状況を整理しよう。
エリドゥ中央タワー中層で決戦に臨む2人……調月オリと、美甘ネル。
彼女たちは既にそれぞれ、ある程度の傷を負っている。
まず、美甘ネル。
彼女はアビ・エシュフを纏ったトキとの戦闘、特にエレベーター内の十数秒の乱戦によって、少なからず消耗することを強いられた。
更には、ここまでの休む間もない連戦や、戦闘の序盤にオリに一方的に攻められたことによる消耗もある。
いくら強い神秘を有しているとはいっても、彼女だって無尽蔵の体力を持っているわけではない。
実のところ、既にその体力は底を突いている。
……が。
彼女の底から沸き上がる苛立ちとアドレナリン、そして何より凄まじいまでの根性が、むしろいつも以上のポテンシャルで彼女の体を無理やり動かしている。
消耗しているはずなのに全力で動けるという、なんとも不可思議な状態だ。
とはいえ、それも永遠に続くわけではない。
物理と精神両面で限界は確かに存在するし、彼女の今の状態を表す言葉としては、「タイムリミット付きの全力全開モード」というのが平たいものになるだろうか。
更に言えば、怒り狂ったオリによる不意打ちにも等しい初撃で、盾にしようとした右腕は潰されてしまった。今は左腕を残すばかりだ。
体力共々、万全な状態とは口が裂けても言えないだろう。
一方、調月オリ。
実のところ、彼女も彼女で、この戦いでそこそこの負傷を強いられていた。
ワカモとの戦闘で受けたのは軽傷に留まり、先生たちが到着するまでにしばし休んだことで殆ど癒えている。
実際にダメージとなったのは、ネルとの戦闘、近接戦に持ち込まれた際のラッシュによるものが大半。
そこに、ネルを引き剥がすべく甘んじて受けた、パラライズグレネード1発分が加わった形だ。
ネルに比べれば、受けたダメージ自体はかなり少ないと言えるだろう。
……が。
直接的な戦闘に向いているネルに対し、オリは奇襲や初見殺しに特化していると言っていい。
速度と力に優れる分、耐久力や防御力自体は、怒りによる強化や直感という力を持つネルとは比べるべくもない。
つまるところ、本来彼女は、削り合いの戦闘は不得手なのだ。
故に、ただ数値的に並べれば負傷は少ないように見えても、比率で見ればネル程ではないとはいえ相応の消耗を負ったと言っていい。
初見殺しの瞬殺を狙っていた彼女にとって、ここまで戦局が長引くことそのものが想定外。
実のところ、焦燥はネルよりも大きかった。
以上が、戦闘が開始して10分時点での、双方の状況だ。
オリの一方的に有利な状況から始まった戦いはしかし、ネル側に趨勢が傾いていた、と言っていいだろう。
なにせ、オリはほぼ無傷、ネルは重症の状態から、ある程度の均衡に持ち込んだのだ。
実際それを見ていた生徒の多くは、このままネルが勝ち切るものとすら思っていた。
……オリの地雷をネルが踏み抜く、その瞬間までは、の話だが。
* * *
新たな局面、恐らくは最後と思われるそれに突入した、2人の戦い。
それに対し、先生たちは……。
……何もすることができなかった。
総員で先生を守るゲーム開発部とエンジニア部の生徒たちは勿論。
今や、先生でさえ、ネルにまともな指揮を飛ばすことができない。
その理由は簡単で。
目の前に広がる戦いが、もはや熾烈という言葉を越えて、地獄のような様相を呈していたからだ。
それを目で追えていたのは、恐らくは当人たちだけだろう。
オリが振りかぶるバトンが、ネルの髪を掠め。
ネルの乱射したサブマシンガンが、無為に壁を穿ち。
オリの振り下ろすハンドガンのグリップが、空を切り。
ネルの振り回す鎖が、オリのチェストプレートに傷を刻む。
それぞれの交差は、1秒の10分の1にも満たず。
それらの間隔さえも、1秒の半分程度しか開かない。
それなのに、鳴り響く轟音や銃声は、いずれも数メートルは離れた場所で、それも二次元に囚われず三次元的に巻き起こる。
キヴォトスでも最高峰と言っていい神秘。
数年の月日を戦場に置いた経験。
元来持ち合わせたバトルセンスか、積み上げて来た戦闘理論。
そして何より……大切な日常を守ろうとするが故の、敵への激怒。
それら全てを持ち合わせる彼女たちしか、この戦いには付いては来れないのだ。
そして、戦場に吹き荒れるのは、暴力だけではなく。
「死ね、死ね、死ね死ね死ね死ね!
