-エルサレムの聖キュリロス
楽園。最もテラの大地から遠く、最も理想に近い場所。人と人の営みが、源石の災いが進むに連れて求められてきた願望。不条理が跋扈し、隠れているねぐらからねぐらごと引き摺られる中、ラテラーノは健在であった。
誰が謳ったか、サンクタの楽園、信仰の地、神の都市、救いの街などと様々な美称が付いているテラの楽園ラテラーノは若い教皇イヴァンジェリスタXI世の治世のもとで荒れる世界を乗り越えていた。ガリアで生じた戦塵が空気で浮かび、ウルサス、リターニア、ヴィクトリアの空を覆っていき、数万もの命がどぶに捨てられていく会戦。
その中でいずれレガトゥスとなるだろうサンクタのトランスポーター達が情報を運び、楽園が中立を保っている。
そのような何の変哲もない…スイーツと爆発、信仰に明け暮れる日常だったはずなのだ。一人の異物が混じるまでは。
「ねぇ…すごい見られてるけど」
エピタフがどこかへ行き、残されたイベリア軍人がイリムの手を引いて大通りを歩いていた。
先程なで姦しかった周囲のサンクタ達が、イリムを見るなり硬直する。戒律を破ることは崖から飛び降りたもの同然で、恐ろしいものだとされる。
そんな紐なしバンジーをやってのけた愚か者を目の当たりにして、動揺せずにいられようか?
「あれって…サルカズじゃないよね?」
「違うよ!光輪があるから堕天使でしょ」
「あんなに若いのに…」
「誰か護衛隊を呼んで!執行人でもいいわ」
「堕天使ってスイーツ食べるのかな?」
「ああ…神よ、どうかあの哀れな魂をお救いください」
哀れむ声もあれば、ヒステリックに叫ぶ声もある。大通りにて数多な声が入り交じっていく、不快な不協和音を奏でるように。
「何でもないさ嬢さん。このまま進もう」
それを無視して、隊長は教皇庁への歩みを止めない。
「ねぇ、堕天って…」
「気にすることじゃない」
はぐらかされる。
「でも、あの人達ビックリして」
「綺麗すぎてビックリしてるんだろうよ」
はぐらかされる。
イリムは到底理解出来なかった。異なる思考回路と視座を有する彼女にとってこれは鳴き声の一種だ。生物が鳴くのには何らかの理由がある、それを知りたいだけだが答えは得られていない…このサンクタ達が言葉を発し、意志疎通を行っているとはわかる。ただ、言葉の意味がわからない以上は底のない沼に浸かっているように解を見いだせない。
己が意志を獲得して、少ししかたっていないこと。それを踏まえ、さらにサンクタ達の言葉がわからないときた。
「これが知らないなんだね」
故に自分が無知であると結論付けた。今までは正確な意味が分からずに鳴いていたが、ストンと言葉の意味が染み込んでいくのを感じる。言語でパズルゲームをするかのように、同じ形のものを穴に当てはめる単純作業からそのパズルピースの柄まで識別出来るようになってきている。
「着いたぞ、嬢さん。」
大きな大聖堂の中へぐいぐいと運ばれ…待っていたのは銃で武装した護衛隊から訝しげな顔を浮かべている枢機卿…に中央に鎮座する教皇。
「これが例の…堕天使ですか」
老獪そうな枢機卿が口を開く。
「では、貴方はどの戒律を破ったのですか?」
「何も破ってないよ」
「破っていなければ堕天はしない。故に虚偽だと判断する。」
「だから、エピタフにも聞かれたけど生まれてからこうだったんだって」
「…まぁ、クラーマー枢機卿。幼い彼女がこう言っているのだ、少なくとも私には嘘をついているようには見えん」
教皇は静かに立ち上がって、イリムの前までいくとそのこめかみに銃口を突きつけた。
「…しっかりと戒律が機能している。今にも私の身は神の威光が降りかかり、止せと言ってきている」
ゆっくりと銃を下げ、イヴァンジェリスタXI世は場の解散を宣言する。
