「アトラ・ハシースの箱舟占領作戦」。
各自治区の有力な生徒たちが集まった緊急対策委員会の次の作戦は、そうそう命名された。
空に浮かぶ構造物、「アトラ・ハシースの箱舟」。
どうやら虚妄のサンクトゥムの発生原因となっているらしいこれに、ウトナピシュティムの本船で直接乗り込み、内部を制圧、内部装置をクラッキングして虚妄のサンクトゥムの再生を止め、停止もしくは自爆させる。
これがおおまかな作戦要綱となる。
……言葉にすれば簡単ではあるが、壁は決して少なくない。
まず差し当たっての問題は、アトラ・ハシースの箱舟の表面を覆う、「状態の共存」による防御膜。
物理的干渉に対し「当たった」可能性と「当たらなかった」可能性を並列させ、その内好きな方を任意に選び取れると思しきこれは、おおよそあらゆる物理的干渉を無効化する。
現状のままであれば、ウトナピシュティムの本船に乗って突っ込めば……運が良くても船から弾き出されて地上75,000mから落下。運が悪ければ原子レベルでバラバラに分解されかねない。
が、これには既に対抗策がある。
ウトナピシュティムの本船には膨大な量の、そして現在のキヴォトスでは再現不可能な程に高精度な演算装置が積まれている。
これによってアトラ・ハシースの箱舟の被膜と同じ「状態の共存」状態の波形を再現することで、このバリアは理論上突破することが可能だろう、とのことだった。
「……とはいえ、これはかなり難しいと言えるでしょう。
皆さんのサポート下、現地にいる私とミレニアムのリオが協同で事に当たっても……「状態の共存」を再現し突破できる確率は、良くて30%。総合して、作戦成功率は6%といったところでしょうか」
『現状、変数が多すぎて予測が困難な状態よ。
「色彩」という不可思議な観念、それによって変質したと思われる砂狼シロコ、アトラ・ハシースの箱舟にいるという「色彩の嚮導者」、多次元解釈的な状態の共存によるバリア、復活を前にしている虚妄のサンクトゥム……現在のキヴォトスには、余りにも驚異と不明が多い。
確実にプラン通りの作戦を遂行できるとは限らないわ』
少々心苦しそうに言うヒマリに、淡々と事実を羅列するリオ。
それに対し、緊急対策委員会の長であるリンは、静かに首を振った。
「……それでも、やるしかありません。
虚妄のサンクトゥムを放置していれば、近くキヴォトスは滅ぶでしょう。だからと言ってこれを破壊しても無意味。あのアトラ・ハシースの箱舟という根本を叩く他、キヴォトスを存続させる他ないのです。
8時間後、夜明けと共に作戦を開始します。それまで皆さん、体を休め、最後の決戦に備えてください」
* * *
生徒たちはそれぞれ皆、地上最後の夜を思い思いに過ごしていた。
アビドス廃校対策委員会の面々は、便利屋68と共にこの作戦に参加し、アトラ・ハシースの箱舟にいると思しきシロコの奪還を誓い。
ユウカは、ミレニアムに残ったリオに「絶対に変なことはしないでくださいよ!?」と念を押した後、同僚であり友人でもあるノアに彼女の監視を頼み。
ゲーム開発部は……遊び感覚で来てしまったことを少しだけ後悔し、けれどアリスが「世話になった先生に少しでも恩返しがしたい、自分にできることがあるならそれをしたい」と望んだことで、部長のユズが「みんなで一緒に行こう」と改めて作戦への参加を決め。
ハナコは、エデン条約の一件で得難い友人となった補習授業部の面々に挨拶をしに行き、これまでに起こった奇跡のような毎日に想いを馳せて、必ず戻ると約束し。
アコは、地上に残すと決めたヒナに対し、この上ない信頼を以てゲヘナの平和を託し。
……そうしてリンは、どこかに消えてしまってから既に1年が経過した連邦生徒会長のことを思い出し、あるいは今から自分もそうなるかもしれないと、地上に残る連邦生徒会の中で最も信頼のおけるアオイに全権を託すような言葉を残して。
それぞれの夜が更ける。
ほんの一時の平穏、一瞬の静寂の中で、けれど替えようもない大切な時間が過ぎていった。
……そして、そんな生徒たちの横で。
先生もまた、この地上での思い残しを解消しようとしていた。
コトリコトリと足音を響かせ、先生はカイザーの基地を出る。
そうしてアビドス砂漠に出て、星空を見上げながら、ボソリと、呟いた。
“いるんでしょ、オリヒメ”
……砂漠の地平の上、蟠っていた闇が集まり、形になるような錯覚。
先生が瞬きのためにまぶたを閉じた刹那の後……そこにはやはり、彼女がいた。
ゲマトリアの中でただ一人、変貌したシロコによる被害を逃れた者。
「オリヒメ」と名乗る、オリの体を使う大人が。
「……酷い御方ですね、あなたは。
『ゲマトリアのオリヒメ』は、既に舞台から退場した身。不必要なファクター、運命を乱すノイズに過ぎない。
それなのに、あなたはまだ私を使おうというのですね。
ただ黙して、あの子を救い上げてくだされば良いのに……これでは悲劇でもなんでもない。ナンセンスなファルスですよ」
無表情にそう告げるオリヒメに、先生は言葉を投げ返す。
“舞台も、運命も、どうなったっていいんだ。それは彼女たちが、彼女たちの意思で紡ぐ物語だから”
“私はただ、私にできる限りで、それを支えるだけだよ”
「……ふふ。ええ、実にあなたらしい決断です。あなたは、それで良いかと」
オリヒメは一転して、酷く機嫌良さげに、そう言って笑った。
「それで? 私に聞きたいことがあるのでしょう?
