カップの中のコーヒーをすすると、まるで泥水のように感じた。
べたついた最低の舌触り、下品で気持ちの悪い香り、グロテスクな程苦々しい味。
「……まず」
しかし、一拍置いて「そんなはずはない」と思い直し、オリは細めた目を下に逸らした。
実のところ、それはいつも通りの味だった。
妹が淹れてくれる、いつものブラックコーヒー。
最上級の豆を使い、小数点以下の時間と温度まで管理された、完璧な淹れ方のはずの一品。
いつもなら「美味しい」と思うはずのそれ。
けれど今、彼女はこのコーヒーを「不味い」としか思えない。
……それはやはり、彼女自身の精神状態を所以とする問題なのだろう。
美味しい不味い等の感覚は、絶対的なものではなく、相対的なもの。
空腹感や満腹感を筆頭に、その時の状態や気分によって大きく影響される。
オリが今、コーヒーを美味しいと感じられないことも、そう。
彼女の精神がささくれ立っている……いいや、有り体に言えば最低な鬱状態にあることが所以だろう。
ミレニアム自治区は広く、このキヴォトスにおいても有数の土地面積を誇る。
これよりも大きな自治区は三大校たるゲヘナとトリニティを置いて他になく、更に言えばトリニティはいくつもの分派が集まってできた学校だ、実質的にミレニアムは二番目の大きさを誇る自治区と言っていい。
そして最先端の技術の集うこの自治区では、この広大な範囲の殆どに完全な管制、支配体制が敷かれている。
完璧主義な上に高い実務能力を持つビッグシスターによって、一片の不正も行えないよう、徹底的な監視の網が張り巡らされているのだ。
故にこそ、リオに付けられたあだ名は、
ミレニアムに生きる者を常に見ている、決して不純や不正を許さない、完全なる管理者だ。
……しかし、そんなリオの管制にも穴はある。
とは言っても、それもまたビッグシスターが故意に空けた、秘匿性を高めるための意図的な穴なのだが。
調月姉妹のセーフルーム。
セミナーのメンバーすら場所も知らない、気付くこともできない、監視網に空いた穴。
十数か所のそれこそが、このミレニアムにおいて、廃墟を除いておおよそ唯一人の知の及ばぬ領域であり……。
……オリが今いる場所は、そんなセーフルームの中でも、最も特別で特殊な場所。
その面積は、文字通り一都市並み。
使われている技術は、ミレニアムにおいても未発表や未開発のもの等、最先端極まるものばかり。
理路整然とした街並みはその全てが計算尽くのものであり、往来や生活、戦闘行為に差し障ることは決してない。
そしてここの最大の特徴が、備え付けられた強固な外壁と、変化する内部構造。
これらによって外敵を寄せ付けず、あるいは逃がさず早急に排除することに特化した……。
セーフルームというよりは、もはやセーフシティと呼ぶべき、都市。
その名を、「要塞都市エリドゥ」。
調月リオが用意した、対終末防衛圏。
キヴォトスに破滅をもたらし得る「名もなき神々の司祭」の遺産が起動した際に用い、これを排除するために組み上げられた、一種の戦略兵器……。
あるいは、ミレニアム最大の救済装置である。
そんな都市の中央。
そこにそびえる巨大な塔の最上階、彼女のために誂えられた広い私室……。
隅のデスクに添えられた椅子の上で、オリは頬杖を付き、ため息を吐いた。
「はぁ……」
手慰みにコーヒーの入ったカップを揺すっても、不純物を含まないブラックは斑紋も浮かべない。
しかしそれとは対極的に、オリの胸中には強いストレスが、濃い霧のように広がっていた。
当然だ。
仕方がない流れ、しなければならない事ではあったが……。
彼女は、自らが夢にまで見て憧れた英雄、敬愛する先生と、敵対することになったのだから。
これまで先生に向けて来た好意に、嘘などあるはずもない。
いくら嘘が上手いオリだって、常に自分の心に嘘を吐くことはない。
好意を抱いていない相手に、自分の出生の秘密や大事な『あの子』の話などするものか。
故にこそオリは、自分の選択が招いた展開でありながら、先生と敵対する現状に強いストレスを抱えている。
叶うのならば、これまでもこれからも、ずっと先生の味方、あるいは協力者であり続けたかった。
彼女の慕う先生を助けることは、オリの元来の目標であった生徒を助けることにも繋がる。
それはまさしく一挙両得な、その選択肢を選ばないことこそ在り得ないと思うような、オリにとっての理想の流れだった。
