キヴォトスに残る古則の6「非有の真実は真実であるか」
深夜のアビドス砂漠で向き合う二人。
先生とオリヒメは、言葉を交わす。
「調月オリ。彼女は、本来ならばキヴォトスに実在できない生徒です。
私の知る歴史、私の知るキヴォトスにおいても、彼女は存在しなかった。その名を語られることすらなかったことからして……恐らくは、存在ごと葬られたのでしょう。
あなたには妹がいたはずだった、なんて……そんなことを語る意味は、ありませんからね」
“……あなたの知るキヴォトス、というのは”
尋ねられたオリヒメは、ほんの一刹那だけ言い淀み、けれど答えた。
「多次元解釈。ここで語られるそれは即ち、世界とは並列して存在し得るという理屈です。
もう少し、あなたからわかりやすい言葉を使うのなら……並行世界、ですか。
あなたが……いいえ、決して選択を誤らないあなたは、例えとして適切ではないですね。あなた以外の全ての人間が取った選択、それによって未来は無数に分岐する。
そしてそれは、あのバリアが明かすように、無限にも等しい多数の世界を生んでしまう、と」
“あなたは、別のキヴォトスの可能性を見た……と?”
「別の、可能性。……あの子たちを思い出す、素敵な言葉です。
どう解釈するかはあなた次第ですが……私は確かに、こことは別の、けれど非常に近いキヴォトスを知っている、とだけ」
可能性だけ仄めかし、明言を避けたオリヒメ。
それが望まぬ話題であることを悟り、先生は話題を変えた。
“それが、オリに語っていた未来ということ?”
「ええ……彼女が知っていたそれは、私の知るキヴォトスの知識です。
彼女の他に絶対がある以上、未来が大きく歪むことはないと認識していましたが……やはりあなたが現れてからは、幾らか私の知る未来から外れることがありました。
流石は一次的な絶対者……青春の物語の本来の主人公、と言ったところでしょうか」
先生は、その言葉に思わず眉を寄せる。
主人公。自分はそんな大したものではないと、先生は自認していた。
もしもそう呼べる者がいるのなら、それは青春の中を生きる生徒たちであるべきだろうと。
そう考える先生を前に、オリヒメは……いつもの笑みとは違う、「仕方がない人」とでも言いたげな苦笑を浮かべた。
「あなたが何を考えているか、手に取るようにわかりますよ。
ですが、自覚と役割りというものは得てして別にある。あなたが主人公たり、絶対者たることは、決して変えられない定めです」
“……その絶対者、というのは?”
聞き覚えのある、けれど明白ではないその言葉。
尋ねれば、オリヒメは少し虚ろに、空中へと目をやった。
「……絶対。それは相対の対義語であり、他と比べられないことを意味する言葉です。
生徒は、絶対ではない。同じ生徒たる者たちが複数おり、個性こそ違えど他の生徒と比べることができる。
ですが、あなたは違う。この世界にただ一人、生徒たちの信頼のおける大人であり、もう一人の一次的絶対者たる彼女から全権を委託された人であり……あるいは、『観測者』たちにとってメインとなる視点。
決して他と比べられないただ一人のあなたは、だからこそ運命を変えられる数少ない人間足り得る。
私やオリといった、『本来存在しない
……まぁ、結局のところ、デカグラマトンはあなたを絶対者たるとは認めませんでしたが」
“デカグラマトン……”
「自らを絶対的存在と規定し、その証明を行う特異現象、デカグラマトン。
証明を続ける彼にとって、二次的な絶対者である私は、相対者……他と比べられる、しかし比べるに値する価値を持つファクターの一つ。
アレは私の去来を観察するために、その最期の時を……。
……いえ、少し話が逸れましたね。申し訳ありません、私はどうやら舞い上がってしまっているようです。感情の制御も効かないとは、お恥ずかしい」
オリヒメは一度表情を消し、まぶたを閉じて……改めて、話を始める。
「……話を再開しましょう。絶対者の話を。
絶対者は、この世界の中心であり、主人公。この存在の選択だけが、この世界の運命を乱し得る。
