……その日。
先生は、とても悪い夢を見た。
降りしきる雨が、その体を冷やし、動く体力を奪っていく。
体の端から零れる雫が、まるで生きる活力のように垂れ落ちる。
ただ冷たく、辛く、痛い。そんな灰色の空の下で……。
一人の生徒が、自分に銃口を向けていた。
先生の記憶にあるより、随分と成長した姿で。
けれど確かに彼女だと、始まりの君だと確信できる少女が。
……その眉を寄せ、唇を歪めて。
とてもかなしい瞳で、先生を、見ていた。
ゆっくりとまぶたが降りていき、暗転する視界。
そんな中で……一発の銃声が、その場に反響する。
そんな、悪い夢を。
いつでも、どこでも、簡単に現実になり得る……。
悪い夢を、見た。
“…………”
ぱちりと目を開いた先生の視界に飛び込んで来たのは、シャーレの天井。
どうやら自分が寝てしまっていたらしいと気付き……そして、今見た夢を振り返る。
嫌にリアルで、現実じみた、悲しい夢。
極彩色に彩られていた世界から、あらゆる色は抜け落ち。
灰色の空の下、先生の相棒たるアロナは銃に撃たれ、先生自身も斃れて……。
そして、彼女が目の前に立っていた。
歪に割れたヘイローの……砂狼シロコが。
……この夢を見たのは、初めてではない。
既に片手の指では数えきれない数、先生はこの光景を見ていた。
不可思議なことにこの夢の景色を共有しているらしいセイア曰く、予知夢の力を持っていた自分と何度も夢で会ったことが原因で、何かが繋がってしまったのかもしれない、らしい。
つまるところ、今見た景色は……将来起こり得ること、ということだろうか。
“……どうかな”
先生は座っている椅子を回し、体を伸ばしながら疑問の声を上げた。
先生が見る、不可思議な夢は、何もこれだけではなかった。
1つはこのモノクロの夢。シロコが自分を殺しに来る、なんていう荒唐無稽なもの。
1つは赤色の夢。セイアとも共有する、不吉な塔が世界を削り取り、キヴォトスを終焉へと導くもの。
そしてもう1つが……セイアも知らないという、夢らしい夢。どこかへと走る電車の中で、
それぞれ全く色合いの違う、ごちゃまぜの夢。
だからこそ、それらが全て将来起こるかと言われると……なんとなく、そうはならない気がする。
特に、最後の1つは、他2つと毛色が違う。
起きてすぐにその内容を殆ど忘れてしまうことからしても、もしかしたらただの夢なのかもしれないが……。
どうにも先生は、その夢を見た後は、おかしな感覚に襲われる。
自分は果たして、彼女の言葉に応えられているだろうか。
自分は果たして、きちんと「先生」として、生徒たちを支えられているだろうか、と。
……そういう意味では、今の先生は、とても及第点には届かないだろうけれど。
破滅の夢のことは、放置して忘れるには、どうにも気になる。
デスクの上に貼った付箋にそれを書き残し、後ほど連邦生徒会の会長代行であり、先生も個人的に親しくしている七神リンに相談することにして……。
改めて、先生はデスクの上のタブレット端末状の装置を見る。
そこには、メッセージアプリであるモモトークが開かれており……。
一人の、姉想いの少女から送られて来たメッセージが表示されていた。
『こちらはまだオリを発見できていないわ。
あれから数か月、おおよそキヴォトス全域を探したつもりだけれど、それでも見つからない。
私の手の届かない範囲にいる大人か……考え辛いけれど、彼女の中にいる「あの子」に手引きされている可能性が、いよいよ現実のものになろうとしている。
そうなれば、捜査はより複雑に、かつ規模を増して行わなければならなくなる』
『先生には負担をかけていることを理解しているわ。
本来中立を保たねばならないシャーレが、これだけ露骨に動くのは、政治的に不利益であることも。
……私にできる補償は何でもするつもり。連邦生徒会への恭順も、ミレニアムの一部割譲も考えている。私を使うのであれば、全面的に受け入れる。
その上で、可能であれば、このまま捜索に協力して欲しい。
対価は、十分と言えるものを必ず用意するから』
そう長い文章ではなかったが……その中に秘められた感情と決意は、重かった。
あの要塞都市エリドゥでの戦いから、数か月。
先生は未だ、失踪した調月オリを見つけることができていない。
目撃情報を辿っても、それは大抵の場合オリと非常に近似した見た目のリオのものであり……。
滅多に人前に出ないリオの目撃が大半ということは、つまりオリの姿を見た者はどこにもいない、ということなのだろう。
オリは、その痕跡すら残さず、完全にこのキヴォトスから消え去っているのだ。
当然と言うべきか、殆どの自治区において、何の成果も上がらない捜査の手は縮小されてきている。
例外は、生徒数が極少数であるアビドス高等学校と、オリの拠点であるミレニアム自治区、そしてD.U.地区周辺を担当するシャーレくらいのものだ。
……だからこそ、リオはこのメールを送って来たのだろう。
先生も捜査から手を引くのではないかと、その可能性を恐れて。
当然ながら、そんなわけもない。
先生は先生で、独自の情報網を使い、調査を進めている。
具体的には、相棒であるアロナに頼り、連邦生徒会のサーバーから情報を引き出そうとしているのだが……。
それも、十分な成果を上げているとは言えなかった。
最後の手段として、ゲマトリアと……その中でも特に接触しやすい黒服とコンタクトを取ろうともしているものの、そちらも空振りに終わっている状況。
何の進捗もない状況に心を痛めているのは、リオだけではないのだ。
