静かな、あまりにも静かすぎるトリニティの校舎。
……より正確には、それを元に造られた、百合園セイアの夢の世界と言うべき場所。
けれど今そこに、セイアではない、誰かの声が響く。
「かくして、先生と空崎ヒナは救われました。
狐坂ワカモ、便利屋68……そして彼女たちを動かした、調月オリ。
生徒たちの必死の奮闘が、愛する生徒を救う。なんとも、えぇ、なんとも素晴らしい話であると思いませんか? ……百合園セイア」
ニヤニヤと、その顔に浮かべた不気味な嘲笑を隠そうともせず。
調月オリと瓜二つの姿をした来訪者は、左手に持つソーサーからカップを取り上げ、口を付けた。
* * *
つい先程、いつの間にかセイアの夢の世界に現れていた、謎めいた来訪者。
彼女は「あなたと対等に話す気などない」とでも言わんばかりに、セイアと同じテーブルに座ろうともせず……。
気持ちの悪い笑みを浮かべたまま、セイアに言った。
『ご安心を。あなたが思い描くような未来は、決して訪れませんので。
私の言葉を疑うようでしたら、どうぞお先をご覧ください。さぁ、私のことはお気になさらず』
お気になさらずと言われても、急に自分の夢の世界に現れた他人が気にならないわけがない。
セイアは思わず眉をひそめてしまう。
ただ、来訪者はそう言って以降、口を噤んでしまった。
セイアが何を言っても聞いても、薄気味の悪い笑みを浮かべるばかりだ。
どうやらセイアが未来に目を向けない限り、自分のことを話す気はないらしい。
……仮に目を向けたとしても、話すかどうかはわからないが。
『…………』
だから、というわけではないが……。
結果的に、セイアは今まで見ていなかった物語の続きに目を向けることにした。
実のところ、この夢の世界は現実の時間から独立している。
1秒が1時間になり、あるいは1時間が1秒になりもする、不可思議な空間だ。
ずっと目を背け続けても、これといった問題は起こり得ない。
……だが。
夢の中なら、セイア自身の精神までも不変……というわけではない。
現実から逃避してこの世界にいることは、何の変化もない中でただ時間が過ぎるのを待つ日々は、彼女の心に相応以上のストレスを与えていた。
賢い彼女は、ずっとこの現実逃避を続けば、いずれ心根の腐敗を招くと理解できてしまう。
故に、どこかで割り切り、現実を認める必要があると……。
そう、心のどこかでは理解していた。
来訪者の存在は、いわばその最後の一押しだったのだ。
そうして、百合園セイアと来訪者の2人は、セイアの予知夢を通してその日の光景を見た。
エデン条約調印式、当日。
調月オリの煩悶。
黒服の出現。
不可解な交渉、新たな契約の締結。
エデン条約調印式の破綻。
正義実現委員会とシスターフッドの奮闘。
先生の退避。
空崎ヒナの限界と、先生の選択。
その先に待っていた終局。
そして、2人を見事に救い出した、4人のゲヘナの学生。
血と絶望と悲劇で幕を閉じるはずだったそれは、確かに、覆された。
……「そうはならない」と、来訪者の予言した通りに。
それを、セイアはどう捉えればいいのかわからない。
表面的に見れば、先生の無事と事態の好転を喜ぶべきであるのは明白だった。
先日、セイアの友人であるナギサが、そしてミカがやらかした一件。
不幸中の幸いと言うべきか、先生はこれを解決したことにより、トリニティ内部において非常に強い発言力を獲得した。
……まぁ、当の本人はどうやら何も気にしていないようで、トリニティに来てものほほんとしていたが。
だが、こんな事態になった以上、先生はその発言力を最低限でも活用するだろう。
現在も酷い混乱が続いているトリニティも、先生が戻れば少なからず落ち着くはずだ。
少なくとも、現在発生しつつあるシスターフッドの暴走や、ティーパーティの一部メンバーによる時と場合を弁えない権力争い、溜まりに溜まった不安とフラストレーションによる暴動は終結するに違いない。
エデン条約が歪められ、ユスティナ聖徒会の力がアリウスに回ってしまった以上、最終的な破滅は避けようがないだろうが……。
それでも、少なくともその過程において発生するであろう悲劇は、大きく減じたことになる。
それは、喜ばしいことだ。
セイアだって、これを一人で見ていたのなら、多少なりとも喜んだだろう。
あるいは、「これなら、もしかしたら」と、更に先の未来を見る気になったかもしれない。
けれど。
目の前で、そんなセイアを嘲笑うかのようにニヤニヤと笑う来訪者……。
調月オリ。
……あるいは、その見た目をした、ナニカ。
さも今見たことを喜ばしく思っているように……。
しかし同時、まるで全てが予定調和であったかのように余裕の態度を崩さない、正体不明の相手。
彼女を見ていると、どうしても、セイアの心に胸騒ぎが走る。
この薄気味の悪い誰かの想定通りに事が進んでしまっている。
調月オリの覚悟も、悲壮な想いも……黒服が現れることや持ち出した契約でさえ、来訪者はどこか予期していたようだった。
その上で、狐坂ワカモや便利屋68が介入し、先生とヒナを救い出すこともまた、想定の内。
何故、どこまで、どうやってそれらを知り得たのか。
セイアと同じような、未来を予知する力があるのか?