……いいや、そんな小難しい理屈を並べる必要もない。
オリは単に、心地よかったのだ。
厳しくも優しい、誰より大人でけれど子供っぽい、シャーレの先生……その隣にいるのが。
先生のことを助け、時にこの心を救われる。
そんな、奇跡のような日常が。
……けれど。
アリスがAL-1Sに、名もなき神々の王女目覚めかけ、ミレニアムの生徒に被害が出かけてしまった以上。
もはやオリに、選択肢はない。
どれだけ望もうと、もはやオリに、先生の隣にいるという選択肢は取れない。
ひとえに彼女が『調月オリ』である以上、先生との敵対は避けられない。
ある意味においてそれは、生まれたその瞬間より定まっていた、決定的で不可逆の運命だった。
だから、仕方ない。
今はすべきことをするしかない。
これは正しい行動で、今取るべき選択で、全ては最終目標のため。
脳内で何度もそう繰り返し、オリは内心の反感や悪感情を殺していく。
手慣れた心理誘導、自己暗示。
ほんの数秒で、悲鳴を上げんばかりだったオリのメンタルは、ひとまず弱音を隠せるレベルにまで落ち着いた。
……エデン条約調印式の日。
あの日、人を殺すのだと決意した時に比べれば、今回の方がずっとマシだ。
なにせ、誰も死なない。
殺さないし、殺せない。勿論、天童アリスも。
ただ1人、この物語を決着させるために犠牲を出せば……。
それだけで、今回の件は、全てが丸く収まるのだから。
* * *
『オリ』
まぶたを閉じて考え込んでいたオリの耳に、聞き慣れた声が届く。
今オリがいる私室から少し離れた、広い部屋。
調月リオがこの都市をコントロールする際に使う、中央タワー最上階の管制ルーム。
そこから、オリの妹が、スピーカーを通して声をかけてきている。
「……リオちゃん、どうかした?」
努めて平穏を装った声音。
リオはそれに気付いているのかいないのか、いくつかの電子音を背景にして話を進める。
『まずは、報告を行うわ。
現在、「名もなき神々の王女」の解析を進行中。
不明な暗号化やブラックボックスが多いから慎重に事を進めているけれど、推定するに明日の3時には解析が終了する予定。
それが終わると同時、次は「名もなき神々の王女」の解体作業に移るわ。こちらは……解析の内容次第ではあるけれど、エリドゥの電力を集中させれば、すぐに終わるはずよ』
「そっか」
……間に合う。
オリは内心で、そう呟いた。
現在時刻は、昼の13時過ぎ。
オリがアリスを連れ去ってから、まだ4時間しか経っていない。
解体のための分析、その全行程の終了までには、あと14時間かかるという。
それだけあれば、ミレニアムの生徒たち……そして彼女たちを支える先生は、間違いなくこのエリドゥに辿り着いてくれるだろう。
その為に、オリはいくつもの布石を撒いて来たし……。
もしも誰からも発想が上がらなかった場合、彼女たちの中に紛れ込んだオリの
故に、まず間違いなく間に合う。
ここは問題なし。
「ア、……AL-1Sの様子は?」
『……意識を失ったままよ。起動する様子も見せない。
あなたの言う通り、念のため拘束はしているけれど、再起動の兆候を見せるまでは手を出すつもりはないわ』
もしもリオが下手にアリスの体に手を出せば、アリスの体内にいる──現時点においては、「いる」というより「ある」と言った方が正確かもしれないが──「彼女」がどのような反応を見せるかわからない。
先生が来る前に「名もなき神々の王女」が目覚めれば、それこそ全て終わりだ。
調月リオと調月オリ、そして飛鳥馬トキの三人では、あの恐るべき戦力に太刀打ちできない可能性が高い。
勿論、その全てを語ったわけではないが……。
オリはリオにアリスに手を出さないように言ったし、リオはそれを守っている。
こちらも問題なし。
「ヒマリとエイミの様子は」
『彼女のハッキングツールは全て奪っているし、和泉元エイミの力があってもあの部屋を脱出することは不可能。
本人たちもそれを理解しているのでしょうね、大人しくしているわ』
調月リオに唯一抗することのできる頭脳を持つ、明星ヒマリ。
そしてヒマリを助けるべく動くであろう実力者、和泉元エイミ。
アリスが暴走したと分かった時点で、リオは彼女たちの元に、大量の
彼女たちの組んでいた一時的な休戦協定を一方的に破棄した奇襲の形になってしまい、ヒマリはそれに対して可愛らしく怒ってはいたが……。
