◾️ブリーフィング
今日もマリは、飽きずに古い歌謡曲を口ずさんでいる。
朝日が差し込む早朝のハイウェイを、ピンクカラーのジープが駆ける。片道一時間、旅の終着駅はもうまもなくだった。
「アンタ……よくずっと歌い続けられるわね」
助手席のアスカは、運転席のマリに視線をやった。
「えーだって、ラジオつまらないんだもん」
情報収集の目的で垂れ流している有線のラジオ放送は、機械的な音声が全く同じ内容の天気予報と国内・国外のニュースを三十分単位で繰り返している。インフラが回復しつつある証拠だ。だが、気の利いた音楽のひとつも流さず、ハイウェイをひた走る車がマリのこの異様に目立つカラーリングのジープ一台というところを見ても、人々の生活基盤の混乱はまだ回復にはほど遠いと言えるだろう。
「基地の地図は頭に入った?」
右手前方に富士山が顔を見せ始める。マリは車の速度を少し減速した。
「問題ないわ。演習場全体は広いけど、地下に潜入できさえすれば、後は一本道だし」
富士の樹海を切り拓いて設営された戦略自衛隊演習場の地下施設一階実験場。そこにシンジは軟禁されている。
「それはいいんだけど、なんでまたこの格好?」
アスカは呆れ顔で自分の装備に目をやった。
出発前にマリから着用するよう言い渡された左目の眼帯と赤いプラグスーツ。まさかもう一度装着することになるとは思わなかった。
そもそも、エヴァに関わる全てのものはシンジによって破壊されたのではなかったのか。
「一般人でも着れちゃう優れもの、赤木博士が開発した擬似プラグスーツだって。世界中で国家の再建加速と同時に混乱も拡大してるからね〜。テロ行為だって懸念されてるし、エヴァに代わる自衛と抑止力の一環らしいよ」
言っていることはわかるが、二十八歳の身体で着るには少し勇気が必要だった。ただ、これでシンジ救出の確率が上がるのなら、安い対価ではあるが。
「防弾チョッキの全身強化版だと思えばいいよ。あと、各種筋力とインナーマッスルを活性化する機能があって、握力・膂力・脚力・跳躍力に非装着時の10%増の効果が望めるってさ」
眼帯の側面にあるわずかな窪みを押し込む。その瞬間、真っ暗だった左眼の視界が明るく開けた。驚いたことに、両目を開いている時と同じ光景が飛び込んでくる。
「それも、試験運用中の通信デバイスの一種なんだって。姫から視えてる画像は、正確にはAIが姫の網膜と眼帯の外部情報を解析して合成した仮想現実なんだそうな。遠近感も違和感ないでしょ?」
AIがリアルタイムで生成する映像と現実の誤差は1%以内ーと、出発前にマリから受けた説明をアスカは思い出した。もう一度側面を押し込むと、基地内一階の地図が表示される。さらに押し込むと、地下一階へと切り替わる。
大型のフロアがふたつ並ぶだけのシンプルな構造だ。奥のフロアがシークレット扱いで情報が取得できない。そこにシンジが軟禁されているらしい。
「他にもサーモセンサーやら便利機能がもりもりついてるよ〜」
「眼帯である理由は?」
「そりゃあもちろん、アタシの趣味にあわせて作ってもらったからよ」
アスカが拳を振り上げると、マリはきゃーとわざとらしく声を上げた。
「装備はこれと自前のスタンガンだけね」
「ごめんよぅ、こっそりバレずに拝借できたのが擬似プラグスーツと眼帯だけだったんだよぅ」
「上出来よ。あとは現場で調達する」
「どうやって?」
「殴って奪うわ。わかりやすいでしょ?」
マリのジープはハイウェイを降りると、すぐに右折して富士の樹海ルートに突っ込んだ。開けた視界は、まもなくまっすぐに伸びるアスファルトの道路を残して、両サイドを鬱蒼と生い茂った木々に囲まれ始める。
「聞こえる、サクラ?」
アスカの声に反応し、左目の映像の下部に小さなウィンドウが開いて、見知った女性の顔が浮かび上がる。
《聞こえてます。ずっとモニターしてました》
独特の関西弁のイントネーションは、いつ聞いてもまず鈴原のバカとヒカリをアスカに連想させた。
「後五分で作戦行動に移るわ。マリが陽動、私がフロント、サクラがバックアップ。いいわね?」
《了解です。精一杯お手伝いさせてもらいます》
「アンタ……大丈夫なの? ヴィレにいるのに、こっちの手伝いなんかしてて」
《気にせんといてください。うちは富士の遠征組には入ってませんから安全な場所にいますし、それに……兄とヒカリさんから、式波さんと碇さんのこと、助けたってくれって言われてるんです》
「……助かる。苦労かけるわね」
サクラは笑顔でガッツポーズをした。やはり、兄妹だけあって前向きなところは似ているな。
その時、マリがハンドルを握りながらキラキラした瞳でこちらを見ていることに、アスカは気がついた。
「は?」
「さっき、どさくさに紛れてアタシのことマリって呼んだ〜」
「もうガキじゃないんだから、いつまでもあだ名で呼ぶわけにはいかないでしょ? っていうか、前見て運転しろ!」
「姫ぇ〜」
「そっちもその呼び方やめろっちゅーの! もうそんな年齢でもない」
「じゃあ『女王』とか?」
「ア・ス・カ! でいいッ!」
「うれしいけど、やっぱワタシは姫のままがいいニャー」
「はぁ、もう……好きにしろ」
「そいじゃまぁ、始めますか。姫とワンコ君の、愛のマリアージュ大作戦」
「……好きにして」
《(マリアージュは否定しはらへんのやな……)》
「なんか言った、サクラ?」
《い、いえぇ、そんな。なんも言うてませんから》
マリは急に真顔になると、ジープを急停止させた。
車の十メートルほど先から、視界が急に開けている。スポーツグラウンドを思わせる広大な更地の奥に、管制塔や軍事車両を格納する倉庫などが複数見えた。
「さてと……姫はここから徒歩で回り込んでね」
「わかってると思うけど、殺しはだめよ」
「ガッテン承知。適度に、派手に、大暴れするから……」
マリはニヤリと笑うと、右手に隠し持っていた小型のスイッチを押し込んだ。「ね!」
直後に、演習場から爆裂音と共に黒煙がいくつも立ち昇った。地面が揺れ、衝撃による突風が二人の髪を上空へ跳ね上げる。
