不思議な、けれど慣れ親しんだ感覚に、オリの意識が覚醒する。
……いいや、正確には「覚醒した」わけではないのだろう。
なにせそこは、現実ではない。
オリが毎夜訪れている、夢の世界なのだから。
直前の記憶を手繰れば、思い至るのは……アトラ・ハシースの箱舟。
オリはそこで「子供の封筒」を使って先生を救い……。
先生の帰還を見送った後に、意識が暗闇に堕ちた。
流石に、あれが全部夢幻とは考え辛い。というか、考えたくない。
となれば……ある程度は状況に察しも付くというものだ。
「……ん、んー、あー。ああ……やっぱり、口も喉も動く。感覚も戻って来てるか」
軽く喉に手を当てて発声したり、手や足を動かしたり。
それを以て、先程まで迫っていた死が、感じられなくなっていることを理解し。
オリは……ふうと、安堵の溜め息を吐いた。
「やり遂げた、か。いやぁ……念願叶って燃え尽き症候群、かな」
確かに成し遂げたという万感の想いと同時、どことなく寒々しい感情も去来する心中。
それを言葉で覆い隠そうとするように、オリは口を動かし続ける。
「察するに、これはアレか、走馬灯ってヤツ?
最期の瞬間、意識を失ってから死に至るまでの引き伸ばされた一刹那。
電車の夢を見るのはいつものことだけど、やっぱりちょっと違うもんね」
オリが言うように、彼女が毎夜見ていた「あの子」と話をする電車の夢と目の前にある世界は、少しだけ異っていた。
窓から外に目をやれば、いつもなら流れゆくはずの不思議な景色が、しかし今は停止している。
振動も伝わって来なければ、走行の音もなく、ただ静かな空間がそこには広がっていた。
どうやら現在、オリのいる電車は、停車しているらしい。
走馬灯だからなのかもしれない、景色の変化。
世界の停止……あるいは、停滞。
それは、オリの未来を暗喩しているように思えた。
「なんとなく、ヤな感じ。人生が終わるんだから当然かな?
でもま、痛くも苦しくもない夢の中で終わりを迎えられるのは、私にとっては幸福なのかな。
……ね、あなたはその辺、どう思う?」
オリはへらへらと笑い、彼女の対面に座る少女に問いかける。
空虚な言葉の羅列を黙って聞いていたのは、オリと殆ど同じ姿の少女。
外見上の違いは、ただその後頭部にヘイローがあるかどうかという、それだけ。
彼女こそが、オリが「あの子」と呼んで慕い、かつては「ゲマトリアのオリヒメ」と名乗っていた少女……いいや、女性だ。
優し気で温かい、慈母のような微笑を浮かべていることの多い彼女は……。
しかし今、俯き、その表情を翳らせていた。
「……幸福、であるものですか。
あなたは……あなたは、もっと生きても良かったのに。それなのに、自らの決断で命を落とすなど。
そんなものを、私は
その声は苦し気で、悲し気で、何より少なからぬ怒気が混じっていて。
真正面からその熱量を受け止めることを恐れたオリは、茶化すように肩をすくめた。
「うーん、じゃあ、あなたの言ってたメリーバッドエンドってヤツかな? それとサッドエンドとか?
まあそういう定義は見る人によって変わるものだしね。今から退場する私にとってはどうでもいいかな~って」
軽い口調はそこまでに……オリもまた、譲れない一線で踏み留まり、言葉に重さが宿る。
「私にとってはとにかく、無事に先生を救えたことが全て。
調月オリがこの世界にいたことで、救えたものがあった。悲しむ人が減って、喜ぶ人が増えた。
それなら、私がどう言われたって、どうでもいい。私は私を誇れるから」
まあ、私の破滅にあなたを巻き込んじゃうのは本当に申し訳ないけど、と。
そう付け加えたオリに対し、けれど対面に座る女性は、そこには触れなかった。
ただ、静かな怒りと共に問う。
「本当に、悲しむ人が減ったと、そう思うんですか?」
「……はは、痛いところを突くなぁ」
その答えのわかりきった問いに、オリは視線を逸らし、頬を掻いた。
しばらく前。現実から目を逸らしていた頃なら、オリはそれに、迷いなく肯定を返しただろう。
これこそが調月オリにとって、そしてキヴォトスにとって、最良の結末。
不要なものが、必要な何かを生んだ。プラスでもマイナスでもないゼロが、世界にプラスをもたらした。
その純粋な事実のみを以て、この現実を肯定することができただろう。
けれど……今のオリは。
2人の先生に、2つの言葉をもらったオリは。
……本心から、それを肯定することはできない。
「悲しむ人は……いて、くれるだろうね。
リオちゃん、トキちゃん、セミナーの皆にヒマリとエイミ、ネルパイにホシノ、アビドスの対策委員会……ちょっとだけとはいえ共闘したし、ミカとかヒナちゃんも悲しんでくれるかな?
