すっかり暗くなってしまった住宅街を走る。
今日は珍しくノアが早く帰って来れそうとモモトークで送ってきていたからこちらも早く帰ろうとしていたところだったのだが、次々舞い込んでくる仕事を何とか捌き切ったのが20分ほど前だった。
学校の近くにある有名洋菓子店で予約していた少し大きめのタルトを受け取って来たこともあって自宅に着くまでの時間はいつもよりも少し遅れ気味だ。
【生塩・天音】と彫られた表札が埋め込まれた門を通り抜けて指紋認証式のドアロックを解除して我が家に帰宅した。
「ごめんノア!遅くなった!」
「お帰りなさいミナトくん。そんなに急いで帰ってこなくてもよかったんですよ?」
ドアロックの音で帰って来たことに気がついたのか、リビングへと続く扉から苦笑いのノアが玄関まで出迎えてくれる。
外出時に着けているヘッドギアが外されていることから帰って来てから時間が経っていることもわかった。
「せっかく早く帰ってこれるって言うから俺も急いで帰ってこようと思ったんだけど、今日に限って処理する書類がバカみたいに舞い込んできて」
「キヴォトス全土の司法を司る学園ですからね。そんな日があるのも仕方ないです。寧ろミナトくんがいつも私よりも早く帰ってこれることが不思議です」
「そこはほら、ミレニアムまでの距離があるから。俺は走って20分ちょっとの距離だからね」
脱いだ靴を綺麗に並べてノアが普段着ているジャケットの横に自分のジャケットを掛けて洗面所へと向かう。
手洗いとうがいをサッと済ませて、買って来たケーキを冷蔵庫の中に仕舞う。
「帰りに
「わあっ!
「だと思った。前に早瀬さんと食べてみたいって話もしてたでしょ?結構大きいタルトだから切り分けて幾つか持っていくといいよ」
「それじゃあ、明日の午後のおやつに三つ持っていかないとですね。ユウカちゃんとコユキちゃんも喜びます♪」
いつもよりも3割り増しくらいの機嫌の良さだろうか。
あのノアが鼻歌まで唄いながら準備していた夕飯の仕上げをしてくれているのだから。
「今日は早く帰ってこれたのでミナトくんの好きなグラタンにしたんです。あとはオーブンで焼くだけですからコーヒーでも飲んで待っていましょうか」
「じゃあコーヒーは俺が淹れるね。ノアの作るグラタンは本当に好きだから嬉しいよ」
「ふふっ、せっかくなら出来立てがいいですからね。あとは焼けばいいだけにしてて良かったです♪」
ノアがオーブンにグラタン皿を2人分入れて焼き始めた隣で2人分のコーヒーの抽出を始める。
「それにしてもノアが早く帰ってこれるのは本当に珍しいけど、何かあったの?」
「特に何かあったわけじゃないんですけど……どういうわけか今日は業務内容が本当に少なくて。こんな機会も滅多に無いし早く帰っちゃおう、という感じで」
「へぇ……そんなの年に何回あるかわかんないような奇跡じゃない?」
「そうですねぇ……ミレニアムも何かとトラブルが絶えない学校ですし、書記の私が走り回ることも少なく無いですから……あっ、ミナトくんちょうどいい量の抽出が終わりましたよ」
「本当だ、このコーヒーメーカーも買って良かったよね。コーヒーは毎日飲むわけだし美味しいコーヒーを淹れてくれて長持ちもするっていうんだから流石ミレニアム製だ」
お揃いのマグカップに半分づつくらいのコーヒーを注いで後10分くらいで焼けるグラタンを待ちながらマグに口をつける。
何度か口をつけてすっきりとした余韻に浸りながらほんの少しだけの沈黙が流れる。
「平日のこの時間に2人でゆっくりしてるのって久しぶりですね」
「本当にねぇ。大体ノアが帰ってくるのって22時過ぎだし……下手したら帰ってこないこともしばしばあるから」
「私だって出来るだけ帰りたいんですけどね。学校に残ってると睡眠時間もまともに取れないことも多いですし……食事もどうしても購買や食堂のものになるので」
「出来れば家でゆっくり食べたいよね……今日みたいに2人でさ」
「ほんとうに、そう思います」
グラタンが出来上がるまでそうやってゆっくりと話して、オーブンから軽い電子音が鳴ったのと同時にミトンを手につける。
「あっ、私がやるからいいですよ?」
「いーの。ここまでやってくれたんだから熱いの運ぶくらいはね」
「そういうことならお任せしますね」
両手にグラタンを持って、ノアが用意してくれた木製の下敷きの上にそれぞれのグラタンを置く。
「そういえばこの間ミナトくんが持ってきてくれた トリニティ産のシャルドネジュースがありましたね」
「確かにあったけど、スパークリングじゃなかったかな」