そして、けたたましいサイレンがゲームの開始を告げた。
「マジか、コイツ……」
ドン引きしているアスカを尻目に、マリは再びアクセルを限界まで踏み込む。
「じゃあね〜姫。地獄で会おうぜ、ベイベーッ!」
◾️顛末
“出張”という名目でシンジが赤木リツコに招集されたのが一ヶ月前、音信不通で連絡がとれなくなったのは二週間前のことだった。
今考えれば、迂闊だったとアスカは思う。
エヴァがなくなったとはいえ、シンジがただの一般人かといえば、そうではない。シンジが到達した過去や別世界の膨大な記憶の欠片は、ヴィレにとっては貴重なサンプルだった。人々の十四年間のブランクは、世界規模の混乱を必ず拡大させる。それを抑制するための機関として、ヴィレは軍事力、とりわけ情報統制について整備を進めなければならない。
だから、第3村での生活が許される一方、シンジは日中の大部分を赤木博士をはじめとしたヴィレの技術部門への情報提供と、自身を被験体とした実験に費やしていた。アスカがシンジのそばを離れないのは、護衛の意味もあったのである。
戦自の遺産が富士の演習場で見つかり、その起動実験のパイロットとしてシンジが選ばれたらしいというのは、マリからもたらされた情報だ。秘匿情報の閲覧は困難だったが、シンジが地下施設で監禁に近い扱いを受けていることはわかった。
“実戦演習なら、私が行くのに……”
出立前の夜、腕枕をしながら自分をやさしく抱き寄せたシンジの笑顔を、アスカは思い出す。
“いいんだ。もっとみんなの……アスカの役に立ちたいんだ”
◾️会敵
演習場からの爆発音は断続的に続いていた。
再三の通達に応じなかったヴィレに実力行使するとは言ったが、ここまで派手にやるとは聞いていない。
ー絶対楽しんでるわね、あいつ。
《作戦開始からまもなく十五分です。予測では、後十分程度で我々の方も感知されます》
(了解)
演習場脇の森林を駆け抜けながら、アスカは口の形だけで返事を返す。聴覚と喉の振動だけで、声を出さずに通信ができる。便利なものだ。
このレベルの技術を所持するヴィレが、あらかじめ偽装コードで基地内の人間の位置情報を撹乱してあるとはいえ、こちらの侵入を見逃すとは思えない。おそらく、あと五分ももたないだろう。
《呼吸、心拍数ともに正常。すごいですっ、どんなトレーニングを積んだはるんですか?》
アスカは言いかけて口籠った。真っ先に頭に浮かんだのが、シンジとの夜の時間だったからである。
ーまぁ、シンジが還ってきて、メンタル・フィジカルともに絶好調なのは間違いないわね。
密林が開ける。眼下に車両が十台は入りそうな格納庫が見えた。
《装甲車用の格納庫です。あの施設の奥に地下施設と直結したエレベーターがあるはずです》
(跳ぶわよ)
アスカは崖上から一気に跳躍した。
快晴の空の下を、赤いプラグスーツが彗星の如く格納庫前に着弾する。両足、膝、腰、肘、頭の順に落下のエネルギーを相殺しながら前転したが、それでも土煙が上がるのは避けられなかった。
「侵入者⁉︎」
格納庫内の衛兵が声を張り上げる。
(索敵、サクラ!)
《は、はいッ! 入口付近に一名、中の装甲車両のそばに一名、奥の連絡用エレベーターのそばに二名ですッ!》
事前予測では三名だった。一名多いが、誤差範囲内だ。
「上出来よ」
アスカは素早く格納庫の中に滑り込むと、最も近くにいた衛兵に向け、跳び起きざまに超低空のタックルを見舞った。
「な……⁉︎」
衛兵は悲鳴を上げる暇も、右肩の短機関銃を構える暇もなかった。腹部に生じた鈍痛を認識した時には、アスカが至近距離で放った烈風のような肘打ちが顎先を掠め、シェイクのように激しく揺さぶられた脳は即座に意識を遮断した。
崩れ落ちる兵士を盾にしながら、アスカは肩にぶら下がったままのサブマシンガンを格納庫内に連射した。奥の壁から装甲車にかけて、けたたましい速射音と共に横一文字の美しい弾痕が並ぶ。衛兵たちが武装を構えるよりも数秒早いその牽制は、彼らに攻撃より防御を優先させるには充分だった。
(実弾とはね)
APC9ー米国が世界の警察として機能していた頃に軍で採用されていたモデルだ。とても演習目的の装備ではない。
アスカはサブマシンガンと腰ベルトの携行式閃光弾、コンバットナイフを取り上げると、用済みとなった手元の衛兵を無造作に地面に転がした。一足飛びで装甲車のバンパー付近までを駆ける。ナンバープレートの位置まで腰を落としてから内腿のホルスターからテーザーガンを取り出し、フロントドアの陰から無防備に顔を出した兵士の首元に一発撃ち込んだ。身体中に電流を流し込まれたその兵士は、数秒の痙攣の後、もの言わぬ人形となった。
(三秒後に、左眼の視界の光度を五秒間だけ80%カットして)
《り、了解です!》
レスポンスが遅い。
サクラがこちらの行動について来られていないことが気になるが、贅沢は言えない。
アスカは振り返りもせず、格納庫奥のエレベーター付近目掛けて閃光弾を放り投げた。
三秒後、ひと呼吸吸い込んでから右目を閉じる。
サクラが眼帯の光度を落として視界がブラックアウトした直後、炸裂した閃光弾の光が眼帯奥の映像を明るく照らした。
「うわっ!」
「くそ!」
装甲車の影から跳び出し、身体をくの字に曲げている衛兵の一人にテーザー銃の照準を合わせる。走りながらの射撃だったが、その一撃は正確に向かって左の兵士の首筋を撃ち抜いた。
残り一名の兵士は視界を取り戻した時、背後からコンバットナイフの冷たい刃を喉元に押し当てられていることに気づいて声を失った。
「う……!」
アスカの冷たい殺気が、兵士の全身を硬直させる。
《その人、多摩ヒデキさんです! オペレーターの》
(あっそ)
誰だっけ? アスカは気にもとめず、抑揚のない冷たい声で言い放った。
「そこのエレベーターのパスコードは?」
◾️地下一階
《格納庫の制圧に二分三十秒。五分もかからないなんて》
サクラの賞賛を無視して、アスカは大型エレベーターの入口ドアの脇に張りつきながら周囲を警戒する。
マリの陽動が効いているとはいえ、警備が手薄すぎる。
ー誘い込まれたのはこっちか……?