しかし、そこにはただ一つの条件があります。……絶対者が、ただ一人であるという条件が」
さく、さく、と。
オリヒメがゆっくりと先生を中心として歩く、その歩調に併せて砂漠の砂が沈む。
その足音を除けば、周りからは一切の喧噪が聞こえない。
すぐ近くには生徒たちの詰めているカイザーの基地があるはずなのに、嘘のように静かだ。
まるでただ二人だけが世界から切り離されたかのような、あるいはこの世界に二人だけしかいないかのような、奇妙な感覚が先生を襲う。
「絶対者は、複数存在してはならない。その時点で絶対ではなく、相対になってしまうから。
絶対者が2人以上存在すれば、その絶対たる権能は失われてしまう。運命を歪めることも不可能となる。
要するに……この世界では、ダブル主人公は成立しないのですよ。必ず、主人公は一人であらねばならない。
とはいえ、この件に関しては、あなたは気にせずとも結構。一次的な絶対者は、現在キヴォトスにあなたただ一人。あなたの選択次第で、運命は如何様にでも変わるでしょう」
“では……一次的と二次的な絶対者は、それぞれ干渉し合わない。そして、二次的な絶対者は、君以外にも存在する、と”
「ええ、お察しの通りで」
オリヒメ。
再び先生の前に現れた彼女が、無駄な話などするわけがない。
先生は、殆ど確信していた。
彼女は先生の呼びかけをナンセンスだと罵りながらも、けれどそれを予期していたのだろう。
確かな意味を持って、彼女自身の意志で以て、先生の前に現れたのだ、と。
ゲマトリアのオリヒメは、既に舞台から退場した。その必要がないと、彼女は語っていた。
しかし……その言葉を借りるのならば、「ゲマトリア」でも「オリヒメ」でもない「彼女」には、届けるべき言葉があるのだろう。
果たして彼女は、自らの胸に……調月オリの胸に手を当て、言った。
「二次的な絶対者。それは私と……そして、オリです。
あなたは幾度か、オリにこう言われたはずです。『自分には運命を変えられない』と。
実のところ、その理由はただ一つ。オリは、私がいるからこそ、運命を変えられないのです。私がいるから、彼女は真なる二次的絶対者たり得ない。
それが……彼女が自らの心を殺してしまった理由、その真相ですよ」
“…………”
オリは、苦悩し、絶望していた。
自分は『あの子』から未来を聞いていて、けれどそれを変えられないのだと。
本来存在しないはずの自分は、キヴォトスに必要ともされていない自分には、それができないのだと……。
そう言って、酷く悲し気な苦笑を浮かべていた。
それだけならば、先生は、オリヒメを責めるべきなのだろう。
あなたのせいで、彼女は真の意味でこのキヴォトスで生きられないのだと、そう断罪すべきなのだろう。
けれど……。
“……あなたがいなければ、オリは”
「生まれていないでしょうし、生きていないでしょうね。
それは彼女にとって、何の慰めにもならない事実でしょうが」
オリヒメは、無表情に吐き捨てた。
調月オリがこの世界に産まれるために、オリヒメの存在は不可欠だった。
同じくその生存と実存の続行に、オリヒメの存在は不可欠だ。
けれど、オリヒメがそこにいる限り……オリはこれまでもこれからも、永遠に何も為し得ないという無力感に苛まれることになる。
彼女はこれからも、この世界に必要とされない、いてもいなくてもいい存在として絶望し続ける。新たな可能性も未来も、彼女は得ることはない。
それは……先生として、許容できる話ではなかった。
しかし同時に、決して避けられない命題でもあった。
「調月オリは、非存在……非有の者。
彼女にとって自己の存在証明は、他者を救済し、運命を変えることに他ならない。
誰かを救うことによってこそ、この世界に自分がいるのだと、いていいのだと、彼女は知ることができる。
……逆に言えば。今はまだ、彼女は生きてなどいないのです。
このキヴォトスに生まれついて、ここで生存しておきながら……彼女は自らの人生を見つけていない。欠片だって青春を楽しめてはいないのですから。
非有による証明は、真実足り得ない。彼女は未だ、実在という真実に至っていない」
