要塞都市エリドゥの上空を、1人の少女が男性を抱えて駆ける。
ビルの屋上から屋上へと、彼女、調月オリがその身を躍らせる度に、建物の屋上は彼女の足場となるように適度な高さへと調整されていった。
都市そのものを味方とする彼女が目指すのは、エリドゥの中央タワー。
彼女の妹が待つ、この要塞都市の中核だ。
そこはこの都市において最も安全な場所であり、如何なる外敵に脅かされない聖域。
逆に言えば、今オリが抱えている人……先生を、決して奪還されることがないということも意味する。
「悪いね、先生。あなたは現状で最も大きな脅威だ。
だから引き離して、隔離させてもらう。それが一番手っ取り早い無力化だからね。
ああ、心配しなくていいよ、危害は与えないから。
だから私たちは、ただ全部が終わるまで、あなたを中央タワーで軟禁させてもらうだけ。なんなら美味しいかつ丼でも作ろうか?」
その手に抱える先生に、オリは挑発的な言い方で説明した。
勿論、先生としてはそれを受け入れることはできない。
大切な生徒たちが、その友達を助けようとしているのだ。
彼女たちが何かを望んだ時、その行動を助けるのが先生の仕事であり役目であり趣味。
だからこそ、放ってはおけない。
けれど……同時。
目の前にいる、自分を無力化しようとする少女もまた、先生の生徒だった。
であれば、覚えた違和感を無視して抵抗することなど、できるはずもない。
調月オリはその妹と同じように長身であり、なおかつかなりの剛力だ。
大人である先生の体も悠々と持ち上げることができるし、その上で高速で跳躍・移動することもできる。
……しかし、その速度に反して、先生に叩き付けられる風は強くない。
いいや、強くないという表現は正しくないだろう。実際エリドゥの上空にはそこそこの気流があり、オリが高速で移動しているのもあって、吹き付ける風はなかなかのものだ。
けれど、先生は今、それを感じない。
オリが細かく抱え方や体勢を変え、先生を守るように風を遮断しているからだ。
先生は未だ、調月オリという少女を掴みあぐねている。
天真爛漫なようでいて、ひねくれて悪知恵を働かせるところもあり。
気持ち良く愚直なようでいて、思慮深く策謀を巡らせる部分もある。
何より……これまでに彼女が告げてきた言葉、見せて来た態度、取ってきた行動。
その中で、確かに真実だと思えるものは、ただ1つを除いて他にない。
けれど……。
先生のタブレットの中の存在を、そして恐らくは彼女が「出来ること」を知っている彼女が、こうして風から自分を庇い、激しく揺らさないように気を付けてくれてもいる。
調月オリという少女が、無意識に持っている善性。それは嘘ではないと……。
先生の知る調月オリの全てが嘘ではないのだと、彼女自身の行動が証明していた。
故に。
先生は、彼女に訊ねる。
“オリ”
「何、先生?
あ、悪いけど、やめてほしいとか助けて欲しいとかは聞けないよ。私はあくまであなたの敵で」
“君は今、誰の責任を取ろうとしているの?”
ガクリ、と。
初めて、先生の体が、強く震えた。
先生は今、調月オリの実像を見失っている。
彼女がどういう生徒なのか、何を考えているのか、確かなことが何なのかわからなくなっている。
……そう、させられている。
けれど、ただ1つだけ、確信を持って断言できることがある。
それは、調月オリは「お姉ちゃん」である、ということだ。
半年と少し前、ゲーム開発部と共に廃墟に赴いた時。
先生は何気なく、彼女にこう言った。
“そっか。……じゃあやっぱり、オリはお姉ちゃんなんだね。自分から進んで誰かの面倒を見ることのできるお姉ちゃんだ”
……その時にオリが浮かべた表情を、先生は忘れていない。
本気で驚愕したように、その目を見開いた後……。
彼女は、いつもの「綺麗な笑顔」ではなく、気恥ずかしそうに、けれど嬉しそうに笑っていた。
あの笑顔は、その裏にあった感情だけは、間違いなく嘘ではなかったと断言できる。
何故なら、彼女は今だって……誰かのお姉ちゃんとして、その子を救おうとしているのだろうから。
「…………ったく。先生はさ、本当にチートじみてるね。
勘弁してほしいよ。わかってる? 今あなたは上空にいて、ちょっと私がコントロールミスれば急転直下なんだよ? アンダースタン?」
すぐに姿勢を立て直したオリは、そう言って……口元に、苦笑いを浮かべた。
最近彼女が浮かべていたソレとは違う、見慣れた感情。
バイザーを付けてその目を隠している状態でこそあったが、先生はその奥に、見慣れた光を見た気がした。
そうしてオリはため息1つ、静かに言葉を紡ぐ。
「まぁ……丁度いいか。
先生、一つ、昔話をしてあげるよ。……今じゃなく、この後のためにさ」
彼女は視線を中央タワー……あるいは、その最上階にいる誰かへと戻し。
どこか乾いて、けれど悲し気な声音で、語り始めた。
「昔々、あるところに、一人の女の子がいました」
「女の子はすっごく可愛くて、ビックリする程美人で、ありえないくらい賢くて、私と同じくらいグラマラスで、悲しいくらい真面目で、人のことばっかり考えてるような、妹にするには最高の女の子でした」
