調月姉妹のやべー方   作:アリマリア

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小さな命の転換点(2)

 

 

 

「実のところ、オリ。あなたの崇高は、他に類を見ない特殊性を持っています。

 それは、あなたの『生まれられない』本質を私が奪った際に発生した齟齬。本来生徒の崇高に発生するはずのない濁り……私たちの言い方で表すのなら、『歪み』。

 まあつまるところ、あなたの中に溶け込んでいる、私のことなのですが」

 

 その進みを止めて、今や静寂に包まれた電車の車両内。

 そこに今、滔々と言葉が響く。

 

 まるで講義か講釈のようだ。

 自らの持つ情報を、誰かへと託そうとする声音。

 それはオリにとって毎晩のように聞いて来た、『あの子』のものに相違なく。

 

「形としては……そうですね。黒服の例えを借りるのなら。

 コインの表を神秘、裏を恐怖とした時、表でも裏でもない中央に、私という異物が挟まっている、というのが最も表層的に理解しやすいでしょうか。

 あなたの神秘、正確には崇高の中に溶けた私は、表にも裏にも出ることはできない。ただあなたの睡眠時の夢に一時の錯覚として、あるいはあなたの神秘と恐怖が死に絶えた時にのみ、世界と関わることができる。

 それが、私という存在です」

 

 けれど今、オリがその声に対して感じているのは、漠然とした不安感。

 声音も態度もいつも通りなのに、どうにも安心を覚えられないのは……。

 やはり、先に彼女が告げた不吉な言葉が原因だろう。

 

 私があなたの責と罰を負うから、あなたは生きろ、と。

 目の前の女性は、もはや救えないはずのオリに、そう言ったのだ。

 

「私という不純物は、キヴォトスに影響を及ぼすことができませんが……溶けて一体化したあなたに対しては、良くも悪くもいくつかの影響を与えることができた。

 軽度なところで言うのなら、その神秘が不純故の、銃撃に込められるはずの神秘の低減。

 中ほどのものを言うのなら、私で嵩増しされるが故の、あなたの神秘の指向性の歪みと、単純出力の向上。

 そして何より、致命的だったのが……」

 

 その意味を、オリは考えた。

 考えて、考えて、考えた。

 

 オリは頭が良くない。

 殊戦闘のセンスや理解度こそ高いものの、こういった難しい話の理解や相手の言葉から意図を汲み取るのは、できても人並程度。

 

 けれどそれでも、必死に思考を回転させる。

 女性のどこか満足げな声からか、寂し気な視線からか、不穏なワードチョイスからか。

 とにかく、このまま現状を傍観するままでは良くないことになる、と。

 そう、直感が囁いていたのだ。

 

 

 

 ……けれど。

 そんな思考は、女性の次に放った言葉に消し飛ばされる。

 

「あなたが、キヴォトスの生徒になれなかったこと。この世界の一員になれなかったこと。

 それは、私という歪みのせいなのです」

 

 

 

「……え?」

 

 一度思い切り感情を表に出し、今なおその情緒が休まらないオリにとって、それは殺すことの能わない衝撃を伴った言葉だった。

 

 そんなオリの様子に気付いているのかいないのか、女性は語り続ける。

 

「原義として、シャーレの部員となる生徒は、先生によって救われる。何度も言っていましたが、この世界の運行規則の一つ。いわば運命なのです。

 キヴォトスに生まれ付いた生徒たるあなたもまた、その例に漏れないはずで……。

 けれど、そうはならなかった。あなたは、先生によって救われなかった。……先生があなたを救おうとすること自体が、救われないことを意味していた。どうしたって、先生にあなたを救うことはできなかった」

 

 オリは彼女の告げる事実に、何か言い返そうとし……。

 しかし、その口は開いたままに、有意な言葉を紡ぐことはなかった。

 

 

 

 ……恥ずかしい話ではあるが。

 夢に見なかったと言えば、嘘になる。

 こうしてやりたい放題しておいて何様かと、自分でもそう思うけれど……。

 

 最後に颯爽と現れた先生が、オリの悩み事を全部解決してくれるんじゃないか、なんて。

 王子様のように、自分を救ってくれるんじゃないか、なんて。

 

 けれど、オリの望みはあくまで「先生を救うこと」であり、その逆ではない。

 自分が先生を救うどころか、その負担になるようなことがあれば……きっとオリは、そんな自分を許容できなかっただろう。

 

