「シンジ、あれ……」
「うん」
異変に気づいたのは、二人同時だった。
空が揺れたような気がした。
続いて、微かな振動。
ー射撃音……?
シンジとアスカが顔を見合わせたその時、世界にドーム状の膜が走った。
それは、今まで不可視だったはずの境界線。スノードームのような膜の外側には、果てしなく暗い虚無の空間が広がっていた。
当然だが、それを認識しているのはシンジとアスカの二人だけだ。暗く沈んだ外の世界が、リアルタイムで徐々に内側の世界を侵食していることも。
「なんでいきなり視えるようになるわけ?」
シンジの脳裏に、夢で再会した渚カヲルの姿が思い浮かんだ。
「タイムリミットが可視化できるようになったってだけだ。わからないことは、今は考えない」
「それもそうね」
とはいえ、二人は自然と早足になった。二人がいる市街地の端にある倉庫街は、ドームの境界線に程近い場所に位置していたからだ。
夕闇が迫る。
番地を確認しながら、シンジとアスカは七番倉庫のシャッター脇のドアに手をかけた。
「ちゃんといるんでしょうね?」
「多分……」
イレギュラーはすでに起きていた。
冬月コウゾウが拉致されていたはずの施設にシンジとアスカが踏み込んだ時、そこに冬月副司令はいなかったのである。
すでに加持リョウジに救出された後だったのか?
あるいは、時間軸にずれが生じているのか?
嫌な予感がした。七番倉庫の入口には、鍵や錠前すら付いていない。
錆びた金具がキィキィと嫌な音を倉庫内に響かせる。慎重に開いてこの有り様だ。
「私から行く」
実戦経験のあるアスカがフロントで中へ侵入した。手にしているのはオーストリア製のグロック18C。セミ・フルオートに対応したモデルのため、殺傷能力は高い。加持が所持していたものをアスカが勝手に拝借したのである。
軍関係者でも上位職のディーラーからしか入手できない代物だ。これだけでも、加持リョウジの諜報員としての人脈の広さと能力の高さがうかがえる。
「ドイツ製じゃないから、使い慣れないのよね。ミサトのやつをくすねてこればよかったわ」
ぼそっと愚痴がこぼれて、シンジはヒヤリとする。
「アスカは、人を撃ったことあるの?」
「……ないしょ」
あまりアスカの機嫌を損ねないようにしようと思うシンジだった。
音が出ないよう、ゆっくりと拳銃のスライドを絞った後、室内の状況をクリアしてから、アスカはシンジを手招きした。
シンジが手にしているのはテーザー銃、いわゆるプローブの発射機構がついたスタンガンで、アスカの実銃と比較するといささか心許ないが、ストレスは少ない。
「静かすぎるわ……」
広い倉庫内には大小のコンテナが規則正しく並び、奥が見渡せない。薄暗闇が支配する、碁盤の目のように整理されたコンテナの間を二人は慎重に奥へと進んだ。
加持の予定では、ここでゼーレの諜報員と連絡をとることになっていたはずだが、まだどちらも到着していないのか?
