D.U.地区、連邦捜査部シャーレの部室。
先生はいつものように、書類仕事に勤しんでいた。
今日も今日とてキヴォトスでは大小問わず事件が発生し、自然、連邦生徒会はてんてこまい。
当然ながら、関連組織たるシャーレもまた、連邦生徒会から回って来た仕事によって忙殺されている。
先生としては、何より楽しい生徒との触れ合いの時間も持てず、ただただ書類に向き合うしかないデスクワークは好きではない。
なんなら連邦生徒会の会長代行であるリンちゃんに泣きつき、手伝ってもらうこともあるくらいだ。
故に今日も、書類仕事から逃げられる言い訳がないかと、半ば現実逃避のように考え……。
『先生、最近オリの様子はどう?』
ちょうどそこに、救いの手、もとい生徒のメッセージが届いた。
先生のモモトークアカウントに届いた、一通のメッセージ。
その送り主は、アビドス高等学校で実質的な生徒会の役目を果たしている対策委員会の長、小鳥遊ホシノ。
内容は、オリ……ミレニアムの生徒、調月オリの様子を尋ねるものだった。
調月オリと小鳥遊ホシノは、2年前からアビドスの復興を目的とした困難を共にしているからだろう、自治区の境界を越えた深い友情を交わしている。
ホシノと話している際にも、彼女のことはアビドスの後輩たちと同じくらいに頻繁に話題に上がる。
どちらかと言えば排他的な傾向のあるホシノからすると、これはなかなかに珍しいことだった。
だからこそ、最近オリに会えていないのならば、ホシノのメッセージには不思議な点はなかったのだが……。
つい一週間前のこと。
ホシノはデカグラマトン特殊作戦で、直接オリに会っていた。
それなのに「最近様子はどうか」という疑問を出して来るというのは、どうにも意図が読めない。
先生はシッテムの箱の中の相棒と首を傾げ合い、ひとまずは穏当な返事を送る。
“最後に会ったのは当番をしてもらった4日前になるけど、元気だったよ”
“ただ、少し忙しそうにはしていたかな。午後からは予定があるって言ってたから、半日の当番だったし”
当日のオリは自分の事務処理能力の低さを気にしているような様子だったが、先生はその辺りも加味して同時に当番をしてくれる生徒を割り当てていた。
少しばかり前に知り合った百鬼夜行のカホは、流石は陰陽部副部長と言うべきだろうか、初の当番ながら十全以上の働きを見せてくれた。
当日は急なアクシデントもなかったため、2人の協力もあって何事もなく事務作業を進めることができ、先生としてもホクホク気分。実務的な問題は発生しなかった。
そして、オリの劣等感だが……ホシノが気にしている問題は、どちらかと言えばこちらが近いだろう。
先生はオリに“いつも戦闘で世話になっているし、気にする必要はないよ”と声をかけたが、どうにも反応の手応えが薄いように感じた。
ついでに言えば、その日のオリは午後からの予定のことを思ってかどこか気もそぞろな様子。
本人は何も言わなかったが、もしかしたら何かしら悩みがあるのかもしれない。
……と、そんな調子で、つらつらとホシノへ報告を送る。
本来なら生徒のプライベートを漏らすのはあまり良いことではないが、オリとホシノの仲の良さは先生もよく知っている。
オリの方も、先生に「やんちゃだった」頃のホシノの過去を暴露することも少なくない。この程度なら問題はないだろうと思えた。
オリは恥ずかしがるかもしれないが……どうにも孤立しがちな彼女には、無理にでも人との繋がりを作っておいた方が良い気がした。
特にホシノは、オリのことを強く意識している。いざ彼女が窮地に陥った時には、彼女やミカは一も二もなく動いてくれるだろう。
先生の送ったメッセージに対する、ホシノの反応は……。
いささか先生の予想を外れ、その眉をひそめさせるに十分なものだった。
『そっか』
『……先生、負担をかけちゃって申し訳ないんだけど、しばらくの間、オリのことをもっと気にかけてあげてくれないかな』
『あの子、最近ちょっとおかしい気がするんだよね』
『ああいう雰囲気の時のオリは、良くない暴走しちゃいがちだから』
第一次デカグラマトン特殊作戦……アビドスでビナーと対決した日にも、ホシノは「オリのことをよく見てあげて」と言ってきた。
けれど、その時と今回とは、だいぶニュアンスが異なる。
なるほど、これが本題かと先生は頷き、返事を書き込んだ。
“……確かに、なんというか、何かを焦っているような感じがしたね”
『気付いてたんだね。あの日のお願いを聞いてくれてるみたいで、おじさん嬉しいよ』
先生は、生徒をよく見ている。
