上鳴電気は普通の3歳児だった。
よく食べ、よく眠り、よく遊ぶ。明るく元気があって友達も多い。たまにデリカシーのない発言をして喧嘩になりかける時もあったが、自分が原因であると素直に認められる性根をしているから大事に至った事はない。
容姿に関しても標準以上。少し目つきが鋭いが、それも見方によっては魅力と映る範囲。
家庭環境に目立つ点もない。普通の両親がいて、一般的な躾を受けている。
両親が持つ個性*1は人間社会に欠かせない”電気”に関するもの。将来は安泰と言えた。
おおよそ人が羨む要素を多く抱えながら、欠点らしい物を持ち合わせていない優等生。それが上鳴電気という少年だった。
だが、4歳の誕生日を迎える直前に”事故”が起きた。
個性はそれが人類に宿り始めた時期を除き、ほぼ100%が4歳までに発現する。
上鳴電気も例に漏れず、誕生日を迎える1月前に電気エネルギーを纏う個性”帯電”を発現した。
「おおっ! すげぇ!」
自分の身体から溢れ出る力に興奮した。
同年代の子供たちよりかなり遅く発現したこと、そして両親と同じ所謂”勝ち組”や”良個性”と呼ばれる力であったことがそれに拍車をかけた。
そして、どこまで電気エネルギーを放出できるのか? という単純な疑問に「取り敢えずぶっ放すか」という思考に幼児が行き着くのは当然と言えば当然だった。
「よーし!」
庭で自分の息子が意気揚々と個性の出力を上げ始めたのを見た母は絶叫した。
「電気、待ちなさい!」
制止の声も虚しく、上鳴電気は自分の個性に耐え切れずに丸焦げになり救急車で搬送された。
搬送先で最先端医療と個性治療を受けた上鳴は病室で意識を取り戻した。
その瞬間、上鳴電気の脳内に溢れ出した───存在しない記憶。
それはこの世界がいつか迎える破局の瀬戸際だった。
崩壊した街並み。
我が物顔で廃墟と化した国を闊歩する悪党。
穏やかな日常を奪われ、責任を擦りつけ合う民衆。
激化する秩序と悪のぶつかり合い。
決戦の舞台に選ばれた母校が空を舞い、それを動かすための人間動力として電気を供給する自分。
それを───漫画で読んでいるもう1人の
自分と定義できる物が2つあり、片方は創作物でもう片方は読者という違和感。
「ゔぉぇ」
自分とは何か。
今を生きる上鳴電気なのか。
創作の上鳴電気なのか。
漫画を読んでいた青年なのか。
世界とは何か。
今生きている現実なのか。
創作の世界なのか。
自他を分ける全ての境界が曖昧になり、崩れていくような絶望感。
込み上げてきた吐き気を堪えることができず、そのまま出した。
「ぐっ!? あたまがっ」
熱を帯び始めた頭が鈍器で殴りつけられたような激しい痛みを訴え始めたタイミングで、上鳴は再び意識を手放した。
そして、次に目を覚ましたのは深夜の病室。
頭に奔る痛みも意識を失う前に比べると幾分かマシになっていた。
上鳴が辺りを見回すと、付き添いで泊まり込んでいた母がベッドの側で穏やかに寝息を立てていた。
───違和感。
幼児は皆一様に母を愛している。
倒れる前の上鳴電気も例に漏れない。
虐待を受けていても母から離れようとしない子供がいるのは、辛い記憶よりもほんの一握りの幸せな記憶が上回るからだという。普通の生活と愛情を受けてきた幼児が親を嫌う理由など存在しない。
───違和感。
だが、母を見ても何も感じない。
そこに人がいる。
女の人である。
自分と血縁関係がある。
そんな事実を冷静に思い浮かべ、少年は思った。
「ああ、頭イカれちまったんだな」
母であることはわかる───だが心のどこかで母はこの人じゃないと思っている自分を感じる。それが青年の記憶によるものだと、少年は直ぐに当たりをつけた。
唇を噛み、頭を掻きむしる。
胸の内側が騒ついてじっとしていられない。
少年は音を立てないように気を遣いながらベッドから降り、静かに病室から抜け出した。
常夜灯だけが点いた真っ暗な廊下を抜け、階段を上へ上へと登っていく。
そして屋上へと続く扉の前に立ち、施錠忘れで開いていたそこから外へ出た。
瞬間、湿気を帯びた温い風が少年の頬を撫でた。
夜空には分厚い雲が掛かっており、星や月を見る事はできない。
少年は屋上の端まで歩いてフェンスから夜の街並みを見た。
「……これが全部フィクションってか?」
少年の両目に映る電光は人々の営みそのものだ。それを作り物だと割り切ることは少年にはできなかった。
存在しない記憶を見た少年は最早、それまでの上鳴電気ではない。青年が見て、やって、感じた知識と経験の全てが上鳴電気という少年の中に混ざっている。
だが青年の記憶が人格まで上書きした訳ではない。今の少年は上鳴電気であり、青年でもあるという非常に曖昧な状態だ。その為、物事の捉え方は2種類。記憶を見て考えることも2種類。どちらかを選べばもう片方を捨てることにもなり───どちらかの存在否定へ繋がる。
青年の存在を認めれば上鳴電気は空想の人間になり、上鳴電気に主を置けば青年の存在は説明が付かない幻覚のようになるだろう。青年の記憶や経験を有する少年にとって、自分の中に消えない幻覚が残り続けるのは避けたい。しかしそれを認めれば今視界に映る全てが虚構に成り下がる。
結果、自分という存在が揺らぐ。
フェンスの網目を握り込み支えにしながら、少年は眩暈を耐えた。
胸の辺りに感じるむかつき。
腹の奥にある不快感。
熱を帯びて思考を妨げる頭の痛み。
次から次へと湧き出る悪感情。
「いっそ、死んじまったら楽になれるのかな」
身長が足りずフェンスの先にある階下を覗き見ることは叶わない。だが知識として知らなくても理解できる。フェンスを乗り越えた先から飛べば、楽になれる───そう思った瞬間。
『どちらもありうる……そんだけだ』
天啓のように言葉が脳裏を過り、稲妻となって少年の全身を駆け抜けていった。
「そうか」
別にどちらでもいいんじゃないかと、上鳴電気生来の楽観的な部分が顔を出した。
「……そうだな」
世界五分前仮説という思考実験があるように、似たようなことは古来より考えられてきた。そしてそれは「証明もできないが否定もできない」という分かりきったことから、別の問い掛けへと繋がるだけだ───青年としての知識が、脳裏を過った言葉を補強する。
”どちらもありうる”
その言葉が魔法のように悩みを吹き飛ばした。
「なんでこんな事で悩んでたんだ……?」
少年は考えるのを辞めた。
それだけで良かった。否、それが全てだった。
分からない問題について悩み考え続けるのは不毛であると割り切る。入試で分からない問いを避けて分かる所から解いていくのと同じことだ。
「うーん。何か頭スッキリしてきた。というかこれ、前世の記憶とかか? いや絶対そうだ」
フェンスから離れ、病室に戻るために来た道を引き返しながらぶつぶつと少年は呟いた。
「にしてもあと12年もしたら世紀末かぁ……」
指先に電気を纏い、少年は笑った。
「分かってるならやるしかねぇな」
歯を剥き出しにして、少年は笑った。
───その後、少年は病室から抜け出したことがバレてしこたま怒られた。