それに何より……先生か。
生徒を救えなかった。救えない生徒がいた、じゃなくて救えなかった。
この事実が、先生にどれだけの悲しみを与えるか……私には、正直予想もできない」
「……現実を突き付けるならば。
あなたが救ったもう一人の先生。その人を知るのは、恐怖に染まったシロコと、タブレットのAIだけ。
多くの人は喜ぶのではなく、困惑するでしょう。先生がもう一人いることに。
あなたが生み出した喜びは確かにあります。シロコとA.R.O.N.Aはあなたに、心底からの救いすら感じるかもしれません。
けれど……重みを考慮することなく、その絶対数を天秤に載せれば、負の方が遥かに大きい」
「……あはは。手心とかくれないわけ?
私、もう人生詰んで、死亡一秒前なんだけど。せめて良き終わりだったなー、とか思いたいな」
「いいえ、あなたにそんな救いはありません。
自分勝手に暴走してきた罪に対する罰の一つがそれです。あなたは自らの為したことの罪深さを、生みだしてきた悲しみの重さを知らなければなりません」
「っ……優しくないなあ、いつもと違って」
電車のシートの上で、オリはその唇を結ぶ。
そうして、上を見上げた。
電車の天井を担う金属板。その鈍色を目に、考える。
何を間違ってしまったのだろう、と。
自分自身を代償にして、先生を救うという奇跡を起こそうとしたこと?
自分にはどうせ何も変えられないと、色んなことを諦めてしまったこと?
誰にも相談したりせず、ただ一人でここまで来てしまったこと?
こんなどうしようもない存在が、先生を救うなんて大層な目的を抱いてしまったこと?
それとも。
そもそも、生まれてしまったこと?
「違います」
まるで思考を読まれたように、対面から強い制止の声がかかった。
「……今、言葉に出しちゃってた?」
「いいえ。……ですが、生まれてから15年強、私はあなたの隣にあったのです。その程度の機微に気付けないわけもないでしょう」
それもそうかと、オリは頷いた。
なにせ、オリは彼女によって産み落とされた命であり、彼女はずっとオリを支えてくれた人。
今更、自分の細かい変化に気付かないわけもなかった。
いつもと違って、振動もなければ走行音も響かない、どこか空虚な車両内。
俯くオリに対し……彼女が、声を投げかける。
「オリ。1つ、質問に答えてください」
「別に、いいけど。死ぬまで暇だしね」
「正直に、取り繕うことなく」
「……それもいいよ。どうせ最後だし」
いつにない真剣な口調と押しの強さに戸惑いながらも、オリは頷いた。
女性は一度まぶたを閉じてから……まっすぐにオリの目を見て、口にする。
彼女の心を整理させるための、そしてその奥底を測るための、裁定の問いを。
「……調月オリ。あなたは、とても辛い一生を歩むこととなりました。そうしてついには、自らの意志で命を絶つ決断までしなければならなかった。
その上で……あなたは、自らの誕生を呪いますか?
生まれたことは間違いであったと。生まれたことは悲劇であったと。
あなたは……苦しむために、生まれて来たのだと」
一瞬、「そうだったかもね」と茶化しかけ。
しかし、正直に答えるという約束を思い出し……オリは、一度余分な息を吐き出し、思考を進める。
今までの人生と、今までの苦痛を思い出す。
常に優秀すぎる双子と比べられ、家族から受け入れられず、評価もされず、自分が存在してもいいししなくてもいいどうでもいい存在と知り、必死に足掻いた抵抗も何も成し得ず、大切な人を自らの失態によって喪い、そうして一人孤独に宙の彼方で死ぬことを。
それらは、彼女の生涯に昏い影を落としていた。
それこそ、全てが無意味で虚しいものだと思えてしまう程に、辛く苦しいものだった。
……けれど。
苦痛と隣り合ったところに、成し遂げたこともあった。
何もできないと思っていたオリはしかし、先生を救うことができた。
この世界に何かをもたらすことができた。オリの存在意義は、確かに示された。
故に……きっと。
そうであれと祈るように、オリは自らの考えを語る。
「違う。私の誕生は、それ自体は、きっと悪いものじゃなかった。
苦しむために生まれたんじゃない。私はきっと、プレナパテスに貶められた先生を助けるために……」
……その結論でいいのか、と。
対面に座る女性の瞳が問うてくる。
正直に答えろと、一切繕うなと、そう言って。
その上で、それを本音にしていいのかと。
その光に当てられ、オリは……自然、口を閉ざし。
……胸の中にある衝動が、勝手に零れだす。
「……そりゃあ私だってさ、思いたかったよ」
苛立たし気に後ろ頭を掻きながら、少女は吐き捨てる。
「調月オリは、青春を楽しむためにここにいるって。
キヴォトスの生徒として、先生の生徒として、幸せになるために生まれて来たんだって!」
他の生徒たちと同じように、祝福された誕生があったのだと。
何度そんなイフを考えただろうか。
何度そんな甘い夢を見ただろうか。
けれど、現実はそうではない。
調月オリは必要とされていない存在だ。
結果として、今ここにいるオリが喪われれば、悲しむ者も出るだろうが……。
そもそもオリが生まれなければ、そんなことも起こらなかった、というのもまた事実。
そんな誕生が、祝福されたものと言えるだろうか?