特に、ホシノから言われたこともあり、彼女の自己完結しがちな精神への配慮もあり……おおよそ一番最初に深く知り合った生徒ということもあり。
調月オリには、特別に意識を割いていた。
そんな先生から見ても、最近のオリの様子には、どこか異様な色が見えた。
元を辿れば、エデン条約に纏わる一件。
あの頃から……より正確にはその少し前から、オリの様子はおかしくなり始めたように思う。
エデン条約の締結が近づいて来た頃。
先生は、オリのどことなく余裕を失いつつある様子に、気付いていた。
それこそ最近のオリに近い、いつもの綺麗な笑顔の中に、どことなく蔭りが垣間見えるような感覚。
何が彼女を追い詰めているかもわからず、何より彼女自身がそれを隠そうとしているが故に、先生は指摘することも共に背負うこともできず……。
何もできないままに、事態は進んで。
そうして、本来彼女が関わるはずのない事件に、けれど調月オリは介入してきた。
その目的は、どうやら先生に『大人のカード』を使わせないことであったようで、本来知ることのできないはずの情報を知っていることや、強大な敵に躊躇もなく向かっていく姿に、先生は少なからぬ違和感を覚え……。
けれど同時、それまでの追い詰められたような姿が嘘のように、どこかテンションが高くなっているというか、舞い上がっているような印象もあり。
それらを指摘し、せっかく持ち直したらしいメンタルに冷や水をかけるのも躊躇われ。
次に、アリウススクワッドのサオリをサポートし、アリウス自治区へと侵入した時。
そこでも彼女はカードを使わせまいと事件に介入してきて……けれど、その時はそれだけではなく、孤立していたミカを助けようともしていた。
その時のオリは、比較的穏やかというか……異常にテンションが上がっているというわけでもない、本来の彼女を取り戻したような、生来の朗らかさを感じさせた。
自分で精神を持ち直したのだろうかと、先生としては安堵していたのだが……。
ここ最近の、彼女の情緒の不安定。
本来交わるはずのない事件への介入。
その時点で、オリの様子はおかしかったが……。
先生から見て、最近のオリは、再び余裕を失いつつあるように思えた。
最も印象的だったのが、やはりこの前の、第二回デカグラマトン特殊作戦。
いつもは単独で、あるいは彼女に縁のある者のみで事を為し、先生の……シャーレの力を頼ろうとしないオリが、ミレニアム内部の問題を解決するために、助力を求めて来た。
その上作戦では、緊急事態であるとはいえ独断専行した結果、不明な敵の罠にしてやられる。
どことなく、違和感が残る行動だ。
普段のオリなら「私がなんとかするからだいじょーぶ!」と勝気に笑いでもしそうだし、どんな罠にかけられようとその有り余る力で突破でもしそうなものだ。
……そう。
それこそ、
“そうだね。明日はゲーム開発部に顔を出した後、少し時間も空くだろうし……”
“少し、オリと話して来るよ”
『ごめん、よろしくお願いするね』
* * *
翌日、先生はゲーム開発部と一緒に、しばしの時間を過ごした。
前々から約束していた、部活動に参加してほしいという依頼を受けてのこと……だったのだが、気付けば何故かモモイと格ゲーをしていたり。
彼女たちの次回作のための、軽いアイデア出しに協力しようとしたり。
なんとも奇抜で独特なセンスをした彼女たちの発想に、思わず苦笑したり。
部でもダントツの腕前を持つゲーマーであるユズが、オンライン対戦でチーターをボコボコにして、皆で歓声を上げたり。
その後はアリスと良いアイデアが浮かばないか、ミレニアム自治区の中を散歩を──アリス曰く「見習い勇者アリスと先生の冒険」を──して回ったり。
その中で、すっかりこの学園に馴染んだアリスが、その愛嬌からミレニアムの生徒たちに愛されている姿を何度も目撃したり。
彼女が苦手意識を持つネルとゲームセンターで勝負することになり、一方的な試合を前に顔を真っ赤にするネルに苦笑を漏らしたり。
穏やかで、緩やかな時間が過ぎていって……。
気付けば、ミレニアムの校舎に西日が差しこむような時間帯。
歩き詰めになったというのに疲労の1つも感じさせず、先生と共に時間を過ごせたことに満足そうな笑顔を浮かべるアリス。
再び一緒に「冒険」をする約束を交わし、先生は彼女と別れた。
そして、その一時間後。
事前にオリと約束を交わしていた先生は、彼女に指示された場所に向かう。
これまではあまり来たことのなかった、ミレニアム自治区でもあまり開発の進んでいない南東部。
とはいえ、それでも他自治区の一般的な街並み程度には施設が揃っている辺り、ミレニアムの技術力が群を抜いていることを思わされるが……。