それとも、現実世界において、類まれなる情報収集能力でもあるのか?
あるいは、自分でそれらの絵図を描いたのか?
……いいや、それ以上に気にするべきは。
この来訪者は、何者なのか?
しかし、これに関しては、セイアには1つの心当たりがあった。
自分でも信じられないが、恐らくはそうとしか思えない、唯一無二の心当たりが。
「……君は、『あの子』かい?」
セイアのカマかけに対して……。
来訪者は、ティーカップをソーサーに置き、口端を更に上に吊り上げて応えた。
* * *
『あの子』。
調月オリが度々口にする、彼女の夢の中に現れる不可思議な存在。
曰く、本来生まれ得なかった調月オリに、この世界での生を与えた人物。
曰く、毎晩彼女の夢、不思議な風景の中を走る電車に現れる者。
曰く、本来は知り得ない多くのことを知り、それをいたずらにオリに教える誰か。
それこそが『あの子』と呼ばれる、ミレニアムでは特異現象に分類される不可思議な存在。
そして、今この場に現れる者は、ソレ以外に考えられなかった。
セイアが来訪者を一目見た時に「調月オリだ」と判断したのは、単純にその見た目が原因だ。
ミレニアムのビッグシスターに似た、少女らしくない程に育った体。
けれど、髪は妹のそれよりずっと短く切っており、瞳の色は青。身に着けているのはスーツではなく、ミレニアムの制服の1つであるセーター。
それらの記号が指し示すのは、調月オリを除いて他になく……。
けれど。
数秒の観察を以て、「いや、やはり調月オリではない」とセイアが断じたのもまた、見た目が原因だ。
なにせ、来訪者には
キヴォトスの生徒である証。その後頭部に青く光っているべきヘイローがしかし、来訪者にはなかった。
生徒がそのヘイローを消すのは、一時的か恒久的かを問わず、意識を失った時のみ。
であれば、確かに意識を保ちながらもヘイローを持たない彼女は、調月オリではない……セイアがそう結論を下すのは、少なくともキヴォトスの一般常識からすれば、おかしい話ではなかった。
……更に言えば、もう1つ。
先生と並ぶもう1人の特異点を、調月オリのことをずっと見続けていたセイアだからわかる。
調月オリは、このような、誰かを愚弄するような笑顔は浮かべない。
酷く不格好で、気持ちの悪い笑顔は浮かべない。
彼女はいつだって……その混沌とする胸中を隠すために、誰よりも上手く笑顔を作っていたのだから。
では、来訪者は何者なのか?