 救われたいと夢想しながら、さかしまに救いを拒絶する。

 彼女の中にそんな矛盾した感情がある以上、それは夢だ。叶わない、儚い幻想に過ぎない。

 

 けれどそれは、先生が悪いというわけではない。

 最初からオリを救う手段はなく、先生は先生として選択を誤らなかった。常にオリを最大限に尊重し、一度として身勝手な大人の意思を押し付けることはなかった。

 ……そんな先生だからこそ救いたいと、オリは思うのだが。

 

 結局のところ、オリの破滅について、悪者などどこにもいない。

 先生は、みんなの先生で。

 オリはただ、そう生まれ、そう育ってしまった。

 ただ、巡り合わせが悪くて、育った環境が特殊で、抱いた信念が悲愴なものだったというだけ。

 

 だから、オリは誰も責めないし、恨まない。

 そうすべき相手なんて、どこにもいないんだから。

 

 

 

 ……と。

 今までは、そう、思っていたのだけれど。

 

「これは、私が余計なことを教えたからだとか、あなたが異なる選択をしたからだとか、そういう次元の話ではありません。

 あなたの自覚している通り、調月オリという神秘は今、キヴォトスから『生徒』として認められていない。『先生の生徒』として定義されていない。

 だからこそ、あなたには『先生によって救われる』というルールが適用されなかった。

 その原因はやはり、その内に秘めた神秘の不純。

 つまるところ、あなたが苦しんでいるのも、死ぬことになったのも……もっと言えば、この世界の一部になれず、誰とも繋がることができないのも。

 全て私のせいなのです」

 

 目を伏せて語る、彼女の言葉が正しいのなら。

 彼女の諦観の前提は、全てひっくり返る。

 

 

 

「それはっ────」

 

 口から、忌むべき何かが漏れ出しかけ、必死に必死に呑み込んで。

 まぶたを閉じて、数秒。

 乱れた情緒を落ち着け、思考を整理し、目の前の存在を想い……結論を出して。

 

 開眼。

 再び、彼女は口を開く。

 

「……いや、やっぱり違う。誘導なんて、されてやらないから。

 あなたが私を助けてくれなかったら、そもそも私は今ここにいない。だから、あなたを憎む筋合いなんてない」

 

 それが、彼女の理性が出した結論で。

 

「それに、私は昔から、ずっとあなたに助けられてきた。

 勇気付けられて、元気付けられて、背中を押されて……リオちゃんと姉妹になれたのも、変に非行に走ったりしなかったのも、この1年頑張れたのも、全部あなたのおかげだもん。

 そんな人を恨むなんて、できるわけない」

 

 それが、彼女の感情が出した結論だった。

 

 

 

 未だ彼女の胸中には、荒れ狂う思いがあった。

 

 この痛みを誰かのせいにしてしまえと。この苦しみを誰かに被せてしまえと。

 そうすれば楽になるんだ、今すぐ目の前のわかりやすい悪役に罪を被せろ……と。

 そんな激情があることを、決して否定できない。

 

 けれど、それ以上に強い想いもあった。

 

 どうやら先生は疑っていたようだけれど、オリは知っているのだ。

 『あの子』は……目の前の少女は、悪人ではない。

 このキヴォトスに溢れ返る程にいる、自分のためにオリやリオを利用しようとする悪人共とは違うのだ、と。

 

 その経験上、オリは大人の悪意に極めて敏感だ。

 そんな彼女が今思い返したって、対面に座る女性にはこれまで、一片の悪意もなかった。

 

 オリが生まれてからずっと、慈しみの目をむけてくれた。

 気分を害することがあれば一緒に怒ってくれた。涙を流すことがあれば一緒に悲しんでくれた。

 オリが正しいことをすれば褒めて膝枕もしてくれたし、逆に悪いことをすれば意思を強制しない程度に苦言を呈してくれた。

 

 常に横に寄り添い助け、時にあらぬ道へ走るのを止め、けれど強制まではすることなく、ただ穏やかに道行きを見守ってくれる。

 それが、その選択に含まれる感情が「愛」と呼ばれるものであると、オリは知っている。

 あるいは先生がくれるものと等しいかもしれない、純粋にオリのことを想ってくれる感情が、言葉など介さずとも十分に伝わって来ていた。

 

