ーまた、これか……。
ハッとなって目を覚ました時、ネルフ本部医療室の見慣れた天井が視界に飛び込んできて、シンジは複雑な気持ちになった。
見知らぬはずの天井に、安堵する自分がいる。
右手のあたたかさを目で追う。
シンジの手を両手で握りしめながら、アスカがベッドサイドに突っ伏して眠り込んでいた。
ーずっと、傍にいてくれたのか……。
窓の外が明るい。
シンジが参号機鎮圧の後に気を失ってから、半日以上が経過していることは明らかだった。
「ん……」
上体を起こしたシンジがアスカの口元のよだれを指先で拭い終えた時、彼女は目を覚ました。
「シン、ジ……?」
アスカはぼんやりとシンジの顔を眺めた後、目を見開いて飛び起きた。
「! よかった、シン……」アスカよりも先に、シンジが彼女に抱きついた。「……ジ」
「よかった、アスカ。無事で……本当に、よかった」
シンジの瞳から溢れた涙が、頬を伝ってアスカの首筋をやさしく濡らした。
アスカはシンジの背中に両腕を回して、深く抱き寄せる。
「黒い球体に飲み込まれた後、気づいたら初号機に乗ってたんだ」
しばらく抱き合った後、二人は互いの置かれた状況を確認し合った。
「私も、おんなじようなもんね。目が覚めたら、格納庫の2号機の中で待機してた」
2号機は出撃していなかった?
「整備に不備があったとかで、待機になってたみたい。エコヒイキの零号機もおんなじだって。だから、使徒に乗っ取られた3号機の迎撃は、戦略自衛隊の支援を受けた初号機の単独任務だったみたいよ?」
言いながら、アスカは眉根を寄せる。本来は自分が被害者だったはずの3号機事件を蚊帳の外から眺めていたのだから、複雑な気分だろう。
「ねえ、シンジ。これってさ……?」
「うん。たぶん、僕もアスカと同じこと考えてる」
二人は頷き合った。
「この世界は、僕とアスカが過ごした時間軸とは別の世界だ」
この世界には複数の物語があるーマイナス宇宙という神の領域で見たその事実を、シンジは第3村での生活の中でアスカに話したことがあった。
セカンドインパクト後も青い海が広がる、別の世界。自分たちは、その物語のシンジとアスカとしてこの場所にいるのだと、二人は推測した。
つまり、ここは、碇シンジと〝惣流〟・アスカ・ラングレーの物語。
「私たち、別の世界に飛ばされたってこと?」
「正確には、違うと思う。僕らがいるこの場所は、あの黒い球体が呑み込んだ第3新東京市の中なんだ。そこで、別の時間軸の僕たちの世界が再現されてるだけなんだと思う」
アスカは理解し難いといった表情で眉をひそめた。
シンジ自身、突拍子もないことを言っているとは思うが、おそらく事実だ。
シンジは、3号機との戦闘中、侵食してきた使徒の意識の中にゴルゴダオブジェクトのイメージを垣間見たことを、アスカに話した。
「誰かがあの場所の力場を行使して、崩壊したはずの第3新東京市を復活させたんだ」
ゴルゴダオブジェクトは、記録のライブラリー、謂わば図書館だった。シンジがエヴァの消失を願ったあの時、同時にこの世界の形成を願った者がいたとしたら……?
「この第3新東京市は、巧妙に再現されたジオラマなんだと思う」
「でもそれじゃあ、人間や動物どころか、使徒まで再現されてるのはどういうわけ?」
「あの光の柱か黒いドーム状の球体が、別世界の録画映像を流している映写機だと考えれば、しっくりこない?」
しかも、その録画映像はひとつではなく、舞台だけが同一の複数の世界が同時に再生されているから、事象が重なったりずれたりしている。登場する人物や機体に差異があるのはそのためだ。
碇ゲンドウと碇ユイの不在が、この説に説得力を与えているとシンジは思った。
エヴァ消失の代償に魂ごと消滅した父と母は、この物語に参加していない。ゴルゴダオブジェクトのライブラリから存在自体が消えたためだ。サーバーからロストした人間はベースになるデータが存在しないから、複製できなかったのだろう。
ただ、再現されている人間も動物も、少なくともデジタルデータではなさそうだった。魂という不確かなものを、デジタルの中に保存することはできないはずだ。
ーじゃあ、僕とアスカが、もしこの世界で死んだらどうなる?
