始末屋The Pale Rider   作:グレイソン

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第一話

 深い夜の事だった。強い雨が降り付けており、街は雨音に支配されていた。

 大通りから少し離れた路地裏に、雨粒とは違う不規則な音が響いていた。それはもつれたステップで踊るように、濡れたアスファルトを踏み叩く音だ。

 出処は老齢も半ばに入った頃合いの男性だった。荒い息を吐き出しながら、かつては値が張っていたであろうスーツで包んだ大きな腹を震わせて、せわしなく足を動かしている。彼の形相は必死そのものであった。まるで何かに追われ、逃れるように。

 いや、彼は正に今、追われているのだ――その命を狙う何者かに。

 老人はいわゆる闇金業者を取り仕切るオーナーだった。傘下の賭場で客から金を巻き上げては困窮した連中を生み出し、それらを相手に暴利での貸付や違法な取立てを行い、返済出来ないとなると人身売買や臓器売買に出て、間接的にだが人をも殺す。そんな組織のトップだった。だからこそ、常日頃から報復には備えていたし、また万全の態勢であると自信を持っていた。金やコネに物を言わせて、退役した陸上自衛隊員のみならず、米海兵隊やフランス外人部隊上がりの戦闘狂な傭兵達で揃えたツワモノどもを雇い、近代火器と装具を配備して、最強の私兵兼護衛としていたからだ。

 しかし、今の自分はどうだろうか? 老人は泥だらけの濡れ鼠な姿を見て思った。それだけのモノを顎で使える立場にありながら、全くもって相応しいとはいえない有り様――威厳も余裕も感じられない無様な体たらくで、地を這いずり転げ回るように逃げ続けている。それもこれも全ては奴の――万全だったはずの警護陣をたった一人でいとも容易く壊滅させた男の所為だ。

 背後に迫った気配に、老人は足を止めずに振り向いた。暗がりが続くだけで何も居ないが、しかしどこからか絶えず風にはためく音が響いている。奴の着込んだあのコートが、水を含んで重々しい音を立て、派手に翻っているのだ。彼は悟った。一寸先の暗闇の向こう――もうすぐそこまで追って来ている。

 老人は出来得る限りの力で速度を上げた。弛んだ肉体が脈打つかのように、一層強く震える。しかし、彼の恐怖から来る震えはそんな物の比にはならない。足がすくんでもつれてしまうが、本能的な危機感で無理矢理体を突き動かしていく。

 何度も角を曲がり、幾度も転びかけながら立て直し、まるで迷宮のようにも思えるビルの狭間を、老人は走り続けた。ひたすらに、狂えるように、懸命に……。

 やがて眼前に、薄らと極彩色の電飾の光が差し込み、老人は表通りがもう間近なのだと悟った。耳を澄ませば、雨音に紛れて、夜更けだと言うのに未だ姦しい喧騒が聞こえてくる。

 あと一息だ、もうすぐだ。そうすれば人混みに紛れて逃げられる。如何な奴だって衆人環視の中で騒ぎを起こしたくはないはずだし、邪魔だからと言って片っ端から殺して回るほどの余裕も愚かさも持たないはずだ。そう思うと同時に、老人は背後の気配が失せている事にも気が付いた。

 歩みを止めて振り返り、確認する。そこには変わらずただ風が吹き抜けるだけで、矢張り誰の姿も見えない。しかし、明らかに先程までの空気と違う。

――そうだ、音だ。あの迫り来る、はためく音がしないのだ。

 撒いたのだろうか? 溜息を一つ深く吐き出して、彼は思う。いや、きっとそうに違いない。影も形も無ければ、微塵も欠片も気配が無いのだから。恐らくは通りがもう間近と知り、流石に間に合わないと悟って諦めたのだろう。

「や、やったぞ……!」老人は思わず笑みを漏らしながら呟き、握り拳を小さくもたげて喜びを噛み締めた。全力を尽くした甲斐があった。いや、生死が掛かっている以上、全力を尽くさない道も無いが、ともかく諦めなかった者の勝利だ。「なぁにが死の騎士だ……ふざけやがって……」

