この抜けるような青空を、二人で。   作:アキみかん

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名前を呼んで

「シンジ……?」

 黄昏時、姿が見えないシンジが心配になってネルフ第2支部跡地まで来たアスカは、ハッとなって立ち止まった。

 いつもの場所にシンジは三角座りで座っていた。この位置からは背中しか見えないが、その後ろ姿はとても寂しそうにアスカの目には映った。

 アスカの声に、二十八歳のシンジは親に怒られた子供のようにビクリと身体を震えさせて振り返る。

 シンジの視線がアスカを捉えた時、彼の瞳に溜まっていた涙が溢れてこぼれた。

 

   ※

 

 碇シンジが第3村に還ってきてから、世の中は慌ただしく動き始めた。

 世界の主軸は碇親子の物語を抜けて、世界中で人としてのカタチを取り戻した人々が帰還し始めていた。

 だが、問題は山積みだ。失われた人々の十数年間のブランクと世界の「ずれ」はどうなるのか。

 村は? 街は? 国家は? 治安や食糧はどうなる? 世界中で混乱が起きるのではないか? 葛城ミサトを失ったヴィレの面々は、これらの問題の調停者として立ち回らなくてはならない。

 そんな世界の中で、碇シンジはただの人として還ってきた。

「いいお湯だった、アスカ?」

 バスを改造した公共浴場から外に出ると、シンジはアスカから着替えが入ったボストンバックを受け取りながら訊いた。

「うん、ぽかぽか」

 今日もお疲れ様、と言ってから、シンジは笑顔をアスカに向ける。

 それだけでさらに頬がぽかぽかしてくるアスカだが、胸の奥に何かがひっかかるのも感じていた。

 こんな感覚は、今まではなかった。

 シンジが生きて還ってきて、鈴原トウジや相田ケンスケの尽力により、村の外れに二人で暮らせるようになった。

 十四年間のブランクを埋めるために、トウジたちの手伝いをしながらアスカに同行してヴィレにも通いつめ、リツコやマヤの助力にまでなっている。帰宅後、夕食の後に独学で勉学に励んでいる姿は驚異的という他ない。

「あら、今日もお二人で?」

 帰宅途中、何人ものおばさんや子連れの家族に声をかけられる度、シンジはいちいち立ち止まって話を聞いていた。

 村にいる時も、ヴィレにいる時も、シンジはずっと笑顔だった。

 ただの一人の人間として、村やヴィレに馴染んでいくシンジは誇らしくもあり、同時に寂しくもあった。なんのことはない、アスカは、シンジと和やかに話をする人たちに嫉妬していたのだ。

 そういえば、とアスカは思う。

 二人きりの時に、キスはする。でも、外で手をつないでくれたことはいまだなかった。

 

「碇君が一人で泣いてた?」

 昼間、誰に話していいかわからず、アスカがヒカリに相談した時、思うことがあるのか、彼女はしばらくうーんと唸っていた。

「なんとなく、わかる気もする」

 腕の中のツバメがぐずり始めて、ヒカリはあやしながらアスカを見た。

「いくら身体が大人になったからって、心までそれについてくるわけじゃない。想像して、アスカ。目が覚めたら、自分だけが子供のまま取り残されていて、みんなに……ううん、多分、アスカに追いつきたくて、毎日たくさん努力して、ふと疲れが出た時に……」

 孤独……か。

 アスカは呟いた。

「そう、自分が一人なんだと感じる瞬間はきっとあるわ」

「どうすればいいんだろう?」

 あまりかまわず、放っておいてあげるべきだろうか。でもそれでは、シンジがここに初めて来た時と同じではないか。

「まだまだ子供ね、アスカ」

 眉根を寄せて考え込むアスカを見ながら、ヒカリはクスッと笑った。

「ちゃんと二人で話し合えば、大丈夫」

「わかってるわよ」

「わかってない。碇君に訊く前に、まずアスカが自分の気持ちを正直に伝えないと。前みたいにイライラしてばっかりじゃダメだからね。夫婦円満の秘訣は、楽しいだけじゃなくて、辛いこともちゃんと二人で共有すること」

「ふ、夫婦なんかじゃ……」

 がんばってーと、ヒカリは笑顔を見せたツバメの小さな手をアスカの指にちょんと触れさせた。

 