誰かに望まれたものだと、そう言えるだろうか?
……そんな命に、何の価値があるというのか?
「生まれたことを、悪くは思いたくない。あなたにもらった、大切な命だもん。
でも、否定はしなくても、今の私に……肯定は、できない」
頭を抱えていた腕が、ゆっくりと降りていって……彼女の顔を覆う。
必死に繕い、言葉と共に溢れ出るものを抑えようとして……。
けれどそれも能わず、指の間から溢れ出した。
「肯定、したいよ……。あなたにもらった命、私の生きた人生、全部、全部良いものだったって!
でも、あなたの言う通りだよ! 私は、私のことばっかりで……みんなを悲しませるばっかりで!
その上っ! ……今更、自分で割り切って、諦めたはずのことを望んでる……!!」
ぼたり、ぼたりと、オリの頬を通り、顎から滴った雫が、床に小さな水たまりを生む。
きっと、それと同じくらいに、今のオリの言葉は透明だ。
何の装飾もない。何の見栄もない。何の嘘もない。
意地っ張りな彼女の、死の間際に至るまで誰にも明かせなかった本音が、初めて世界に零れた。
「死にたくない! まだ、生きてたい!!
リオちゃんと、トキちゃんと、ユウカやノアにコユキ、ヒマリとエイミ、ネルにホシノ。みんなと……みんなのところに、あの世界に、戻りたい……!!!」
その言葉こそ、見ないようにしていた心の瑕だった。
どれだけ居心地が悪くとも。
どれだけ生きる意義を見出せずとも。
それでもオリにとって、キヴォトスは唯一無二の自分の世界であり、居場所だ。
リオたちが、オリと別れることになれば悲しむのと同じように。
オリだって、彼女たちと別れることになれば、当然悲しく思うのだ。
自己の喪失や喪われるものの数も考えれば、その悲しみの総量はむしろ、リオたちのそれすら比べ物にはならないだろう。
けれど、それを直視するわけにはいかなかった。
きっとオリは、ここまでの道中でそれを自覚すれば、足を止めてしまっていた。
自らの目的に疑問が疑問が、妥協が、あるいは諦めが生じていたかもしれない。
一度抱いた決意を貫くため、彼女はこの世界との繋がりと共に、その悲しみからも目を背けていた。
けれど今、その最終目標を達し。
彼女はようやくそれを直視し、認めることができた。
目標ではなく、望みを。
義務ではなく、願いを。
ようやく、口にすることができたのだ。
なんら含むところもなく、リオと共にミレニアムを守ったり。
ユウカに叱られながらもコユキと悪だくみをし、ノアに怖い笑顔を向けられたり。
よくわからないものの調査のためにヒマリに顎で使われ、エイミと共に愚痴を漏らしたり。
親友たるホシノと切磋琢磨し、親しい少女たちと共に砂漠で巨大な兵器と向き合ったり。
そんな日々が来れば、どれだけ幸せだろう。
自分が捨てたもの。選ばなかったもの。……けれど、心の底で欲していたもの。
幸せな、日々。
キヴォトスでの、平穏で温かな暮らし。
畢竟、彼女は────。
「私はっ──私も、幸せになりたかった……!!」
この電車の中で告白された願いは、決してキヴォトスに届くことはない。
故に、小さな奇跡など望むべくもないだろう。
いじっぱりな彼女の弱音は、生徒にも先生にも聞かれることはなく……。
けれど。
「……その言葉を、聞けて良かった」
ただ、対面に座る女性のみが、そう応えた。
「あなたが幸せになりたいと、生きたいと、そう望んでくれるのなら……。
私も、私の本懐を果たすことができます」
「あなたの……本懐?」
「ええ」
オリとそっくりの見た目をした女性は、けれどオリは絶対にしない、柔らかで温かな笑顔を浮かべる。
オリにとっては見慣れたような……けれど少しだけ寂し気な、笑顔を。
「生きなさい、オリ。
あなたの失敗の責、罪による罰は……私が負いますから」