 そして……どうやら彼女は隠そうとしていたようだが、その想いの対象はオリだけに限らない。

 オリに向けるもの程強くはなくとも、彼女はこの世界の全てを愛していた。

 キヴォトスという世界を、各自治区の特異性を、そこに住む生徒たちと学園を、そしてシャーレの先生を。

 彼女は心より愛し、慈しんでいた。

 その物語を語る時は、いつだって笑顔で、とても楽しそうだった。

 

 だから、彼女が自分の意思で悪いことなんてするわけがない。

 オリに起こった影響だって、オリが生まれるためには必須のことで。

 それがなければ、嬉しい悲しいと感じることさえもできなかった。

 

 だから、責めるなんて以ての他で。

 

 自分を生んでくれてありがとう、と。

 自分を愛してくれてありがとう、と。

 

 そう、感謝すべき。あるいは……愛を返すべき。

 それが、理性と感情で一致した、調月オリの結論だ。

 

「私は、あなたが好き。たとえあなたが遠因になって死ぬことになろうとも、それは変わらない。

 だから……露悪的な言い方は、そろそろやめてほしい。

 私、自分の好きな人を否定されたら、快くは思えないから」

 

 

 

 オリの、普段よりもいささか子供らしい、取り繕いのない言葉。

 

 それに、対面の女性は……。

 

「恨んだ方が、楽ですよ?」

「そこまで恩知らずにはなれないよ。ごめんね」

「……ええ、そうでしょうね。それでこそ、私のオリ」

 

 小さく、嬉しそうに、悲しそうに、微笑んだ。

 

 

 

「……でも、ごめんなさい、オリ。

 愛してもらって、想ってもらって、それはとても嬉しいことだけれど……。

 

 それでも、ここで、さよならをしなきゃいけません」

 

 

 

 ……その言葉が、予期できないものであったかと言えば、否。

 けれど、予測できたから悲しくないかと言えば、それも否だった。

 

 眉をひそめて俯くオリに対し。

 対面に座る女性は、まぶたを閉じ、静かに語りかける。

 

「……私のミスでした」

 

 それは、オリも聞いたことのある言葉。

 全ての始まり、あるいは全ての終わりの言葉だった。

 

「私の選択。そしてそれによって招かれた、あなたの今の状況。

 結局、この結末を迎えるまでずっと、あなたに贖うこともできないなんて……」

 

 どこか演じるような、なぞるようなその台詞には、けれど彼女自身の意志と熱が込められていた。

 

「……今更図々しいですが、お願いします。

 きっと私のことなんて、いつかは忘れてしまうでしょうが……それでいいのです。

 それまでの過去のことを思い出せなくなったって、これからの未来に進んでいけるのですから」

 

 口調は柔らかく、温かく、穏やかで、そして希望に満ちていて。

 自ら犠牲となる悲壮感など、感じられない。

 

 何故なら彼女は……夢見た未来の話をしているのだから。

 

「大事なのは、閉ざされた過去ではなく、解き放たれた未来。

 これからあなたが歩める、無限の可能性に満ちた明日」

 

 リオやトキと共に、ミレニアムに生きる者たちを守ってもいい。

 ユウカやノアたちと一緒に、セミナーで業務に追われてみるのもいいだろう。

 ヒマリやエイミに並んで、特異現象を追うのだって良い。

 ネルたちC&Cに加勢して、数多の戦いに身を投じるのだって一興だ。

 

 勿論、それだけではない。

 ミレニアムには他にもたくさんの可能性があるし……やろうとすれば、オリはもうミレニアムから飛び出すことだってできる。

 

 何をしてもいい。何もしなくてもいい。

 その全ての選択肢を、オリは選んでいい。

 

 先生も彼女も、言っているのだ。

 調月オリの未来には、無限の可能性があるのだと。

 

 

 

 車両内に染み入るような言葉が続く。

 

「……責任を負う者について、話して聞かせたことがありましたね」

 

 それが善であろうが悪であろうが、生徒が正しくそれを認識し、自由意志によって行うならば、その全てを肯定して。

 もしもその結果何かあれば、一身に彼女たちを守り、然るべき責任を取る。

 

 それが、責任を負う者。

 彼女が愛してやまない、オリが恋してやまない、先生。

 そしてもう一人の、信じられる大人。

 

 けれど、そんなオリの思考に反し、女性は首を振る。

 

