《ヘイ、カモーン!》
駒ヶ岳の射撃ポストから、あかしまが放った超長距離ライフルの弾丸が鮮やかに飛翔した。
高速のライフル弾は、かつて第3新東京市だった場所に突如出現した巨大な黒いドーム状の球体上部に着弾。しかし、弾丸は音もなくドーム内部に吸収され、その姿を消した。
《あちゃー、やっぱダメかぁ。気合入れて撃ったんだけどなぁ》
あかしまのコックピットから、マリがため息と共に報告した。これで、射角を変えて撃ち込んだ弾丸は全て黒いドームに吸収されたことになる。
「お疲れ様、マリ。おかげでデータは取れたわ。引き上げてちょうだい」
黒いドームから西側の山間部を超えた海岸線沿い。野営キャンプであかしまの動向をモニターしていたリツコは顔を上げ、山間から覗く不気味な漆黒の影に視線を向けた。
《もう一発ぶち込めばなんか掴めそうな感じなんすよー、隊長》
「楽しそうね、マリ」
《そりゃあもう。まさかもう一度ロボット操縦できるなんて、思ってませんでしたからぁ♪》
相変わらずのふざけた態度だが、現状の戦力では唯一あかしまを操縦できる貴重なパイロットだ。
こめかみに指を当ててため息をつくリツコを、マヤは苦笑しながら見上げた。
「どう思う、マヤ?」
「内側の観測ができないので、なんとも言えないですね。エヴァと同じですよ、あれは人の手に負えるものじゃないと思います」
わかっているのは、あの球体が動植物ーあらゆる生命体を呑み込みながら収縮しているということだけだ。
消息不明だった式波・アスカ・ラングレーから無線連絡が入ったのが数週間前。碇シンジと共に、おそらくはあの球体の内側にいることだけが確認できた短い通信の後、再び二人とは音信不通となった。数時間後、収縮した球体からはみ出すように二人が使用していたジープが発見されたが、そこにアスカとシンジの姿はなかった。
その後の調査で、奇妙なことが判明する。
球体に飲み込まれていたスペースから、あらゆる植物が〝消えて〟いたのである。
山道やドライブウェイの花や草木は跡形もなく消え失せ、第3新東京市を取り囲む山々は、黒い球体を境に、その内側だけがラインを引いたように禿山と化していた。そこには動物の姿もなく、当然、碇シンジと式波・アスカ・ラングレーの姿も見当たらなかった。
一方で、無機物は飲み込まれる前の状態のまま取り残されていることも判明する。シンジとアスカのジープや、積み込まれていたビバーク用のキャンプ用品が全てそのままだったように。
有機物だけを取り込みながら、縮退を続ける黒い物体。
ただひとつ、例外がある。
空を飛ぶ鳥だけが、その不可思議な球体の影響を受けなかった。鳥の群れがその空間へ接触する様子が観測されたことがあったが、内側に消えた鳥たちは、なんの影響も受けずに逆サイドから飛び出してきた。それは鳥たちからしてみれば、ただ自分たちの空路をいつも通り滑空しただけにすぎない。
「なにか……」
マヤは言い淀んだ。
「言ってみて?」
「いえ……超新星爆発みたいだなと思って」
「老いた星が過度な重力に耐えきれなくなって最後に放つ輝き。縮退した球体は、最後に爆発のエネルギーを解放する?」
「はい」
撒き散らすのは内側に飲み込んだ生命エネルギー、か。
「そうすると、ガンマ線バーストは私たちごとその全てを吹き飛ばして、その後中心に残るのはブラックホールってわけかしら」
「あるいは、その中心に別の世界を形成する……」
「高次元の窓。S2機関の理論に似ているわね」
「富士の演習場でシンジ君が話してくれたような、いろんな可能性の自分たちが存在するって話、信じますか?」
「ファンタジーだわ……と言いたいところだけど、私たちはエヴァや使徒の存在を知ってしまっているものね」
「無線で話した時のアスカの声……若かった気がするんですよね。アスカなんですけど、私たちの知ってるアスカじゃないような」
リツコは青空を仰いだ。
「無事かしらね、あの子たち」
あの短い通信時間で、アスカは妙な質問をぶつけてきた。
〝シンジからの伝言よ。ネルフ時代の加持リョウジのセキュリティロックのパスワードを調べて!〟
「先輩がアスカに伝えたパスコードって……」
「ミサトの誕生日よ。何に使うつもりなのか知らないけど」
あの中で、何かが起こっていることは確かだ。
《赤木博士》
マリからの通信に、リツコは再びタープテントの中のモニターに視線を戻す。
「これ以上の試射はダメよ、マリ。弾薬ひとつでも、今は貴重な資源なんですからね」
《そーでなくって。ちょーっとマズい状況かもねっていう報告なんだけど。あと、識別コード不明の妙な暗号とデータファイルが届いてるみたい。オ・ワ・リ……?》
マリはあかしまのモノアイを望遠レンズへ切り替えた。
リツコとマヤはモニター越しにその状況を見た。
黒い球体の接地している地面ーおそらくは後数時間で市街地を飲み込み始める境界線が、赤く染まっていた。そしてその滲みは、ゆっくりこちらの世界へと拡がりを見せ始めていた。
※
ーシンジ君。
懐かしい声がした。
まどろみの中。
アスカが呼んでいるのかと思ったが、そうではなかった。
カヲル君?