先生が立ち寄ったのは、そんな地区の、とある建物。
恐らくは5階立て前後だろう、縦にもそこそこ大きいが、その最大の特徴は他と比べても群を抜く面積。
フロア全てを使えば少年野球くらいはできそうなくらいに広い、一風変わったビルだ。
その前で待っていてほしいと言われたので、入り口で待つことにしたが……15分程経ってもオリは現れず、モモトークにも返事がない。
仕方なく、先生がビルの入り口に立ってみると、締まっていたゲートが開き、来客を中へと迎え入れる。
その先には再び閉じた扉があり、後方の扉が閉じて待つこと数秒、そちらも自動的に開いて、いよいよビル内部に入ることが叶った。
そして、その先に広がっていたのは……。
外から見た様相とは合致しない、吹き抜けになった広い空間。
殆ど照明がなく薄暗いため、全容は窺えないが……ビルという言葉から連想される複数に分割されたフロアはなく、この建物全体が、1つの広大なフロアで構成されているらしい。
建物というよりは、とても大きな箱、という言葉の方が近いだろうか。
軽く見回して目に入るのは、先生の背丈より若干低い塀や、隆起した……というより、坂のようになっている傾斜と高低差。
人為的に作られたそれらの上には、何かの機械の残骸や弾の入っていないアサルトライフルが無造作に転がされ、ここが戦場であるらしいことを窺わせた。
そして、そんな中、高速で跳び回っていた人影が1つ。
「ふっ……と、と?」
幾度か鳴る銃声と、何かを叩くような衝撃音、そして聞き慣れた生徒の声。
それらの音は、薄暗い室内に響き……。
先生が投げた視線の先、恐らくはターゲットダミーだったと思われる残骸の中に、1人の生徒が降り立った。
肩で揃えた少し乱れ気味の黒髪に、怜悧に纏まった顔貌にそぐわない無邪気な表情。
ヘイローと同色の見慣れた青い瞳は、今は驚くように見開かれていた。
「あ、もう時間? うわ気付かなかった、シャワー浴び損ねた!
ひゃー、先生ごめんね! ホントはちゃんと片付けてからお迎えする予定だったんだけど……!」
“オリ、4日ぶり”
先生が声をかけると、調月オリは、気恥ずかし気に微笑んだ。
基本的に、オリはいつもミレニアムの制服に袖を通している。
おしゃれに興味がないわけではないのだが、どこぞの過保護な妹がこの服にいくつかギミックを仕込んでおり、これ以外の服の着用を渋る、というのが主な理由だ。
が、そんな彼女は今、見慣れない装備を身に着けている。
身に着けているのはセーターではなくミリタリージャケット、その上に防弾チョッキを着込み、四肢の関節にはサポーター、拳にはグローブを着けた臨戦状態。
左手にハンドガン、右手にスタンバトンという最近メインで使っているバトルスタイルで、べったりと付着した煤や油汚れ、頬を流れる汗からも、彼女が戦闘の最中にあったことが窺えた。
先生がそんな様子に小首を傾げると同時。
オリの背後から、二機の……見たことのない、恐らくは戦闘用だろうドローンが襲い掛かる。
“オリ!”
先生の叫びが届くのと、どちらが早いか。
オリは後ろに振り向くこともなく、片方のドローンにハンドガンを発砲、その勢いを僅かに弱らせ。
片方のドローンは十分に引きつけてその機体を掴み引き寄せ、勢いを付けて踏みつけ。
それに応じて下がった姿勢によってもう1機の銃撃を回避しながら、返す刀でスタンバトンを叩きつける。
結果として、片方のドローンは踏み砕かれ、完全に破壊され。
もう片方のドローンはバチバチと放電現象を起こして、嫌な臭いと煙を上げて動かなくなる。
先生から見て、決して粗悪品ではない……むしろ、ミレニアム製としても特別に優れていたように思えるドローン二機。
珍しく真面目な顔でそれらを無力化した後、オリは一転、先生に笑顔を向けた。
「あはは、ビックリさせちゃったよね。大丈夫。この程度の難易度で遅れは取らないからさ」
そうして彼女は、懐から1つのリモコンを取り出し、いくつか操作する。
すると、薄暗かった室内は、パッと複数のライトに照らされ……。
思わず目を細めた先生は、この50メートル四方程度の空間の中、死角に入ったり背景に溶け込んで、何十機というドローンが潜んでいたことに気付いた。
しかし、それらは今やオリや先生に襲いかかる意思を放棄したらしく、脱力したようにその場で停止していく。
意図して作られた傾斜や遮蔽、恐らくはエネミーとして用意されたらしいドローン群、それらを操るオリ。
それらから考えられる、この状況の真相は、1つ。
“これは……演習?”