ここで死ね! 今すぐ死ね!! リオちゃんを傷つけるヤツは全部死ねッ!!!」
「うるせーよソレばっかかてめぇは! 死ねっつうんならまずはてめぇが死ねや!!」
交わされる言葉は、普段の彼女たちのどこか間の抜けた関係性からは想像も付かないような、荒んだもので。
片や、目の前の存在を「敵」としか認識しなくなった、怒り狂う少女の悲痛なまでの叫びが。
片や、それを平然と受け流して殺気を投げ返す、普段通りの少女の上げる怒号が。
広い空間にこだまし、銃声と破砕音によってかき消される。
いつもはネルの理不尽な要求を冗談交じりに受け流す側だったオリから余裕が失われた今、両者の間に飛び交う敵意と害意は、合わせ鏡のように連鎖し、増幅するばかりだった。
そして、2人の間の戦況は……。
……互角。あるいは、ややオリの優位で進んでいる、というのが現実だった。
本来であれば、至近距離での戦闘で、オリはネルに勝てない。
ネルの記憶に蓄積された、2年間の何十度にわたる調月オリとの戦闘経験。
それは疑似的な未来予知すら可能とし、戦況をネル側に大きく傾ける。
今の激昂したオリに関しても……たった2度ではあるが、これに似た状態の彼女と戦ったことはあった。
目の前でその状態に転換したことはなかったために、初撃の不意打ちはどうしようもなかったが……。
二撃目以降は、精度こそ甘くなるが、対処可能な範囲だった。
……が、しかし。
防ぎきれなかった初撃に象徴されるように……。
ネルは、見たことのない状況にまでは、完璧に対応し切れない。
「特異な力を用いる、激昂したオリ」について、ネルは一切の経験を持たなかった。
「オラァ!」
拳を空ぶらせ、轟音と振動と共に壁を叩き割ったオリに対し、ネルは左脚を軸に槍のような蹴りを繰り出し。
……しかし。
すぐには動けないはずのオリの姿は、一瞬の内に掻き消え、脚は空を切る。
マズった、と彼女が思った時には、既に遅く……。
「壊れろッ!!」
耳元で囁かれる、憎悪と殺意の煮凝りのような言葉。
無理に軸足で跳んだネルの脇腹に、凄まじい痛みが走った。
「がっ、……クソ、が!」
空中に身を躍らせながら、思考を乱す痛覚を断ち切り、ネルは自らの状態を顧みる。
死角から飛んで来た敵の攻撃は、恐らくは肘打ち。
掠った部位は、右脇腹。
被害は……筋肉と神経の断裂、肋骨2本の粉砕骨折。
ふざけんじゃねぇ、と内心で恨み言を零す。
掠っただけで、この被害。その上、先程のように不意打ちで来られると、躱し切れない速度だ。
だからと言って防御しようにも、先程右腕が持っていかれた時のように、軽減してもなお痛打となる程の威力。
もしも防げもせずに直撃すれば……この体力からでは、当たり所によっては、ネルのヘイローが危ない。
オリの力は、もはや道理も条理も飛び越し、正しく不条理なものとなっている。
ただ速く、ただ強い。
その二つの要素があるだけで、搦手も策略も戦法も逃避も、その全てを骨肉ごと粉砕する。
それが今の……怒りに心を焼いた、調月オリだ。
……そして、何より厄介なのが。
今も見せた、転移能力だ。
先生の考察、ネルの直感では、それは使う際に一定以上の集中力を要するものであるはずだった。
だからこそ、攻め続ければ逃れることもできないと、一方的に消耗を強いることができると、そう思っていた。
しかし。
不条理に堕ちたオリには、もはやそのような条理すら通用しない。
怒りに染まり熱された思考は、殊暴力をまき散らすという側面に限って、普段の数十倍の回転を見せる。
自らの内にある不可思議な力を練り上げ、どこに転移し、どのように体を動かすか。
その思考は須臾の時間すら使わず、また痛みによって止められることすらもなく、もはや歩行や呼吸と同じくオートメーションじみた速度と精度によって行われている。
それを以て、彼女はネルの攻撃を避け、また感知できない方向から攻撃を仕掛けて来ていた。
もはや今のオリは、空間に囚われていない。
あらゆる場所に遍在し、どこからでも攻撃を仕掛け。
どこにも存在せず、一切の攻撃が当たらない。
それこそが、彼女の神秘の本質。
「存在すると仮定され、けれど決して存在しないもの」。
本来このキヴォトスに存在できないそれは、しかしとある小さな犠牲により生誕を経て……。
今この瞬間。
何よりも煌びやかに、咲き誇る。
……その、もはや真っ当な勝負にすらならないような相手に対し。
ネルが戦況を「やや不利」に留めていられるのは、これもまた、オリの怒り故だった。
「ちっ……!」
視界の中でオリが拳を引くと同時、ネルの直感と思考が急速に回転し、未来を見通す。
このまま殴って来る? ──確率は低い。
これはミスディレクションで、もう一方の腕や足が本命? ──あり得ない。
それでは次はどう来る?