ーどうやら、僕の出番はないみたいだ。
何を言ってるの?
ー残りの使徒は欠番になる。僕も含めてね。外世界へのわずかな干渉と……それしか役に立てることはなかった。
カヲル君?
ーゆりかごの中から、産声をあげようとしているものがいる。
待ってよ、カヲル君。
視界にノイズが走り、彼の姿が激しくぶれ始める。
ーシナリオは、これから一気に加速する……気をつけ……シン…君……。
その時、巨大な白い何かが彼の首から下を飲み込んだ。
いや、噛み砕いた。
ーリョウちゃ…に……。
「……っ!」
ハッとなって、シンジは目を覚ました。
窓の外から雀の鳴き声が聞こえる。朝だった。
「カヲル君……」
目の前に、裸のアスカが横たわっている。シンジの左手を両腕で包み込むように胸に抱いて、安らかな寝顔が愛らしい。
「あ……」シンジは昨夜の逢瀬を思い出し、少し下品に目を細めた。「あー……」
ゼルエル戦後の一ヶ月間。本来は暴走した初号機にシンジが取り込まれていた期間、シンジとアスカは比較的平穏な日々を過ごしていた。そのせいで、ここ最近は二人とも大胆になりすぎているきらいがある。
とはいえ、今は朝で、自分も裸だ。このまま二人で寝ているのは非常にまずい。
「アスカ。起きて、アスカ」
「ん……」
シンジがアスカの頬をペチペチと叩いたところで、廊下の引き戸が勢いよく開け放たれた。
「入るわよ、シンちゃん。珍しいわね、寝坊するなん……て……」
戸口に立つミサトと、寝転んだままのシンジの目が合った。
「あの……お、おはようございます、ミサトさん」
「な……」
呆れた般若のような表情のまま固まってしまったミサトに、シンジは思わずアスカを抱き寄せた。
「なああぁぁぁにやってんのっ! あんたたちぃぃーッ!」
シンジに抱きしめられたアスカの口元から、しあわせそうによだれが滴った。
「……で、いつからそんなことまでするようになったわけ?」
リビングで、シンジとアスカは正座をさせられていた。もちろん制服に着替えた上で、である。
椅子に鎮座して腕と足を組んだミサトが、蔑むような目でそんな二人を見下ろしている。
「いつからっていうか……まぁ、私が同居始めて、シンジがお弁当作ってくれるようになってから、みたいな?」
「ほとんど最初からじゃないっ!」
「いや、まぁ……ちゃんと付けてますから」
「そんなの当たり前ですッ!」
はぁ……と、ミサトは盛大なため息をもらした。
「こっちは仕事でそんなことする暇もないっていうのに」
このあたりの時期は、確かミサトさんは加持さんといて帰りが遅くなる日が多かったんじゃなかったっけ?
ミサトにジロリと睨まれて、そんなことは口が裂けても言えないシンジだった。
「甘かったわ、近頃の中学生がここまで進んでるなんて」
その後も三十分近くガミガミと説教をされて、ようやく二人は解放された。
「しまったね……」
通学中、シンジは深刻な表情で眉根を寄せたが、アスカはまったく悪びれた様子もなく、頭の後ろで両手を組んでいた。
「まぁいいじゃない。あんなこと言いながら、ミサトだって加持さんとよろしくやってるに決まってるんだから」
(図太い……)
「なんか言った?」
「いや、なんにも」
「それより、シンジ……」
学校が近づき、学生たちの数が増えてくる。
アスカはシンジに肩を寄せて、声のトーンを落とした。
「今日の夕方よ」
「あぁ、わかってる」
ネルフ本部、加持リョウジの個人用デバイスをスパイウェアで傍聴し続け、ゼーレが冬月副司令の拉致計画を実行しようとしている情報を、二人はつかんでいた。富士の演習場で、シンジが赤木リツコを始め、伊吹マヤや日向マコトから戯れで習得したアンオフィシャルなハッキング技術が役に立った。
冬月副司令の拉致監禁と何者かによる解放、および、加持リョウジの抹殺は、地続きで発生する。
葛城ミサトのためにも、加持リョウジの死亡は是が非でも回避させなければならない。それがシンジの考えだった。
この小さな箱庭世界の、それが終わりの始まりであることを、この時のシンジとアスカは知る由もない。