とにかく、2人は現在、このエリドゥ中央タワーの一角で、武装解除した上で軟禁状態にある。
こちらも問題なし。
「トキちゃんと『武装』、防衛機構……あ、アバンギャルド君の方は?」
『トキは既に配置に着いて警戒に当たっているわ。今からチャンネルのコードを送るから、そちらからも合わせなさい。
『武装』はチャージも万全の状態で待機中、
防衛機構も事前の調整は終了、電力を消費はするけれど起動はいつでも可能。メンテナンスも怠っていない。
アバンギャルド君も問題なく、出撃可能の状態にあるわ』
いずれ来る敵……本来の仮想敵である名もなき神々の司祭の遺産ではなく、今回の相手はシャーレの先生やミレニアムの生徒たち。
これに対する要塞都市の戦力も確認していく。
秘匿されたC&C5人目のメンバーである、リオ直属のエージェント、飛鳥馬トキ。
この都市のバックアップを元に動く強大な兵器、『武装』。
都市そのものが変形し、侵入者を惑わせ閉じ込める、防衛機構。
そして……未だオリはどうも慣れない、妹の変わったセンスの象徴である戦術兵器、アバンギャルド君。
すべての用意は整っている。
こちらも問題なし。
「……デカグラマトンからの接触は」
『今のところ確認できないわ。勿論、警戒は続けるけれど』
デカグラマトン、正確にはその預言者は、アリスの中の名もなき神々の王女を目覚めさせ、それを感化させるのが当面の目的らしい。
アリスが完全にAL-1Sになってしまうのはその時点で最悪と言っていい展開だが、それがデカグラマトンによって感化され、預言者となるのは更なる最悪。
それだけでキヴォトスは追い詰められるだろうし……何より、天童アリスという少女の尊厳は、これ以上なく破壊されることになるだろう。
『あの子』の話にすら出てこなかった、デカグラマトンによる接触。
オリが今、最も警戒しているのは、そこだった。
最悪、本当に万が一ではあるが、アリスがAL-1Sになったとしても、それでも先生がいれば彼女を救い得る。
だってそこにいるのは、あくまでも「ケイ」だ。
いずれ先生が救う
だが、デカグラマトンは駄目だ。
アレに感化されるのは、不可逆。「恐怖」への反転にも近しい変化だと『あの子』は推測していた。
そうなれば……いいや、先生ならばそれすらも救い得るかもしれないけれど、とにかくオリや『あの子』の想定から大きく外れた道筋を辿ることになってしまう。
これに関しては、問題なしとは断言できない。
が……少なくとも、AL-1Sやケイが目覚めるその時までは、大っぴらな接触はないはず。
どちらにしろ、オリが察知できるものでもなし、今はただ気を付ける他ない。
「……リオちゃんは、大丈夫?」
『…………意図がわからないわ』
「わかるでしょ」
『…………』
きまり悪そうに黙り込むリオに対し、オリは久々に微笑を浮かべた。
もう1つ心配があるとすれば、それはリオのメンタルだった。
誤解されがちだが、リオは決してシステマチックで心無い生徒ではない。
ただ、自身の良心や私情、ストレスを抑え、無視して行動を取れるだけの、凄まじく強い自制心があるだけ。
故にこそ、彼女は……このミレニアムを守るため、いつも傷ついているのだ。
悪徳企業にメスを入れるとなれば、それが当然のことだとしても、責めることや悪態を突かれることに幾度も精神をすり減らし。
C&Cを用いた作戦で被害が出れば、相応の金銭を払いながらも、そこで発生した文化的損失と人的被害に心を痛めている。
そんなリオが、
その内心が、それこそオリと同じくらいに荒れ狂っているだろうことは、想像に難くなかった。
けれど、それでもなお。
オリのように落ち込んだり凹んだりすることもなく、少なくともそんな姿を誰かに見せることはなく。
常に毅然とした態度で、前に、未来に向かおうとする。
全てを背負って、全てを忘れず、自らの描く未来へと突き進む。
そんな彼女は、やっぱりオリの自慢の妹だ。
だから……きっと、問題なし。
彼女なら、一人でも、歩いて行ける。
* * *
「……大丈夫だよ。リオちゃんは、私の思い付きに付き合ってるだけなんだから」
そう言って、再びコーヒーを啜る自らの姉に、リオは鋭い声を投げた。
『オリ』
けれど、その次の言葉が紡がれるよりも早く。
オリは首を横に振る。
「言いっこなし。私の方が先に言ったでしょ?
