人が「キレそう」って言った時、9割くらいは既にマジギレしてる説。
エデン条約調停式、当日。
トリニティ、古聖堂から2キロメートル程離れた場所にあるアパレルショップ、その屋上にて。
唐突に現れた存在……ゲマトリアの黒服に対し、オリは疑問を投げかけた。
「なんで、今、お前が現れる? ……黒服」
実のところ、未来に起き得る事柄を『あの子』から聞いているオリにとって、想定外の事柄というのはあまり多くない。
小さなアクシデントや不意に起こる妹との言い争い、部の手伝いでの想定外など、日常的での小さな予定外や驚きとなると、流石に話は別になるが……。
アビドスに纏わることや天童アリス関係、エデン条約の調停式にデカグラマトンに関する事案など、キヴォトスにおいて「一大事」と呼べる事柄については、おおよその全貌を掴んでいる。
……掴んでいる、はずだった。
けれど、しかし。
目の前の現実は、彼女の完全な想定の外にあった。
『あの子』曰く、エデン条約に関係するゲマトリアは、2人。
「概念バトラーのツインヘッド木偶人形」ことマエストロと、「カスオブカスの赤恥底辺ド三流」ことベアトリーチェのみ。
つまるところ、黒服はこの件には一切絡んで来ない……はず、だったのだ。
しかし、現に今、黒服はオリの前に立ち塞がっている。
「あの子」がこうも綺麗に予言を外すのは、オリの記憶に残っている限り、初めてのことであり……。
その想定外は、あるはずのないイレギュラーは、オリの精神を少なからず揺さぶった。
対して、そんな彼女の様子を伺った黒服は、クツクツと、オリの嫌いな「大人らしい」笑みを零す。
「何故ここにいるのか、と申しますと……端的に言えば、あなたに話すべき由がありましたので」
「今日は忙しい。明日でいいでしょ」
黒服の話を、しかしオリは切って捨てる。
黒服と同盟関係にあるオリは、知っている。
このあまりに不気味で不吉な男は、これでいて他者との会話を好むことを。
この男は、自らの利益を害さず、あるいは利益を出す範囲において、他者に自身の考えを語ることが本当に多い。
前に疑問に思って尋ねたところ、「会話という手段は、自らの思考を進めることにも非常に有用なものですので」などと言っていた。
つまりは世間話なのだろうとオリは受け取り、以後この男の話はてきとうに聞き流している。
彼女はまだ子供であるが故に想像に過ぎないが、大人が心底嫌いな上司と付き合わなければならない時はこんな気持ちになるのだろう、と思いながら。
そんな状態だったから、彼女は今日の話も要領の得ない下らない話なのだろうと判断したのだった。
いつもであれば付き合ってやってもいいが、今日ばかりは時間がない。
故に、明日に延期してもらおうと思ったのだが……。
けれど、黒服はその言葉に首を振って否定の意を示した。
「いいえ、本件は今日、この時に話さねばならないことです。お付き合いいただきましょう」
予想外に強い反発に、オリは形の良い眉をひそめる。
黒服はいつも、融和的な姿勢を見せる。
相手に嫌われぬよう、悪印象を与えぬよう、結果的に自分の不都合に繋がらぬよう。
それはとても大人らしい取り繕いであり、自分は味方であると錯覚させるための刷り込みだ。
幼少期よりの経験で、そういった大人の仮面を理解できるからこそ、彼女は今回の黒服の強硬な態度に少なからず驚き戸惑う。
そして、あるいは最初からそれを狙っていたのだろうか。
黒服が彼女が口を閉ざしている間に、新たな言葉を紡ぐ。
……そのどことも知れぬ口から飛び出てきたのは、オリを更に混乱に突き落とし得る言葉だった。
「今回の件、つまるところエデン条約に関する事案が終結するまで……。
調月オリさん。あなたには、本件についてこれ以上干渉するのをやめていただきたい」
オリの脳内に、困惑と共に、煮え滾るような激情が湧き上がる。
普段の彼女であれば、まだ冷静に対処できたかもしれない。
けれど今、彼女は人生でも有数だろう危機、あるいは転機に立っている。
黒服の意味深な言葉に、一々真っ当に付き合っていられる程の精神的余裕はなかった。
「……お前、その言葉が何を意味するのか、わかって言ってるのか」
人1人なら射殺せるのではないかと思える程の鋭い視線。
けれど黒服はそれに動じることもなく、平然と返答を返した。
「ええ。今日があなたにとって大切な日であると、その認識はこちらも有しています。
その上で、干渉をやめていただきたいと、そう言っているのです」
殆ど迷うこともなく。
オリは、その愛銃を、無防備な黒服に向けた。
キヴォトスの外の存在である黒服にとって、銃弾一発は致命傷になり得る。
オリはそれを忘れたわけではなく、むしろ十分に理解した上でその行動を取っていた。
つまるところ、覚悟してそうするのではない、衝動的な殺意だった。
……けれど、あるいはこの男にとって、それは慣れたものなのか。
そよ風でも感じるかのようにその殺意を受け流し、黒服は言う。
「……現在、ゲマトリアには5名のメンバーが所属しています。
本件には、主に内2名が関わっていたのですが……その2名と、そしてもう一人。現所属メンバーの内過半数が、あなたの不干渉を望みました」
燃えるような怒りの中で、しかし同時、僅かな違和感が小骨のように引っかかる。
ゲマトリアに所属する5名と、黒服は言った。
その内実は、目の前の黒服、エデン条約に関係するマエストロとベアトリーチェ、それ以外に所属するのは1名しかいないだろうと思い……。
しかし、そう言えば残りの1名は「デカルコマニー」と「ゴルコンダ」という2つの名を持っていたことを思い出す。
現在のゲマトリアのメンバー……黒服、マエストロ、ベアトリーチェ、デカルコマニーにゴルコンダ。
この件に積極的に関わっているのはマエストロとベアトリーチェで間違いないだろうが、もう1人の干渉を望まない者は誰なのか。
黒服……は、この語り口調からして、恐らく残りの1名には該当しない。
であれば、デカルコマニーか、ゴルコンダのどちらかがそう望んだのか?
