アトラ・ハシースの箱舟に突き刺さるようにして乗り上げた、ウトナピシュティムの本船。
その中に、虚空の穴を通って現れようとしたシロコを、強制的に外へ叩き出したのは……。
先生やリオたちが探していた、調月オリ、その人だった。
……しかし、その正体に勘付いた先生たちとは異なり。
掴まれた手首から吊り下げられるように壁へ押し付けられるシロコは、痛みと共に困惑の表情を浮かべる。
彼女の脳裏にある、キヴォトスの生徒たちの顔。そのどれとも、目の前の少女は一致しない。
しいて言えば、ミレニアムのビッグシスター。シロコの襲撃に最後まで抵抗していた少女の一人が非常に近いが……その表情は、全くと言っていい程に一致しない。
シロコが知らない生徒など、いるはずがなかった。
その顔も、強さも、言葉も、感触も。その全ては、シロコの記憶に染み付いて離れない。
少なくとも、
故に、シロコは、尋ねた。
「……あなたは、誰?」
その言葉に。
余裕を繕った、けれどどこか必死の形相でシロコの手首を締め付けていた少女は、まるで痛みでも感じたかのように表情を歪めた。
「……は、は。いやぁ、直接言われると傷付くな」
一瞬、手首にかけられた力が弱まる。
シロコはその隙を見逃さなかった。
残された片手で手榴弾のピンを抜かないまま、投擲。
咄嗟にそれに対処しようと緩められた手の脅威から逃れ、滑るように取り落としたアサルトライフルを拾い、相手のいた場所へと向ける。
……しかし、その時には既に、オリの姿はそこになく。
「ぐっ!?」
脇腹に、鋭い激痛。
食い込んだ爪先に体を折った彼女の腕が、再び捩じり上げられる。
「ぐっ、う……!」
「……ああ、本当に、私のこと知らないんだね。ま、わかってたけどさ。
「っ、あなた、なんで……!」
シロコの漏らした疑問には応えず、手首に籠る力が強まる。
このままでは折られる、とシロコがそう思った瞬間……。
背後に、再び、虚空の穴が開く気配。
それと同時、ほんの少しだけではあるが、彼方から力が注がれる感覚があった。
「ふッ!」
その力を使い、シロコは力任せにオリの手を振り払って、ワームホールへ飛び込んでその場を離脱。
後を追おうとしたオリの前で、しかし即座に、玉座へと繋がっているのだろう穴は閉じてしまった。
「……逃がしたか。やっぱり、『あの子』と『アレ』の力は、私じゃどうしようもないね。
存在も把握されちゃったし……ちょっとだけ、マズいかな、これは」
残されたオリは、そう呟き……。
背後の、ウトナピシュティムの本船へと振り返った。
より正確には、その中から向かってくる、何人かの生徒たちに。
「さてと……どう、言い訳したもんかな」
* * *
ウトナピシュティムの本船。
シロコの襲撃を退けた後、オリはここで囚われの身となった。
より正確に表現するなら、先生とオペレーターの生徒たちの前で、正座を強いられていた。
“……やっぱり、船のどこかに乗っていたんだね、オリ”
先生の問いかけに対し、オリは苦笑いしつつ、正直に答える。
「はい。こそっと空間転移で演算装置のスペースの隙間に入って、便乗させてもらってました」
ウトナピシュティムの本船の内部容量、その75%は、演算装置によって埋まっていた。
当然そこには、僅かばかりの間隙、機構の関係上空いたスペースがある。膨大な空間の中には、人1人がすっぽり収まる広さを持つものすらあった。
勿論、本来人が入ることを想定しているものではない。そこに入り込むような道などありはしないが……空間に縛られないオリには道筋など必要ない。直接飛び込めば良いだけの話だ。
「まぁ、オリがこのような面白おかしい……もとい、重大な状況を逃すとは思えませんし、何かしらのアクションは取って来るかもしれないとは思っていましたが」
ヒマリが呆れた溜め息を吐いた直後、通信機の向こう、リオが重い口を開いた。
『……何故、今まで雲隠れしていたの?』
「ん……まぁ、その方がミレニアムにとって得だから?」
『オリ』
「ごめん。言いたくない。怖いから」
『……質問を変えるわ。何故、隠れて本船に乗り込んだの? 私たちにその存在を告げて、戦力として堂々と乗り込めば良かったでしょう』