 安心しきって悪態をつきながら、彼は表通りへと歩き出そうとした。通りに出たら現在地を確認して社に連絡し、待機中の護衛と合流しよう。走りながらでは携帯電話を弄るなんて余裕などなかったし、自分が今どこにいるのかなんて把握している暇も無かったが、追手が消えた今ならそれもゆっくりと処理出来る。護衛の数も倍以上に増員すれば、敵も如何に凄腕とは言え、そう簡単には手出し出来ないだろう。それから、買収してある警官たちを総動員させて奴の居場所と正体を突き止め、報復にこちらから仕掛けてやるのだ。追い掛け回された分、惨たらしく痛め付けて殺してやらねば気が済まない。体を引き裂いて、取り出した臓器は派手に高く売り捌いて酒のつまみにでも変えてやる……。

 そうして正面へと目を向けて、この暗く陰鬱とした空間や状況から抜け出ようとした時、彼は絶句と共に固まる事となった。

「まぁまぁ待て待て、そう慌てなさんなよ」くぐもった低い男性の声がして、彼の目の前に、一つの影が舞い降りた。落着と同時に水飛沫が派手に舞う。薄明かりを乱反射して煌めく中に蠢くそれを、老人は一瞬闇の塊のように思ったが、実際は確かに四肢ある人間の姿であった。全身を包み込む黒衣が、まるで暗闇と同化しているかのように見せたのだ。

 片手と片膝を地面に突き、こうべを垂れるようにして着地した人影が、ゆっくりと立ち上がり、その顔を上げる。目深に被られたつば広のハットの影から、酷く汚れた白い髑髏の紋様が現れた。覆面で素顔を隠しているのだ。そしてその紋様にベッタリと付いた赤黒い染みは、老人の車両を襲撃し、護衛達を次々引き摺り降ろしてはズタズタに引き裂いていった際に浴びたであろう返り血に違いなかった。屈強な男達を全員見るも無惨に殺して回るその様は、酷い悪夢のように脳裏に焼き付いて消えない。

「まさかその歳で鬼ごっこが趣味とは思いもしなかったな。年甲斐もなく楽しめたようで、何よりだよ」息を切らしながら、苛つきを隠す事無く表した声色で、髑髏の覆面を被った刺客は言う。「だが、見ての通り俺は鬼じゃあなくてね。分かるだろう?」

「そ、そんな……てめぇ……畜生……!」老人は後じさりながら、眼前に立ち塞がる男の名を漏らした。「ペイル、ライダー……!」

「そう、死神さんさね。悪いがそう簡単には振り切れやしないぞ」死の騎士の名を騙った男は、髑髏の口元を笑みのように歪ませた。「なんせこいつはあの世からの依頼なもんでな、お前さんの命を取り立てるまでは終われないんだよ」

 老人は息を呑み、掠れた悲鳴を漏らしながら思った。ろくに運動も出来ないような自分が、複数の護衛を一方的に血の海へ沈められる程の存在を撒けるなど、そんな都合のいい話なんてありはしないのだ。冷静に考えれば分かるはずの事だろうに、それでも希望に縋りたかったので、無意識に受け入れないようにしていただけの話だ。

「さぁて、そろそろ遊びの時間は終わり……いい子も悪い子もオヤスミの時間にしようさねな。見ろよ、もう随分と夜も遅い」そう言うと、ペイルライダーの名を掲げた髑髏の刺客は素早く老人へと迫った。防御するように突き出した老人の腕を掻い潜って、喉元を左手で掴み上げ、そのまま強引に引き摺り回すように路地の奥へと走る。「これから街に繰り出すだなんてのは、もってのほか、でな!」

 通りの明かりが遠退いて行き、希望の光が失われていく。老人は苦しみの中で呻き、藻掻きながら、涙を流した。手を伸ばせば届きそうなのに、もう遥か彼方にある。正しく光明を失いつつあるのだ。

 ペイルライダーは老人をゴミ箱と室外機の影に引き摺り込むと、彼を壁に向けて突き飛ばしてから、その顔に右拳を叩き込み、殴り倒した。潰れた蛙のような声を上げて、老人は水飛沫と共に地面に転がった。口の中で歯が何本か折れている感触がして、ドロリとした黒い血と共にそれらを吐き出す。その様を見下ろしながら、ペイルライダーは肩から吊り下げていた消音器付きの短機関銃を両手で構えて、素早く標的へとポイントした。それと言うのは詰まる所、老人の左胸の奥で早鐘を打ち続けている心臓の事だった。

 銃口を突き付けられて、改めて老人は、間近に迫りつつある死の恐怖に慄いた。むせ返って腰が抜け、へたり込んだままで後退ろうとしたが、すぐに背中が冷たい壁にひっついて、これ以上の逃げ場は無いと彼に知らしめる。