「私は結局そうはなれませんでしたが……それでも、理解はできます。

 大人としての、責任と義務。そして、その延長線上にあらなければならない、私たちの選択。

 それがもたらすでしょう、結果も」

 

 プレナパテスの、選択。

 もはや何一つさえ救い難い世界で、それでも1人の生徒を救うため、自らの存在全てを擲った。

 その先にあった結果は……死。自らの存在をいいように利用され、弄ばれるという惨事。

 

 先生の、本来の選択。

 他の時間軸の反転した生徒を、それでも1人の生徒として救うため、自らの生存権を手放した。

 その先にあった結果は……本来なら、これも死。燃え尽き、塵も残さない消滅だっただろう。

 

 大人としての責任と義務とは、つまるところそれだ。

 自らの末路をすら意に止めず、あらゆる罪も罰も責も悪も引き受けて、子供を守る。

 

 そんな、キヴォトスでは他に得難い、究極の献身。

 

 

 

「……ですから、オリ」

 

 対面に座った女性の声は、無音の車両に凛と響く。

 

 静かに凪いで、けれど何より激情的に。

 何物すらも止め難いだけの強さを持って、オリの鼓膜を震わせた。

 

「私が愛した、あなたになら。

 こんなバッドエンドの結末とは、少しだけ違う結末を……。

 そこに繋げる転換を、私は、心からしたいと思えるのです」

 

 彼女の言葉は、そこで大きく色合いを変えた。

 過去への懺悔から、未来への祈りへ。

 自らの話から、オリの話へ。

 

「だから、オリ、どうか……。

 あなたの命を。キヴォトスに生きるあなたの過ごしてきた過去と過ごしていく未来を、どうか……」

 

 それに次ぐ、彼女の言葉は。

 

「……いつか、認めてあげてください。

 あなたに幸せを許してくれるのは、結局のところあなただけなのです」

 

 他者の赦しを、時に乞うもの。

 自分のために呪うのではなく、誰かのために祈るそれは、まるで聖女の祈りのようだった。

 

「大丈夫です。あなたには……あなたを変えてくれる、たくさんの友人と、素敵な先生がいますから」

 

 

 

 ゆっくりと、彼女が立ち上がる。

 

 現在停止しているこの車両は、進行方向へと向かうことはない。

 けれど元より、この車両は進んではいなかったのだ。

 夢の中でのそれは、確かに揺れてこそいたものの、いつまで経っても遥か彼方に見える都市へ辿り着くことはなく……。

 

 ……それは、この車両が既に定員オーバーであるという示唆だったのだろう。

 

 あの都市に……学園都市キヴォトスに生徒として辿り着けるのは、少女ただ一人。

 余分な存在が混じっていれば、キヴォトスはそれを生徒と認めない。

 だから……。

 

「だから、いきなさい、オリ」

 

 

 

 ただ一つ。

 彼女には、結末を転換させる方法があった。

 

 キヴォトスに「調月オリ」という生徒を認めさせ。

 今彼女に降りかかっている、「子供の封筒」による神秘の消費を、軽減させることのできる……。

 とても簡単で、とても残酷な方法が。

 

 要は、オリがやろうとしていたことと変わらない。

 レバーを倒して、犠牲となるものを切り替えればいい。

 オリではなく、自分が喪われればいい。

 

 オリの神秘に溶けた彼女は、長い月日を経た今、それに染まっている。

 「子供の封筒」によって消費される神秘の代わりとなることができるはずだった。

 そうして彼女が消費され尽くし、オリの神秘の中から消え去れば……その時キヴォトスは、純粋な神秘を以てオリを生徒であると認めるだろう。

 

 勿論そんなことをすれば、彼女という存在は、このキヴォトスから消滅するだろう。

 

 ……けれど、それでいいのだと、彼女は微笑む。

 

 親離れできない子供も、子離れできない大人も。

 いつかはこの日が来る。

 

 学園へと、彼女を送り出す、その日が。

 

 だから──。

 

「あなたたちの、すべての『奇跡』が在る場所へ」

 

 そう言って。

 彼女はオリの柔らかな黒髪を、優しく撫でた。

 

 

 

 ……いつしか、車両の片側のドアが開いていた。

 

 新たに乗る者がいない以上、それは降りる者のために開放されていて。

 彼女はそこへ向かって、迷いなく歩き始める。

 

 けれど……。

 くい、と。その袖が引かれ、足を止めた。

 