「私たちがこの世界に入り込んだのは、イレギュラーだったってこと?」
「僕らの存在がノイズなのかどうかは、まだわからない。でも、僕が阻止したことで、3号機は破壊されない世界線になった」
シンジは、富士の演習場で赤木博士に提出したゴルゴダオブジェクトとイマジナリーについてのレポートを思い出していた。
本来、この時間軸でエヴァ参号機のパイロットだったトウジは、ダミープラグで暴走した初号機によって処理され、片脚を失う重症を負っていたはずだ。シンジがトウジを救出したことで、そのシナリオは書き換えられた。
「僕とアスカの存在が特異点なんだとしたら、これから起こる出来事は、僕らの行動次第で変えられることになる」
むしろ、この世界を作った人物はそれを望んでいるように、シンジには感じられた。
他にも、考えなければならないことは山ほどある。
そもそも、これが本当にトウジがエヴァのパイロットだった世界線なら、安心してはいられない。
次に襲来する使徒。
やがて訪れる加持さんの死。
最後のシ者、カヲル君。
そしてー。
九体の白いエヴァ。
あの神の領域で、別世界のアスカがエヴァの量産機に駆逐される映像をシンジは確かに見た。あの残酷な光景だけは、何があっても回避しなければならない。
この世界の中で、唯一リアルなのは、アスカだけだ。
彼女を守り切る。
自分の命に変えてもー。
シンジは目的を自分の中心に固定した。
「シンジ……」
アスカはシンジの顔を一点に見つめた。
「あのダミーシステムってやつ、これからは使用禁止ね」
う……とシンジは言葉に詰まる。
「私の気持ち、わかる? 目が覚めたらエントリープラグの中に閉じ込められてて、発令所に飛び込んだら、シンジが死にかけてて……」
アスカの目尻から、涙が一筋、流れて消えた。
「ごめんね、アスカ。また、独りぼっちにしそうになって、ホントにごめん」
シンジはアスカの頬を手の平でやさしくなでた。
見つめ合う、二人の瞳が揺れる。
十四歳のアスカも、シンジはたまらなく愛おしいかった。
アスカがそっと両目を閉じ、顔をほんの少し上へ向ける。
シンジはアスカを抱き寄せながら、唇を近づけて……。
「みーちゃったぁみぃーちゃった♪」
入口からミサトの声が響いて、シンジとアスカは慌てて顔を離した。
二人同時にバッと入口の方へ顔を向けると、口元に手を当てながらいやらしく目尻を下げたミサトと呆れ顔の赤木リツコ博士が立っていた。
リツコの頭には包帯が巻かれている。
「いつの間にそんな仲になったのかは知らないけど、そういうことは職場じゃなくて家でやんなさい」
ミサトは朗らかな調子で言った。「あ、でも、家でやられたら私が困るわね」
「ミサトさん!」
シンジが顔を綻ばせる様子に、アスカは思わず目を細めた。シンジとミサトには、姉弟のような結びつきがある。
「元気そうでよかったわ、シンジ君」
ベッドサイドまで来たミサトがシンジを深く胸元に抱き寄せたので、二人は途端に面食らった。
大人になったシンジだからわかる。
ミサトからは、いい匂いがした。
「いい大人がなにやってんのよ、ミサト!」
アスカは、ミサトと彼女の胸の谷間でふがふがと声を荒げているシンジの間に両腕を差し込むと、肘鉄をする要領で二人を引き離した。
強烈な力で額にアスカの肘がめり込み、シンジは悲鳴を上げた。鼻息荒く睨めつけてくるアスカの獣のような視線が痛い。
「え〜私だって心配したんだから、ハグくらいいいじゃない」
「葛城司令、ここは職場です。未成年へのセクハラで降格処分にするわよ」
後ろで控えていた赤木リツコが冷ややかなため息をもらす。
「悪いけど、業務連絡よ。シンジ君の精密検査が終わったら、二人ともブリーフィングに参加してもらいます」
「MAGIから、先の参号機との戦闘でエヴァの装備の惰弱性が指摘されたわ。兵装のアップデートプランについて、パイロットであるあなたたちからも意見がもらいたいの」
「アップデートプランって……?」
「いわゆる、新兵器ってやつね」
やはり、シナリオは狂い始めている。
シンジとアスカは同時に頷いた。
※
参号機パイロット、鈴原トウジの容態は安定しており、全身に軽い打撲はあったが、大事に至るような外傷はなかった。パイロットの精神汚染も懸念されたが、脳波にも異常は見られなかった。そもそもエントリープラグ自体、使徒に寄生されていなかったらしい。
参号機に取り憑いた第十三使徒ー通称バルディエルは、初号機に頭部を破壊された段階で絶命、消失した。
それらの報告をブリーフィングで受けた時、シンジは小さな違和感を感じたが、その正体には辿り着けなかった。
シンジ自身にも、胸部に火傷のような裂傷が残ってはいるものの、それ以外に大きな外傷はない。あれだけダミーシステムと使徒に侵食されたのにもかかわらず、精神面での後遺症もなかった。
母のいない初号機が動き、弐号機と零号機は待機していたため、アスカも綾波レイも無傷だ。
何かがおかしい。
都合が良すぎる。
だがそれは、誰にとっての都合だろう?
シンジはひとつだけ、アスカに言わなかったことがある。
この世界の中心は。
この世界を望んだ犯人は。
ー僕なんじゃないのか?