この堕天使に関する処遇はすべて教皇である自分が担当し、それ以外の権限の介在を認めない。いわば、手を出すなと言う宣告そのものだろう。
「それでは、我が子よ。ついてきたまえ」
「うん…」
地下深くへ連れていかれる。深く、深く。
歴代の教皇の像が並んでいる間を通り、より下へ降りていく。
ここにはラテラーノの歴史が埋まっている。
最古の聖徒から歴史的書物、また古代に使われた建築様式まですべて揃っている。
より下へ。
獣が唸るような音が響いてくる。壁に反響し、より鮮明に鼓膜を揺らす。
より下へ。
遠くに扉から溢れる光が見える。まるで夜を照らすサンクタの光輪のように眩しく、神々しい。
そして、たどり着く。
そこには、『アレ』が居た。重力に抗い浮かび上がっている複数の赤い立方体とその周りを固める大量の機器。この空間は常に冷たく、まるで暖まってはいけないかのように体温が奪われる。
「これは…神…?」
イリムは困惑していた。このようなものは見たことがない。シーボンとしても、エマとしても、知性生物としても__これは未知だった。
「…海の怪物がまさか、サンクタを形作るとは思っても居なかったな」
「違う!イリムはもう怪物じゃない!」
「ふむ…己の存在を否定しているか、嘘を学習したか…」
「しかしだね、君はエマじゃないだろう。なのに、その光輪はエマのものだ。ただ名前を変えるだけなく、姿まで変わっていると来ては簒奪者と変わりないのではないかね」
「イリムは…」
「鳴くのは止せ。怪物じゃないなら、感情を持って話せることを証明してくれ。出来ないなら処分するしかない」
感情を知らない怪物に感情を持てと教皇は語る。機械仕掛けの神の御前で、天使と化物の問答が繰り広げられる。
「イリムはサンクタだよ、だって
「身体的特徴で感情は証明出来ないよ」
汝、如何にして天使たりえんや?
告、我にはこの翼と天輪があらん。
…不正解。
「えーと…イリムは自分がサンクタだと知っているよ!」
「自己認識では感情証明は出来ない」
汝、如何にして楽園の住民たりえんや?
告、我には己がそうであると自負があらん。
…不正解。
教皇の銃に弾が込められていく。
「……」
「沈黙で感情は証明出来ない」
汝、如何にして人たりえんや?
告、解あらず。
…不正解。
イリムに銃が再び向けられる。
何故、これ程焦っているのだろうか?
イリムは何度も怪物として死にかけた記憶を持つ、だがあの大群の意志の中で…これ程死に対して苦しみを抱いたことがあろうか?
疑問が疑問を呼び、目元は熱くなっていく。
「…死にたくない…イリムは生きたい!神様、お願い!助けて、感情を教えて!イリムを人だって…人だって言って!」
子供が癇癪を起こしたように泣き叫びながら、イリムは祈った。祈りとはもともと聖句を唱えるだけではなく、神への感謝を言葉にすることが祈りであるのだ。
無知なものに門が開かれているように。言葉を知らなくても、想いが伝わるように。
「…」
教皇はイリムに纏わりつく、『アレ』の電線を見て銃を下ろした。まるで愛する我が子を守る母のように、無機質な電線が腕のように伸びていたのだ。
「祈りとは感情の発露。私は君に共感出来ない故にそれが誠であるかがわからないが…少なくとも、アレは認めたようだの」
「…我が子よ、怪物じゃなくなった歪な子よ。君は何だ?」
「イリムはサンクタでしゅ!」
舌が回らず、肝心なところで噛んだが…教皇は咎めることもなく、むしろ微笑んでいた。
「そうか…なら、言わねばなるまいな。ラテラーノへようこそ、堕天使イリム。君が公民であることを誇らしく思うよ」
汝、怪物なりや?
告、我は祈祷す。そうならぬようにと。
…正解。
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