──簡単だ。一番の急所を狙って来る。
ネルの、キヴォトスの生徒の急所は、本質的にキヴォトス外の人間と変わらない。
その意思を司る脳、脳に血を送るための血管、血を送り出す心臓に、それに酸素を供給する肺。その他にも様々あるが……とにかく、命を構成する根幹たるパーツのそれらだ。
そしてその内、壊すことでより急速に「美甘ネルを殺す」ことができるのは────。
やはり、脳。
「クソがッ!!」
咄嗟に身を落としたネルの頭上、彼女の背中の側から、暴風と共に一本の腕が突き抜けた。
「ハ……読みやすくて、助かるねッ!!」
腕で体を支えることで脚を離し、半身を逸らして弧を描くようにオリに向かって蹴りを入れる。
だが……オリからすればそれは、自ら弱みを晒す行為としか思えなかった。
彼女は迫り来る脚を片腕で弾き、片腕で掴もうとして……。
「いつものてめぇの方が、ずっとあたしを警戒してたぜ!」
怒りがオリにもたらすのは、神秘の開放だけではない。
頭に血が昇ることによる、短絡さ。
それもまた、オリに宿っていた。
故にこそ、ネルからすれば読みやすいことこの上ない。
最も効果的な急所ばかり狙い、四肢を狙ってくるようなこともなくなるし。
目の前にぶら下げた餌を、何も考えず取ろうとするのだから。
端的に言えば。
きちんと頭を回しさえすれ、ネルは、次に攻撃が来る場所がわかる。
ある意味で精度の低くなった直感を、彼女の思考によって補っている状態と言えるだろう。
……しかし、逆に言えば。
それを以てなお、戦況はやや不利だ、とも言えた。
ネルの乱射した弾幕は、その弾丸を数発当てただけに終わり。
オリは休む間もなく、ネルを挟んだ反対側へと転移し、渾身の力でその体を蹴り上げようとする。
ネルは咄嗟に左手を突いて跳び下がり……舌を鳴らす。
反撃は、容易い。
なにせ攻撃が読めるのだ、当然と言える。
しかし、攻撃したとしても……今のように、弾かれ、いなされ、叩き落とされ、そして躱される。
甚大なダメージになるレベルまで、攻撃を叩き込むことができない。
動きが、判断が、速すぎる。
反撃が、対処が、強すぎる。
ああ、確かに不条理だ。
相手の攻撃ターンが永続に続き、こっちのターンが来ず、その上反撃も無効化される。
全く以て、戦いというものの筋道が成り立っていない。
真後ろに転移して来たオリに対応しながら、歯噛みするネル。
彼女は今になって、2年前に言われた言葉、その真意を理解する。
『そうだなぁ。じゃあ「本気の私」に勝てたら、C&C入るの考えたげるよ!』
……ネルがオリと何度も戦うきっかけになった、オリの言葉。
そこに含まれていた、圧倒的な強者たる余裕。
それは、今のオリに裏打ちされた言葉だったのだろう。
オリには絶対的な自信があるのだ。
いざとなれば、本気を出せばいい。そうすれば自分は絶対に負けないのだ、と。
そしてそれは、おおよそ正しい。
ネルが、約束された勝利の象徴が、こうも苦戦を強いられている。
いくらコンディションが悪くとも、それは彼女の中の怒りが補填してくれているのに。
つまるところ、仮にネルが万全な状態だったとしても、この状態のオリとぶつかれば……苦戦は、決して避けられない。
その神秘を解放しきった調月オリに抗することができるものは、キヴォトス全体を見ても数少ない。
真正面から打倒し得るのは、アビドスの砂漠に残る、彼女の無二の友人。キヴォトス最高の神秘を持つ少女のみであり。
かろうじて止め得たのは、超人による指揮下のSRT、豊富な装備と万全な準備を整えた狐たちだけであり。
それを鎮められたのは、ただ漫然と流れていく時間による感情の風化ばかりで。
……逆を言えば。
それらを除いて、神秘を解放したオリを打破できるものは、これまでキヴォトスには存在しなかったのだ。
