ーどういうことだ……⁉︎
モニター越しに周囲の状況を確認した瞬間、シンジの鼓動はドクンと跳ねた。
十四歳の身体。
LCLとプラグスーツの感覚。
触り慣れた両手の操縦桿。
自分があの少年の日の姿で、初号機のエントリープラグに座していることは間違いない。
だが、最大の問題はそこではなかった。
《パターン青。使徒です!》
モニター越しのハザード音とオペレーターの状況報告が忙しない。日向マコトのその発言に、シンジは震えが足元から迫り上がってくるのを感じた。
再度、自分と初号機の立ち位置を確認する。
モニター正面、黄昏に沈む野辺山の田園風景を縦に割るように、奴がゆっくりとこちらに歩みを進めてくるのが見えた。
地鳴りのように響く足音が、そのままシンジの鼓動とリンクした。
忘れもしない。忘れるわけがない。
第9の使徒。
乗っ取られたエヴァンゲリオン3号機。
「またあれに乗ってるのか、アスカ……⁉︎」
※
「出して、マヤ」
赤木リツコが助手席に乗り込んだことを確認すると、マヤは車のアクセルをスタートさせた。
「いかがでしたか?」
「どこの国も、今は秩序の再構築と治安維持が最優先ってところね」
「グローバル・サウスでは略奪が横行してるって話ですが」
「酷だけどね、現実よ。動物は追い詰められたら、まず食べるために他者を襲う。人間の場合、次が着るもの、それから安眠できる場所でしょう」
いい? とマヤに断りを入れてから、リツコは助手席の窓を少し開いて、煙草に火を点けた。
「土地の奪い合いまで行き着いたら、戦争でしょうね」
「諸外国に比べると、日本は比較的マシな方ですね」
「島国の特権よ。突き詰めると人間の歴史は、常に土地の奪い合いなのよ。だから十年以上のブランクが発生しても、この国では混乱が生じるような非常時には略奪よりも助け合いが幅を利かせる。奪う土地が限られているからね」
「機嫌が悪そうですね、先輩?」
「国連で演説することになったわ。日本は群を抜いて復興が早い。政府はヴィレをプロパガンダに利用したいんでしょう。柄じゃないのよ。こういう役回りは、誰かさんの方が適任なんだけど」
ーいない人間に助けを求めても仕方ないわ。
開いた窓の外へ、リツコはため息をつくように煙を吐き出した。
「そっちはどうだった?」
「戦自の資料は確認できました。富士の演習場に保管されていたあかしまのコックピット、やはり以前からエントリープラグ形式ではなく、複座式だったようです」
「そう、やはりね」
ネルフが所持していたエヴァの装備やパーツはトップシークレットだ。戦略自衛隊の兵装とは互換性がないはずのエントリープラグが、ああも易々とあかしまに採用できたのはなぜだ?
「ゼーレでしょうか?」
「面白いけど、戦自に情報をリークする意味がないわね」
するとあれは、人ならざる者の力による何か。
「まるで、シンジ君があかしまのテストパイロットになることがわかっていたみたいですよね」
「……少し飛ばせる、マヤ? 報告があった元第3新東京市付近で観測された光の柱のようなもの、戻ったらすぐに調べるわよ」
「了解です」
マヤはアクセルを強く踏み込んだ。
潮の香りがする。
海と……シンジの気配。
大切な人の息遣い。
助手席で目を覚ましたアスカが最初に目にしたのは、運転席のシンジと、その奥で陽光にきらめく海岸線の景色だった。
最低限の食糧とキャンプ道具一式を積み込んだだけの簡素なドライブ旅行だったが、シンジが自分のそばにいるその風景は、悪くなかった。
「おはよう、アスカ。よく眠れた?」
シンジは前方に視線を向けたまま、左手の甲でアスカの頬をそっとなでた。アスカはその手を掴んで体をシンジの方へ傾けると、すがるように自分の胸元に抱き寄せた。
「ごめん、どれくらい寝てた?」
「一時間くらいかな」
「運転変わるから」
「大丈夫だよ。海岸線を抜けたら、すぐに着くから」
第3新東京市。
そこが二人の旅の目的地だった。
リツコから許可が出た長期休暇を利用して、二人は近隣地域の現状調査を兼ねて北から西へ、そこから第3村付近を通過して、太平洋沿いの沿岸部に寄り道をしながら、のんびりと東へ移動し続けていた。