「言い残したい事でも聞いてやろうかい?」歪んだ髑髏の顔が言った。「内容次第じゃあ、叶えてやれるかもね」

 その声には決して慈悲がある訳ではなく、むしろどこまでも無情な残酷さと冷酷さが漂っていた。

 サブマシンガンを構えたまま、ペイルライダーは微動だにしないでいた。だが引き金には既に指が掛かっており、少しでも妙な動きをしようものなら即座に発砲出来るようにしているのだと分かる。老人に許されるのは、呼吸をする事と声を出す事、あとは無様に身を震わせる事くらいだろう。こんな事ならボディアーマーでも着ておくべきだった、と老人は思った。しかしそれで助かる訳も無いのは分かっていた。死神が少し腕を動かすだけで、照準はすぐにでも彼の胸から頭に変えられるのだから。

「さぁ、どうした……? 言ってみなよ」まるで弄ぶような声色で、ペイルライダーは言った。

 老人はどうにか命乞いをしようと試みた。だが余りの恐怖にか、ガチガチと歯がかち合って、その隙間から表し難い声が漏れ続けるだけに陥っていた。なんとか言葉を紡ぎ出そうとしても、口も舌もすぐには言う事を聞いてくれそうもない。そうやって少しの間まごついた後、老人はやっとの事で絞り出すように一言発した。

「た……助けてくれ!」

「そうかい、分かった」髑髏の刺客が小さく頷いた。そして次の途端には、なんの躊躇いも無く発砲していた。「残念だ」

 消音機によって抑えられた銃声が一発、辺りに響く。ほぼ同時に、老人の胸から血飛沫が吹き出した。体がビクリと跳ね上がって震え、ずり落ちるように地面に落着する。

 老人は一瞬、まるで何も感じず、訳の分からない空虚な気分になった。全身から力が抜けていくような感覚がして、体が動かなくなっていく。それからすぐに、耐え難い痛みが、じわり、じわりと、胸の奥深くから溢れ出して来た。その苦しみに、涙と呻きが自然と漏れ始める。熱く疼くような激痛が、噴火の時を待つマグマのように彼の胸の中から湧き上がって来て、それとは対象的に体の端から氷のように冷たくなっていくのが分かる。

「そいつは俺じゃあなくて、依頼人に頼んでもらえるかい。……お前さんが先に送ってしまったけれどね」まるで地獄の底を覗き込むかのように見下ろしながら、ペイルライダーが言った。その顔に浮かぶ紋様は、口元を笑みのように歪ませていたが、声からは隠しきれない憤りを感じられた。

「直接伝えてみるんだな。今頃は到着を待ち侘びているかも知れないぞ」藻掻き苦しむ老人に向けて、ペイルライダーは不気味に吐息を漏らしながら、再び銃を突き付けるように構える。その照準は、老人の目と目の間に重ねられている。そこで、一発目は痛めつける為、二発目は確実に仕留める為なのだと悟った。もう言葉を出す力すら無かったが、老人はやめてくれと叫ぼうとして全力で口を開けた。

「いや、待てよ……行き先が違うか」ペイルライダーは迷う事無く引き金を引いた。くぐもった銃声が響き、鋭い鉛の弾丸が頭蓋骨を突き破って、灰色の脳細胞を完膚無きまでに叩き潰すと、老人の体は衝撃に再びビクリと波打ち、そしてその後一切の動きと音を失くした。開いた目も口も、閉じる事はもう二度と無い。

 

 胸と額に風穴を開け、力無く大口を開いたままに赤い海に沈む骸を見詰め、ペイルライダーはH&K MP7短機関銃を下ろした。疲れのこもった深い息を吐く。それから小型のカメラで写真を数枚撮ると、バラクラバ越しに、左耳に装着したインカムのスイッチに触れた。

「聞こえるかい、便利屋? ……あぁ、終わったよ。始末はついた」

 始末をつける――それはつまり、正当な復讐を果たしたと言う事だった。悪党がくたばり、この世から消え去ったのだから、本来なら清々しい気分になるはずなのだが、しかし彼の声にそう言った色は無い。ただひたすらに、深い憎悪とやり切れない怒りだけが滲み出ている。

「奴さんには鉛の片道切符を贈っておいたよ。下衆外道の畜生に相応しい最期さ。後は文字通りの地獄巡りを堪能してもらうとしよう」力尽きて何もかもがだらしなく開いたままの顔に一瞥をくれてやると、纏わりつく感情を払うようにかぶりを振って、マイクの向こうに向けて続けた。「いや、大丈夫だ。これから帰るよ。……あぁ。じゃあ、また後でな」