四方に振動が響き渡り、エレベーターが停止する。
《! これは……》
フロアのスキャンを終えたサクラから報告が入る。
アスカは小さくため息をつくと、身を隠すことを止め、フロアの中央へ堂々と歩を進めた。
広さは先ほどの一階格納庫の二倍程度。兵器や食糧の貯蔵庫だ、大型のコンテナが壁際に規則正しく並べられている。二階に当たる場所はほぼ吹き抜けになっており、ぐるりと周囲を囲うようにギャラリーが設けられていた。
コンテナを移動させたとみられる中央の空間には、褐色肌の長身の女性が一人、佇んでいた。
「ヴンダーの操舵手が一人でお出迎えとは、私も舐められたものね。ヴィレってそこまで人材不足なんだっけ?」
広い倉庫に、アスカの声はよく響いた。
アスカが五十メートルの距離まで近づいても、長良スミレは微動だにしなかった。ヴンダーで操舵手をしていた頃とはデザインが異なるプラグスーツ……いや、擬似プラグスーツを身につけている。
「あなたの言う通りかもしれないわね。エヴァやヴンダーが使えない以上、我々は超兵器に頼らず、世界に対して独立性を維持しなければならない」
十メートルの距離で、アスカは立ち止まった。
「エヴァのパイロットだったという実績を除いても、あなたのような飛び抜けた戦力を我々のようなノーマルが制圧できれば、軍事力という点ではとても優秀だとは思わない?」
やはり、シンジをエサに誘い込まれたということらしい。
赤木リツコの考えそうなことだ。この擬似プラグスーツや、おそらくこの奥のシークレットゾーンでシンジが関わっている“何か”の実戦テストに、自分もつき合わされているのだろう。
「シンプルでいいわね。アンタをぶっ飛ばせば、シンジがいる奥のステージに行ける」
スミレが頷く。
刹那ー。
二人が同時に太腿のガンホルダーに手をかけ、しかし銃を構えるのに、アスカの方がコンマ数秒上をいった。
ー……!
わずがな違和感が首筋を這い上がり、アスカは咄嗟にテーザー銃を手放した。瞬間、銃は空中で何かに射抜かれたように暴発し、爆散した。
指先がチリチリと痙攣する。
ー狙撃された……!
アスカはもう一方の手で肩口にマウントしてあったAPC9に手を掛け、スミレが構えた大型拳銃ーデザートイーグルに向けてトリガーを引く。
「くぅ……!」
スミレの放った弾丸がアスカの肩口をわずかに焼き、アスカのサブマシンガンの弾道はスミレの脇を通り過ぎた。
続いて、アスカの直感は自分の脇腹に集中した。
ーこっちを丸腰にしようっての⁉︎
見えない場所からの狙撃と、正面からのスミレの二発目が同時に来る。
アスカのバク転は鮮やかだった。遠方からのライフルの一撃は腰部のサブマシンガンを完全に破壊したが、アスカの肉体ダメージを衝撃だけの軽微なものにした。それはスミレのデザートイーグルによる一撃も同様で、アスカは一回転して着地した瞬間、サブマシンガンの残骸をブーメランの要領でスミレに全力で投げつけると、その直線軌道をトレースするように自分自身もスミレに向かって突進した。
短機関銃の残骸を片手で弾くために、スミレの動作が一手遅れる。その黒い鉄の塊を隠れ蓑に、アスカの放った掌底によるコンパクトなショートアッパーがスミレの手首を強打し、たまらずスミレはハンドガンから指を離した。
「くッ! 速すぎる……ッ!」
アスカの体術には、軍隊式の近接格闘技の他に、システマやコマンドサンボなどが取り入れられている。さらに奥の手があるが、それはまだ見せない。
これだけ密着すれば、遠距離からの狙撃はまず無理だ。怯むスミレの隙を見逃さず、アスカは肩口から左胸にかけて打撃を二発ずつ打ち込んだが、体重をたっぷり乗せたはずの拳の沈み込みが浅い。
擬似プラグスーツがダメージを吸収しているとアスカは判断した。この手応えのなさは、こちらの擬似プラグスーツの性能を遥かに上回っている。
ーパチもん掴まされたわね、マリ。
アスカは身体の捻転をフルに効かせて、神速の後ろ回し蹴りをスミレの頰に叩き込んだ。直撃なら意識を刈り取れたはずだが、直前で割り込んだ右腕にガードされ、スミレは五メートル先のコンテナまで吹き飛び、金切り声を思わせる派手な激突音と共に停止した。
アスカは即座にスミレの拳銃を拾い上げ、先ほどの弾道入射角度から大体のあたりをつけて発砲しつつ、狙撃地点と思われる場所とは真逆に位置するコンテナの影へ滑り込んだ。
時間差で二発反撃があった。西と南だ。しかし、すでにその場所に狙撃手はいないだろう。
(サクラ、センサーには何か反応ある?)