それこそが、ミレニアムにおける最高の知の対極。
最低の暴力、不条理の化身。
調月オリ。
……ネルが。
いいや、ネルたちが。
誰より、先生が、止めねばならない相手だ。
“…………”
まるで吹き荒れるタイフーンのような戦闘を前に、先生はひたすらに考えていた。
彼女を止める方法。彼女を倒す方法。彼女を戦闘不能に追い込む方法を。
先生のパートナーが予測していた通り、やはり戦局はやや不利。
如何にネルとはいえど、このあまりに不条理な暴力を前にすれば、真っ当に彼女らしい戦いをすることすらできなくなってしまう。
むしろ、ほぼ一切攻撃が通じず、それなのにあらゆる方向から攻撃が飛んでくるこの戦場で、ここまで拮抗した戦いができるのだ。
約束された勝利の象徴は、やはりミレニアムにおいて最強なのだろう。
……ただ、ミレニアムには、最強の他に最恐もいて。
彼女は今、自らの心を引き裂きながら、その神秘の神髄を見せている。
止めなければならない、と。
先生の、先生としての思考は、そう判断する。
オリは……今の彼女の在り方と矛盾するようだが、暴力を好む生徒ではない。
戦いを、勝負を、研鑽を好みこそすれど、人を傷つける行為自体にはむしろ嫌悪感を持つタイプだ。
弱い生徒にそれを向けようとはせず、対等に戦い得る強者にのみ、それも決して命や大きな傷に差し障らない範囲でのみ力振るう。
少なくとも、先生の知る彼女はそうだった。
つい先程、先生に笑顔を向けてくれたのは、そういう少女だった。
であれば。
今の彼女は、怒りによって暴走しているのだろう。
どこか大人びていた彼女はしかし……きっとそこに、密かに幼児性を抱えていたのだ。
自分の身の回りの人が、大切な人が傷つけられることを我慢できない、耐えられない。
それ程大人になれない……子供。
そう。
調月オリは、先生が守るべき、支えるべき子供だ。
だからこそ、止めねばならない。
これ以上彼女が、未来の彼女が悲しまないように、無理にでも止めねばならない。
それが先生の仕事であり、生き方であり、彼女たちとの付き合い方で────。
『だからこそ、あなたには、調月オリを救うことはできないのです』
────、いつか聞いた、悪しき大人の言葉が、脳裏を掠める。
先生は先生であり、調月オリだけの英雄にはなれない。
だからこそ、調月オリは決して救われないと……。
そう、複雑な表情で語った、オリヒメの言葉が。
これでいいのだろうかと。
ほんの一瞬だけ、先生の思考に躊躇が走った。
天童アリスを救うには、これでいいはずだ。
調月オリを止める。調月リオを説得する。ゲーム開発部を彼女の元に連れて行く。
きっとそれが、トゥルーエンドに至るための到達条件なのだろう。
……けれど。
調月オリを救うには、これでいいのだろうか?
トゥルーエンドのその先で、彼女は笑っているだろうか?
こんな大きすぎる事件を起こして。
その主犯を名乗って。
皆に愛されるアリスのヘイローを破壊しようとして。
……まるで、生徒たちの憎悪を掻き立てるような、不可解な動き方をして。
先生たちが、この事件を解決した時。
オリは、一体、何をしているのだろうか?
それは、あるいは、先生らしくない思考だったかもれない。
それが今、この場で顔を出したのは……ある種の奇跡だったかもしれない。
けれど、奇跡は、そう長続きしない。
先生は軽く頭を振り、思考を現実に戻した。
どちらにしろ、まずは彼女を止めなければ、話は進まない。
今の、不条理の化身となった調月オリに、一切の言葉は届かないだろう。
故に、今は彼女を倒す。これは必須条件だ。
“……アロナ、準備はいい?”
静かに告げた先生の言葉に、タブレットから漏れる青い粒子が応えた。
先生は、先生として、選択を間違えません。
相手が誰であろうと、絶対に。