キヴォトス某所、ゲマトリアの会議所。
爆破や銃弾による嵐のような襲撃跡が残るここは、既に放棄された場所だ。
しばらく前、変貌した砂狼シロコによる襲撃によって、ゲマトリアたちは壊滅。所有していたあらゆる研究結果を奪い去られた。
相手が誰であろうと、こうして位置を特定された以上、もはやセーフルーム足り得ない。
安全でなければここを使う意味もなく、ゲマトリアたちは現在、それぞれ別の場所に身を隠している状態だった。
しかし、それでも確かに、この場所はランドマークにはなり得る。
故に今、2人の大人がここで、円卓を囲んで向き合っていた。
「……なるほど。空に浮かぶ虚空の膜。それに干渉するために、現在のミレニアムにも存在しない、超高度の演算装置が必要、と」
かけられた言葉を反芻するのは、ゲマトリアの……元ゲマトリアの、黒服。
彼は思考を巡らせるように顎に手を当て、答える。
「ええ、心当たりがあるかないかで言えば、ありますよ。
アレであれば、
核心を避け、焦らすように、求めさせるように、アドバンテージを握るように……。
いやらしく言葉を濁す黒服に、先生は微かにその目を細める。
一人の大人として到底受け入れられない、生徒を傷つける、自己中心的な精神。
けれどきっと……このシャーレにおいても、最も「大人らしい普通の」やり方。
先生にとって最初の生徒、調月オリが嫌っていた、それ。
……しかし、今の先生は、それを取る黒服に頼る他なかった。
たとえ何を差し出しても、生徒たちの未来を守るために。
“……どうすればいい?”
苦々しく問いかける先生に対し、黒服は「フフフ……」と、どこか力なく笑う。
未だそのガラス玉のような頭部は割れ、中からは穢れた蒸気のようなナニカが噴き出し続けている。
あるいは、先にあったというシロコによる襲撃の負傷が尾を引いているのかもしれない。
だが、どれだけ弱ろうと、黒服は大人だ。
自らの利潤追求の為には手段は選ばず、最大限にアドバンテージを活かそうとしてくる。
「そうですね……あなたは私にどのような『代償』を支払ってくれますか、先生?
あなたの持つ『カード』も、あるいはゴルコンダの作った『封筒』も同じ。理外の力を得るためには相応以上の代償を支払う必要がある。
私からその知識を得るために、どこまでの代償を──」
そこまで言い、黒服は先生の瞳を真正面から捉え、軽く首を振る。
「……嗚呼、成程。今こうして、私に尋ねる行為が……ゲマトリアに貸しを作る選択肢を自ら選んだことそのものが、どのような代償でも差し出す覚悟があることを意味しているのですね」
黒服が大人であるように、先生もまた大人だ。
自らの行動が何を意味しているかは理解している。
ゲマトリアに貸しを作れば、それこそ死ぬまで利用される可能性があると。
それでもなお、生徒たちに明日が来ないよりはずっと良いと覚悟していた。
故に、黒服に向けられる目線は冷たく、決意に満ちている。
「クックックッ……では、私は何を要求致しましょうか。
そうですね、『ゲマトリア』への加入……なんて如何でしょう?」
それはかつて、黒服が望み、先生が拒絶した選択肢だ。
黒服は先生を同志として求めた。「理解ある」大人として、共に歩むことを。
先生は黒服を障害として拒絶した。「理解なき」大人として、協力することはないと。
けれど、今、それが必要ならば……と。
先生が口を開きかけた時、黒服はそれを手で制した。
「クックックックッ……冗談です。既にゲマトリアは壊滅しましたので、今更所属などできませんよ。
今のは……そうですね。戯れ、あるいはただの未練と思っていただければ。
今回は特別に、あなたにこの情報をお譲りしましょう」
それに対し……シャーレの先生は、深々と頭を下げた。
端末を操作し、先生にそれを送る直前……。
しかし、ぼそりと黒服は呟いた。
「……けれど、その前に一つ忠告を。
先生。あなたはこの先、空の玉座で、選択を迫られることになるでしょう。