《ありません! サーモセンサーも空気の対流も、先ほどエレベーターを降りた時から、反応があるのは式波さんと長良さんだけです》
ーステルスか。厄介ね。
(どういう技術か知らないけど、発砲の瞬間は銃口を露出させるしかないはず。さっきの私の視界ログから、サーモセンサーで発砲時の温度上昇が見られないかチェックをお願い)
アスカは異変に気づいた。
サクラからの返事がない。眼帯モニターの向こうで何事か叫んでいるが、画像は乱れ始めていた。
その時、首筋を弾丸が掠めて地面を抉った。狙いが正確すぎる。
さらに、眼帯が作り出す視覚情報自体にノイズが走り始めた。
《降参するんだ、アスカ》
日向マコトの声が頭に直接響いた。サクラめ、こうも簡単に回線をジャックされるとは。
《こちらのスナイパー二名は俺と日向がサポートしてる。もうすぐ長良スミレも起き上がってくるだろう》
今度は青葉シゲルの声。
なるほど、三対二ではなく、五対二だったというわけだ。おまけに、日向に青葉という優秀なオペレーターに対して、こっちは医療尉官あがりのサクラのサポートのみ。
状況は芳しくなかった。だが、サクラの声が劣勢な現状を打破した。
《しき……さ……。式…さん!》
ー日向と青葉のジャミングを突破したのか!
(サクラ、よく聞いて……)
二方向からのライフルによる波状攻撃によって徐々にコンテナの端へ追い込まれながら、アスカはサクラに何事か囁いた。
《……日向さんに、ですか⁉︎》
(そう。青葉シゲルはダメ)
《わかりました》
十秒間、辛抱強く待つ。狙い通り、左の視界のノイズが和らいだ瞬間、アスカはこちらに近づきつつあった長良スミレにイーグルで数発牽制すると、フロアの中央へダッシュした。走りながら、直前に狙撃が行われたと思われる地点へ素早く視線を走らせる。フロアを囲う二階の広いキャットウォークには、薄汚れた壁以外何もない。
アスカはリアリストである。センサーでも肉眼でも確認できない狙撃手の、気配だけは確かに感じるという矛盾。その矛盾が発生しているふたつの場所に向けて、アスカの殺気は稲妻のようにほとばしった。
「ひ……ッ!」
アスカの野獣のように鋭い眼光が自分を捉えた気がして、北上ミドリは小さい悲鳴をあげた。まさか、周囲の景色へ完全に溶け込むステルスコートは、現在ヴィレが開発した兵装の中でも最新鋭の装備だ。見破れるわけがない。
《声を出すな。位置が特定される》
(で、でも……)
ミドリがライフルのスコープを覗き込んだ時、すでにアスカはフロアの中央にいなかった。慌てて周囲を警戒すると、右手の奥に陣取っていた元機関長・高雄コウジの遥か上空に跳躍しているアスカが視界の端に見えた。
ーありえない! 式波さんの擬似プラグスーツは第二世代のはず。あそこまで身体能力が向上するはずがない!
「ぐあぁッ!」
天井近くから自由落下に全体重を乗せて飛来するアスカのニーストライクに、高雄コウジは耐えられなかった。ヒキガエルのような断末魔を上げて沈黙すると、彼のステルスコートは取り上げられ、その下からはうつ伏せの死に体となった高雄コウジが顔を覗かせた。
「い、いや……」
アスカは見えないはずのミドリを完全に視界に収めていた。錯乱したミドリは近接戦用にステルスコートの中へ忍ばせていたアサルトライフルを取り出し、照準をあわせようと躍起になったが、ミドリがトリガーに指をかけた時には、赤い閃光はもう壁を駆け抜けてミドリの背後に立っていた。
「ば、化け物……」
ゴッ! という、骨が砕ける音がした。
アスカが振り下ろした手刀はミドリの擬似プラグスーツを背中から叩き割り、彼女の意識ごと完全に破壊した。
「かよわいレディーに向かって化け物とは、アンタも言うようになったわね」
空気の澱みをキャッチしたアスカは、バックジャンプでフロア一階に舞い降りる。直後、先ほどまでアスカがいた空間に巨大な鉄骨が突き刺さり、壁の一部を変形させた。スミレが投げたのである。
(サンキュね、サクラ。アンタのおかげで助かった)
《いえ、わたしは式波さんに言われたことを伝えただけですから》
アスカから日向マコトへの伝言。それは。
“一分間大人しくしてくれたら、後でミサトが酔っ払ってあられもない姿になった時に撮った秘蔵写真プレゼントするわよ”
ボクシングのような構えを見せるスミレに、アスカは悠然と近づいていく。
「止まりなさい。スーツの性能差が違いすぎる。さっきわかったでしょう? いくらあなたが超人的な身体能力を所持していても、こちらにダメージはほとんどないわ」
アスカもスミレの言うことは承知していた。彼女の着ている擬似プラグスーツは、ミドリや高雄コウジのものよりもさらに高性能なようだ。あれならデザートイーグルの弾丸が直撃しても耐えきるかもしれない。
「私が他人の言うこと聞くの大っきらいなの、知ってるでしょ?」
互いに腕を伸ばせば触れ合う距離だった。
制空圏が触れ合う。
先に動いたのはスミレの方だった。
左腕が蜃気楼のように揺らめくと、それはリーチの長いジャブとなってアスカの顔面へ襲いかかった。パァンッ! という乾いた音の後、しかしスミレの左拳はアスカの掌底に真下から打ち上げられていた。
「……ッ!」
それでも体勢を崩さず、スミレは本命の右ストレートを放った。身長も体格もスーツの性能もスミレの方が上だ。全体重を乗せた最大速度の一撃は、絶対に先ほどのジャブのようにはいなせない。
直後に何をされたのか、スミレは正確には覚えていない。アスカがギリギリのラインでスミレの拳を回避し、彼女の頬が切れて鮮血が吹き出したのは見えた。が、その後は全く見えなかった。
アスカは伸び切ったスミレの右肘にアウトラインから凄まじい速度で捻りの効いた左フックを打ち込んだ。ほんの一瞬硬直したスミレのボディがガラ空きになり、アスカはその中心ー正中線に連撃を叩き込んだのだ。
流れるような拳と蹴りの舞。ぐらつく首元に足尖蹴りが炸裂すると、スミレはたたらを踏んで後ずさった。
「かは……っ!」
スミレは吐血していた。それは明らかに、擬似プラグスーツを抜けて身体の内側にダメージがあることの証拠だった。
ひと呼吸で五連撃! この動きは……!
