「シンジ、ほら、ボタンかけ間違えてる」
「ごめん、アスカ」
アスカはため息をつきながら、シンジのワイシャツのボタンを付け直した。ついでによれている襟元も直す。
「ホント、あんたって、私がいないとダメなんだから」
そう言いながら、アスカは明らかにうれしそうだ。
いつかの朝を、シンジは思い出す。ひとつ残念なのは、ここがミサトのマンションの玄関ではなく、ネルフ本部医療室だということだろう。
結局、シンジの入院は三日間に及んだ。バルディエル鎮圧直後、シンジが参号機のパイロットをアスカだと言い張ったことで、脳を中心に行われた精密検査が長引いたのである。トウジは二日前に退院しており、ようやく異常なしを言い渡されたシンジは、本部からそのまま学校へ登校することになったのだった。
「じゃあ、荷物は葛城司令に預けておくわね」
入口で待機していた伊吹マヤが、ベッド脇のボストンバックに視線をやった。
「すいません、マヤさん。お願いします」
「いいのよ。どうせ葛城司令の車の中なんて缶ビールだらけなんだから、たまには家人の手伝いをさせればいいんだわ」
厳しいマヤの一言に、シンジは苦笑する。
司令と聞くと、父・ゲンドウの厳粛な姿が頭に浮かぶが、葛城ミサトは司令官になっても部下にフランクに愛されているらしい。
「行こ、シンジ」
アスカに手を引かれて、シンジは病室を後にした。
学校の門を潜り、教室に入ってからも、シンジは気持ちが落ち着かなかった。
見慣れた自分の席、クラスメイトたちの喧騒。
失ったはずのものが、確かに目の前に存在している。
「変な感じよね、やっぱり」
アスカは腕組みをしながら呟いた。
「アスカはもう慣れたの?」
彼女はシンジが入院中もミサトの家から通学していたはずだ。
「まぁね。まさかこの年になってもっかい学生生活やり直すなんて思わなかった」
話しながら、アスカは教室に入ってくるクラスメイトへしきりに手を振っていた。
社交的な彼女の姿に、シンジは驚く。
年甲斐もなくーとは、シンジは思わない。アスカは、やり直しているのだ。
僕のせいで失った、青春時代を……。
衝撃は続く。アスカは、教室に入ってきた綾波レイにも声をかけていた。
「おはよう、優等生」
しかし嫌味な物言いは変わっておらず、そこになぜかシンジは安心してしまった。
レイはアスカを一瞥しただけで素通りしたが、シンジの前では足を止めた。
「おはよう、碇君」
「え? あ、おはよう」
見なくてもわかるが、アスカの針のような視線が顔の横からグサグサ刺さる。
レイはそのまま窓際の自分の席に着いた。
「あんたにだけ挨拶するなんて、変わんないわよね、エコヒイキも」
「怒らないなんて、すごいよ、アスカは。大人になったね」
パカン、とアスカはシンジの頭をはたいた。
「あたっ」
「なーんか、久しぶりに、ナマイキっ! て感じ」
シンジがアスカに言いくるめられているうちに、今度は鈴原トウジと相田ケンスケが教室に入ってきた。
「おう! センセ」
「おはよう、碇」
本当に、あの頃の二人だ。
シンジは、胸が締めつけられるのを感じた。
トウジはずんずん歩いてくると、シンジをガバッと両手で抱き締めた。