あなたがあくまでも『先生』として彼女に向き合えば、深く深く後悔することになる。──最悪の場合、あなたの存在定義が崩壊する可能性すらある。
それでも、良いのですか?」
意図の読めない、黒服の不穏な言葉。
けれどそれに対して、先生は躊躇わずに頷いた。
“構わないよ”
「それではあの少女が救えないとしても?」
“彼女は私に、それを望んでいるし”
“私は先生として、彼女にそうすべきだから”
その言葉に……黒服は一瞬だけ口をつぐみ、軽く首を振った後、答えた。
「……良いでしょう、お教えしましょう。
あなたの求める、虚空の膜へ対抗する手段。それは全ての始まりの場所、アビドスにあり……。
そしてそれは、既に調月オリに掌握されています」
黒服によれば。
空の遥か彼方、虚空の膜に包まれた構造体……もとい、要塞。
その名は、「アトラ・ハシースの箱舟」というらしい。
かつて一度、先生はその名を聞いたことがあった。
ミレニアム、要塞都市エリドゥ。そこで暴走した赤い目のアリス──「KEY」は、「プロトコル:アトラ・ハシース」を起動する、と語っていた。
仮にあのまま、先生たちがアリスを救えず手をこまねいていれば……エリドゥはその形と役割を変えられ、今空に浮かんでいるアレのようになったのかもしれない。
そうなれば、あるいはリオの語る通り、その場でどうしようもないキヴォトスの終焉が訪れていた可能性はあっただろう。
ビッグシスターの危惧は、杞憂ではなかったということだ。
そしてこの「アトラ・ハシース」の正体は、古代のキヴォトスの民「名もなき神」の遺産なのだという。
しばらく前に会い、改めて事情を聞いた際、リオも似た名を告げていた。AL-1S……いいや、天童アリスは、元は「名もなき神の司祭」が遺したアーティファクトなのだ、と。
「名もなき神は既に淘汰された存在。我々にとってそれらが脅威になることはありませんが……。
キヴォトスの外より到来した『色彩』が、あの要塞を掌握し再現したとなれば、話は別になります。
『色彩の嚮導者』は実に貪欲で勤勉です。キヴォトスに顕現した『神秘』、その尽くを掌握してしまう。
『デカグラマトン』や『
そこで一度、言葉を切り……。
黒服は、首を振って続けた。
「現在のキヴォトスの技術は、かつての時代に対して遥かに後れを取っています。
現時点において、アレを相手取れるモノは……そうですね。かの相補性の天の片割れが作り上げた巨大なる要塞、その総力を決しでもしない限り、他にはないでしょう。
それすら内から食われ、機能を完全に停止してしまった今、キヴォトスに『名もなき神』の遺産に抗する手段は残っておりません。
……ただ一つ、この箱舟に抗するために生まれた、砂に埋もれる古代文明の遺産を除けば」
黒服はその言葉と共に、アビドス砂漠のとある座標を送信してきた。
そこはアビドス砂漠各所に築かれた、カイザーの前哨基地の1つ。
ただし、黒服の言葉が正しければ、ここは既にオリが制圧し、占拠しているらしい。
その目的は……先生に「古代文明の遺産」を渡すため。
関わって来るかもしれない他の勢力にそれを触らせないため、とのことだ。
「あなたの持つその『箱』か、もしくはサンクトゥムタワーの管制権でもなければ、アレは使用できませんが……どうやら彼女は、あなたが道中で突破すべき壁を予め壊しておく道を選んだようです」
“オリ……君は、どこまで”
どこまで、何を知っているのか。
どこまで、先を歩いているのか。
どこまで……ただ一人で進むつもりなのか。
何をいいかけたのか、言葉の先は答えにならなかった。
* * *
オリは……元より先生は確信していたが、キヴォトスの滅びを避けるために動いてくれているようだった。
であれば、先生の今為すべきことは一つ。
彼女の意思に沿い、アビドス砂漠に向かうことだ。
アビドス砂漠。
先生が「シャーレの先生」となって初めて直面した事案、アビドス高等学校の廃校対策委員会の救助要請を受けて向かった先。
ある意味では、始りの場所と言ってもいいだろう。