「カンフー、いや……発勁か!」
アスカは二、三度、上下にステップを踏んでから不敵に笑うと、右手をスミレの方へ突き出し、手の平を上に向けて、親指を除く四本の指でクイクイと手招きをした。
発勁は、内部破壊を極意とする。体内の水分や血液を伝って派生する肉体の内側からのダメージに、擬似プラグスーツは対応できていなかった。
「なるほど……」
スミレもまた、ニヤリと笑った。そして、鉛のように重たくなった身体で前に踏み出した。
アスカはその態度に敬意を払った。スミレが再び右腕を振り絞った直後、全身をスミレの懐に潜り込ませて、全力の掌底を彼女の腹部に打ち込んだ。
「ッ!」
踏み込んだアスカの脚部が鋼鉄の床を踏み抜く。アスカが掌打から放ったエネルギーはスミレの体内の血液を巡り、彼女の全身をその場で縦に揺らして、一撃で意識を刈り取った。
「イイ線いってたわよ、アンタたち」
ガクガクと震えながら、スミレがその場に崩れ落ちる。
アスカがわずかに乱れた呼吸を整え終える前に、フロア奥の壁が荘厳な音を立てて中央から左右にゆっくりと開いた。
◾️四式統合機兵
そのフロアに踏み込んだ時、室内にライトはなかったが、先ほどの備蓄倉庫よりさらに広いことは空気の流れでわかった。そして、吹き抜けになっている二階の奥まった場所に、管制室らしき部屋があるのだけが見えた。防弾性と思われる全面ガラス張りの室内には煌々と明かりが灯っており、窓際に二人の女性が佇んでこちらを見下ろしている。
赤木リツコと伊吹マヤだった。
『よくここまで来られたわね、アスカ』
背後の壁が閉まっていく。アスカにスポットライトが照射され、室内のスピーカーからマヤの声が響き渡って、アスカはあまりの光度に顔をしかめた。
『あなたのその身体能力と的確な判断力、本当に素敵だわ」
リツコは三度白々しい拍手をしてから、続けた。
『どうかしら、アスカ。より良い世界の実現のために、あなたのデータを解析させてくれないかしら?」
「私はシンジを迎えに来ただけよ。エヴァのパイロットであることにも、強く生きることにも興味はないわ。シンジさえ返してくれれば、私はとっとと帰るから」
「それは残念ね。なら……」
リツコはマヤに向かって指を鳴らした。
「強制的に実験に参加してもらうしかないわね」
フロア全体にライトが灯った。縦に長いフロアのその先に、二足歩行の人型兵器が鎮座していた。
「あかしま……!」
それは戦略自衛隊の決戦兵器だった。
全長はエヴァの半分程度だが、ぶ厚い装甲に反して流線的な全身のフォルムは、機動力の高さをうかがわせた。開発コンセプトは、エヴァの支援目的とも、エヴァが暴走した際の抑止力とも言われている。
「こんな骨董品を持ち出してくるなんて」
言いながら、アスカは腰を落として迎撃体勢をとった。いくら十数年前の機体でも、人間ならあの巨体から一撃喰らうだけでひとたまりもない。
『骨董品かどうかは、試してみたら? パイロットがどうなってもいいのならね』
『アス…カ……』
アスカは両目を見開いた。まさか。
充分想定された事態だった。だが、アスカはその不安を心の片隅に追いやっていた。
「シンジ……! アンタ、あかしまに乗ってるの⁉︎」
『シンジ君はね、アスカ。あなたをこれに乗せないために、自らパイロットに志願してくれたのよ』
『来ちゃ、だ…だめ、だ……』
《あかしまの内部資料見つかりました! すぐに転送します》
左目の網膜に戦自の巨人の構造データが来る。ATフィールドのような特殊な防御構造は持たないが、複座式のコックピットが丸ごとオミットされ、エントリープラグ方式に変更されていた。これでは、胸部の外部装甲を破壊してシンジを救出することができない。シンジを助けるには、あかしまを行動不能にしてエントリープラグを背面から射出させるしかなかった。
なによりアスカが許せなかったのは、コックピットの中のシンジが、体中のあらゆる部位を擬似プラグスーツ越しにデータ取得用のケーブルで串刺しにされていることだった。
《あかしま、ダミープラグの亜種で起動しますッ!》
あかしまの頭部にあたるメインカメラに光が走った。ダミープラグ……オートモードの操縦でパイロットにどの程度の負荷がかかるかを測定するための、シンジは単なる生体ユニットということか。
「ぎ……ッ!」
アスカは前方に大きく身体をたわませた。獣のような前傾姿勢。あかしまが左腕の大型ライフルーパワードエイトを速射した瞬間、アスカは床がひしゃげるほどの脚力であかしまの懐に飛び込んだ。
轟音と共に、パワードエイトの弾丸が先ほどまでアスカがいた地点に大型の醜い穴を穿った。その時にはもう、アスカはあかしまの脚部付近に接近し、スミレのデザートイーグルを左脚部のつけ根に連射していた。想定通り、装甲の繋ぎ目は脆く、イーグルの弾丸は弾かれることなくめり込んだ。
が、ダメージは薄い。
そして、想定外のことがひとつ発生した。
『ぐ…あぁッ!』
苦痛に歪むシンジの悲鳴がフロア内に木霊した。
「まさか……」
アスカはスライディング気味にあかしまの股下を通過してバックポジションを確保したが、追撃できなかった。
『言い忘れたけど、シンジ君へのダメージフィードバックは通常の五倍の感度に設定してあるから。さっきのアスカの銃弾は、生身の身体を撃ち抜かれた時と同様の痛みが走ったでしょうね』
《ひどい……!》
アスカの刹那の逡巡を、ダミープラグは見逃さなかった。あかしまの上半身が左から百八十度回転し、パワードエイトの銃身の先端がアスカの腹部を直撃した。
「がは……ッ!」
アスカは咄嗟に右へステップして銃身の勢いを殺したが、大型の鉄球をフルスイングでぶつけられたようなものだ、あかしまの上半身はさらに反時計回りに回転して、アスカを最初立っていた地点まで易々と吹き飛ばした。
空中を高速で滑空した後、アスカは無様に床の上をゴロゴロと転がり、壁に激突してようやく停止した。
「くそ……! まだなの、サクラ!」
《もう少し……あと少しです。それまでなんとか時間を稼いでください!》
あかしまが地面を揺らしながらゆっくりと近づいてくる。
アスカは膝に手をついて立ち上がった。
拳銃だけではどうにもならない。圧倒的に武器が足りないのだ。
……だがーと、アスカは思う。
それが手に入ったとして、自分にシンジが撃てるだろうか?