「リオちゃんが反対するじゃん。先生も嫌がるだろうし」
『…………』
リオは、その淡々とした返答に言い返せなかった。
もしもオリがその姿を現し、ウトナピシュティムの本船に乗り込もうとすれば……実際リオは、間違いなく止めていただろう。
ただでさえオリは、あのエリドゥでの事件で全ての泥を被り、自己を犠牲にして事を収めたのだ。
これ以上危険な戦場に身を投じる必要はないと……リオは、彼女らしからぬ非合理的な選択を取ったはずだ。
そして先生としても、明らかに不穏なことを企んでいるオリをここに連れて来ることは、本意ではない。
とはいえ先生は、どのような形であれ、生徒の意志を強制的に曲げることはない。
彼女が強くそれを望むのであれば、無理に止めようとはしなかっただろうが。
『もう……心配をかけないでちょうだい。あなたは、私の、姉なのだから』
せめてもと、そう願ったリオに対し……。
「…………ごめんね、リオちゃん」
オリはただ、そう呟くだけだった。
しばらく続いた沈黙を破ったのは、正座した状態から立ち上がり、ぱんぱんと太腿を叩くオリだった。
「……ま、なんだ。色々言いたいこと、聞きたいこととかあるだろうけどさ。ひとまず今は、そういうこと言ってられる状況じゃないでしょ。
アトラ=ハシースをなんとかしなきゃ、虚妄のサンクトゥムがどうしようもなくなって、キヴォトスは終焉を迎える。それは控えめに言って、考え得る限り最悪の未来だよ。みんなにとっても私にとってもね」
「……私たちとしては、なんでブリーフィングに参加したわけでもないオリがそれを知ってるのか、とっても気になるんだけど?」
ツッコミを入れるユウカの声を無視し、オリは周りを見回す。
「ま、私は一応テロリストなわけで。乗船券も切らずに密航したのもあって、あんまり信頼はないかなーとは思うけどさ。
今回の件で暴れるつもりとかもないし、ぶっちゃけみんなも選り好みする余裕はないでしょ? 1人でも、1つでも戦力は欲しいはずだ。
だから、純粋に戦力として運用してもらえればなーって思うけど、どう?」
どこかふざけたような言い方で首を傾げたオリに、数秒の思考の沈黙が流れ。
誰も何も答えない状況を見て、ヒマリが疑問を投げる。
「それなら、オリは完全にこちらの指示に従って動いてくれる、と考えて良いのですか?」
「いいよー。少なくともこの舟が終わるまでは、先生たちの指示に従う。約束します。
あ、ただ、私も私で握ってる情報があるからさ、作戦の提案とかはさせてもらうよ。たとえば……さっきみたいに、シロコの撃退のために私はこの船に残る、とかね?
でも、それ以外はちゃんと従う。あのシロコとの戦いの、戦力になる」
オリの提案は、決して無理筋な理屈を通すものではなかった。
彼女にしては珍しく、彼我のリスクやリターンを考慮し、受け入れやすいように相手を慮った言葉。
だからこそ、オリを知らない者たちからすれば、それは自然なものに聞こえ……。
……オリを知る者たちからすれば、少しだけ不自然なものに聞こえた。
しかし、たとえそこに違和感があったとしても……今のキヴォトスに、それを慮るだけの余裕はなかったし。
オリを誰より大切にする彼女には、殊に余裕がなかった。
『……オリのことは、私が監視するわ。だから……どうか、その子の願いを……』
どこか懇願するような響きのリオの声に……先生は、少しして頷く。
“……わかった。それじゃあオリ、よろしくね”
しかし、先生と最も親しくしていた、何人かの生徒は気付いた。
その声が、どこかいつもより沈んで聞こえたことを。
* * *
オリの存在には不審こそ残るが、そちらにばかりかまけているわけにもいかない。
オペレーターたちは、各地でアトラ=ハシースの箱舟の占領を図っている各部隊との情報管制、そして箱舟周囲の警戒や帰還システムの構築といった仕事に戻って行った。
先生も忙しく各部隊の指揮を飛ばし、今は話す余裕はない。
今自由なのは……ケイをウトナピシュティムの本船に託して待機しているアリスと、殊情報戦となると全く役に立てないオリだけだ。