「うえ⁉︎」
「ホンマに、世話かけてすまんかったな。おかげで、また命拾いしたわ」
「いや、あれは……ただ、夢中だっただけで。でも、トウジが無事で、ホントによかったよ」
「センセの復帰祝いや。今日の昼飯は、ワシとケンスケに奢らせてくれ」
「え? オレも?」とケンスケ。
「当たり前や! 万年金欠やねんぞ、ワシ」
「自慢して言うこと、それ? まぁ、碇に奢ってあげるっていうのは賛成だけど」
「ちょっと、3バカトリオ」
腕組みをしたアスカが割って入った。
「バカシンジは、今日は退院祝いに私と食べるんだから、ダメよ。だいたい、鈴原のバカはヒカリのお弁当があるでしょうが」
アスカは親指を立てて後方を指差した。それに気づいたヒカリが、頬を赤らめて照れ笑いを浮かべている。
「アホ抜かせ。ワシらの友情が女子供に止められるかい」
「うっわ、前時代的でサイテー。ヒカリ、こんなやつとなんで結婚なんてしたのかしら」
「なんや? ケッコン?」
「なんでもないわよ。とにかく、だめったら、ダメ!」
「いつもはギャーギャー痴話喧嘩しとるくせに、今日はえらい食い下がりよんなぁ。なんやアレか、二人とも実はデキとるんか?」
「アスカもトウジも、そろそろやめ……んん⁉︎」
シンジは二の句を告げず、目を大きく見開いた。
腰をかがめたアスカが、シンジの唇にキスをしたからである。
「ん……」
アスカのくちづけは甘くやわらかで、マシュマロのようだった。
たっぷり五秒間唇を重ねた後、アスカはゆっくりとー名残惜しそうにシンジから顔を離した。
「……こういう関係だけど、なんか文句ある?」
シンジは氷のように固まって動けない。
一瞬の静寂の後。
「ふ、不潔よ! アスカ!」
ヒカリの叫び声を皮切りに、教室中からわっと歓声が上がった。
「な、なんちゅう……」
「いや〜んな感じっ!」
アスカは胸を張って腰に手を当てているが、少し恥ずかしそうだった。
窓際の席で、目が点になったレイが口を三角形にしてシンジとアスカを見つめていることに気づいている人間はいなかった。
「これでわかったでしょ? 恋人同士でご飯食べるなんて当たり前……あたっ!」
ポカン、という音が後頭部に響いて、アスカは後ろを振り返った。
そこには、平手をフルスイングした後のレイが立っていた。叩いたレイ自身が一番驚いているようだった。
「えっちなのはいけないと思う」
「ほほぅ……」
アスカが細めた両目を吊り上げ、これ見よがしに両手の拳をボキボキと鳴らした。
「あんたにそんな一面があったとは驚きだわ。いい機会だから、この際どっちがシンジに相応しいか、白黒はっきりさせようじゃないの」
「ちょっと、アスカ! 朝っぱらから何考えてんのよ! ……って、碇くん⁉︎」
アスカの腕にしがみついたヒカリが、鼻血を流しながらアスカを一点見つめしているシンジに気づいて、小さな悲鳴を上げた。
ーみんなの前で、アスカとキスしてしまった……。
シチュエーションの変化が精神に与える影響は計り知れない。十四歳のアスカにキスしてもらったということがこれほど胸をときめかせるという事実に、シンジは驚きを隠せなかった。
やっぱり、僕は、やり直したかったのか?
