エデン条約。
それは、端的に言えば、トリニティとゲヘナ間の平和条約だ。
歴史のいざこざや校風の不一致から長きにわたり対立してきた、キヴォトスの三大校の内の二校。
けれど、憎み合うことはともかく、もはや彼女たちが敵対し合う必要はないと言っていい。
そのため、キヴォトス全体の利益や未来を考えたのであろう連邦生徒会長が、平和条約を提案したのだ。
その後は連邦生徒会長主導で、非常にスムーズに条約の締結に向けて協議が進められていたのだが……。
……その連邦生徒会長当人が、今年の頭辺りに失踪。
それを契機とし、順調に進んでいたエデン条約の調整は、少なからぬ蔭りを見せ始めた。
その影は、何も内から発生するものだけではない。
充実した生活を送るトリニティ生やゲヘナ生は、その多くがもはや相手への明確な敵対理由を持ち合わせていない。ただ「そういう空気だからそうしている」だけ。
強いて言えば、トリニティの正義実現委員会やゲヘナの風紀委員会……両校の治安維持組織の一部は、治安維持という役割を持つ以上、それぞれへの反感は持ってこそいるが……。
それでも、平和であるならばそれ以上はないと、それぞれそう判断できるくらいの余裕はあった。
余裕がないのは、内ではなく、むしろ外にあるもの。あるいは外に追い出された者。
トリニティより追放されたアリウス派の者たちが拓いた、アリウス分校。
連邦生徒会長による一切合切付け入る隙の無い進行が失われたことで、彼女たちが本格的に介入するだけの間隙が生まれてしまった。
……その小さな破綻の行き着く終着点こそが、エデン条約調停式の、今日。
これから発生するであろう、赤色の地獄だ。
* * *
トリニティ自治区、調停式の会場となる古聖堂から、おおよそ2キロメートル。
街角に構えるアパレルショップの屋上から、オリはその方向を見ていた。
左手に愛銃たるハンドガンを、右手には雑に使える量産品のアサルトライフルを抱えて……。
見ている者がいないためか、その顔にはいつもの綺麗な笑みを浮かべることもなく、その瞳にはいっそ異様なまでの狂熱を秘めている。
「……ついに、この日が来ちゃったか」
その胸に押し寄せるのは、万感の思い。
あるいは、混沌としたヘドロのような感情だった。
今より、2年前。
オリは、自身の無力を痛感することがあった。
とある目標に向けて、考え得る限り全ての手段を、一切の躊躇なく選んで実行した。
数多のドローンを飛ばし、生徒を買収して、裏家業の人間に依頼も出して、かなりの額の借金までして……。
それでもなお、結果を変えることはできず。
それどころか、早めることも遅らせるも、何一つ歪めることすら能わず……。
結局のところ、彼女はただ、悲劇の運命を迎えることしかできなかった。
それを以て、彼女は悟った。悟らざるを得なかった。
自分には、決して、生徒を救うことができないのだと。
……けれど。
鬱になりかけていたオリの見る夢の中で、『あの子』は、語った。
生徒の悲劇は、先生が救うもの。
生徒の運命は、先生が変えるもの。
キヴォトスには、そういう決まりがある。そういうルールがある。
だから調月オリは、少なくとも彼女単独では、それらを変えることはできないのかもしれない。
けれど、もしかしたら。
「生徒」でもなく、「キヴォトスの民」でもない者なら……。
外から来た、不可解な者……。
先生ならばあるいは、その運命も変えられるかもしれない、と。
あるいはそれは、ただの慰めだったのかもしれない。
『あの子』のもたらした情報によって起こった状況、感じた悲嘆。
あくまで間接的な関与でしかないにしろ、そこに責任を、あるいは必要性を感じて、慰めてくれた……のかもしれない。
けれど、どうあれ。
その言葉によって、オリの今後の方針は決まった。
先生を、助ける。
────たとえ、何を犠牲にしても。
そんな決意を胸に秘めているとは露とも知らない先生は、この数か月の間、おおよそ自然体のままオリと接してくれた。
その中で、オリは先生の人格や行動を測り……。
確かに、先生は『あの子』から聞いていた通りの人物であると。
そして何より、己の憧れた「先生」その人であると、確信した。
出会ってから数か月。
オリの中で先生の存在は、様々な意味で、非常に大きくなっている。