彼女たちはオペレータールームから出て、廊下で話をすることにした。
「オリ、お久しぶりです」
アリスは天真爛漫な明るい笑顔で、オリに笑いかける。
対し、オリは……目を逸らして、床に視線を落とした。
「……アリス。私は、」
「オリ、大丈夫です。アリスは全部わかってます」
アリスは、オリに喋らせなかった。
彼女は既に知っていたのだ。
オリの言葉は、飾り過ぎる。
建前が、無駄が、取り繕いが、大義名分が。あまりに多くのものが加えられすぎて、本来あるべき形からあまりに大きく逸脱してしまう。
だから……あるいは、アリスよりもオリのことを理解しているかもしれないケイは言ったのだ。
オリには喋らせない方が良い。
言葉で鎧を纏う前に、あなたの言葉を届けてほしい、と。
「オリが優しいこと。誰かのために動けること。……リオとアリスと、みんなを全員助けようとしてくれたこと。全部全部、わかってます」
「っ、なん」
「誰よりオリのことを知ってる、リオが教えてくれました。オリはアリスとリオを喧嘩させたくなかったのだと。オリは優しい人だから、恨まないでほしいと」
あの事件以来、リオはアリスに謝罪をしていない。
が、しかし、一切話をしていないかと言えば、そうではなかった。
リオは忙しい合間を縫って、アリスに事の真相を伝えたのだ。
即ち、オリはリオが「ラスボス」になってしまわないようにそれを背負ったのであって、実際にアリスを害そうとしていたのはリオなのだ。
……「だから、恨むなら私だけにしてほしい」、と。
そう、「謝罪」ではなく「お願い」をして、頭を下げた。
「リオちゃん……もう、なんで言っちゃうかなぁ。これじゃ、私が頑張った意味薄れちゃうんだけども」
オリは、後ろ頭を掻く。
それを秘匿することが、オリにとって最大の目的だった。
「リオは悪役ではない」と高らかに叫ぶために、彼女は自らの身を犠牲にしたのだ。
それなのに、肝心のリオが自ら悪者だと名乗り出てしまえば、行動の意味がなくなってしまう。
そう、思っていたが……。
「いいえ。リオが教えてくれたおかげで、アリスにもちゃんとわかりました。
やっぱりリオもオリも、間違ってない。アリスがみんなを守りたいと思うように、リオもオリもみんなを守りたいと思ってくれてたんだと」
アリスの言葉に、不満の声を上げようとする口は止まった。
「…………私は、」
「オリは間違っていません。大丈夫です、アリスが保証します。
誰かを守ろうとする意志を持つ限り、オリは絶対に絶対に、間違っていません!」
「っ……」
否定しようとした言葉を、再びアリスは制した。
アリスの中で、ケイは言っていた。
オリは恐らく、自分に似ている。
自らという存在に縛られているのだと。
『だから、私のように「間違えてしまう」前に、止めたいのです。
……オリには、つい先程も、助けてもらいましたから』
その言葉を思い出し、アリスは懸命に言葉を投げる。
「アリスは、オリが好きです。
アリスと一緒に遊んでくれて、アリスたちのために頑張ってくれて、アリスたちの横にいてくれるオリのことが大好きです。
だから……それ以上、オリに、一人で無理はしてほしくありません」
小さく囁くアリスの目には、明らかに特別な意味が込められていた。
オリはそれに驚いて、目を皿のように見開く。
「! ……気付いてたの? なんで」
「ケイが、言っていました。オリは……その神秘を発散させている、と」
「……そっかぁ。ヘイローが見える先生に気付かれるのは予想の範疇だけど、アリスにバレるとはね。
あーあ、あんな顔させたとはいえ、先生が黙ってくれる以上、他の子たちには気付かれないと思ってたんだけど……ケイちゃん、やっぱりすごいなぁ……」
そこまで呟き、ため息一つ、彼女は俯き、アリスには聞き取れないような独り言を漏らす。
「……救えるなんて、思ってなかった。自分ですら信じてなかった。
救えないから、意味がないから、知られないから……だから、問題ない。そう思ったんだけど……。
なんで今更、私は……もう取り返しようもないのに……もっと、早くに……」
「オリ?」