そう、そこで先生は広い砂漠で遭難しかけ……。
砂狼シロコに救われ、導かれたのだ。
“…………”
アビドスへ向かう電車の中で、先生は思いを巡らせる。
最初の事件。あれから早くも10か月にもなる。
シロコに導かれてアビドスに辿り着き、様々な出会いや事件を経て……。
そして、つい先程、変貌したシロコはキヴォトスから去るように言ってきた。
あの少女が「同じ砂狼シロコ」なのか、先生には区別できない。
確かに先生の知るシロコで、けれど先生の知るシロコではない。そんなおかしな実感があった。
最初に導いたように、最後に、あるいは最期に導くのもまた自分の役目。
シロコのその言葉は、まるで全てが運命だったとでも言うようで……。
……実際、そうなのかもしれないと、先生は思い始めている。
先生にとっての最初の生徒、調月オリは、未来を見ていた。知っていた。
『あの子』……ゲマトリアのオリヒメが夢でもたらす「お話」。それがオリに未来の知識を与えていた。
そしてそれは、細かいズレはあったらしいものの、おおまかに正しかった。
「『あの子』が言ってたからそうなる」「私は運命を変えられない」……オリの言葉を併せて考えるのであれば、つまるところ『あの子』は運命を知っていたことになる。
これまで先生が辿った旅路を。そして、これから歩むことになるだろう未来を。
アビドス砂漠の廃校対策委員会。彼女たちと共にカイザーと戦ったことも。
ミレニアムのゲーム開発部。勇者たちが楽しいゲームを作るために頑張っていたことも。
トリニティとゲヘナ、そしてアリウス。過去の憎しみを振り払い、多くの生徒が未来を向いたことも。
今はなきSRT。自分たちの正義を貫き続けている彼女たちの戦いも。
その全てが運命であり、なるべくしてそうなったのか。
オリはその結末と結実を知って、その上でああして動いていたのか。
アビドスに向かった際は、自分が案内したのにと、そして次からは自分も呼んでい欲しいと言っていた。
ミレニアムでの事件では、時に頼れる味方として力を貸し、時に強力無比な敵として立ち塞がり。
エデン条約の時は、先生に大人のカードを使わせまいと何度も介入して。
SRTの件では……他と違って直接の関係がないからか、殊更の介入はなかった。
思い出してもやはり、オリの行動は常に先生を、そして彼女の妹であるリオを軸としているように思えた。
大切に思う人が余計な負担を負わないように……あるいは、その負担を肩代わりできるように。
自分勝手で利己的と己を語りながらも、彼女はいつも、誰かのためにばかり走り回っていた。
……では、その上で。
オリは今、長期的に見て、何のために動いているのだろうか。
この、色彩の嚮導者という存在が起こしていると思しき一件。
ミレニアム、エリドゥでの一件以来その身を隠していたオリは、この事件が始まると同時、数か月ぶりにその姿を見せ始めた。
最初は恐らく、ヒナへの接触。それによるカイザーによる拉致の防止。
あるいはもっと早くメッセージを受け取っていたのかもしれないが、それが有用に作動したのはやはりこの件が始まったタイミングになる。
彼女がヒナに情報をもたらしたことによって、ヒナたちはあの時シャーレを訪れ、先生は助けられた。
次に、緊急招集会議前夜の、サンクトゥムタワーでの騒ぎ。
深夜に凄まじい轟音と振動が響き、何事かと駆けつけた先には、何かが叩き付けられたような破壊痕と、何よりひしゃげた狙撃銃の銃弾が転がっていた。
先生が辿り着いた時、既にそこには誰もいなかったが……。
弾速マッハ2を数えるスナイパーライフルの弾丸をひしゃげさせ、叩き落とせるあまりにも不条理な人物。キヴォトス広しと言えど、先生はそれを一人しか知らない。
何者かによる襲撃を防止したのは、ほぼ間違いなくオリだろう。
そしてそれらが波及した、緊急対策委員会の設立。
客観的に見て、現在連邦生徒会は各学園の自治区から、全くと言っていい程に信頼を得ることができていない。