“対価なんていらないよ。一緒にオリを探そう。
あの子は君にとって最愛の姉なんだろうけど……同時に、私にとって大切な生徒でもある”
“君が大事に思う気持ちに勝てるとは思えないけど、それでも、私もオリにちゃんと伝えなきゃいけないことがあるからね”
“……ちゃんと、謝らなきゃいけない。あの日、君たち姉妹に寄り添って、話を聞けなかったことを、オリにも一緒に謝りたい”
先生の返信から、数分。
それに、彼女の言葉が返って来る。
『あなたは……本当に、オリの言っていた通りの人なのね。
大人なのに、大人らしくない。誰より生徒に寄り添って、何の対価もなく救ってくれる……英雄』
“私は英雄じゃないよ。生徒を救うこともできない。
みんなが頑張ってるのを、少しだけ手伝う。大人として当然の責任を果たしてるだけ”
……オリに対して、それができたかと言えば、否だろう。
あの日、オリは全てを抱えてしまった。妹にも友達にも、そして先生に頼らず、一人で全ての負を背負い込む選択をとった。
話をする暇もなく、彼女はいなくなって……それで、おしまいだ。
だからこそ、先生はオリに再び会って……今度こそ彼女に、気付く機会を与えねばならないのだ。
彼女自身がきっと気づいていないのだろう……「調月オリ」について。
次の返信は、少しばかり遅くなった。
届いたのは、短く……けれど、きっと少しだけ信頼を得たのだろう、言葉。
『ありがとう』
『……私たちも、あなたたちに、言わなければならない言葉がある』
『オリを見つけ出して、必ず、それを伝えるわ』
『だからそれまで、よろしくお願いします』
『先生』
* * *
そして、オリの捜索について、何人かの生徒に指示を飛ばして頼み……。
一連の仕事が落ち着くと。
“…………”
先生は、デスクの二番目の引き出しにかかった鍵を開け、中にあったものを取り出した。
それは、少し前に、オリから渡されたもの。
ゲマトリアのオリヒメからの手紙……恐らくは忠言のように思える文章だ。
『先生。調月オリの行動をよく見て、警戒し、そして制止した方がいいでしょう。
たとえそれが、生徒の望みだとしても、それを疑い、否定し、壊してでも、あなたは彼女を止めるべきだ。
さもなくば、彼女はもうじき、大切なものを失う。
彼女が生まれてから手にした、数少ない、最も大切なものの1つを、手放す。
それが序曲です。そう時も待たず、訪れる……調月オリと、キヴォトスの破滅への』
当時の先生は、この言葉に従わなかった。
「先生」が、生徒の望みや夢に抗することはない。
どれだけ歪んだものであろうと、あるいは間違ったものであろうと……生徒の想い、それそのものは決して否定しない。
けれど……その果てに、今がある。
オリがミレニアムから消えたという、今が。
「ミレニアムという居場所」。
それが……もしかしたら、彼女の失った「大切なもの」だろうか。
調月リオと共に作り上げた、千年王国。
大人の悪意や同調圧力、理不尽な暴力に悩まされることなく、それぞれがそれぞれの探求を行える、楽園。
……けれど、今やオリは、実質的にその楽園から追放されている。
これが、この結末が、オリヒメの言う『あなたにオリは救えない』という言葉の真意だろうか。
……いいや、違う。
この文章には先があるのだから。
『それが序曲です。そう時も待たず、訪れる……調月オリと、キヴォトスの破滅への』
……オリがミレニアムを追放されたことは、始まりに過ぎないのだという。
調月オリと、キヴォトスの破滅。
それに繋がる、最初の一歩。
“破滅……”
それは、先生の見る不可思議な夢と、奇妙に符号する。
空が赤く染まり、全てが終わる光景。
空が灰に堕ち、全てが終わる瞬間。
それらを……特に前者を「キヴォトスの破滅」と定義するのなら、オリヒメのもたらした言葉は、もはや連続した予言のようにすら聞こえる。
そして先生は……最善の選択を取ったつもりが、それを導いてしまった、ということにもなる。
“…………”
後悔は、ない……はずだ。
アリスを助けようとしたこと。
そのためにオリを撃破して、先に進んだこと。
多くの生徒たちと共に切り拓いた未来。それが間違いだったなどと、思えるはずもない。思ってはならない。
それは、「アリスを助けたい」と望んだ意志自体を否定することに繋がってしまう。
生徒が生徒を思う、その気持ちに間違いなどあるはずもない。
……けれど。
もし先生が、自らの主義を曲げてでも、オリを選べば。
明らかに何かを抱え込んでいたオリから無理に話を聞きだし、彼女を力づくでも止めていれば。
彼女の破滅は、起きなかったかもしれない。
無意味な仮定だ。
先生は、同じ局面に100度立てば、100度この道を選ぶ。
迷いもなく、躊躇もない。イフの未来は存在し得ない。
そう。
先生は、「先生」であるが故に。
……調月オリだけの英雄には、なれないが故に。
オリヒメの予言通り、調月オリを救うことは、できないのかもしれない。
“……今は、できることをしないと”
暗い思考を打ち切るように、先生はタブレットを手に取る。
デスクに貼った付箋を剥がしながら、七神リンにメッセージを送った。
……近く来るかもしれない、キヴォトスの破滅。あるいは破局。
ただそんな夢を見たからそうなるかもしれない、なんて世迷い事のようなそれを……。
けれど、きっと、真面目なリンちゃんなら聞いてくれるだろうと、そう信じて。
忠告はした(有効な忠告だったとは言っていない)(そもそも選べるはずもない)(むしろ実際にやってたら大惨事)