「……行っちゃ、やだ」

 

 いつになく子供っぽい……いいや、年相応の、感情任せの言葉が背中を刺す。

 

「オリ」

「わかってる……止めちゃ駄目なのも、意味ないのも。

 でも、やだ。あなたと、あなたとお別れなんて、やだ!」

 

 ……まったく、仕方のない子だ、と。

 カッコ付けたままに去る予定を棄却し、彼女は振り返る。

 

 そうしてくしゃくしゃになっている顔を見て、苦笑し。

 座席に座ったままの彼女に目線を合わせるため、しゃがみ込んだ。

 

「オリ」

「……うん」

 

 手を伸ばしたのは、どちらが先だったか。

 そっくりの容姿で、けれど全く違う2人は、その背に手を回し合う。

 

「あなたは強い子です。大丈夫」

「だいじょぶ、じゃない……」

「いいえ、大丈夫。私は知ってます、あなたが陰では頑張り屋さんで、誰より真面目に努力できる子だって」

「……何もできない」

「できます。あなたが生徒になれば……あなたがこの世界の一員になれば」

「あなたがっ! ……あなたが、いなきゃ、やだ」

「こら、駄々をこねないの」

 

 抱擁を解き、優しく、こつんと頭を突く。

 力なんてこもっていないそれが、けれどオリは何より痛かった。

 

「わかっているでしょう。それが、あなたがリオちゃんたちに押し付けかけた痛みです。

 それを忘れられるようになるまで、あなたはこの記憶を背負って行きなさい。

 もう二度と、自分勝手に誰かを傷つけないように。もう二度と、自分を痛めつけないように。

 ……誰に似たのかは知りませんが。この馬鹿な大人を、反面教師にしてくださいね」

 

 

 

「オリ」

「………うん」

 

 遅れて、けれどきちんと頷いたオリ。

 その目に涙を浮かべる少女に、正面から視線を合わせ。

 彼女は一つ一つ、丁寧に言い聞かせる。

 

「ちゃんと栄養のあるものを食べてくださいね。リオちゃんにも、食べさせてあげて」

「うん」

「トキちゃんとヒマリちゃん、ネルちゃんとも仲良く」

「うん」

「困ったことがあったら、すぐ誰かに相談。抱え込むのはあなたの悪い癖です」

「うん」

「先生の言うことはちゃんと聞くこと。不良生徒すぎるのは良くありません」

「うん」

「起きた時と寝る前には、ちゃんと歯磨きをすること。できればスキンケアも」

「うん」

「お風呂は、言うまでもありませんが。忙しい時はシャワーだけでも浴びてくださいね」

「うん」

「それじゃ……まだまだ言いたいことはあるけど、ひとまず良しとしましょう」

 

 彼女は微笑んだ。

 

 寂寞も慚愧も後悔も噛み砕き、無念も恐怖も邪心もなく。

 それはきっと、彼女史上、最も精工で綺麗な笑顔だっただろう。

 

「……オリ。どうかキヴォトスで、幸せになって。

 それが私の、ただ一つの望みです」

 

 

 

 改めて立ち上がり、扉の方へと振り返って。

 見上げて来ているだろうオリに、彼女は敢えて軽い調子で手を振る。

 

「それじゃあ、さようなら、調月オリ」

「さよなら、じゃない!」

 

 だんと、靴の音。

 彼女は振り返ることなく、それを聞いた。

 

「またいつか!」

 

 ……ああ。

 それはなんて、素敵な可能性だろう。

 

 彼女は胸のすくような想いで、お返しの言葉を残す。

 

「ええ……そうですね。それでは、またいつか。

 その時には、あなたの幸せな日々の話、たくさん聞かせてくださいね」

「うん……うんっ!」

 

 

 

 調月オリに祝福した誕生を与え。

 同時、呪われた運命を与えた女性。

 

 彼女はもう振り返ることはなく、外へと繋がる扉をくぐり。

 その姿が完全に見えなくなると、扉はひとりでに閉まって、車両がぐらりと揺れて動き出した。

 

 同時、オリは急激に意識が薄れ、自らのまぶたが重くなるのを感じ……。

 

 ……座席の上で眠りに落ちた彼女を、電車は彼方に見える都市へと運んでいった。

 

 

 







 オリが犠牲になるという「結末の転換」。
 それが「あの子」の唯一の贖罪であり、彼女の存在理由でした。
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