しかしオリは、その両者──実質的に意思決定を行うのは一人らしいが──と接触したことはない。
あちらから興味を持たれていたとも思えないし、『あの子』の話だと、ゴルコンダはそもそもエデン条約自体にはなんら関係していないはずだった。
それならば何故、自分の行動を止めようとするのか。
数瞬、オリはそれを考え……。
しかし、今大事なことはそれじゃないと、結局結論が出ないまま棚の上に上げ、改めて銃を構え直す。
「で? そんなことを言って、私がやめると思ったの?」
「いいえ、そうは思いません。あなたは決意の固い生徒です、迷いや躊躇いは行動を阻害する要因になり得ない。
あなたが一度決めた行動を変更させるためには、天秤を覆すだけの理由が必要でしょう」
「そんな理由を持って来たってこと?」
「ええ」
「…………へぇ」
平然と、予定調和と言わんばかりに頷く黒服。
オリは面白がるように……あるいは懸命に怒りを抑えるように、唸る。
「行く前に、それだけ聞いてあげるよ。何を持って来たの?」
会話が誘導されていることには、気付いている。
時間を稼がれているのかもしれないと、理解していた。
けれど……。
今ここで、この話を聞かないのは、なんとなくマズい気がしていた。
どちらにしろ、オリが全速力を出せば、古聖堂までは5分とかからない。
まだ、時間の余裕はないわけではなかった。
故に彼女は、それを尋ね……。
直後、その選択を後悔することになる。
「まず、1つ。
あなたがこの話に乗らないのならば、私は『Divi:Sion』システムを……『Key』を掌握します」
「……は?」
呆気に取られた、と。
その瞬間のオリを表すには、その言葉が最適だっただろう。
しかし、その混乱もむべなるかな。
彼女は黒服と契約を結び、アビドスやミレニアムに手を伸ばさせないようにした……。
……つもり、だったのだから。
契約を破る気か、と。
その瞳をより殺意に染めるオリに、しかし黒服は首を振る。
「お忘れなく。私があなたと結んだ契約内容は、『暁のホルス』『狼の神』『名もなき神々の王女』に手を出さないこと。
その周りの環境にまで手を出すな、という内容までは約束しておりません」
黒服は、大人だ。
書面で結んだ契約は、確実に守る。
……けれど。
黒服は、先生ではない。
自らを投げ捨ててまで、生徒を守る者ではない。
彼は『ゲマトリア』。
自らの目的のために、このキヴォトスにあるモノを尽く利用する、利己と悪意の化身。
故に、心身共に成熟し切らぬ子供であり、更に当時は諸般の理由により生き急いでいたオリが気付かないよう、契約の条項穴を作り、こういうタイミングで使うようなことも躊躇いはしない。
彼がこれまでに調月オリの領分を侵さなかったのは、何も善意からではない。
ただ、然るべき時に相応しい手札を切ろうと、淡々と判断していただけなのだ。
そして、それは。
オリからすればもっと憎い、腐った大人の在り方だった。
「…………ああ、そう、そうだったね。
先生と一緒にいて、私も鈍っちゃったな。お前たち大人が『そういうモノ』だってこと、忘れてたよ」
感情が一周回ったか、オリの穏やかな声と共に……。
かちゃり、と。
ハンドガンの安全装置が外される音が、辺りに響く。
暗く底知れない小さな穴が、黒服の頭部を捉えた。
「じゃあ……今ここで、お前も殺すよ。
そうすればアリスちゃんにも手を出されないし、私はこの件に介入できる。何も問題ないじゃん?」
どの道、オリはこれから殺人を犯す。
一人も二人も同じ……などと言うつもりは毛ほども湧かないが、それでも必要ならば必要なだけ、手を汚すだけの覚悟は固めたつもりだった。
粘つくような、張り付くような憎悪と殺意が、黒服の意識を焼く。
オリの指が引き金にかかり、僅かに震えた後、ゆっくりと引かれる……。
……しかし、その直前。
「これは、私としても本意な選択ではありません」
黒服の言葉に、ギリギリで、指が止まる。
「…………」
無言によって先を促したオリに、彼は話を続けた。
「私は今、個人としてではなく、ゲマトリアのメッセンジャーとしてここに立っています。
個人的な意見を言うのならば、あなたの意志と行動を止める意思はありません。