もしも先生がカイザーに攫われれば、あるいは深夜の襲撃を受けていれば……つまりは第三者の立場として招くと公言していたはずの先生が会議に出なければ、それぞれの自治区からの印象は相当に悪くなるだろう。
キヴォトスの生徒たちは、なんというか、元気な子が多い。最悪の場合、緊急対策委員会の設立どころか、終末の危機の伝達すらできなかった可能性もある。
次は……オリヒメではなくオリの行動に限れば、虚妄のサンクトゥムが立ち上がった後の、先生の「大人のカード」の使用の防止になる。
D.U.自治区の安全を確保するために、オリは先生の指揮の下、数十分と戦い続けてくれた。
ただし、覆面を被って、無関係な「覆面水着団6号」を偽ってのものではあったが。
先生は関係しないことだが……先生たちが虚妄のサンクトゥムの攻略に取り組んでいる間、同じく「覆面水着団6号」として様々な自治区を駆け巡り、発破をかけて回っていたらしいこともわかっている。
前述の通り、キヴォトスの生徒たちはとても元気だ。言い換えてしまえば、反骨精神が強いとも言える。
オリに煽られ、多くの自治区の生徒たちが必死になって戦い……。
結果として、虚妄のサンクトゥムから現れる敵たちによる被害を抑えることができたと聞いた。
そして最後に、アビドス砂漠の古代文明の遺産の確保。
黒服はこれを、先生が突破すべき壁を予め壊しておく道を選んだ、と表現していた。
そのまま解釈するのなら、ここを占拠していたらしいカイザーの兵を薙ぎ倒し、安全を確保してくれているのだろう。
彼女のそれらの行動には、間違いなく、何らかの意図がある。
短期的に言えばそれは、先生やリオ、そしてキヴォトスに住む生徒たちのためなのだろうが……。
“……それだけじゃないはず”
ぼそりと、車両に一人きりなのを良いことに、先生は本心を漏らした。
調月オリは善性を持ち、誰かのために動くことのできる少女だ。
けれど、それだけではない。それだけで量れる程に一側面的な生徒ではないと、この1年で先生は何度も思い知った。
オリの行動は、他者のためであると同時……恐らくは自らのためでもある。
彼女はこれらの行為を通して、何かを得ようとしているのだ。
己の求める結果。己の求める承認。己の求める成果。あるいは……「この世界に生まれるはずじゃなかった」と自嘲気味に語った彼女の、レゾンデートルを。
他者を救うことによって、自分が救われる。これ自体は、決しておかしなことではない。
ボランティア活動や人助けなどは、本質的にはそのためにあると言ってもいいものだ。
けれど……オリのそれは、少しばかり、常軌を逸している。
他者に尽くすことを是とする程の聖人でもない彼女は、何かしらの強い目的意識がなければ、目指している最終的な目的地点がなければ、ここまで強く利他的な行動を起こすことはできないだろう。
であれば、それは何なのか。
“……結末の、転換”
いつか、オリヒメが語った言葉を思い出す。
彼女は言っていた。この世界には辿るべき結末があると。『色彩の嚮導者』がやってくる、その時こそが終わりの時だと。
そしてその時に、物語の結末を、自分好みに塗り替える。
それが自分の唯一無二の目的なのだ、と。
あるいは……オリヒメに物語、運命を教えられたオリもまた、それを目指しているのだろうか?
オリヒメがやろうとしている転換ではなく、彼女自身もまた、何かを為そうとしている?
この事件がどのような結末を迎えるか、未来の知識を持ち得ない先生にはわからないが……。
仮にその仮説が正しいとすれば、あまり、良い最後になると思えなかった。
オリはいつも誰かを助けようとしていたが……。
先生から見れば、彼女は、というか調月姉妹は、とても不器用だ。
誰かを助ける方法を、自らの身を切る以外に知らない。
境遇からして仕方ないのかもしれないが、誰かを頼って負担を軽減するという思考を持ち得ない。
そんな彼女が、ここまで強く求めることとは何か?
そのために切り捨てるものとは何か?
先生は湧き立つ不安を抑えながら、窓の外のアビドス砂漠を眺めた。