「女の子はとっても優しいので、皆のことを守りたいと思っていました。
そして彼女は、たった一人でそれができてしまうくらいに、賢い頭脳を持っていました」
「だからその子は、当然のように、全てに手を伸ばそうとしました。
全てを救い、全てを守り、全てを生かす。そんな夢のような国を作ろうとしたのです」
「──夢は、夢でしかありませんでした」
「世の中は互いの足を引っ張ろうとするクズばっかりで、己のことしか考えないゴミばっかりで、皆を守ろうとする女の子に剣を突き立てるカスばっかりで、自分から救いの手を払いのける馬鹿ばっかりでした」
「呆れちゃうよね。本当……死ねばいいのに」
「ですが、それでも女の子は優しいのです。悲しいくらいに真面目で良い子なのです。
そんなどうしようもなく救えない、救う必要もないヤツらさえも救おうと、頑張りました」
「頑張って、頑張って、頑張って頑張って頑張って頑張って頑張って頑張り続けて……」
「結果、悟りました」
「全ては救えない、と」
「心が折れたって言ってもいいけど、私はその言い方は好きじゃないかな」
「だって女の子は、今でも全てを救いたいと思っているのです」
「でも、あまりに頭が良いから。全てを救うなんて結果は奇跡に過ぎなくて、『ただの女の子』である自分には常にそれを起こし続けるようなことはできないとわかってしまう」
「だから、奇跡ではなく、合理に縋った」
「100の被害を、10に。10の被害を、1に。
そうやって被害を最低限にするために……2つのコストを受け入れた」
「トロッコ問題。先生は知らないわけじゃないよね?」
「女の子は、レバーを引くんだ。迷いなく、当然のように、自身にその在り方を課して」
「そうして、彼女の行動の結果として、多くのものが救われました。救われています」
「そこで出る損害は、たった2つだけ」
「必要最低限に抑えられた被害と……そして、女の子自身」
「皆を救おうと思ったのに、そんな皆を殺している」
「レバーを引くということのために、自分の手だけでは足りず、他者を頼ってしまう」
「自分の手が小さすぎて……掬った水が、零れてしまう」
「それに、女の子の心は、いつも傷つけられています」
「きっと今回も、酷く傷ついてしまうでしょう」
「けれど」
「それでも、女の子は、皆の為に頑張ります」
「私は間違っていない。ミレニアムを守るために最善を尽くしている……そう、自分に言い聞かせて」
「ボロボロの心を無理やりに塞いで、涙を抑えて、弱音を殺して、頑張ります」
「……だってあの子は、誰よりも優しい、自慢の妹だからね」
……それは。
その昔話は、先生の耳には、特定個人のことを言っているようにしか聞こえなかった。
けれど、それを問い詰めるよりも早く。
オリは、先生の耳元で囁いた。
「だから……あの子のことだけは、許してあげてね。
これは私がやったことで、あの子はただ手伝ってくれただけで……。
たとえ私が言い出さなかったらあの子がこの計画を主導していたとしても、それでも、現実はこれだけ。イフなんて語っても仕方ないんだから」
彼女の口元は、笑いの形に歪んだ。
けれど……彼女が纏う雰囲気は、とてもではないけれど、愉快そうなそれではなかった。
そのバイザーの奥の目は、果たしてどのような色を浮かべているのか……。
先生には、わからなかった。
……わからなかった、が、それでも。
“許すも許さないもないよ”
“私は先生で、生徒の味方だから”
先生は、そう答える。
“女の子のことも、オリのことも、私は敵とは思わない”
“手段は違うけど、きっと皆、目指すところは同じだから”
思わず先生の方へと視線を移したオリに……。
バイザー越しに、視線を合わせて。
“だからオリも、無理はしないで”
“誰かのために頑張ることは、きっと善いことだけど”
“女の子が傷ついた時に君が思ったことを、きっと誰かも思うんだから”
大人として、子供を導く台詞を送る。
その言葉に……オリは、一度、ビルの屋上で立ち止まった。
言われたことを、感情を整理するように、黙って数秒……震える唇を噛みしめ。
「……せっかく張り詰めてたのに、先生は、本当さ」
一度その顔を俯かせて。
「好きだよ。先生の、そういうところ。
……うん、やっぱり私は、あなたのことが好きです。
ずっと昔から好きだったし……今、改めて、好きになった。
だからこそ、……本当に、辛いな」
そう言って、嬉しそうな、あるいは悲しそうな。
複雑な形に、その口を歪めた。
* * *
数秒、空白の時間が続き。
オリは一度、ぶんと頭を振って、空気を切り替える。
「……言っておくけど、私が先生のこと好きだからと言って、敵ってことは変わんないからね。そこは勘違いしないように」
“オリは何度も『私は先生の敵だ』とは言うけど、『先生は私の敵だ』とは言わないんだね”
「っ、あーもう! 本当にもう! 喋れば喋るだけそっちにペース持っていかれるなぁ!