「にゃは……正解正解。
いやはや、先生にバラす気はなかったんだけどね。実は最近、ちょっとだけ実戦演習やってて。ここもリオちゃんにお願いして作ってもらった演習場なんだ。
この前の作戦で酷い失態を晒したし、ちょっとくらい本気で鍛え直すかーって思ってさ」
私もホシノの昼行燈っぷりを冷笑してられないからねー、と。
そう言って、オリは武装を収めながら、照れたような笑みを浮かべる。
……しかし、同時。
彼女の笑みの中には、微かに、隠し切れない先生への罪悪感が滲んでいた。
彼女の中では未だ、この前の作戦での失敗が響いているのだろう。
確かにあれはオリの失態ではあったが、それは故意のものではなく、また気を付けたとしても防げたとは限らないものだ。
オリに責があるものではなく、単に敵の策が想定の遥か上を行っていた、というだけ。
だからこそ、それが所以となってオリが強く自責することを、先生は良しとしない。
“オリ、焦らなくていい”
“誰だって失敗はする。私だって、普段からたくさんやってる”
“大事なのは、その失敗からちょっとずつ学んで、ちょっとずつ進むこと”
“自分だけで責任を感じて、急に何かを変える必要はないんだよ”
先生の言葉には、優しく温かな気遣いと、先達としての経験に基づく確かな説得力があった。
普段のオリであれば、自分の底を見透かされたように感じ、同時その温かさに癒されて、「っ、はは……もう、先生に隠し事はできないな」と微笑んでいたかもしれない。
……けれど。
今のオリは、呆気に取られたように一瞬だけ硬直した後……。
ただ俯き、口元に、ぎこちない笑みを浮かべた。
「……そうだね。多分、それが正しい」
“……オリ?”
先生の怪訝そうな声に……オリは、わざとらしく腕を組んで、誤魔化すように言った。
「まぁでもほら、私も日進月歩、頑張らなきゃいけませんし? もっともっと強ければ、あるいは何かができるかもしれませんし。
自分を磨くために頑張るのって、別に悪いことじゃないでしょ?」
“それは、そうだけど”
その言動から感じ取れたのは、強烈な、拒絶。
自分にこれ以上踏み入ってほしくないという、言葉を介さない主張。
そういった領域を持つ生徒は、決して少なくない。
それこそホシノだって、ある程度自分のパーソナルスペースを持っていて、それに入ろうとする者をやんわりと拒むようなところがあった。
あるいは……初対面の頃の印象とは裏腹に。
オリもまた、そういった類の生徒なのだろう。
出生のこと。『あの子』のこと。知っている知識や、やろうとしていること。
オリは時に、それを知ろうとする者を強く拒絶するところがある。
しかし、先生は……『先生』であるが故に。
そこに無理に踏み入ることができない。
“……そっか。うん、頑張るのは良いことだと思う”
“でも、何か悩みがあるのなら、私じゃなくてもいい、誰かに相談してね”
先生の言葉にオリは一度目を見開き……。
かちりと、まるでスイッチでも押したかのように。
その表情が、「完璧な」笑顔へと取り繕われる。
いつも通りの、綺麗に整えられた、作られた笑顔に。
「あれ、そんな風に見えた? ……うーん、私の仮面のぺらっぺらさを嘆くべきか、あるいは先生の観察力を流石と讃えるべきか。
まぁ、先生だもんね! 私なんかが腹芸で勝てるわけないかー、たはー恥ずかしい!」
“…………”
一本取られたとばかりに頭に手を当てて笑うオリに、先生は胸の底で、痛々しささえ感じた。
調月オリは子供だ。
本来は天真爛漫に生き、誰かに守られるべき、子供だ。
そんな彼女が、ここまで他者への心の壁を、防波堤を作った。作らざるを得なかった。
そこには……彼女がかつて語ってくれた、「幼少期から大人の悪意に晒されて来た」という経験が関わっているのだろう。
彼女の、調月姉妹の両親は、ミレニアムに潜む大人たちの仄昏い悪意に抗し得なかった。
故に調月リオと調月オリは、恐らくこの自治区で最も優れた子供たちは、自分たちで自分たちの身を護らねばならなかった。
知略には、知略で。
暴力には、暴力で。
……悪意には、悪意で。