 帰宅してからも、シンジはいつも通りだった。

 いつも通り晩御飯を作ってくれて、明日の予定を確認しながらそのご飯を食べ、シンジが勉強のためにマリから借りてきた本を二人で読んだ。

 月明かりがやさしい夜だった。

 布団は別々。シンジはアスカに背中を向けて横になっていて、もう寝てしまったのかどうかはわからなかった。

「ねぇ、シンジ?」

 返事はなかったが、肩口が小さく揺れた。

「そっち……行っていい?」

 やはり返事はなかったが、アスカは起き上がってシンジの寝床に移動した。

 いつか、こんな夜があった。まだ中学生だったあの時、二人はシンジの部屋で背中合わせで横になっていた。

 あの時と違うのは、アスカがシンジの背中から手を回して、寄り添うように抱きついていることだった。

「昨日、なんで泣いてたの?」

 シンジも訊かれることがわかっていたのか、背中を少し丸めたのがわかった。

「しんどかったら、ちょっと力抜いたっていいのよ?」

 返事はない。

 アスカはシンジの胸に回した手に力を込めた。

「それとも……私といるの、しんどい?」

 それはアスカの本心ではなかった。でも、訊かずにはいられなかった。

 沈黙が続く。

「ごめん……」アスカが諦めて自分の布団へ戻ろうとしたその時、シンジは消え入りそうな声で呟いた。

「しんどいとか、アスカがイヤだとかじゃないんだ……」

 本当に言いたくないことのようだった。それからまた数分沈黙が続いた後、シンジは震える声で言葉を絞り出した。

「ケ……」

「け?」

「ケン、ケンって……ケンスケのこと、アスカが呼んでたのを思い出して……」

「え……?」

「それで、胸が痛くなって……。前はこんなこと、考えなかったのに。僕は……アスカは、ケンスケの方が好きなんじゃないかって、か……考えたら……僕なんか、いない方がいいんじゃないかって……」

 その瞬間、アスカの中で、様々な感情がごちゃ混ぜになって渦を巻いた。

 最初に浮かんだのは、ざまぁみろ、というひねくれた感情だった。

 無気力なシンジの気を引くために、呼んだこともないケンケンというあだ名を不自然なくらいシンジの前で連呼した。すました聖人のように、死ぬ間際になって一方的に「好きだった」と告白してきた挙げ句、勝手に第3村まで飛ばされた時はもう一発殴ってやらなければ気がすまないと思ったものだったが、ちゃんとシンジにもダメージはあったらしい。

 結果、シンジはマリに助け出され、自分の意志で私のところに還ってきた。私は賭けに勝ったのだ。

 シンジは、ちゃんとしている。私にも誠実にしてくれている。初めてキスをした時だってやさしかった。

 なのに、沸々と湧き上がってくるこの黒い感情は、なんなのだろう?

「……こっち向いて、シンジ」

 シンジは軽く肩を震えさせて、ゆっくりアスカの方へ身体の向きを変えた。お互いの息がかかるほどの距離で、寝ながら向き合うのは初めてだった。

「ホントに、もう……バカ。バカシンジっ」

 そんなつもりはなかったのに、言葉が荒くなった。

「私の気持ち、わかった? アンタがエコヒイキと仲良さそうにしてた時の私の気持ち、わかった?」

 自分は、いつの話をしているんだろう。

 シンジに言葉をぶつける度に、少しずつ視界がぼやける。溢れた涙は頬から耳を伝ってとめどなく流れた。

「なによ、呼び方くらいでうじうじ勘違いして……。私は、じ、十年以上も待ったのよ? もう二度と会えないと思って……感情とか、ぜん、ぶ…なくなって……それでも、会いたかったのに……」

 シンジが自分の気持ちを理解していることは、アスカにはわかっていた。だからシンジは、アスカのいないところで一人で泣いていたのだ。どうせまた、それが自分への罰だとでも思って。

「私はッ! 私のことは助けてくれなかったくせにッ! どれだけ辛かったかなんて、バカシンジにはわかんないわよッ!」

 シンジは、アスカからずっと目を逸らさなかった。

 歪んだ視界からでも、自分に向けられるシンジのまっすぐな視線が見えた。

 アスカは、シンジのやさしい表情が好きだ。憂いを含んだ、やさしいその表情が大好きだった。一度だけでいい……シンジの視線が自分だけに向けばいいと、ただそれだけを願ってきた十四年間だった。

「ずっとずぎだった……ずっとずっど大好ぎだったッ!」

 アスカは子供のように叫んで、シンジに泣きすがった。

「だから……こ、ごんなこと、で……すれちが、う…のは……もう、やだ」

「ごめん、アスカ……。いつまでも子供みたいで、本当にごめん」

 シンジは泣きじゃくるアスカを、自分の首元にそっと抱き寄せた。

 アスカは大きく首を横に振った。

 子供なのは、自分だって同じだ。

「怖くなったんだ。アスカには、僕よりももっとふさわしい人がいるんじゃないかって。僕みたいなやつの人生に、これ以上つきあってもらう必要はないんじゃないかって。ほら、僕って前科があるから……」