『逃げ…て……アスカ……ッ!』
シンジが枯れた声で叫んでいる。
ーこんな時まで私の心配してさ。ホントに、バカね。
無理だ。
シンジを失うことだけは、とても耐えられない。
シンジを殺すくらいなら、シンジに殺される方がマシだ。
その時アスカは、昔自分が第9の使徒に3号機ごと取り込まれた時、シンジがどんな気持ちだったのかを理解した。
ーそっか……。ごめんね、シンジ。そりゃ、無理だよね。
アスカを見下ろす位置まで接近したあかしまが、パワードエイトを構える。
よろよろと前に進みながら、アスカはあかしまの中のシンジに向けて、ありったけの笑顔を見せた。
だがそこで、不可解な現象が起きた。
あかしまのパワードエイトの銃口がアスカから外れたのだ。ライフルの先端は壁側を向いたまま、見えない縄で固定されたかのように動かなくなる。
ーシンジ……?
あかしまは言うことを聞かない左腕を諦め、残った右腕を振り上げた。マニピュレーターが開かれ、アスカ目掛けて打ち下ろされて……直前で停止した。
『ふ……ぐ……ッ!』
あかしまがアスカに危害を加えることを、シンジが拒絶していた。あかしまの右腕は、ブルブルと震えながら、アスカに接触するわずか数センチの距離に留まっていた。
『まさか、ありえないわ。パイロットの意志がダミープラグのシステム制御に関与するなんて!』
『う、あ……ああぁぁァァーッ!』
「シンジッ!」
シンジの口元から大量の鮮血が溢れて、エントリープラグ内のLCLに濁って溶けた。口内のあらゆる場所を噛みちぎって、シンジは自分の意識を覚醒させたのである。
『こんなことで……二度、と……アスカをッ! ……泣かせるもんかああぁぁぁァァァーッ!』
《来た……来ました、式波さん! 間に合いましたッ!》
背後の壁面から爆発音が響き渡り、爆炎が立ち昇った。風がうねり、空気が逆流する。その炎の中心から、派手なピンクカラーのジープが飛び出してきた。
「呼ばれて飛び出てジャジャジャジャーンッ!」
マリのお気に入りのジープはフロントガラスも天板も吹き飛んでいたが、マリ自身はピンピンしていた。彼女はアスカを目視で確認すると、ハンドルを乱暴に切って急旋回した。
『マリさん! アスカをッ!』
「おうよ! まかされて!」
高速で走り抜けるジープの助手席フロントドアに、アスカはふわりと身体を浮かせて片手でしがみついた。ピンクの車体はさらにあかしまの脇を抜けて、広いフロアの奥へと突き進む。
「聞こえてるわね、日向っち! 根性見せなさいよ!」
《俺は、これ以上は……》
「ポロリあり、葛城ミサトの風呂上がりオフショット写真一枚追加でどうだ!」
《⁉︎ く……うおぉぉーッ!》
助手席に退避したアスカに、マリが親指で後部シートを指差す。そこには、携帯式防空ミサイルシステムー「毒針」の名前を持つスティンガーが積まれていた。
『日向君! あなたまさか、寝返るつもり⁉︎』
《シンジ君の神経接続カット! 機体損傷時のパイロットへのフィードバックは10%まで下げたぞ!》
「上等ッ!」
振り返ったあかしまが腰部に内臓された数発の小型ミサイルを放った。それらは壁面に着弾し、フロア全体が激しく揺れる。爆風の中、マリのジープがドリフト音を刻みながら壁沿いを走り抜けていく。後部シートから振り落とされかけたスティンガーミサイルを、アスカはなんとか手元に引き寄せた。
「こりゃ長くはもたない! サクラ、切り札出してッ!」
《了解です!》
「切り札って……⁉︎」
《真希波さんと兄とヒカリさん考案のとっておきです! 裏コードL・A・S、承認ッ!》
ポチッとなーというサクラの台詞の後、アスカの左眼の映像がリアルタイムから暗転した。
「え……?」
結婚式場で流れるようなセンチメンタルな曲をバックに、シンジの映像が次々とアスカの網膜に映し出される。
“ただいま、アスカ”
それは、アスカが大切にしている、シンジとの思い出の数々だった。
“アスカ……手、つないでもいい?”