そうして2人で寄り添い、自分たちの命と尊厳を守って来たのだろう。
ミレニアムの、そしてキヴォトスの生徒たちは、その大半が硝煙の匂いの中で生まれ育つもの。
けれど……彼女たちの場合は、そこに血と死の匂いもまた、充満していた。
故にこそ、彼女たちは弱さを殺した。
弱点は晒さない。他者に踏み込ませない。自分の「本当」は他人に見せない。
何十層何百層というオブラートによって心を覆い、本当の形と色を包み隠す。
それが、彼女たちの被る仮面。
調月オリは、誰よりも明るい天真爛漫を装い。
調月リオは……先生は未だ知り得ぬことだが、逆に感情を消し去っている。
そうしないと生きられなかったから、それを続けて。
そうしている内に、理由もなく、それが生き方になってしまっている。
それが……先生からすれば、ただただ悲しかった。
先生は、未来を変え得る力を持っている。
残酷で皮肉めいたバッドエンドに至るはずの写実的なテクスチャを、明日への希望と奇跡に満ちた青色の未来へと塗り替え得る……。
とあるゲマトリアの言葉を借りれば、「絶対者」と呼ばれる存在だ。
けれど、先生が変えることができるのは、「これからの未来」だけで。
「過ぎ去って来た過去」を変えることは、できない。
かつて調月姉妹が味わった苦労を、苦痛を、絶望を、肩代わりすることも共に背負うことも能わず。
彼女たちの在り方を否定することも、逆に肯定することも許されない。
先生に許されるのは、そんな彼女たちの走るレールの行先を、ほんの少しだけ歪めることだけであり……。
……そして、それは。
この物語を、ただ傍観するだけの大人も、また同じく。
「あ、そいえば先生、次会う時に渡そうと思ってたのあったんだった」
オリは唐突にそう言って、壁際に寄せてあった自身のバックパックの方へと歩み寄り……。
その中から、3回程折りたたまれた1枚の紙を取り出して、先生の方へと差し出した。
“これは?”
オリからすればそれは、用件を満たすのと同時、沈んでしまった雰囲気を変えるための話題転換も兼ねていたのだろう。
確かに、彼女の視点からすれば、それは楽しい話題に繋がる可能性を持つ選択肢であった。
……けれど、それが先生から見てもそうだとは限らない。
首を傾げて疑問を口にした先生に対し、オリは、笑顔で答えた。
「『あの子』から、先生へのお手紙だよ」
ピタリ、と。
一瞬だけ、先生の手が止まった。
けれど、苦笑いと共に彼方の存在を想うオリは、それに気付かない。
「多分ファンレターなんじゃないかな?
私は見ちゃだめーって言われたから内容見てないんだけど、あのめんどくさいオタクもいい加減先生に慣れてくれた頃だと思うんだよね。どんだけ時間かかってんだって話だけどさ」
オリの夢に現れる存在、『あの子』。
その正体がゲマトリアの一員たるオリヒメであることを、オリは知らない。
故にその手紙を、いつも長々とオタク語りする先生に向けた一種のファンレターなのだろうと、そう思い。
当然ながら、先生がオリから見えないように広げた紙の上にあった言葉は、そんなものではなかった。
先生の目に飛び込んで来たのは、黒い線で彩られた、少し歪の見える手書きの文字。
それはどこか冷たささえ感じる程に、ただ淡々と……。
『先生』
『調月オリの行動をよく見て、警戒し、そして制止した方がいいでしょう』
『たとえそれが、生徒の望みだとしても』
『それを疑い、否定し、壊してでも』
『あなたは彼女を止めるべきだ』
『さもなくば、彼女はもうじき、大切なものを失う』
『彼女が生まれてから手にした、数少ない、最も大切なものの1つを、手放す』
『それが序曲です』
『そう時も待たず、訪れる……』
『調月オリと、キヴォトスの破滅への』
そう、綴られていた。
コイツ先生と接する時毎回不穏な言葉吐き散らしてんな。
まぁゲマトリアとしては模範的なムーブではあるんですけども。
(追記)
なんか勘違いして無名の守護者が持ち込まれるのがエンジニア部だって書いてたんですが、正しくはヴェリタスでした。
この点いくつか修正しています。