……ええ、これが本当に最後の機会でしょう。せっかくです、どうぞ、存分に私をお使いください」
慇懃無礼に礼をするオリヒメに対し、先生はすぐさま疑問を口にした。
この1年で、何度も疑問に思っていたこと。
あるいは、調月オリという少女の、核心の一つ足り得ることを。
“あなたとオリのことについて、聞きたい”
オリと同じ体を共有する、あるいは彼女の体に寄生する存在、オリヒメ。
果たして彼女たちは、どのような関係なのか。どうしてそのような状態になったのか。
それは恐らく……調月オリという生徒を構成する、最も大切な根幹の一つ。
尋ねた先生に対し、オリヒメは一度先生に背中を向け、空を見上げた。
砂漠の空は澄んで、星空がよく見える。眩しく輝く、満点の星々がオリヒメの視界を焼く。
それに、彼女は心地良さそうに目を細めた。
「……そう。丁度、こんな景色でしたね。
私がこの世界に、キヴォトスにやってきて、最初に見たのは」
* * *
「ソレ」がこの世界に漂流して最初に見たのは、星のようなたくさんの輝きだった。
魂、と。
陳腐な言葉で表現すれば、それが適切になるだろうか。
神秘。もしくは崇高。あるいは……生徒と、そう呼んでもいいかもしれない。
それはキヴォトスという宙に数多く、何十何百と輝いていた。
その時点において、光と似て非なる観念であり概念でしかなかった彼女にとって、質量的実在を持たないそれらは感覚的に光のように思えたのだ。
その時点で、ソレにはいくつかの選択肢があった。
光になり替わることもできた。……ソレからすれば、あまりにも冒涜的で、決して選ぼうとは思えない選択肢だった。
新たな光として生まれることもできた。……ソレからすれば、苦笑を漏らしてしまう程に理想的で、陳腐な未来ではあったが。
ただ光を観測し続けることもできた。……ソレからすれば、あるいは最も理想的で、至りたい未来だったかもしれない。
満天の星々の中、ソレは自らの未来を決さねばならなかった。
故に、少しでも多くの情報を得ようと、光を眺め、自らの記憶と照合していき……。
そこに、一つの、知らない輝きを見た。
赤く、鈍く輝く、合理の光。
そのすぐ隣に、並び合うようにして在った……割れた青い光を。
「先生。あなたの知っての通り、調月リオと調月オリは真逆の性質を持っています。
リオが合理と条理であれば、オリは非合理と不条理。リオが頭脳と理屈であれば、オリは力と激情。
彼女たちの神秘と恐怖は、全ての崇高は、常に真逆にある……」
そこまで語り、オリヒメは星空から先生へと視線を戻す。
同じ色合いでありながらもオリとは違う瞳が、真正面から先生を見据え、誤謬を正した。
「……と、あなたは現時点で、そう解釈しているかと思いますが。
この表現は、適切ではありません。因果が逆なのです」
オリヒメは、自らの胸に手をかざす。
調月オリの体。……本来キヴォトスに存在するはずのない、そして存在できるはずのないそれに。
「調月オリの、真の本質は……『逆説』、なのですよ。
物質と合理の象徴であるミレニアム、その長である調月リオ。彼女がそこに存在する時点で、王国の実在を詳らかにするための存在証明と共に、逆説の証明が行われる。
調月リオを光とするのなら、調月オリは影。リオは自らの存在によって『実在』を証明し、オリは自らの不在を以て『虚実』を証明する。それによってこそ、全ての存在は確かなものとなる。
それが彼女たち、相互に補完し合う相補性の美。物質的世界を成立させしめる、そのための運命を持った一対の存在証明。
つまるところ……誰かを『正』とするための、必要悪の如き『負』。それが調月オリという存在なのです」
……先生がその言葉を完全に理解できたかと言えば、それは否だろう。
しかし、理解できることは、確かにある。
“……オリが生まれるはずじゃなかった、っていうのはそういうこと?”