電気やガス、水道のインフラは比較的早い回復を見せていたが、課題はやはり食糧で、日本では安定した「配給」がようやく見込めるようになり始めたところだった。そういった問題には自然と共存してきた田舎の方が適応力は高く、山岳部や海辺の町では狩猟と漁業などですでに自給自足の体制を整えていた。しばらくは、地域毎の小さなコミュニティが独自の文化形成を果たしていくだろうというのがシンジとアスカの結論だ。
倒壊したままのビルや荒廃した町の様子を目にする度に、シンジは歯を食いしばって両手を強く握り締めていた。せっかくの休暇に、わざわざ自分をミキサーにかけるような行為をしなくてもいいのに……とアスカは思ったが、「ニアサードインパクト」という行為の代償を直接自分の目に焼きつけておくが、贖罪のひとつだとシンジは思ったのだろう。だからアスカは、車に戻って二人きりになる度に、シンジが泣きやむまで、黙って彼をぎゅっと抱きしめた。
道中、日本人の奥ゆかしさに、アスカは改めて感心する機会が多かった。特に田畑が広がるような田舎町では、町の住人が貴重であるはずの野菜や果物を分けてくれることが多々あった。
「どうしたの、アスカ?」
「え?」
「なんか、笑ってるみたいだったから」
シンジに言われて、アスカは思わず自分の口元に手をやった。確かに少し口の端が吊り上がっている。
〝ご夫婦〟
行く先々で、出会った人たちからよく言われた言葉だ。シンジと二人並んで自然にそう見られることが、アスカはうれしかった。
「僕らの家がどうなってるのか、ちゃんと見ておきたい」
出立前、シンジはそう言った。
コンフォート17。シンジとアスカとミサトが暮らした大切な場所。
第3新東京市はインパクトの爆心地だ。大地の浄化が済んだ後とはいえ、ネルフ本部が天空まで上昇した際に地上部分の都市は壊滅しており、人が住めるような状態になっているとは思えなかった。
「キャンプできる場所、あるかな?」
「どうかな。観測と撮影だけ済ませたら、このあたりまで戻って浜辺に設営した方がいいと思う。今のところ野盗みたいな人たちには出会ってないけど、崩壊した地域でのビバークは物騒だから避けたい」
浜辺か。
自動車の排気ガスや工場からのスモークが少ないからか、夜になると空に星がよく見えた。食事は軍事用の簡素なものばかりだったが、シンジと二人で並んでただ見上げるだけの夜空は、この旅の一番の贅沢だった。
アスカは後部座席を振り返った。座席を倒して空間を確保した荷台には、キャンプ用のテントや大型のバックパックが隙間なく並べてあったが、それらに混ざって、小型のダンボールが積んである。
『こんな荷物あったっけ?』
初日のキャンプの時、そのダンボールのふたを開けようとしたアスカを、シンジは慌てて制止した。
『あっ! アスカ、それは……』
『え、なに? 精密機器かなにか?』
『こ、ここ、コ……』
『? にわとり?』
コンドーム……とシンジが恥ずかしそうに呟いて、アスカは危うくつんのめりそうになった。
『ぼ、僕じゃないよ! マリさんがこっそり積み込んでたみたいで……』
あのメガネ……! とアスカは憤ったが、ダンボールにぎっしり敷き詰められていたはずのそれが、なぜ今は一箱なくなっているのかについては、アスカとシンジしかその訳を知らない。
「第3新東京市の復興計画もあるんでしょ?」
海岸線のドライブは終わりに差し掛かり、車は緩やかなのぼり坂へ入り込んだ。
「そうみたいだね。リツコさんとマヤさんがそのあたりの調整のために松本まで行ってるみたい。土地の査定が終わったら、ヴィレやクレーディトからも本格的に人を派遣するって」
すれ違う車はほとんどなかった。少し距離が離れた海の上を、海鳥が数羽、気持ちよさそうに飛んでいるのが見える。そんな景色を背景に、シンジが何かを言い淀んでいるのがわかった。
「あのさ、アスカ」言いながら、シンジは小さく唾を飲み込む。
シンジが何を言おうとしているかの察しがついて、瞬間アスカは顔を赤らめた。
「復興が始まったら、僕と、一緒に……!」