先生はホント変わんないっていうか……信じらんない。私はあなたの生徒を害そうって言うんだよ? それなのに受け入れるの? 生徒だったらどんな子でもいいの? ふん、先生の節操なし!」
まるで八つ当たりするように、オリは頬を膨らませて先生に罵声を浴びせる。
先生は、それを聞いて……嬉しく思った。
それはなにも、マゾヒスティックな性癖が満たされたとか、そういう理由ではなく……。
これまでにオリは、ただの一度でさえ、先生にそんな悪口を言ったことはなかったから。
大人である先生は知っている。
人間が親しくしていれば、必ず相手の短所や駄目なところが見えて来るものだ。
それを指摘せず、あるいは見ないフリをして相手を賞賛するばかりの関係なんて、土台歪んでしまっている。
だからこそ先生は、こんな状況ではあるが、「本当の調月オリ」のことを少しだけ知れたような気がして、嬉しかったのだ。
「もう、なんかニコニコ笑ってるし……状況わかってるのかな、先生。
ここは戦場で、あなたは今味方の生徒から引き離されて、敵に攫われてるんだよ?
言っとくけど、中央タワーに閉じ込められたら終わりだからね。それこそシッテムの箱を使って物理現象を歪曲なりなんなりしないと出られないだろうし、先生はそれしないでしょ?
更に言えば、先生がいなきゃ生徒たち詰みだから。トキちゃん……あ、先生は知らないっけ。今C&Cの方を抑えてる子の方はなんとかなったとしても、私はまず突破できなくなると思うよ」
恥ずかしさを隠すように、オリは早口でそう語った。
確かに、状況は良くない。
先生はオリに捕らえられて現在移送中。
逃げ去るオリを止めねばならないが、彼女の速度にはゲーム開発部もエンジニア部も……というか、ミレニアムではネル以外の誰も付いて来れない。
が、肝心のネルはトキによって抑えられていて、それ以前に自分が連れ去られていることも知らない。
もし先生が中央タワーで囚われることになれば、先生自身がそこを抜け出すことはできない。
アリス奪還チームによる救出を待つことになるだろうが……恐らくは相当に固く守備を固めているだろう中央タワーで、先生のいない生徒たちがそれを為せるかはわからない。
更に言えば、調月姉妹がアリスのヘイローを破壊するまでに、どれだけの時間がかかるかは現状不明。
下手に時間をかければ、タイムアップでゲームオーバーになる可能性まである。
だから、はっきり言ってしまえば、この状況はかなりの危機だった。
危機だった……が。
いよいよ中央タワー前、そこに入ろうと地面に降り立ったオリに、先生は笑いかける。
“大丈夫。私は生徒たちを信じてるからね”
その、瞬間。
先生の体は、地面に転がり。
オリの胸部に、一発の銃弾が突き刺さった。
「────ッ、が、ぐ」
軌道的には十中八九問題なかったとはいえ、万が一にも先生に当たらないよう、咄嗟に先生の体を投げ出したはいいが……。
そのせいで、オリは銃弾を回避することができなかった。
チェストプレートの装甲のやや下、肋骨の辺りに鈍い痛みが続く。
……襲撃者が、いた。
オリに気配を悟らせない隠密能力。
タワーの前、地面に降り立った瞬間という、安堵を誘う状況を待って攻撃する戦術眼。
何よりオリをたったの一発で呻かせる凄まじい威力──強すぎる神秘。
間違いなく、強者だ。
美甘ネルではない。
彼女であれば銃を乱射しているだろうし、もっと距離を詰めてから撃つし、タイミングなど待たない。
であれば、一体誰が、と。
オリが視線を向けた先にいたのは……。
「……ああ、そうか、そうなるんだ。あなたが来るんだね」
カタリ、カタリと、ブーツが音を立てて、襲撃者がビルの陰から姿を見せる。
オリの目に見えたのは、ミレニアムでは滅多に見ない、赤と黒に彩られた和装。
真紅の災厄と名付けられた、一丁のライフル。
そして……その頭に被せられた、狐の面。
そして、きろりと、鋭い金の瞳が彼女に向けられた。
「……あなた、何をしているのです?」
七囚人……ではなく。
一人のシャーレの部員、狐坂ワカモ。
オリと、先生を守る同盟を組んでいた少女が……今、目の前に立ち塞がっていた。
調月姉妹の(恋愛)強者な方。
自分のことを話されたり語られるのは苦手だけど、他人に好意を伝えたり告白したりするのは得意なタイプ。