 通信を切り、再び小さく溜め息を漏らすと、彼は抱えていたMP7をベルトに備えたウェポンキャッチで留めた。こんな場所からはさっさと立ち去りたかった。もう息をしていないとは言え、こんな輩と同じ空気を吸っていたくもない。こんな汚らわしいクズの傍になど一秒たりとも……。苛立ちをぶつけるようにコートを跳ね除け、防弾ベストの背面に取り付けたホルスターから角張った大柄な銃のような器具を取り出した。ビルの屋上へと照準を合わせて引き金を引くと、銃口からワイヤーで繋がった展開式のフックが発射され、程無くして壁面にガチりと食らい付く。ペイルライダーはグリップに設置されたレバースイッチを親指で押しやると、ワイヤーが勢い良く巻き取られるのに身を任せて、天高く舞い上がった。その姿はさながら再び影の塊となるかようで、夜の闇に飛び込んで、あっと言う間に消えていった。

 

 遂に路地から人の気配は消え失せた。残されたものは、地面に広がり雨によって波打つ赤い海と、そこに沈む無残な抜け殻だけだった。

 暗がりの中に捨て置かれた骸は、その後数時間、誰にも気付かれる事の無いまま雨粒に晒され続けた。そして朝日が昇り、晴れ間の出始めた頃合いになって、血の気の抜けきって青褪めた体は、ようやく人の目に触れる事となる。だがそれは、面倒臭そうに職務に向かう警官や、恐怖をこらえる市民の目などではない。金目の物を探してそこらを漁るストリートギャングの、好機に満ちた非情の目であった。

 人の命が消えたと言うのに、この街ではそれが当然で、普通であるかのように、新たな一日が始まり、そして過ぎて行く。まるで異常など、どこにも無いと示しているかのように。

 

 本州沿岸の街である鳴海市は、四方を海と山とに囲まれる自然豊かな港湾都市で、日本有数の行楽地として評判である。しかしその一方では、日本最大級の犯罪都市としても悪名を轟かせていた。

 この街を訪れるのは、名物である海産物や、マリンスポーツに登山等と言ったレジャーを楽しむ観光客だけではない。港での輸出入や、行楽地開発の残りカスとも言える跡地や廃墟等を隠れ蓑にと目論む犯罪者、密入国者も大勢含まれており、その喧騒は正に年中無休で昼夜を問わず途絶える事は無い。その様は言わば、日本に生まれたマイアミビーチであった。

 空が白み始めた頃。未だ騒がしい中心街や活気づき始めた港湾地区から遠く離れた、郊外の端にある小さな山。

 私有地である事を示す鉄柵の門が独りでに開く。そして間もなく、一台のオートバイがそれを通り抜けて山道へと登って行った。

 青褪めた肌のような色をしたアメリカンクルーザーだ。幾つか改造を施されているのか、カウルやケースが追加されている。跨るのは、黒いコートに黒いヘルメットの男。スモークタイプのバブルシールドの向こう側に薄らと見える顔には、赤い染みに塗れた白い髑髏が浮かんでいる。路地裏に居た死神――ペイルライダーを名乗る、あの男だった。

 彼はぬかるんだ道を巧みに駆け抜けていくと、山の中腹辺りにひっそりと建つ古びた屋敷の前でマシンを停めた。髑髏顔の死神に相応しく、さながら幽霊屋敷や廃屋と見紛わんばかりのそれこそが、彼の拠点――孤独の要塞とも言えるアジトであった。

 胸元から取り出したリモートキーのスイッチを押して、ガレージのシャッターを開けると、マシンを時代遅れの黒いマッスルカーと薄汚れた白いバンの間に停める。暖色の明かりをゆらゆらと揺らす古めかしい電灯の下で、ペイルライダーはエンジンを切り、乱雑にヘルメットを外してミラーに掛け、スカルバラクラバと暗視機能付きゴーグルを脱いでコートのポケットに仕舞った。長い髪を乱れたままに垂らす、死人のように青白い肌をした眼鏡の男の顔があらわになる。年齢は三十代か四十代か、はたまたそれ以上か。見た目には分からないが、その顔立ちは疲弊して憔悴しきったような表情も相まって、さながら今にも倒れて死んでしまいそうに見えた。