「ええ、その通りです。ご理解が早いようで何よりですよ。
実在の反対は不在。完成の反対は欠落。彼女の神秘は、そもそもの定義からして破綻している。故にどうしたってこの世界には生まれ得ず、必ず……死産する。
ただ『そこに生まれるはずだった』という事実を以てして、調月リオの逆説証明を行う。そういった舞台装置……いいえ、エッセンスとしてはアビドス砂漠に散ったあの少女に近しいですか。
調月オリは、そんな運命にある少女なのですよ」
“…………”
彼女の言葉は曖昧模糊で捉え難いではあったが、その大枠を掴めない程でもない。
特に……「アビドス砂漠に散った少女」という言葉。
それは、2年前にオリとホシノが味わったという、未だ先生が知り得ないアビドス砂漠の事件を想起させた。
そして、以前オリから聞いた、「私は本来生まれるはずではなかった」という言葉。
それは今や、「運良く生まれることができた」とは、全く別の意味合いを持っている。
「私は……ええ、キヴォトスへと至る際に、いくつかの選択肢を持っていました。
既存の光となるか、新たな光となるか、光を見つめるか……あるいは、光を歪めるか。
私は最後を取った。不完全で欠損し、生まれることのできない光を歪め……その本質の一つを奪った。
『世界に生まれることができない』という本質をね」
それの意味するところは、明白だ。
つまるところ……「『あの子』のおかげでこの世界に生まれることができた」というオリの言葉は、真実だったのだろう。
それは嘘ではなく、外科手術を受けたのでもなく、もっと抽象的で、けれど本質的に……。
調月オリは、オリヒメの存在なくしては、そもそも生まれ得なかったのだ。
「……ですが。それを為すには、私の持っていた力の大部分が必要でした。
ある意味では当然でしょう。生まれなかった人を一人、この世界に誕生させるのです。
命一つに釣り合うのは、命一つのみ。故に私は、持つはずだった体を失い……調月オリの欠損し続ける神秘を補うためのパーツとして、彼女の神秘に組み込まれた。
いいえ……自らの意思で取り込まれたのですから、この表現は正しくないのでしょうがね」
そして、今なお……。
調月オリの神秘は、その存在は、欠損し続けているのだ。
この世界に存在できないもの。
この世界にいるはずのないもの。
調月オリが「そう」である以上、彼女の神秘自体が、自身の存在を損耗させてしまう。
オリヒメはその神秘の中に、自ら不純物として溶けることで、影響を軽減させている。
「非存在」であるオリの中に、「実在」であるオリヒメがあることで、まるで楔を打つように、この世界にその存在を留めさせているのだ。
そんな歪な状態だからこそ、オリは対外的な衝撃やダメージにまでも弱かった。
少しでもその神秘が損耗すれば、それだけで致命的になってしまう可能性を秘めているのだから。
先生はそれらの情報を整理した後……。
一度まぶたを閉じ……頭を下げた。
「それは?」
“……あなたのおかげでオリが生まれて来られたのなら、私はそれに、心の底から感謝したい”
“オリをこの世界に産んでくれて、ありがとう”
その言葉に、オリヒメは……。
ずっと浮かべていた微笑を消し、呆気に取られたように両の目を見開いた。
「なるほど……なるほど。そういった捉え方もあるのですね」
そうして彼女は再び、先生から視線を逸らし……空を見上げる。
満点の星々を。彼女が最初に決断を下した理由に近い、その景色を。
「…………ふふ。後悔も反省も、したことはありませんし、するつもりもありませんが。
しかし、ええ……自らを肯定できたのは、久方ぶりかもしれませんね」
Q.よくわからん、つまりはどういうこと?
A.もうちょっと先でわかりやすく語られます。
(追記)
誤字報告をいただき、訂正させていただきました。ありがとうございました!