二人は最奥に到達する。
アスカは腰の高さで拳銃を構えたまま、コンテナを背にして壁際の作業スペースを覗き込んだ。
それは、ぞっとするほど静かな光景だった。
壁に設置された大型ファンの間からもれる不気味な夕日に照らされて、数台のフォークリフトが並んでいる。
その一台にもたれかかるように、加持リョージは俯くように座り込んでいた。
「うそ……」
「そんな……」
アスカは咄嗟にシンジの手をとって静止しようとしたが、間に合わなかった。
飛び出し加持の元へ駆け寄るシンジに、舌打ちを残してアスカも続く。
「加持さん……ッ!」
項垂れた状態で顔が見えない加持の前にシンジが両膝をつき、アスカは背後と左右を立体的に警戒した。
「触るな、バカシンジ!」
加持の両肩に手を置こうとしていたシンジは、ビクリと震えてその動きを止めた。
式波・アスカ・ラングレーに動揺は少ない。
にもかかわらず、気づくと歯を食いしばっていたのは、依代となっている肉体の方が悲鳴をあげているからだ。
シンジと背中を合わせ、背後への警戒を続けたまま、アスカは視線だけを加持に向けて素早く状況を観察した。
左肩に一発、撃ち抜かれた跡があるが、致命傷は頭部への一撃だろう。糸が切れた操り人形のように顔の状態が見えないが、フォークリフトの上部に大型の血痕があり、それが座り込んでいる加持の頭部の後ろへと続いている。
絶命しているのは明らかだった。
アスカの鼓動が、再びドクンと跳ねた。
「どうして……」
致命的なイレギュラーの発生に、シンジは動揺が隠せなかった。加持が指定していた時刻よりも、まだ一時間も早いのだ。
「細かいことは後。とにかく、すぐにここを離れないと……」
「その必要はないな」
倉庫内の電灯が一斉に照射され、アスカは声がした方向へグロックを構えた。二人が来た通路とは逆サイドのコンテナ側を、シンジも振り返る。
冬月コウゾウを中心に、数人の黒服が素早い動作でアスカとシンジを半円形に取り囲んだ。
「どういうことよ⁉︎」
アスカは反射的に冬月の肩口へ銃口を向けたが、同時に黒服が構えた拳銃が一斉にアスカとシンジに向けられた。
「銃を捨てたまえ」
「貴重なパイロット二名に発砲できるわけ?」
「ダミーシステムがある。四肢が動かなくても、お前たちにはエントリープラグに座っていてもらうだけでも構わんのだぞ?」
状況が飲み込めない。
アスカとシンジは目配せをしたが、有効な打開策があるわけではなかった。二人は同時に銃をアスファルトの地面に置いた。
「司令官と諜報員一名、それにパイロット二名までが内通者とは、前代未聞だな」
黒服に両手を後ろ手に拘束されながら、シンジとアスカは耳を疑った。
「何を、言ってるんですか……?」
内通者?
誰が、スパイだって?
その時ー。
「アスカッ!」
コンテナ上部からミサトの声が響いたのと、倉庫内の入口付近の電灯が数箇所破裂したのはほとんど同時だった。
陽動だ。一瞬、黒服の注意がコンテナと銃撃で破壊された電灯の二箇所に分散した。シンジは対応できなかったが、アスカにはその一瞬で充分だった。
「フィーケンッ!」
アスカが器用に右足の踵で黒服のスネを思いきり蹴り上げる。
「な……!」
黒服が脚部の激痛を意識した時には、アスカはすでに黒服の拘束を振りほどき、振り向き様のエルボーを黒服のみぞおちに叩き込んでいた。
的確に急所を貫いた一撃に、黒服の上半身がくの字に折れ曲がる。アスカの目線の高さまで下がった頭部は、続くアスカの後ろ回し蹴りでコンテナの側面まで体ごと吹き飛ばされた。
「なんだと……!」
残りの黒服が鎮圧に動いたが、アスカはそれらを無視して、シンジを拘束している黒服に突進した。ミサトの援護射撃がコンテナに複数の穴を穿ち、黒服が銃で応戦し始める。
ズ! ドッ! と連打の音が響く。アスカの放った左ジャブからの右ストレートは、真横から黒服の顎を正確に射抜いた。だが、ぐらつく黒服はそれでもシンジを拘束する手を離さなかった。
ー硬い……!