助けるに能う人。
助けなければならない人。
きっと、たくさんの生徒を助けてくれる人。
「あの子」は先生を、この世界の中心であると語ったが……。
あるいはオリにとっても、自らの世界の中心の1つとなっているのかもしれない。
故に、今の彼女の中にあるのは、ただ2つの感情だけ。
自らの目的のため、先生を守らねばならないと思う、熱く燃えるような使命感と……。
先生を傷つける者を許せないと思う、凍り付くような冷たい憎悪。
それが、今日この日、調月オリが行動を起こす理由の全てだった。
* * *
エデン条約、調停式。
『あの子』の予知によれば、これはアリウスの襲撃を受けて破談となるらしい。
締結の瞬間に古聖堂に直撃する、巡航ミサイル。
これによって両校の生徒は大打撃を受け、多くの生徒が気絶、意識を保った生徒も大きな傷を負う。
ミサイルなんかが直撃すれば、オリでさえも相当なダメージになる。この1発だけで、古聖堂の中にいる戦力は8割減すると思っていいだろう。
次いで、地下で「姫」とやらが結ぶ歪められた契約により現れる、ユスティナ聖徒会の軍勢。そして地下カタコンベから上がって来る、アリウス分校の生徒共。
生徒共はかなり強力な火器を持っているし、聖徒会に至っては倒しても無限に湧き出て来る。
これを以て弱った戦力を更にすり減らし、ターゲットの護衛を剥がし切るつもりだろう。
更に問題になるのが、情報を掴めないが故に助長される、トリニティとゲヘナ間の憎悪。
古聖堂の外、ミサイルの爆発の届かない範囲まで含めれば、奇襲を受けてもなおこの二陣営の戦力はかなりのもの。
統一された意思と指揮系統があれば、あるいは敵軍勢を抑えることも可能であろう程だ。
……けれど、それぞれの疑心暗鬼と憎悪が、彼女たちの手をどうしようもなく引き剥がしてしまう。
むしろ互いに互いへと銃を向け合い、アリウスや聖徒会により大きな隙を見せてしまうだろう。
そして最後に……アリウススクワッド。
障害となるトリニティやゲヘナの精鋭を確実に殺すために動く、アリウス勢力の中の精鋭4人。
中でも、リーダーの錠前サオリは先生を狙い、「姫」である秤アツコは存在する限りユスティナ聖徒会の兵力を召喚し続ける。
これらによって、エデン条約調停式は完膚なきまでに破綻。
多くの有力な生徒は負傷し、先生は……撃たれる。
……これらの状況の上で、先生を守り助けるために、オリはどうすればいいいか。
オリに、ミサイルの着弾を防ぐことはできない。
妹のリオの助力があれば、あるいはその方法もあったかもしれないが……。
彼女にこの件を話せば、妹はオリを危険から遠ざけるべく、ありとあらゆる手段でその行動を縛りに来るだろう。
故に、いつものように妹に頼るわけにはいかない。
しかしそうなると、オリは使える情報網と使用可能な兵器の幅を大きく狭めてしまう。
特に致命的なのが、どこから巡航ミサイルが発射されるかわからないこと。事前に発射装置を破壊して対処することはできない。
さらに、飛翔中の迎撃も難しいだろう。
エデン条約調停式当日、アビドスと違って警備が行き届いているトリニティに、ミサイルを迎撃できるだけの兵器を持ち込むことはおおよそ不可能だ。
仮に事前に持ち込んだとしても、広く警戒網が敷かれるであろう当日に運用するのも現実的ではない。
故に……ミサイルの発射と着弾の阻止は、諦めるしかない。
むしろ、彼女の仕事は、そこから先だ。
オリがすべきは、ミサイルの着弾を確認し次第、地下に向かって……。
「姫」を、秤アツコを、殺すこと。
今回の事件において最も大きいファクターは、実のところトリニティでもゲヘナでもなければアリウスでもない。
秤アツコが基点となって現れる、ユスティナ聖徒会だ。
数か月前、先生とオリ、才羽姉妹が揃っても、廃墟の無限の軍勢には打ち勝てなかったように……。
無尽蔵に現れる兵力には、誰も対処できない。
故に、そもそもそれらが現れる前に、歪められた条約が結ばれる前に。
その権利を持つ者を、排除する必要がある。
オリがそれを実行に移そうとすれば、まず間違いなくもう1人、少女が現れるだろう。
アツコを大切に思う、精鋭アリウススクワッドのリーダー、錠前サオリ。
……だがオリにとって、彼女が現れるのは、むしろ望んだ展開だ。
