、冷たく、全身を搔きむしりたくなるような何かだった。沢山の人達の顔が浮かび、ぐるぐると回っては消えていった。ダニー。カウンセラー──。
カリフォルニアの少女。
「あなたはだれ」彼女はそう言った。
「ミアちゃんはどこ」
ボクハ、ドコニ、イルノダロウ。
彼女は弾かれるように部屋から出て言った。玄関の扉が重々しく閉まる音だけが響き、ボクに孤独をもたらした。
ボクは未だぐるぐると回り続ける頭の中で必死に考えた。しかし何を考えているのかさえわからなかった。一度、ふらつく体を無理やり動かしイナムラの駅へと向かった。そこに彼女はいなかった。ボクは雨の中今まで歩いた散歩のコースから、砂浜から東屋まで全部回った。彼女はどこにもいなかった。
ボクはもう一度部屋に戻った。その頃にやっと自分が犯してしまった重大な罪を自覚し始めた。罪状は知らないが、そこには確かに罪があった。産み落とされた罪は重くのしかかり、誰もいない部屋の真ん中でボクを縛りつけた。
ボクは叫んでいた。その罪から必死に逃げ出そうと、母胎の外の世界を受け入れられない赤子のように叫んだ。
喉が潰れると、ボクは近くのコンビニに酒を買いに行った。安いカップ酒を大量に買い込みひたすら飲んだ。アルコールが入っていれば何でもよかった。一度つぶれて寝て起きてしまえば、すべてが元どおりになっているはずだと信じて飲みまくった。次に起きた時はニューヨークの自室のベットの上で、多忙な一日のスケジュールをどう乗り切ろうかと考えながら、熱いコーヒーを飲んでいるはずだ。そう思って飲み続けた。しかしいくら飲んでも酔えなかった。
ボクは朦朧とする頭で気絶と覚醒を一時間おきに繰り返した。始発の江ノ電が走る頃ボクは一度飛び起き嘔吐した。三十分ばかり便器に顔を突っ込んで、アルコールと胃液が混じった液体をぶちまけた。その臭いでさらに気持ち悪くなり、嘔吐を繰り返した。
もう吐くものが無くなったあと、ボクはまた飲み始めた。大量に買い込んだカップ酒が全てなくなる頃に、やっと正常な眠気がボクを襲い、ボクは身を委ねた。深く、深海のような眠りだった。
次に目を覚ますと陰の位置が変わっていた。体は熱く、頭は割れそうな程痛かった。兎にハンマーで滅多打ちにされているようだった。
暫く天井を眺めていると玄関で物音がした。誰かがいる。その気配と音は耳鳴りが反響するボクの体にはっきり届き、ボクを反射的に立ち上がらせた。上下感覚さえ忘れてしまった体をあちこちにぶつけながらボクは必死に玄関へ向かい、扉を開け放った。
「侑!」
「……お酒臭い」
しかし、そこに立っていたのはボクが予想していなかった人だった。いや、もしボクに正常な判断力と記憶があれば、九年ぶりに彼女が来ると予想できていたのかもしれない。ボクが名を叫んだ人と、切っても切り離せない関係が彼女達にはあったからだ。どうやらそれは長い時間を経ても、変わらずにあったようだ。
「久しぶりだね、ミアちゃん。ていうか本当にいたんだ」
歩夢はそう言ってボクを見下していた。