「なんだか“それっぽくて”いいじゃないですか?暖かいグラタンに上質なシャルドネなんてなかなか出来ません♪」
「それもそっか、それじゃあ開けちゃおう」
すぐにノアが瓶を取りに向かって、せっかくならグラスも少しいいものを使おうと酔狂で購入していたワイングラスを用意する。
「忘れていましたけど、カベルネジュースもあったんですね」
「あれも確かトリニティに行った時にもらったんだったかな。なんでも今年は豊作で質のいいジュースができやすいんだとか」
「へぇ〜?お相手は桐藤さんですか?」
「そうだけど、お互いに他意はないよ。あの子には聖園さんがいるからね。それにこちらからもお土産は持っていっているし」
学園間の交流、しかも生徒会同士ともなればお互いにお土産の一つでも持っていくし持たせるだろう。
「それよりも早く食べよう、せっかくのグラタンが冷めちゃう」
「むっ、ちょっと誤魔化そうとしてませんか?まあ、今日は機嫌がいいので許してあげますけど」
「それはよかった。俺がノア以外に恋愛的な好意を向けることはないから安心してくれていいよ」
「まったくもう、そういうところですよ?」
ノアが瓶の栓を抜いて用意しておいたグラスにジュースを注ぐ。
白ぶどうの芳醇な香りが鼻を抜けるようで思わず感嘆の声が漏れた。
「いい香りですね、流石はトリニティの高級ジュースです」
「貰い物じゃないと飲むことなんてないだろうしね。今日みたいな日じゃないと開けたりもしないだろうしちょうど良かった」
食卓についてグラタンを前にいてもたってもいられなくなる。
なにせ、彼女の作る料理の中で一番好きな食べ物なのだ。
はやる気持ちを抑えてノアと一緒に手を合わせる。
「「いただきます」」
フォークをグラタンに差し込み、マカロニをいくつか刺さったのを確認してホワイトソースから取り出せば表面の焼けたチーズがマカロニに絡まってマカロニが皿から離れても離すまいと伸びてくる。
フォークを2、3回転させてチーズを切り、軽く息を吹きかけて冷ましてからフォークを口に移動する。
表面のチーズのカリカリっとした食感に続いてマカロニの柔らかい食感がクセになる。
ホワイトソースは溶けたチーズも合わさってミルキーでありながら濃厚な口溶けがフォークを次々進ませた。
「ミナトくんは本当にグラタンが好きですね?」
「ノアの作るグラタンだから好きなの」
「ふふっ、嬉しいことを言ってくれますね」
軽い雑談なんかを交えて、夕食を終えれば買ってきたタルトを切り分けて食後のデザートを楽しむ。
「
「一回聴いた事があるんだけど、なんでもチェーン店にするとケーキの味が落ちるからってさ。あそこ家族経営の店だし、あそこの後継の子もうちの生徒だしね。他の自治区に出すつもりはないとか」
「使っているフルーツも一級品ばかりですし、仕方ないといえば仕方ないですね……わがままを言えばミレニアムにも欲しいなって」
「それは他の自治区でもよく聞くよ。ここのケーキやタルトを持っていくと喜んでくれるしね。他の学校へのお土産にはもってこいだ」
サクサクのタルト生地の上にたっぷり乗ったフルーツを口いっぱいに頬張る。
学校の生徒会なんかでもう食べ慣れた味ではあるがいつ食べても変わらない美味しさと幸福感に満たされる。
生徒会に所属してからというもの、ここのケーキはほぼ毎日食べていることもあって店内に売っている商品の完全網羅は勿論のこと、試作品の試食まで持たせてくれるのだ。
「……そういえば試作品の紅芋のモンブラン、美味しかったな」
「紅芋のモンブラン、ですか」
「うん、
「私も食べたいです」
「商品化したらちゃんと買ってくるよ」
「約束ですよ?本当ですからね?」
目の前のタルトを頬張りながら次のケーキのお願いをしてくるノアに癒されたりなんかして、あっという間に時間は経っていく。
「そう言えば再来月はエデン条約締結があるんだっけか」
「そうですね。ゲヘナとトリニティの和平条約……締結できれば本当に素晴らしいことだとは思います」
「だね、俺も現地に行って調印式に参加しないといけないから他人事ではないんだけど……よかったらノアも一緒に行って調印式が終わり次第トリニティ観光でもする?」
「いいですね、ではその日のデートは楽しみにしておきます♪」
「期待しててよ、しっかりエスコートしてあげるから」
「楽しみにしてます♪」
来るエデン条約の調印式。
2人にとっては別の意味で楽しみが増えたようだった。
その後もトリニティの観光雑誌やスイーツ雑誌なんかを2人で眺めて夜は耽っていった。