私が、調月オリが、『天童アリスを殺す』って言い出したんだ。そしてそのための手段として、いつもみたいに可哀想な妹ちゃんを利用してる。
それが全部なんだよ。……それ以外は全部嘘なんだって、リオちゃん」
昨日の夜。
2人はその日に起きてしまった事件、天童アリスの暴走に対し、どう対処するかを話し合った。
その最初、先に話を切り出そうとしたのはリオで……。
けれど、オリは今日のように彼女の発言を止めて、言い出したのだ。
『天童アリスがAL-1Sに目覚める可能性が明確になった以上、殺すしかない』
『申し訳ないけど、私一人じゃ難しいかもしれないから……あの約束を守ってくれないかな』、と。
だから、今回の作戦はオリが主導し、リオがサポートする。
……実際にはどうあれ、形だけはそうなっている。
けれど。
リオは、調月姉妹の妹は、彼女の意図を正しく理解している。
昨日、オリが話を止めなければ、リオはまさしく彼女と同じ言葉を吐こうとしていた。
『天童アリスが名もなき神々の王女に目覚める可能性が明確になった以上、AL-1Sとして破壊する他ない』
『私には、手が足りない。……あの約束を果たしてもらうわ』、と。
オリはそれを止めて、自分の言葉とした。
自分こそがその計画を進めるのだと、言い張った。
ひとえに……リオに、殺人による、過度のストレスをかけないために。
調月オリは、調月リオのお姉ちゃんだ。
姉妹が最初に互いを認めたあの時から、ずっとそう。
オリは、リオが困るようなことがあればそれを必ず解決、あるいは肩代わりしようとしてきた。
……調月姉妹のやべー方。
時にオリが、時にリオが呼ばれる、そのあだ名。
その内のオリが担う部分、それを構成した事件の数々。
その3~4割程度は、リオを助けるために起こした事件だ。
それらは名目を誤魔化して、てきとうな大義名分を並べただけ……どこまでもリオのためのものだった。
時にリオの資金横領の陽動、白兎によるセミナー資金持ち出しを手伝う破壊工作。……最近金欠気味だったから、コユキにあやかろうとした、と本人は主張。
時にリオの新兵器の対複数人試用実験のため、C&Cへの殴り込み。……これは最近C&Cが鈍っていたから、腕慣らしの為だと言い張り。
時にリオを拉致しようとした企業の本社襲撃、解体。……そういう時ばかりは、示威のため、ハッキリと名目を明かしていたが。
……いつも、そうだ。
リオが姉を頼ろうとするよりも早く、彼女はその気配を敏感に察し、助けて来た。
頭脳明晰とはいかないオリだから、時にそれは空回りしたり、むしろリオの足を引っ張ってしまったりすることもあったが……。
リオはその行動を、自身の姉の献身を、よく知っている。
誰よりも近くで、姉の優しい嘘を……誰かを守るために自分の身を刻む嘘を、見て来たから。
そして、今回。
あろうことか、殺人の罪を引き受けると。
綺麗な……けれど、リオからすれば嫌な笑顔で、姉はそう語った。
その献身を、リオは、ただ受け入れるしかなかった。
それを拒絶することも、あるいは理解したような気配を見せることさえ、彼女の想いを否定することになる。
オリはあの時姉たるを望み、妹を支える生き方を選んだ。
リオはあの時彼女を抱きしめ、彼女の妹たるを、認めた。
だから……。
オリに対して、これ以上のことは、何もできない。
リオは姉の、いっそ危うい程の献身を……古い約束にかこつけて、受け入れるしかないのだ。
* * *
マイクの前で黙り込み、数刻前のオリのように視線を下に落としたリオ。
そんな彼女の元に、明るさを装った姉の言葉が届く。
『ま、それはいいとして、さ!
私から聞きまくってごめんね~。そんで、私のことを呼んだ本題は何?』
そう言われ、リオは彼女に声をかけた理由を思い出す。
……そうだ。
感傷に浸るような時間は、彼女たちにありはしない。
これから調月姉妹は、ミレニアムを救うために、人を……たとえ正確には人ではないとしても、それでも確かに善良な意思を持ったモノを、殺すのだから。
このミレニアムにおける必要悪を担い、レバーを引くのは、自分たちを置いて他にない。
そしてそんな悪に、立ち止まる躊躇は、許されない。
故に。
リオは刹那の内に思考を切り替え、本題を切り出した。
「
脳波感知と自走、砲撃角度調整を行うから、一度落ち着ける場所で横になって頂戴」
『ん……了解』
そうして、それから数時間。
オリとリオは、都市の中で警備しているトキと共に、『武装』のテストや機構の稼働確認をして過ごした。
この都市が攻められても問題ないように。
その時に万全な反撃ができるように。
……リオは確信していたし、オリは知っていたのだ。
この都市にはもうじき、この世界の主人公のような存在が来る。
膨大な権力を持つ、不可解な大人。
誰よりもカッコ良い、憧れの英雄。
キヴォトスにおいての名を、「シャーレの先生」。
その人が……。
……
次回から、ついに要塞都市エリドゥでの戦い。
自治区最強級が敵対し、トキや武装などの情報も落ちていない中での、ゲーム開発部2章ハードモードが始まります。
(追記)
誤字報告をいただき、訂正させていただきました。ありがとうございました!