 おどけてみせたシンジの首筋を、アスカはカリリと噛んだ。

「そんな理由で勝手に離れたら、今度は殺すから」

 いや、今度離れるようなことがあったら。

 一緒に死んでやるー。

 力強く頭を抱きしめられて表情は見えなかったが、シンジがいつものように笑ってくれていることはわかった。

「ねぇ、ナナヒカリ」

 アスカは自分の気持ちが落ち着くのを待ってから、言葉を紡いだ。

「懐かしいね、その呼び方」

 シンジは苦笑したが、アスカが真剣な眼差しで自分を見つめていることに気づいて、口をつぐんだ。

 アスカは伝えたかった。自分がシンジを名前で呼ぶことの意味を、もう一度ちゃんと伝えておきたかった。

「私のこと、特別にアスカって呼んでもいいわよ」

「うん」

「私もアンタのこと、バカシンジって呼ぶから」

「うん……」

 いつかの夜、こんな会話を二人背中合わせでしたことをシンジは覚えていた。忘れたことはない。

 あの夜と違うのは、お互いが向かい合って視線を合わせていることと、それとー。

「好きだよ、アスカ」

 シンジは、首元のアスカを自分の顔の近くまで抱き寄せた。

「大好きなんだ」

 シンジの頬がアスカの頬に触れる。そこから、シンジのあたたかさが伝わってくる。

ーあ……。

 ゆっくりと、シンジはアスカに唇を重ねた。

 何度目かのキスの後、シンジの舌先がアスカの唇をまさぐった時、アスカはシンジが今夜それをすると決心していることに気づいて、顔を赤らめた。

 

 経験のない二人の行為はぎこちなかった。

 なにしろ、やり方を知らない。知らないから、お互いに相手が気持ちいいだろうと思うことを本能的に繰り返した。

 だが、二人の十四年間を取り戻すには、一夜ではとても足りない。

 それでもシンジとアスカは、その後何度も懸命に愛し合った。

 朝日が昇る頃、心の血も涙も全て出し尽くして、最後に残ったのは、お互いの笑顔だけだった。

 

   ※

 

 ヒカリはバス浴場から出てくるシンジとアスカを視界の端に見つけた時、おや? と首を傾げた。

 二人のお互いを見る眼差しが、とてもやわらかく感じたのだ。

 その光景がひどく懐かしく感じたのは、中学生の頃の二人の雰囲気に似ていたからだ。“戻った”というべきかもしれない。

 きっと二人は、やっと、やさしくしあうことを許しあったのだろう。

ーよかったね、アスカ。

 シンジとアスカはこちらには気づかず、自宅の方へ歩いていく。

 声はかけないでおこうと思ったのに、隣のトウジはめざとく二人を見つけて、「お二人さんっ」と声を張り上げた。ケンスケが止めるのも間に合わなかったようだ、ヒカリと目が合うと、両手を肩まで上げて「お手上げ」のポーズをした。

 なお悪いことに、シンジとアスカは今まさに手をつないだ瞬間だった。最悪である。

「トウジ。みんなも」

 シンジはこちらを振り返って手を振った。もう一方の手はアスカの手をしっかり握ったままだった。

 アスカはシンジを見上げてつないだ手をブンブン上に振り回していたが、シンジは笑顔のまま手を離しそうもないので、諦めたのか顔を赤らめて俯いた。

「今夜は冷えそうやから、あったくして寝ェよ」

「わかった、ありがとう」

 まさかそんなことのために二人を呼び止めたのか。ヒカリとケンスケは目を見開いてトウジを見たが、当の本人はまったく意に介していない様子で二人に大きく手を振っていた。

 去り際、アスカはヒカリに照れ臭そうに笑顔を向けて手を振った。それはヒカリが中学生の頃から大好きな、自信に満ちたアスカの笑顔だった。

「なんや、いちゃいちゃしよってからに」

「いいじゃないか、二人ともこれまで大変だったんだから」

「そういや、式波のやつ、ずぅっとやっとったゲームもせんようになったんちゃうか?」

「置いていったよ、あれ。碇が戻ってきたんだ、式波にはもう必要ないからな。今度持ってこようか? けっこうハマるぞ、あのゲーム」

 オモロそうやな、と笑い合っているトウジとケンスケも、中学生のあの頃に戻ったようだった。

 

 人気がなくなったのを見計らい、アスカは手をつなぐのをやめて、シンジの腕に両手を回した。

「ねぇ、名前呼んで?」

 上機嫌な彼女に向かって、シンジは言う。

「アスカ」

「うん」

 アスカの満面の笑顔に、刹那、シンジは自分たちが中学生の頃に戻ったように錯覚した。

 うれしくなって、シンジも思わず訊いてしまう。

「僕の名前も呼んでよ」

「シンジ」

「うん」

 学校からの帰り道、夕暮れ時のあの時間を、二人は同時に思い出した。

 あの頃と違うのは、手をつないでいることと、ひとつの布団に二人で眠るようになったことと、それから……なんだろう?

 変わっていくことも多いけど、ずっと変わらない、大切なものもあることを、この村に来てからシンジは知った。

 その、ずっと変わらない大切な人が、最高に不敵な、いつもの笑顔でシンジに言った。

「帰るわよ、バカシンジっ」

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