その上で、今回はあなたに譲っていただく形になります。退いていただけるのならば、あの時結んだ契約を一旦破棄し、万全な形で結び直すことをお約束します」
「…………」
恐ろしい程に、変わらない口調。
黒服の声音は、下らない話をしている時や、講釈を垂れている時と何も変わらない。
一切の感情を分厚い仮面の下に隠し切った、底知れない大人の態度だ。
故に、オリにはそれがどこまで本音で、どこまで出まかせかわからなかったが……。
それでも、爆発しかけた怒りはその矛先を見失い、多少なりとも勢いを削がれる結果となった。
「……それだけで、納得しろって? 私に、先生の負傷を見逃せって言うの?」
少しだけ平時の彼女に近づいて、けれど未だ怒りを抑えきれないまま、オリは黒服に目線を投げる。
それに対して黒服は、相も変らぬ不気味な顔貌で応えた。
「無論、それだけではありません。先程に言ったものは前提として、あなたに行動を停止してもらうべく、対価は別に用意してあります」
「私がやめる対価……ね」
そんなものはどこにも存在しないんだけど、と。
オリは、内心でため息を吐いた。
黒服がどう思っているかは知らないが、オリにとって今最も大切なのは、結局のところ先生の無事だ。
対価とは即ちそれと同等、あるいはそれ以上のメリット。
オリにとっての最優先目標が本件への介入、ひいては先生の保護と助力である以上、何を差し出されたとしても対価になるとは思えない。
その上で、話だけでも聞こうと思うのは……。
恐らく、黒服が最低限の礼儀を保ってはいたからだろう。
今までに出会った、同じ人間とすら思えぬ畜生外道の大人共は、調月姉妹に対価など提示しなかった。
強引に攫い、その命を絶ち、特異に発展した脳や体だけ抉り出して部品に用いる……。
こちらに取り入ろうとする気持ちの悪い笑顔の向こうで、そんなことを考えているカスばかり。
対して黒服は、一応とはいえ、対等な立場に立って交渉を試みてきている。
先生でもない大人のくせ、何故そんなことをするのかは疑問ではあったが……。
とにかく、そうした黒服の不可思議かつそこまで不快感の強くない態度が、過度のストレスから暴走していたオリのメンタルをある程度沈静化させた。
普段通りとはいかないまでも、相手の話を聞ける程度には、今の彼女は落ち着いてきている。
……あるいは、そうさせるためにこそ、黒服は今の態度を取っているのかもしれないが。
「……まぁいいや、言ってみなよ。あと5分で行くから、早く」
意識的に吐き捨てるようにしたオリの言葉に、黒服は人差し指を立てる。
「まず、1つ目。
あなたに、今後必要になるだろう情報を2点、提供しましょう。
1つ、トリニティ地下、カタコンベの構造、及びその変化パターン。
1つ、マエストロが作り上げつつある『教義』についての情報」
思ったよりも真っ当な内容に、むしろオリは眉を寄せる。
黒服の言った情報は、確かにオリにとっては必要なものだった。
……が、同時。
その情報を伝えるのは、ゲマトリアの他のメンバーに対する裏切りにも等しいとも思えた。
「良いの、それ言って」
「私たちゲマトリアは、同志でこそあれ、一蓮托生の仲間というわけではありません。
それぞれの利益に過剰に干渉することさえなければ、自らの同盟相手に情報を伝える程度、問題にもなりませんよ」
「ふーん……」
オリからすれば、よくわからない距離感だった。
彼女は調月姉妹の姉という立場上、大人と関わることこそ多いが……。
それでも調月オリは、子供であり、生徒だ。
彼女にとって、世界は家族と友人、そして先生との関係で占められている。
それが大人の距離感だと、理屈では納得できても、本質的に理解できているとは言い難い。
が、ともかく、確かなことが1つ。
「そんな情報だけじゃ、到底対価にはならないけどね」
先生を助けるために、救うために……そのためなら、人殺しでさえする、と。
一度決めた覚悟は強固で、そう易々とは破ることはできない。
そもそも今の彼女は、黒服の態度によって、一時的に気を落ち着かされているだけ。
これから戦場に向かえば、再びその心を憎悪と嫌悪に浸すであろうことは想像に難くない。
故にオリは、「もういいでしょ、ほっといてよ」と黒服との話を終わらせようとしたのだが……。
そんな彼女を前に、黒服は、2本目の指を立てた。