「ちょ、大丈夫、シンジ⁉︎ いたっ」
アスカがシンジの方を振り向いた瞬間、レイが放ったチョップがズビシとアスカの側頭部に炸裂した。
「エコヒイキぃーっ!」
アスカとレイが揉み合いになり、教室は一時お祭り騒ぎになった。
「あ……」
レイの右ストレートをアスカが避けると、それがそのままシンジの頬に直撃して、シンジは流れたままの鼻血を床に撒き散らして倒れ伏した。
「お前ら、ええかげんにせぇ!」
「あ……」
仲裁に飛び込んだトウジの鼻先にアスカが振り回した肘が激突し、白目を剥いたトウジがシンジの上に倒れ込む。
「きゃあぁぁー鈴原!」
一人着席したケンスケは、机に頬杖をつきながらふっと笑みをもらした。
「平和だねぇ」
ーなんだか、色々あったな……。
自室の中央に布団を敷きながら、シンジはようやく一息ついた。
今日は大事をとって療養するように言われていたので、学校が終わったらまっすぐミサトのマンションに帰宅した。アスカと立ち寄ったスーパーで買った食材で、夕食にオムライスと簡単なスープを作った。今日は早く帰れたというミサトが夕方には帰宅して、みんなで夕食を食べながら、アスカと二人、缶ビールをグビグビ煽るミサトとペンペンの光景を懐かしく眺めていた。食べる物があり、好きな時にシャワーを浴びることができる。その環境が、シンジとアスカにはありがたかった。
ただ、全てがあの頃と同じというわけではなかった。自分の部屋の家具や床に放置してある雑誌の種類は異なっていたし、カラーボックスの着替えの中には「平常心」などという言葉がデカデカとプリントされた、見覚えのないタンクトップが入っていた。
最もシンジが驚愕したのは、本棚の奥にコンドームの箱が隠してあったことである。
「いィ……⁉︎」
さらに驚いたのは、その避妊具の箱は開封されて、数回使用された形跡があることだった。
「え? へ? えぇ⁉︎」
中学生の、僕が⁉︎
誰と……⁉︎
その答えがひとつしかないことをシンジは理解していたが、さすがにアスカには言えなかった。
ー学校、楽しかったな。
電気を消し、布団の上で横になりながら、シンジの口元は自然と綻んだ。
忘れていたなんでもない日常が、そこにはあった。
今日一日、シンジはここが自分の本当の世界ではないことを確かに忘れていた。
うとうととまどろんでいると、入口の引き戸を誰かが開ける気配があった。
なんだか鼻先に、いい匂いがする。
目を開いて、シンジは一気に目が覚めた。自分の傍で横になったアスカの顔が目の前にあったからだ。
「あ、アスカ⁉︎」
「しぃ……。大きい声だめ。ミサト起きちゃうわよ」
たしなめられて、シンジは声のトーンを落とす。目線を下げた先に、はだけたシャツの隙間からアスカの胸の谷間が見えて、シンジは思わず腰を引いた。だが、アスカがぴったりと体をすり寄せてきたので、その努力は無駄になってしまった。
「ど、どうしたの?」
「どうって……夜這い?」
アスカはシンジの額から頬にかけて、わざと音を立ててキスを繰り返した。唇を避けているのは、本命のキスはお前の方からしろという合図だろう。
「アスカ、ん……」アスカの指先がシャツ越しにシンジの胸に触れて、シンジは身悶えした。
「こっちに来てからずっと、機嫌がいいみたい」
「だって……」
うなじにちろちろと舌を這わせていたアスカは、頬を赤く染めながら上目遣いにシンジを見た。
「シンジ、『アスカを返せ』って……」
シンジはポッと顔を赤らめた。
そういえば、参号機からエントリープラグを脱出させる時、無我夢中で叫んでいた。
「でも、いいのかな」
同一でも、これは別人の身体だ。
「こっちの私とシンジも、お盛んだったみたいだけど?」
アスカはいよいよ、シンジの唇の端をなめ始めた。
どうやら、アスカも本棚の奥の〝秘密〟を見たらしい。
「アスカ……」
「ん……」
シンジがやわらかなくちづけで唇を塞ぐと、アスカはシンジの頭をなでながら、さらに深く彼を抱き寄せた。
数回のキスの後、シンジはアスカにやさしく覆い被さった。
あまりの幸福感に、二人重なったまま、溶けてしまいそうだった。
※
第三新東京市の外れ。
市内を一望できるドライブウェイの頂上付近、道路脇の側溝に小型の無線機が落ちている。
誰にも可視できない黒い球体との境界線の、ほんのわずかな内側で、その無線機は定期的に赤い受信ランプを明滅させていた。
《こちら、ヴィレ所属の伊吹マヤです。シンジ君、アスカ、聞こえていたら応答願います。こちら、ヴィレ所属の……》
MIAへの一縷の望みをかけた定期連絡は、この数日間そのシグナルを鳴らし続けていた。