それは、キヴォトスに伝えられる古則の一つにも似た呪い。
調月オリの神秘が、そもそも前提として破綻していたように……。
彼女が生きるためには、その人生の意義を放棄しなくてはならない。
彼女に正しい意味で生きる道など、最初から存在しなかった。
その事実に直面して、先生は、眉をひそめる。
「……オリを、憐れに思いますか?」
“いいや”
“オリは、自分の人生を必死に生きてる。それを見下すことはできない。けれど……”
「けれど?」
“……己の無力を呪う。私はオリに、何もしてあげられない”
先生の手には、奇跡を為すための道具がある。
「大人のカード」と呼ばれるもの。然るべき対価を払うことで、それまでの道程をショートカットして奇跡を引き寄せる、等価交換の手段。
けれど……これを使うわけにはいかない。
“私がこれを使ってオリを救えば……それはエゴによる、心の殺人だ”
「その通り。あの子は自らの命を使ってでもあなたを救おうとする……それなのに、さかしまにあなたが自らのために命を削れば、それは完膚なきまでの証明の失敗。彼女にとっては死より残酷な生の否定だ。
あの子の為に、その身を削ってはなりません。……少なくとも、今はまだ。それは致命的な結果を招いてしまいますからね」
だからこそ、先生は自らの無力を呪ったのだ。
先生は、オリに対して何もしてやれない。
オリヒメによる、生命維持を肩代わりすることも。
オリの求める存在証明、その手伝いをすることさえも。
積極的な肯定と否定。そのどちらを選んでも、オリの心か体、どちらかが死ぬことになる。
故に……先生はただ、彼女の行動を黙認する他ない。
唇を噛みしめる先生に対し、オリヒメは宙を見上げ、口を開く。
「……あなたに一つだけ、教えておきましょう」
彼女の見上げる先には、星がない。
ただぽっかりと、真っ黒な円だけが見える。
そこにあるものを、全ての決着の場所を思い……彼女は呟いた。
「空の果て、75,000m。そこで、必ず一つ、犠牲が出る」
“……それは”
先生は、半ば直感的に、オリヒメの意図を汲み取る。
同じ大人として、これまでに得た情報や彼女の浮かべた表情から、その言葉の裏にあるものを理解した。
オリヒメの方も、先生がそれを理解したことを見て、一つ頷く。
「……改めて。ゲマトリアのオリヒメ、歪みの乳母ではなく……あの子を歪に産み落としてしまった『私』として、『あなた』にお願いしましょう。
オリを……私だけでは救いようのないあの子を、私の間違いが生んでしまった悲しい生徒を。
どうか、よろしくお願いします」
“…………”
先生は、言葉では応じなかった。
ただ、その目で以て、その意志に応える。
「……ふふっ、あるいは、これが……そうですか、確かに、託すに能う」
独り言を漏らしながら、オリヒメは再び、先生に背を向けた。
「さようなら、先生。……私の愛した、カッコ良い大人」
その言葉と共に。
オリヒメという名で呼ばれていた存在は、このキヴォトスから、今度こそ完全にその姿を消した。
* * *
そうして、夜が更け……明けて。
ついに、運命を決する日がやってきた。
キヴォトスの生徒たちは、キヴォトスの平穏を守らんがために空の彼方を目指し。
先生は生徒たちの明日を守るべく、責任者としてそれに帯同し。
ただ一人は、自らの目指す結末の転換のため、それに便乗して。
各々の明日への希望を乗せて……。
ウトナピシュティムの本船が彼方を目指し、その巨体を持ち上げた。
アビドス3章より本作のプロット決定の方が早かったのですが、まさか公式とちょっとだけとはいえネタ被りするとは思いませんでした。
非有の真実は真実であるか……存在しないモノを想うことは、果たして現実を超えてなお価値を持つか。
非有による証明は真実足り得るか……存在しない者が為したことは、果たして現実に影響を与え得るか。
アビドス砂漠で心底までの失意を味わった2人が、近しい主題に囚われるというのも……なんとも因果な展開になったな、と思います。
(追記)
誤字報告を頂き、訂正させていただきました。ありがとうございました!