本来誰にも入ることのできないはずのセイアの夢境に入る力。
これは、オリの夢に現れるものと同じ力とすれば説明は付く。
他者の夢に干渉する力。あるいは……未だキヴォトスに直接的に介入しないことからして、そもそも実体を持たず、他者の精神のみ干渉できる存在なのかもしれない。
調月オリの姿をしているのは……正直なところロジックはわからないが、これまで唯一『あの子』が接触していたのがオリであることから、繋がりは感じられる。
以上から、来訪者の正体が『あの子』ではないか、と。
そう疑うには十分に、状況証拠が揃っている。
* * *
とはいえ、それらは確信を持てるだけの証拠ではない。
ひとまず言ってみて反応を見る、カマかけの面があったことは否定できないが……。
その結果として。
「……く。くっ、くくく……ええ、まぁ、気付きますよね。
百合園セイア。トリニティに咲く預言の大天使。あなたは、本当に賢い生徒だ。
これまでに撒いて来た情報、伏線、意味深な存在の必要性。それらを見落とすような生徒ではない」
来訪者は、その目をさらに深く深く、瞳が殆ど見えなくなる程、愉快そうに細め……。
「ええ、ええ。それでは、そろそろ自己紹介をば。
……とはいえ、まだ今の段階では、私の素性全てを明かすわけにはいきませんので、せめて答え合わせだけでも致しましょう」
手に持っていたカップとソーサーを、テーブルに置いて。
カーテシーでもするかのように、来訪者はそのセーターの端を握って、軽く吊り上げ頭を下げた。
「あなたの仮定は、正解と言っていいでしょう。
仮称、『あの子』。それは確かに、このキヴォトスにおいて私を指す名称の1つです」
「…………」
セイアは、迂闊に口を開くことなく、考える。
目の前の存在、仮称『あの子』について。
不安定とはいえ、未来視の力を持つ自分よりも、更に未来を見通すような言動をする所以。
他者の夢に介入し接触する、不可思議な力。
彼女の目的と、その正体。
けれど、いくら考えようと、答えが出ることはない。
彼女の視点から得られる情報は限られている。
未来視はその多くが不意に発動する上、どこを見るか誰を見るかを選択することもできず。
現実でそのまぶたを閉じたセイアは、調月オリに、あるいはその妹に接触することもできなかった。
『あの子』という、このキヴォトスの外より訪れた不可思議な存在。
その正体を察するためには、情報も友人も時間も思考も、その全てが不足している。
そう思い、セイアは自らの不甲斐なさに眉をひそめた。
賢いだの何だのと言われても、選択を誤ればこのように、何の役にも立たない木偶になるのだと。
……仮にそれらが充足していたとしても、決して正しい結論に行き着くことはできなかったと、セイアは未だ知らない。
じっと自分の眼に向き合いながら思いを巡らせるセイアを見て、来訪者もとい『あの子』は、相も変わらず歪んだ笑みを満面に浮かべたまま口を開いた。
「ふ、くく、ひ……その後悔、必要、ありませんよ」
懸命に嘲笑を抑えるような、あるいは上手く口を動かせずに困るような、どこか不自然なつっかかり。
それを繕うこともなく、『あの子』は言う。
「何故なら、あなたは、このキヴォトスは、この世界は、未だ私について知らないのですから。
『一度脳内から出た情報は、決して完全に秘匿できない』……これは、黒服の言葉でしたか。
そう、その通りです。ですから、私は、私を秘匿した。私と調月オリの脳内に、私の存在を収めた。
故にあなたも含め全ての者は、私の真実を知ることはできず。
……そして何より、知る必要もないのです」
言って、『あの子』はセイアに背中を向ける。
言うべきこと、話すべきことは終わりつつある、とでも言うように。
『あの子』の嘲笑は視界から消え去り。
椅子に座ったセイアから見えるのは、ヘイローのない黒い後頭部とセミナーの制服のセーター、そして後ろで結ばれた手だけ。
「何故なら、私は端役も端役。
この『奇跡に繋がる物語』において、『あの子』という存在など、木っ端のエキストラに他なりません。
そう、彼女の言葉を借りるのならば……大事なのは異端ではなく、正道。彼女たちにしか起こせない小さな奇跡の数々。
私はただ、帳尻合わせをしているだけの、雑用係に過ぎません。なにせ『成り損ない』ですし?」
意味がわかるような、わからないような、不可解な言葉。
それと共に、『あの子』はどこかへと歩き出す。
コツコツと、遠ざかっていく、あの子の靴が立てる音。
「待ちたまえ」
それを、セイアは引き留めた。
未だ計り知れない、不気味で不可解な『あの子』。
その正体を探る意味でも、1つ、尋ねておかねばならないことがあった。
「……君は、自身の存在を隠匿し続けてきた、と言ったね。
それなら何故、今、ここにいる。何故、私の前にその姿を見せた?」
そう、そこだ。
『あの子』について、殆どの情報をセイアは持ち合わせていない。
何を目的として動いているのか?