なにせ、その錠前サオリこそが……先生を負傷させ、殺しかける、仇敵なのだから。
秤アツコ。
錠前サオリ。
この2人は、纏めて殺す。
そうすれば、ユスティナ聖徒会は現れることなく、トリニティとゲヘナは致命的に追い詰められるようなこともなく。
その先にあるかもしれない、先生が撃たれる運命も回避できるはずだ。
……そうだ。
殺す。
頭を叩き付け。
腕を踏み潰し。
足を千切って。
命を、意志を、尊厳を、奪い、壊し、亡くす。
「……ふぅ」
オリはふと、いつの間にか両手が震えていることに気付き、まぶたを下ろした。
いつの間にか、寒さを感じていた。
定期的に鳥肌が立つ程の強い悪寒。指先や足など末端の感覚は消えかけている。そのくせ嫌な汗はだらだらと背中を伝っていた。
まだまだ残暑の残る時期の昼間だというのに、身体が芯から凍てつくような、おかしな感覚。
……勿論、気温が低いわけではない。
物理的な意味で、寒さを感じる要素はない。
それはあくまで、精神的なもの。
つまるところ……緊張や嫌悪感から来るものだった。
「……迷うな。私がやらなきゃ、先生は撃たれる。
『やらない』なんて道は、最初からない。やらなきゃ、やられる。そんなこと、私が一番よく知ってる筈でしょ」
誰に語るわけでもない静かな自己暗示は、空中に無為に溶けていく。
それらの言葉を以てなお、彼女の寒気は止まらない。
下ろしたまぶたの裏に、映る。
夢の中で、電車の対面に座った『あの子』の、心配そうな目。
昨日一緒に寝た妹の、何か言いたげな表情。
緩い頭痛と共に蘇るそれらを振り払うように、オリは首を振った。
「……そもそも、最初に殺しに来てるのはあっちだ。
先生が助かるのは偶然で、もしかしたら運悪く助からないって可能性もある。殺されるかもしれない。
洗脳されてるからとか、そんなこと言い出したらいくらだって周りの環境のせいにできる。どれだけ教育が悪くとも罪は罪、責任から逃れられるわけがない。
子供のやることだから悪くないって言うんなら、それなら、私が今からやることだって…………」
その先は言葉にせず、彼女は口を閉ざす。
あるいは、言い訳だとしても、そんなことは口にできなかったのかもしれない。
……けれど、たとえ口を閉じたとしても、中から込み上げてくる想いを止めることはできない。
彼女の心の底から、聞き覚えのある誰かの声が湧き上がってくる。
どこで間違ってしまったのだろう。
──何も間違ってはいない。これが自分のすべきこと。先生を助けることが、生まれてきた意味。
今からでも引き返すべきじゃないか。
──そんなわけがない。自分が嫌だからって逃げようとするな。お前はやるしかないんだ。
『あの子』の言葉を聞くべきじゃないか。
──その余裕がない。互いに譲歩できないまま、結論が出ないまま、今日になってしまったのだから。
先生に相談すべきじゃないか。
──できるはずがない。あの人なら、自分のことはいいから、なんて言うに決まってる。私にとって大事なのは、私じゃなく、あくまで先生なのに。
やめるべきじゃないか。
──くどい。
やめるべきだ。
────くどいと、言ってる。
やめたい 。
──────黙れ。
やりたくない 殺し合いたくない 奪いたくない 襲いたくない 死にたくない 血に濡れたくない あの感触は嫌だ 怖い 無意味だ 私がする必要はない 他人に頼ればいい 適材適所ではない かわいそう 洗脳されてるだけなのに 悪いのは自分 吐きそう 嫌だ 殺したくない それは善いことじゃない やっていいことでもない 両親に顔向けできない 罪に問われる 先生に嫌われる トキちゃんが心配 ヒマリに怒られる ホシノに心配される やめるべきだそうだやめるべきに決まってるこんなやってはいけないことは今すぐやめて反省してリオちゃんに泣きついて姉なんて言葉は返上して逃げて投げ出してそんなことをすれば 『 あ の 子 』 と リ オ ち ゃ ん に 嫌 わ れ る 2人にあの目を向けられる 二度と2人に関われない 生きている意味がない それくらいなら死んだ方が
────────うるさい、うるさいうるさいうるさい! 何もしないなら黙っていろ。私は動かなきゃいけないんだ! また、また見捨てるつもりなのか私は!!