「……はは。いや、何、投げ出すって覚悟したものも、実際その時になれば躊躇するもんだなってさ」
心配そうに見上げるアリスに、しかしオリは再び綺麗な笑みを浮かべ、彼女の頭を撫でる。
……それを見て、アリスは、半ば直感的に理解してしまう。
オリは……言葉ではなく、決意で以て鎧を纏ってしまった、と。
「アリス。悪いけど、みんなには黙っててくれない?」
「待ってください、オリ!」
「これは、私のやりたいことなんだよ」
その言葉に、アリスの言葉は止まる。
それは彼女を救った、導きの言葉だったから。
「私はさ、ケイちゃんとは違うんだよ。この世界に産まれた時に、役割なんて大層なものは与えられなかった。
私が生まれてきたことに意味なんてなかった。私がここにいることにも理由なんてない。私が生きてる必要はどこにもなくて、私の存在に価値なんて生じない」
「違います、オリ! オリはアリスの仲間です、アリスはオリを求めています! 生きる必要がないなんて、そんな悲しいことを言わないでください!」
「……そうだね。今のアリスは、そう思ってくれるだろうね。
ありがとう、アリス。君の言葉は……本当に、嬉しい」
オリは、そっと、アリスの小さな体を抱きしめる。
穏やかな笑顔で……あるいは、諦めの見える笑顔で。
「でもね……『本当の世界』のアリスは、そうじゃないんだ。
『本当の世界』には、調月オリはいない。存在しない。
でも、調月オリが存在しなくても、みんな問題なく生きていける。幸せになれるんだ」
アリスの背に回された手は、冷たかった。
「みんなは、アリスは、私がいなくても救われる。私がいなくても笑顔になれる。ゲーム開発部の子たちも、ミレニアムの生徒たちも、先生も、みんな青春の物語を歩ことができる。
勿論、その世界の天童アリスは、調月オリを仲間とも必要とも思わない。知りもしないから当然だよね」
アリスの背に回された手には……力を、感じなかった。
「私という存在は、君という存在を変え得ない。利益も不利益も、一切の変化をもたらさない。
私というファクターは、付加価値にならない……必要とされてないんだよ」
虚ろな、空っぽの言葉と笑顔。
けれどそれは、オリの芯だった。
「そっ、そんな……そんなイフの話をされても、アリス困ります!
アリスはアリス、今のオリを必要としてるアリスが全てです!」
今この手を放せば、オリはどこかへと消えてしまうのではないか。
そんな直感を覚えたアリスは、必死に彼女を引き留めようとする。
けれどそれは、あまりにも……あまりにも、遅すぎた。
「そうだね。でも、私にとってはそうじゃないんだよ。
そんなイフの……
全ては、アリスがアリスとして目覚めるよりも、ずっとずっと前に決していた。
祈りであった、一度は救われた、けれど呪いになった、オリの根底を為す「あの子のお話」。
それを聞いてしまった時から、調月オリの精神の指向性は決まってしまった。
調月オリという少女は、変わらない。変われない。
全てが終わり、彼女の望んだ結末を迎えるまでは。
だからこそ、オリは悲し気に目を伏せて、アリスの頭を撫で続けた。
「……こんなことを伝えても、君が辛くなるだけなのはわかってるけど。でも、そうしないと、きっとアリスは納得しないよね。
神ゲーの一番の条件は、プレイヤーが納得できることだから……改めて伝えておくね」
そうして彼女は、残酷な真実を告げる。
「私はあくまで、自分の意志で自分でしたいから、やってるんだ。
これが、『私のなりたかった調月オリ』なんだよ」
「オリ……そんな……」
「卑怯だよね。ごめんね、口が上手くて。リオちゃんと逆だからさ、私」
そうして、ゆっくりとその手を放して。
オリは、囁く。
「全部が終わったら、どうか忘れて。ほんの一時だけ君の隣にいた、いるはずのない誰かのことなんて。
それで、ゲーム開発部の子たちと、先生と、幸せに生きてね。
君たちが幸せに生きることこそ、私の夢で、理想で……そうできるのが、私のなりたい自分だからさ」
無茶を言いおる。
物語でこういう「私のことは忘れて」が通った試しを見たことがないんですよね。