どんな精神性をしているのか?
譲れないものは何か、どこまで他者に譲歩できるのか?
今現在何を考えているのか?
その殆どが、断定できるだけの証拠を具えておらず。
故に、彼女の行動や意志について、何が正常で何が異常かを判断できない。
しかし、ただ一点……。
今この瞬間、『あの子』が百合園セイアと向かい合っていることだけは、間違いなく異常だった。
これまで『あの子』は、調月オリの自我が成立して以来、少なくとも15年以上の長い間、自らの存在を秘匿してきた。
姿を現すのは調月オリの夢の中だけ。
故にこそ、『あの子』という存在は、キヴォトスに一切の情報を落とさなかった、らしい。
実際彼女の最愛の妹でさえ、それを現実のものと認めたのは今年に入ってからで、未だまともに『あの子』の情報を集められていない。
その情報封鎖は成功していた、と見るべきだろう。
けれど、今。
目の前の、少女の姿をしたモノは、その方針を変え、百合園セイアの前に姿を現した。
1人が夢に見るだけならただの幻想で済むが、2人が同時に証言すれば、社会的か物理的かはさておき、確かな現象となってしまう。
故い、これからも潜み続ける方針を貫くのなら、『あの子』が百合園セイアの前に姿を現すはずがない。
では、何故、『あの子』がここにいるのか。
何の必要性があって、セイアに接触しているのか。
この疑問が、恐らくは『あの子』の行動指針に繋がると、セイアは直感していた。
もしや、自分を始末でもする気か、と。
セイアは考えている過程でそこに思い至り、僅かに眉をひそめた。
対し、『あの子』は……。
足を止め、けれど振り返ることはなく、コクリと小首を傾げた。
「ふむ……まぁ、あなたの、百合園セイアの生の声を聞きたかった、という側面もありますが。
もう一つの理由なら、先程答えてしまったのですがね」
意図を読み取れず、沈黙で先を促すセイアに。
『あの子』はどこか、セイアを……あるいは自分を嘲るように、応えた。
「全てを救うのは、先生。私は帳尻合わせをするだけです。
なにせ、先生が撃たれて意識を失う未来がなくなったのですから。私がここに来なくては、あなたは現実を見ようと、前に進もうとしなかったでしょう?」
「未来が、なくなった? それはどういう……!?」
意味深な言葉に対し、セイアが疑問を投げかけた時……。
そこに、あったのは、空虚で曖昧な夢の世界だけ。
受け取り手は、既にこの世界から消えていた。
* * *
人のいないトリニティの校舎は寒々しく、セイアの投げた言葉は無駄に広い校舎に乱反射した後、虚空へ溶けて消えていく。
慣れ切っていたはずのそれに、僅かながら寂しさを覚えながら……。
上げかけた腰を下ろし、椅子に座り直したセイアは、呟く。
「……私に、この先の未来を見せたかった?
私の考えているようにはならない……全てを救うのは先生……?」
『あの子』の残した発言を繋ぎ合わせれば……。
それが意味するところは、明らかだ。
「……まさか。
先生がいれば、トリニティの破滅は避けられると?」
セイアは眉をひそめ、懊悩する。
自分の居場所が、大事な友人が、誰かに蹂躙される光景など、見たいとは思えない。
けれど……。
けれど、もし、それが回避できる、夢のような未来があるのなら?
「先生。君は……君なら、このバッドエンドを、変えられるのかい?」
確証などない。
『あの子』が真実ばかりを語るとは限らない。
けれど、もしも、その可能性が欠片でもあるのならば。
真面目で抱え込みがちで、自らの責任感に押し潰されてしまったナギサ。
短絡的で愚かで、自分で自分を騙し、自ら袋小路に入って行ってしまったミカ。
彼女たちが救われ、再び同じテーブルに座る。
そんな眩い未来が、あり得るのならば。
「……見届けるべき、なのかな、私は。
まるで、楽園に辿り着いた者がいると、そう信じるように」