「では、続いて2つ目の対価をお見せしましょう。
……とはいえ、こちらはまだ未完成の欠陥品なのですが」
「は? 未完成って、何を……」
オリは思わず振り返り……。
黒服が、スーツの内から取り出した、
「…………何、それ」
吐いた声が掠れたのが、嫌でもわかった。
黒服が右手に掲げるモノは、1つの封筒……のように見えるモノだった。
しっかりと封の施された、どこでも簡単に手に入りそうな、一般的な白い封筒の外見をしている。
……だが。
それは決して、ただの封筒ではない。
なにせ今も、明らかに禍々しい、触れることすら躊躇う雰囲気を醸し出している。
思わず生唾を呑んだオリに、黒服は淡々と語る。
「これはゲマトリアメンバー、ゴルコンダとデカルコマニーの作る道具……その試作品です。
……調月オリさん。あなたの『最終目標』の達成は、不可能に近いでしょう。
そして、単身で不可能を覆すような奇跡を起こすためには、外部の協力が必要となる」
オリは、露骨に表情を変えた。
黒服が彼女の「最終目標」を知っているように語るのが、異常に気持ち悪かったが……。
それ以上に、「封筒」の必要性を、確かに感じてしまったから。
彼女にも、ソレが何なのか、正確にはわからない。
けれど……恐らく、それは。
彼女にとって、喉から手が出る程に、必要なものだ。
「完成までにはしばらく時間がかかるでしょうが……完成し次第、あなたに渡すと約束しましょう。
これが、あなたに用意した対価の2つ目です」
オリの視線が、僅かに左右にブレる。
直前まで固く定まっていたはずの彼女の決意は、今、確かに揺らぎを見せていた。
けれど。
結局、揺らぎは揺らぎに過ぎず、決意を完全に破るには至らない。
「それは……いや、それでも……だ、駄目! 未来のために今を犠牲にするわけにはいかない!
先生が、今から撃たれる。それを私は見逃せない。絶対に!」
ジレンマに陥り、彼女は脂汗を浮かべながら首を振る。
半ば妄執的な程に、オリは先生の安否を懸念していた。
2年前の失敗を、今回も繰り返すわけにはいかない。
救うはずだった、救えるはずだったのに、結局自分が梔子ユメを
だから、先生までも喪いたくない、喪うわけにはいかない。
あるいは……。
もう二度と、何もできずに大事なものが喪われる感覚を、味わいたくない、と。
そんな想いが、彼女の思考を、どうしようもない程に縛ってしまっている。
たとえ、その選択を取ることが、最終的に彼女や周りの損失に繋がろうとも……。
今のオリには、それを斟酌するだけの余裕がない。
理屈もなく、理論もなく、結局のところ、そこにあるのはただの感情論。
歪んでこそいるが、年相応の子供のそれだった。
今までになく本音の感情を漏らして懊悩するオリに、黒服は……。
「それでは、最後の対価を挙げましょう。
……とはいえ、これは本質的には対価とは言い難いものなのですが」
三本目の指を立て、語る。
「どうかこれは、アドバイスのようなものだと思ってください。
調月オリさん……あなたはもっと、相手の言葉を吟味するべきです」
「……今回みたいに付け込まれるからってこと?」
「いいえ。むしろ、付け込みなさい、と言っているのですよ」
黒服は、古聖堂の方へと目をやり、「だからと言って何をしなさい、と言うわけではありませんが」と前置きして、独り言のように語る。
「今回結ぶ契約の内容は、『調月オリという一人の生徒が』『エデン条約に関連する一連の事件が終結するまで』『直接介入をしない』こと。
内容は以上であり、この文言を一文字一句違えるつもりはありません。
……意味は、わかりますね?」
意味ありげな、3つの文脈の強調。
それを聞いたオリは一度目を見開き。
抑えきれない嫌悪感に眉をひそめ。
けれど直後に視線を下に落として。
そうして、何かを必死に考え込み……。
「………………。分かった」
そう言った、彼女の靴の先は……。
古聖堂ではなく、黒服の方に向かった。
とある大人の介入によって……。
良くも悪くも、1つの運命が今、歪んだ。
なんか一見オリの暴走を身を挺して止めたみたいになってますが、黒服は本心では殺人容認派。
子供のこんな選択認めてるのは普通にカスです。
……逆に言えば、オリの選択を拒んだベアおばは聖人……ってコト!?