あの街で、二人で……。
その言葉は、前方に広がった異形の景色にかき消された。
「なに、あれ……?」
二人の目が同時に見開く。
青空を引き裂くように、天から巨大な光が降り注いでいた。昼間でも明らかに異質とわかる眩い光線。それは天使の輪のように、円形状に大地に突き刺さっている。
「急ごう」
シンジはアクセルを踏み込んだ。
嫌な予感がした。
シンジもアスカも、あの光と似たような光景を半年ほど前に目撃している。
「……⁉︎」
頂上付近からの展望に、二人は言葉を失った。
使徒迎撃用の要塞都市、第3新東京市。シンジとアスカが、一時暮らした街。壊滅したはずの街並みが、十四歳のあの日の姿のまま、眼下に広がっていた。
異様だったのは、都市の中心部ー今はもう存在しないはずのネルフ本部の上に、高層ビル群が林立していたことだった。
「なんかわかんないけど、ヤバいわ、シンジ」
「うん」
光の柱は光度を増し、街全体が巨大なヘッドライトに照らされたように全容が見えなくなっていく。
歌声のような何かを、二人は聞いた気がした。
「戻ろう。アスカはマヤさんに報告を」
「わかった」
展望台の駐車場を利用して、シンジはUターンしようとした。
その時、都市部の中心から黒いドーム状の球体が発生したのが見えた。
「シンジっ!」
アスカが叫ぶ間に、黒い球体は巨大な風船のように膨らみ、瞬く間に第3新東京市の三分の一を呑み込んだ。
すでに抜き差しならない状況に足を踏み入れていることを、二人はこれまでのパイロット経験から理解した。間に合わないーそう感じながらも、シンジはUターンを終えた車のアクセルを限界まで踏み込もうとした。
そこまでだった。
さらに肥大化したドーム状の〝何か〟は、黒い壁となって二人の目前まで迫っていた。
「いやッ! シンジッ!」
アスカがシンジの左腕にしがみつく。シンジは咄嗟にアスカのシートベルトを外して、彼女を持ち上げるように抱き寄せた。
離すもんか……!
きつく、抱きすくめる。
「アス……!」
言葉も姿も、黒い壁に寸断される。
シンジとアスカは、車ごと漆黒の闇の中へ呑まれて消えた。
※
ー落ち着け。思考を止めるな。
深く深呼吸をして、シンジは前方を見据えた。
理屈は全くわからないが、あの黒いドーム状の物体にさらわれて、自分は3号機と対峙する時間まで戻された。
それが事実だ。今はそれ以外は考えるな。
そして、自分がプラグスーツを着て初号機のエントリープラグにいるということは、3号機にはアスカが取り込まれている可能性が高い。
そう。
問題なのは、ただその一点だけなのだ。
ー自分は、アスカを救い出せるのか?
「父さん!」
シンジは発令所のモニターウィンドウに向かって怒鳴った。
そこで違和感に気づく。
トップデッキの司令席。そこに父・碇ゲンドウはいなかった。そこに立っていたのは、葛城ミサトだったのである。
「何を言ってるの、シンジ君?」
ーそんな……⁉︎
ミサトさんは3号機の起動時の事故に巻き込まれて、ここにはいないはずじゃないのか⁉︎
「初号機パイロットのバイタルチェック。場合によってはアレの使用もありえるぞ」
ミサトの脇で直立していた冬月コウゾウの声が響く。
使徒と認定された3号機は目視確認できる位置まで近づきつつある。
シンジは大きく息を吸い込み、覚悟を決めた。
伊達に赤木博士の元で一ヶ月間あかしまのパイロットをやっていたわけではない。
「ミサトさん!」
「どうしたの、シンジ君」
「初号機、ダミーシステムが積んであるんですよね?」
「⁉︎ なぜそのことを⁉︎」
日向マコトが叫んだ。
「……そうよ。あなたが目標の破壊を躊躇するようなら、システムを起動しなきゃならないわ」
「マヤさん」
シンジの低い声に、伊吹マヤは動揺したように震えた。
「ダミープラグの全システムを、僕の神経回路を経由して初号機に接続してください」
「な……」
あかしまのオートパイロット化のために、ダミープラグの構造は全て調べた。やれるはずだ。
シンジは迫り来る第9の使徒を睨みつけた。
「暴走状態の初号機を制御して、3号機を迎撃する……!」