両腕に軽い痺れを感じたアスカは、シンジと二人でこの場を切り抜けることを諦めた。
「この……!」
続くアスカの低空からの掌打は、アッパー気味に黒服の左肘を強打した。間髪を入れず、全力のサッカーボールキックで黒服の両手だけを蹴り上げる。
「く……ッ!」
両手を上空へ打ち上げられた黒服から解放されたシンジが、前のめりに地面へ倒れ込んだ。
「走れ、バカシンジ!」
「アスカッ!」
振り返りながら起き上がったシンジが目にしたのは、数人の黒服に地面へ抑え込まれているアスカだった。後ろ手に関節をロックされている。
「やめろよ!女の子なんだぞ!」
「来るな、バカッ!」
駆け寄ろうとしたシンジに、抑え込まれたアスカの後方から別の黒服が迫る。その進行を、ミサトがコンテナ上部から撃ち込んだ弾丸が阻害した。
黒服は、ミサトへの銃撃を躊躇しなかった。だが、次にミサトが放った弾丸が揉み合うシンジたちの真上の電灯を破壊し、明暗が反転したその瞬間にミサトがコンテナからアスファルトへ着地。次の瞬間には、シンジの手を取って駆け出していた。
刹那。
加持リョウジの死体を目の当たりにして、ミサトの双眸が悲しく歪んだのを、シンジは見逃さなかった。
「待ってよ、ミサトさん! アスカ! アスカがッ!」
「行け、シンジッ!」
「いやだ! 守らなきゃ! アスカを守らなきゃッ!」
いくら叫んでも、黒服全員がいよいよこちらへ射撃を繰り返すようになったこの状況では、血が出るほど腕を握り締めてくるミサトに従って出口へ走るしかなかった。そんなことしかできない自分が、シンジは情けなかった。
ミサトが扉を開け放って、二人外へ転がり出る。
「まだ走るわよ!」
ミサトが懐から手榴弾らしきものを取り出して、シンジはギョッとする。上部のピンを抜き、先ほど転がり出た扉の前に放り投げると、再び二人は走り出した。
ミサトが仕掛けたフラッシュグレネードのトラップは、タイミングよく黒服が外へなだれ出た瞬間に炸裂し、夕闇が迫る倉庫街を規格外の閃光で明るく照らした。
「くそッ!」
サングラスを着用していた二人が運搬用の道路へ飛び出した時には、すでにミサトとシンジはアルピーヌに乗り込み、エンジンをスタートさせた後だった。
ギャリギャリとドリフト音を響かせながら、ミサトはアクセルを最大速度で踏み込み、アスカを残した倉庫街は瞬く間に見えなくなった。
「はぁ……はぁ……」
息も整えずに、シンジが助手席のドアを叩く。握り込んだシンジの左手から、血が滲んでいた。
「なんで……ミサトさん……」
天井を見上げて涙を流すシンジの表情は、ミサトからは見えない。
「アスカなら大丈夫」
「そんなの、わからないじゃないか!」
内通者ーと、あの時冬月コウゾウは確かに言った。
その言葉と、加持リョウジの死体を目にしたミサトの苦悶の表情が、同時にシンジの脳裏を掠めていく。
「私たち三人とも、ハメられたのよ。ゼーレと裏で繋がっていたのは冬月副司令だった」
前を向いたまま、ミサトは言い放った。
「シンジ君、アスカなら大丈夫。危害を加えられることはないわ」
今はまだ……とつけ足したミサトを、シンジは両目を見開いて凝視する。
「初号機か弐号機。シンジ君かアスカのいずれかのパイロットさえ確保できれば、冬月副司令とゼーレの描くシナリオの課題はクリアされる」
ミサトは睨みつけるような表情で、初めてシンジの方を振り返った。
「あなたたちパイロットの欠けた自我をもって遂行される、人類補完計画」
ミサトの射抜くような視線に耐えられず、シンジは目を逸らした。
「教えて、シンジ君。あなたたち、一体何を知っているの?」
黄昏時が終わり、闇夜が世界を支配したが、ミサトは車のライトを点けなかった。
すぐにネルフの追跡が始まる。シンジとミサトを乗せたアルピーヌは、深い夜の底へ沈んでいった。
※
黒服が倉庫に戻ってきた時、シンジとミサトの姿がないことに、アスカは安堵のため息をもらした。
「取り逃しました」
「構わん。ご苦労だった」
冬月が、後ろ手に手錠をかけられたアスカの方を振り返る。
「手荒な真似をしてすまんな。抵抗しなければ、これ以上の危害は加えん」
「どうだか。どうせ、後で尋問するんでしょ?」
フ……と冬月は笑った。
食えない男だ。
アスカは警戒する。
何を考えているかまったく読めない。この男は、元の世界でも碇ゲンドウに加担していた。
「連れて行け」
黒服に肩を押されて、出口へ向かう。
その時、強烈な違和感に襲われて、アスカは立ち止まった。
ー違う。
違和感を訴えたのは、もう一人の自分。
何が違うの?
アスカはフォークリフトの方を振り返ったが、コンテナが邪魔をして、加持リョウジの死体は足元しか見えなかった。
その事実は、惣流・アスカ・ラングレーと式波・アスカ・ラングレーの二人でなければ気がつかなかった。
そうだ。
なぜ今まで考えなかった。
その死体は、まるでー。
「歩け」
黒服に背中を押されて、アスカはそれ以上現場を見ることができなかった。