“寒くない? 一緒にハグしながら寝よう”
「う、え……? ええぇぇェェーッ⁉︎」
数多の銃弾とミサイルが爆煙を立ち上げる中、アスカの頬が真っ赤な噴煙を爆発させた。
そして、いつも眠りにつく前にシンジが見せてくれる、やさしい笑顔が映し出される。
“好きだよ、アスカ。大好きなんだ”
シンジの顔がゼロ距離まで近づき、離れた瞬間ーアスカの中心がドクンと跳ねた。
「マリッ!」
アスカが右肩にスティンガーミサイルをセットする。
「あいよ!」
「目標あかしまッ! 突っ込んでッ!」
「よしきたあぁぁーッ!」
アクセルを全開にしたマリのジープがあかしまに向けて突貫する。あかしまはパワードエイトを構えようとするが、シンジの意志がそれを阻んだ。
アスカはサイドシートから身を乗り出し、スティンガーのスコープをあかしまに定める。
『防空ミサイルでも、あかしまの装甲は突破できないわよ』
『アスカ! 脚だッ!』
「わかってるッ!」
アスカとシンジの狙いがシンクロする。
アスカはあかしまの左脚部のつけ根に標準を合わせ、トリガーを引いた。アスカが先ほどの射撃でデザートイーグルの弾丸をめり込ませた部位である。
マッハ2を超える超音速の小型ミサイルがあかしまの左脚部に突き刺さり、爆音と共に胴体から左脚を切り離した。支柱のひとつを失った二足歩行兵器はその場に崩れ落ちたが、倒れざまに腰部のミサイルをひとつ撃ち返してくる。
「ヤバあぁぁーッ!」
「サクラ! 擬似プラグスーツのリミッター解除ッ!」
《りょ、了解!》
ミサイルランチャーはジープのフロント部分に着弾し、マリの愛車を一瞬で粉々に爆散させた。
被弾する直前、マリは左側に退避して爆発の中を床に転がったが、アスカはスティンガーを投げ捨てて前方へ跳躍した。衝撃でアスカの眼帯がちぎれ飛ぶ。それでも爆風を利用して大きく前方へ着地すると、アスカは倒れ伏したあかしまへ全速力で駆け抜けた。
「どおりゃああぁぁぁァァァーッ!」
アスカは右手に溜め込んだ発勁の波動の全てをあかしまの胸部に叩き込んだ。その場にいた全員が、基地全体が揺れたかのように錯覚した。それほどの衝撃が、アスカ個人からあかしまの中心に打ち込まれた。
破壊は二段階で発生した。
物理的には、あかしまの胸部装甲が逆ドーム状に大きく凹み、機体全体に強烈な縦方向の振動を起こした。ついで、アスカの想いを乗せたエネルギーは見えない質量を伴って機体内部のLCLに巨大なさざなみを起こし、エントリープラグを背面装甲ごとパージさせる形で機体後方から吹き飛ばしたのである。
『まさか! ありえないわ!』
「シンジッ!」
アスカは完全に機能を停止したあかしまの機体を駆け登り、エントリープラグにしがみついた。
吹き飛んだハッチの中からLCLが排出され、衰弱した様子のシンジが、アスカに向けて弱々しい笑顔を見せた。
「大丈夫⁉︎ ちゃんと……ちゃんと生きてる⁉︎」
「大丈夫。いつもアスカに殴られてるんだ、これくらいなんともないよ」
エントリープラグ内に入り込むアスカを横目に、マリはちぎれ飛んだ眼帯を拾い上げた。
「おつかれ、サクラ」
《どうなりましたか! 式波さんも碇さんも、無事ですか⁉︎》
マリはあかしまの方を一瞥してからニヤリと笑った。
「そうね、今一番いいところだと思うから、邪魔しないでおきましょ」
※
「……以上が、アスカからの要請を却下した場合に想定される一連の事態です」
伊吹マヤは、式波・アスカ・ラングレーと碇シンジが抱擁している場面でモニター映像を停止した。
赤木リツコはモニターから視線を外さず、左手の煙草を静かに吸い込み、ゆっくりと煙を吐き出した。
「……冗談でしょ?」
「松代のMAGIが出した結論です」
「……………」
「……………」
「たった一人の元パイロットに、ここが壊滅させられるというの?」
「メルキオール、バルタザール、カスパーそれぞれの予測で数%の誤差はありますが、基地の戦力が無力化させられるという点では意見が共通しています」
「マリやサクラがこちらを裏切る可能性は?」
「80%です。二人とも、シンジ君とアスカに好意的ですからね」
「日向君は?」
「実際に葛城さんの秘蔵写真が存在するなら、寝返るでしょうね」
極めて不潔な理由ですが、とマヤは付け加えた。
「このドラマチックな展開はなんなの?」
「カスパーによる創作です。シンジ君とアスカの第3村での共同生活を素材として組み込んだところ、情緒的なストーリー展開が加味されたようです」
「私生活でしょ? よくそんなプライベートな映像が記録できていたわね」
「情報提供者はマリです。記録方法については企業秘密につき聞いてくれるな、だそうです。また、情報提供の際に、古いSFアニメやミリタリー小説、コンバットゲームなどのデータも混ぜ込んだようです」
「……………」
「それと関連して、マリから先ほどの映像データを持ち帰りたいとの要請も来ています」
「……………」
「……………」
「一ヶ月も拘束したことは悪かったと思ってるけど、シンジ君の出張期間をあと十四日間延長する代わりに、アスカの言い値で長期休暇を保証することは通達したのよね?」
「伝えましたが、『クソ喰らえ』に相当する世界中の翻訳不可能なスラングが百個並べられたメールが返ってきました」
「大の大人がすることじゃないわね……」
「一度シンジ君をアスカのもとに帰すのは、私も賛成です。アスカが本日訪ねてくることを三日前に伝えてから、シンジ君のパフォーマンスレベルは格段に向上しています」
リツコは煙草の煙と一緒に、盛大なため息を吐き出した。
「恋だの愛だの、非合理的だわ」
「こんな世界でも、ヒトに残された唯一の人間らしい感情ですよ」
「わかったわ。シンジ君の被験体の任務を解除します」
マヤは笑顔を見せると、モニターをエントリープラグ内のシンジの映像に切り替えた。
