男・・・その類稀な善性で、少女を愛し、慈しんだ。
絶望とは、死に至る病の名である。
───セーレン・オービェ・キルケゴール
私のようなバケモノを真っ直ぐに見つめてくれる、貴方が好きだ。
ヒトの姿を捨て、醜く堕ちた私を射抜く、その穏やかな瞳が好きだ。鱗に覆われて冷たく湿った私の体をかき抱く、その温かな腕が好きだ。名前さえなかった私に名前を付けて呼んでくれる、その柔らかな声が好きだ。
貴方の好きなところは、それこそ腐るほどあって。今挙げたのだって、そのほんの一部でしかない。貴方の側で日々を過ごせば過ごすほどに、新たな貴方を知って。更に貴方に心惹かれて。引かれて、惹かれて、引き摺り込まれて。底なし沼みたいな貴方に、もはや私は、抜け出せなくなってしまった。
こんなことを言えば、貴方は笑ってしまうかもしれないけれど、それでも、私は。
───貴方に救われ、恋をしたのだ。
ああ、けれど。
それがいわゆる恋であれたのは、一体いつまでだっただろうか。
重なり、積もりゆく貴方との記憶。ただただ美しい、私の人生。貴方との人生。世界はこんなにも美しいのだと、世界はこんなにも色鮮やかなのだと教えてくれた、何より尊い貴方。温かだった。心地よかった。
ただ貴方から与えられる愛を、雛鳥のように
ある日、貴方が消えた。しばらく出かけると書き置きを残して。初めてのことだった。貴方が私の感じ取れる範囲にいなかったことなんて、一度もなかった。ただただ、恐ろしかった。貴方がいない世界など、考えたこともなかった。
屋敷中全て、屋根裏から地下まで、あらゆるものをひっくり返して探し回った。貴方がこの屋敷にいないことはとうに感じ取っていたけれど、それを咀嚼することが怖かった。
屋敷の外には出なかった。出るなと固く言いつけられていたから。約束を違えばお前を放り出すと言われていたから、まずその考えさえ思い浮かばなかった。
探す場所もなくなってしまえば、もはや現実を受け入れる他に道はなかった。貴方は消えた。けれど、書き置きを信じるならば、貴方はすぐに帰ってくるはずだ、そう思い込んだ。
三日が経った。貴方はまだ帰ってこない。食料はかなり多くあるようで、数ヶ月分はありそうだった。作らないといけないのはいつもと違って一人分でいいことにすら、胸が刺されるような痛みを感じる。早く帰ってきて、“おいおい、俺の分は?”なんて嘯いて。お願いだから。
五日が経った。まだ帰ってこない。書斎にあった本を読んでみるけれど、正直あまり面白くはない。けれど、頑張ってこれを読めば貴方の役に立てるようになるのだろうか。貴方も帰ってくるだろうか。
一週間が経った。まだ帰ってこない。読書にも飽きた。貴方が欲しい。
二週間が経った。嫌な考えが頭をよぎってしまった。そんなことありえはしないというのに。まさか、貴方が私を置いていくなんて、そんなことは。
三週間。一度思いついたことが頭にこびりついて離れない。何を食べても味がしない。何を見ても色の違いが分からない。分からない。何も。
四週間。何も考えないことが一番の解決策であるようだ。柔らかなソファに寝転びながらただ徒に一日を終える、これがこの四週間で導き出した最善策だ。何かを考えようとすれば、気が狂ってしまいそう。
五週間。食事も、止めてしまった。食事は嫌いだった。泥と砂利の味を思い返して。ただ、そうした方が楽しいと言われていたから。貴方と二人だと本当に楽しかったから。そうしていたら、空腹も感じなくなってきた。このまま、貴方を求める、暴力的なまでの飢えも消えてしまうのだろうか。そうなってしまうのは、ひどく厭わしくて。けれど私にはもはや、そうなることを座して待つ以外の道はなかった。貴方なしで生きていく方が、貴方を想って朽ちていくことよりも遙かに耐えがたかった。
六週間───貴方が帰ってきた。薄汚れて、けれど眩く美しい少女を連れて。
そして同時に理解した。私の恋心はとうに、もっと醜く、おぞましい何かに変質していることを。
私もお父さんに救われたんです、先輩もですか、なんて。敵意のかけらもなく、私と話せることが一番の幸せかのように楽しげに、少女は問いかけてきた。
貴方が娘だといって紹介してきたこの少女は、なるほど確かに、貴方の子だった。優しくて。世界を愛していて。世界に愛されていて───そしてなにより、貴方に愛されている。
私の知るどの貴方よりも優しげに。私の知るどの貴方よりも温かく。私の知るどの貴方よりも愛しげに。あの子を見つめる貴方は、どれも初めて見るもので。
私を愛してはいなかったのですか───喉まで出かかった言葉を飲み込む。貴方を困らせたいわけではないのだ。貴方が私を愛してくれていたことなど、いくら私でも理解している。ただ、きっと。それよりずっと、あの子の方が愛しいだけなのだ。優先順位をつけているわけではない。ただ、違うのだ。私と、あの子が。
喜ばしいことのはずだった。私の知らない貴方を垣間見れたことは、何より素晴らしいことなのに。
あの子を見つめるその瞳を見るだけで、その瞳を抉り出したくなる。あの子を撫で、抱きしめるその腕を見るだけで、その肩から先を千切り取りたくなる。あの子を呼ぶその声を聞くだけで、その声帯を噛みちぎりたくなる。
私の両の手で貴方の首を絞め、貴方の人生最期を私にしたい。私を見て、私を聞いて、私を嗅いで、私に触れて、私を味わって、私を感じて。そして、永遠となってほしい。私の中で。私とともに。
そんなひどく暴力的な欲求を知って、抱えて、懐いて。そうしてようやく、気付いたのだ。
───私は、患っている。
貴方という病を。
それはきっと、死に至る病だ。私を殺す病だ。貴方を殺す病だ。
それはきっと、絶望だった。