「…………はぁ」
オリは空を見上げて立ち尽くし、浅く呼吸を繰り返して、脳内で嵐のように吹き荒れる悪感情を片端から処理していく。
……実のところ。
調月オリは、常識に囚われることもなく、一切の罪悪感なしに自分勝手に暴れ回る生徒……
調月リオと調月オリは鏡映しだ。
そしてその内、常識に囚われず行動を取るのは、実のところ
そうでなければ、莫大な資金を投じてオリに巨大な兵器を提供したり、これから未来に起こるようなことができるわけがないのだから。
であれば、オリはどうなのか?
当然ながら、彼女は常識に
両親から受けた情操教育。
他者へと向けた共感能力。
友人に対する友愛、家族に対する親愛。
隣にいる誰かを愛するという、ヒトとして当然の、けれど尊い博愛精神。
彼女はそれらを決して忘れられず……。
故に、行動を起こすたび、それを踏み躙り、掃き捨てている。
誰に伝えることもなく、自らの良心を凌辱している。
ただそれだけの話だった。
こうして、脳内で
今回は、命というおおよそ生物として最も重いものを懸けているからだろう、これまでにない程に重く、易々とは振り払えないものではあったが……。
軽度なものならば、これまでに数えきれない程、味わって来た。
……が、それでも。
とある条件下で、調月オリはこれまでにただの一度も、
そして今回、「誰かのために動く」という条件は、これ以上ない程に満たされていた。
故に、彼女はその脚を止めない。止められない。
「……あー、吐きそ。でも、やるしかないよね」
オリは、ぐちゃぐちゃに攪拌された思考に、その言葉で終止符を打った。
未だ内心は荒れ狂い、気分は泥の海で溺れるよう。
けれど……。
「条約の調停まで、あと、15分」
確実な遂行を考えれば、そろそろ動かねばならない時間だった。
一度深く深呼吸して……改めて、覚悟を固める。
たとえそれで、無二の友であり恩師である『彼女』に、嫌われることになっても。
たとえそれで、最愛の妹であるリオと、二度と会うことができなくなっても。
「それが、それだけが、自分の生まれた意味だろうから」、と。
その両手が締め付けられ、二丁の銃のグリップが微かに音を立てる。
そうして彼女は、屋上から足を踏み外すように、前へと踏み出そうとして……。
「少々、お待ちいただけますか?」
空を切りかけた足を、その声が止めた。
……それは、その声は、オリにとって聞き覚えのあるものであり。
そうして、今この瞬間、決して無視できない声だったから。
オリは足を戻し、ゆっくりと振り返る。
その青の瞳に映ったのは……。
シワ1つない、綺麗な黒いスーツ。
そして、その上に付いた、割れて何かが漏れ出した、黒いガラスのような頭部。
「なんで、今、お前が現れる?」
オリの言葉を聞き……。
ゲマトリアの黒服は、クツクツと、邪悪に笑った。
Q.相手を害する罪悪感はあるのに戦うのは好きなの?
A.相手との力量比べ、スポーツやイベントの一環として好き。生徒は傷の治癒が早いのでその辺忌避感が薄がち。一方、命懸けの(相手の命を狙わなきゃいけない)戦いや、一方的に有利/不利な戦いは好きじゃない。
Q.なんで強者との戦いが好き(弱者との戦いは好きじゃない)なの?
A.弱者を蹂躙するのは死にたくなる程心が痛むので。つまらなそうにするのは無表情を作ろうとしているから。
Q.なんで誰かのためなら頑張れるの?
A.お姉ちゃんだから。
(追記)
誤字報告をいただき、訂正させていただきました。ありがとうございました!