「シンジ君。アスカが迎えに来るから、今日であがってちょうだい。一ヶ月の長期任務、ご苦労様でした」
《あれ? 延長はよかったんですか?》
「おかげさまで、データは充分取れたわ」
《僕は……少しは、役に立てたんでしょうか?》
あかしまのオートパイロット化に向けた運用実験に生体ユニット兼緊急時のパイロットとして参加するにあたり、シンジが出した条件は『ダミーシステムのような凶暴なオート化をしないこと』。
自分とアスカのような悲劇を繰り返さないこと。
エヴァのない世界を望んだシンジの心中を鑑みると、その条件は皮肉でしかなかった。世界の正常化に向けて、ヴィレに戦自の戦力を取り込めれば、抑止力としては大きなアドバンテージになる。エヴァがなくなっても、結局ヒト同士の争いがなくなるわけではないのだ。
「とても。あなたの協力は、やさしい世界への第一歩よ」
《ありがとうございます》
「いい顔をするようになりましたね、シンジ君」
「マヤ、アスカに伝えて」
「?」
「長期休暇をあげるから、シンジ君と二人で息抜きのバカンスにでも行ってきなさいって」
「……はい、わかりました」
演習場の脇、格納庫の前に設置したタープテントの下。
北上ミドリは無線の回線を切ると、アスカの方へ向き直った。
「もうすぐ、荷物をまとめてくるそうです」
「そ。わざわざ問い合わせてくれてありがと」
変わったなーミドリはアスカと他愛のない世間話をしながら眩しそうに目を細めた。
背格好や精神面が年相応に戻ったことももちろん影響しているのだろうが、他者への態度が柔らかくなって余裕がある。傭兵のように感情を殺し続けていた頃の殺伐とした雰囲気は、今のアスカからは微塵も感じられなかった。
「アスカ!」
宿舎の方から、シンジが軽快な足取りで走ってくる。
「シンジっ」
シンジの顔を見た瞬間、アスカに満面の笑顔の花が咲いた。そのほほえみは、太陽を見つけた一輪のひまわりのように眩しかった。
ーうわぁ……。
北上ミドリは、見てはいけないものを見てしまった気がして、思わず顔を赤らめて二人から顔を背けた。
「一ヶ月も、ごめんね」
「ううん、大丈夫」
「お疲れ様でしたー……」
その場で抱擁しかねない雰囲気の二人の前に、ミドリは小声で車のキーを差し出した。
「赤木博士からの支給品です。貴重なEV車なんですから、事故しないように乗ってくださいね」
「ありがとう、北上さん」
シンジの屈託のない笑顔に、ミドリはふんと鼻を鳴らして再び視線を逸らす。
この男のヴィレへの献身的な態度は嫌でも目に入る。いい加減、サクラを見習って冷たい態度は減らしていこうと思うミドリだった。
「晴れてよかった」
演習場を抜けて駐車場まで移動し、アスカを丁寧に助手席へエスコートしてから、シンジは運転席に回ってエンジンをかけた。
「ゆっくり帰ろ?」
「そうだね。車の運転は慣れてきたけど、気をつけるから」
雲ひとつない、抜けるような青空が眩しい。二人で風景を楽しみながらのドライブは、いい思い出になりそうだった。
「え? う、わっ! わわッ!」
出発して五分もしないうちに、シンジはハンドルを滑らせて車体がよろけた。アスカがシンジの左腕に手を回して、頬をすり寄せたからである。
「ちょっ……アスカ」
「だって、ゆっくり帰ろうって言ったじゃない」
シンジはどうにか車を道路脇に寄せ、停車させた。
アスカはシートベルトを外すと、頬を赤らめながらシンジの顔を上目遣いにじっと見た。そして、猫のようにしなやかな動きで運転席へと移動し、シンジの膝の上にちょこんと座り込んだ。シンジの鼓動が早鐘を打つのも無視して、いそいそと両手を彼の首に回し、うなじに唇を押しつけながら、ぴったりと体全体を押しつけるように抱きつく。
「な、なにしてるの?」
「充電」
「誰かに見られちゃうよ」
「別に見られてもいいし……こんなところ、誰も通らないわよ」
会えないのを我慢していたのは、アスカだけではない。
「汗くさくないかな……」
「シンジの匂いだから、大丈夫……」
シンジはごにょごにょと口ごもりながら、両手をゆっくりとアスカの腰に回して、抱き寄せた。
「ひゃあぁ〜……」
鈴原サクラは、道路脇に停車している迷彩色の小型車両を助手席から覗き込んだ後、もの凄い勢いで前方に向き直って、紅色に染まった両頬に指先を当てた。
運転席のマリは、口角をニヤリと吊り上げながら、そんなサクラを横目で見ていた。
伊吹マヤとの交渉に手間取ったせいで、出発時刻をシンジとアスカに合わせることができなかったのだが、代わりに鈴原夫妻に用があるというサクラをピンクカラーの愛車に乗せていくことになった。樹海を抜ける手前、路肩に戦自の小型車が不自然な向きで停車しているのを見てピンときたマリは、そこからわざとアクセルスピードを遅くしたのだが、ビンゴだったようだ。
「どうしたの、サクラ?」
わざとらしく、すっとぼけた調子でマリは訊いた。
「式波さんと碇さんが……」
「うんうん」
「ちゅ……ちゅっちゅしてはりました」
なんと初々しい。満足顔でマリが頷く。
あの様子だと、アスカとシンジは第3村に予定よりも二時間は遅れて帰ってくるだろう。
二人を待つなどという野暮なことを、マリはしなかった。アクセルを踏み込むと、二人の車はあっという間に後方へ消え、見えなくなった。
「そだ。マヤ姉から面白い映像データもらったんだけどさ、帰ったらみんなで観ようか? サクラも大活躍してるんだから」
「あたしが活躍って……なんなんでしょうか、それ?」
「名付けて、愛のマリアージュ大作戦。中身はまぁ、観るまでのお楽しみってことで」
ふふん、とマリはほくそ笑む。予定通り、秘蔵コレクションがまたひとつ増えた。
マリのピンクの愛車はハイウェイを進み、ドライブの間中、サクラはマリのアカペラ懐メロリサイタルを聴かされ続けたという。