「全く……あのクズの豚野郎めが」顎紐で首から掛けていたハットを手に取り、軽く絞って水気を切りながら、苛立つように呟く。「随分とまぁ手間取らせやがって」

 マシンを降り、凝り固まった体を解すように伸びをする。長身痩躯が悲鳴のような軋みを上げ、その後、ズブ濡れの寒さに震えた。

 さっさと諦めてくれていれば、こんなに苦労もしなかったのに。彼は舌打ちをした。全力で逃げる相手と言うのは、逃げずに応戦してくる敵よりも遥かにタチが悪い。追う手間が掛かった所為で、今や疲労は困憊状態で、瞼も重くなっている。早くシャワーを浴びて眠ってしまいたかったが、まだ武器や装具の点検整備をしなくてはならない。なので、休むのはもう少し後回しにしなければならなかった。彼はもう一度舌打ちをして悪態を吐いた。

「豚は豚らしく屠殺場に並んでりゃあいいし、下衆は下衆らしくくたばってりゃあいいんだよ、畜生め」

「お疲れさん、ジョウ」ガレージの奥、住居と繋がる扉から声が掛けられた。老年の男性の声だ。同時に、死神だった男に向けてタオルが飛ぶ。

「こいつは随分とお早いお着きだ事で。なぁ、便利屋」死神だった男――ジョウは、タオルを掴み取りながら、視線を向けて言った。「なんせ家主より先に上がってるんだからな、相当だぞ」

「そりゃお前、一晩中雨ん中走り回って凍えてるだろうと心配してたもんでな。色々用意してやらにゃと思って来てやったんだよ」便利屋と呼ばれた恰幅のいい白髪交じりの男は、苦笑いをして答えた。ジョウが始末の証拠となるカメラを投げ渡すと、それを受け取って画像を軽く確認しながら続ける。「それに、報酬についても話さにゃならんしな、始末屋さんや」

「報酬、ねぇ……」ジョウは頭を乱暴に拭きながら、興味無さげに返した。いや、彼は実際に、報酬には興味が無かった。

 始末屋とは単なる殺し屋と似て非なるもので、多額の報酬と引き換えに人を殺すのは同じくだが、そこには常に被害者の正当性を求めている。しかし、数多く居る同業者の中でも彼は、更に輪をかけて特異な存在であった。何故なら、依頼を受ける際の条件に、報酬の多寡を含めてはいないからだ。彼が重視するのは、正当性の有無は勿論の事だが、被害者の抱く恨みや憎しみ、怒りの深さや強さであった。そのこだわりは、師であり親代わりでもあった先代の始末屋から、技術と共に受け継いだ信条だった。例え山程の現金を積まれても、決して悪党からの依頼は取り合わず、何一つの利得が無くとも、当て所もない感情を抱いて救いを求める弱い善人からの依頼は受ける。時には赤字になって、銃弾の一箱すらも買えなくなる事もあったが、ジョウはそれを曲げないようにしていた。

 先代とは親友であり、ジョウのもう一人の親代わりとして面倒を見てきた便利屋は、二代続けて掲げるこの信条にある程度の理解を持っている。だからこそ、彼が情報屋兼仲介屋である世話役──つまり便利屋として、都合にあった依頼を持ってきては、報酬のやり取りを代わりに担っているのだった。

「それで……」ジョウはズブ濡れのブーツを脱いで抱えて屋敷へ上がり、リビングへと続く廊下を歩きながら言った。

「お前の取り分はこれだけだ」傍らに続いた便利屋は、遮るように、茶封筒に入った数枚の紙幣を見せて言った。その数はお世辞にも多いとは言えない。高校へ上がりたての新人アルバイトがひと月に稼ぐ額よりも遥かに少ないだろう。便利屋は苦笑いする。「こりゃまた弾代に消えるな」

 だがそれに対して、ジョウは別段特になんの感情も湧いては来ない。貰えるのなら貰っておくかとしか思わなかったし、そもそも気になっているのはそんな物では無かった。

 リビングに着くと、手渡されたそれを一瞥してから、便利屋に問い返す。

「こんなのはどうでもいいよ。……依頼人は?」

「ちゃんと弔ったよ。まぁ、だからそんだけなんだがな」便利屋は呆れるようにして封筒を示した。「親族探し出して事情説明して遺体引き渡して……取り敢えず無縁仏にはならないようにはしてやったさ」

「そうかい。それなら、まぁ……いいさねな」ジョウは冷たく返したが、その実少しは心が軽くなっていた。

 便利屋を介して始末の依頼が届き、ジョウがそれを受けた後、依頼人はその情報を嗅ぎ付けた件の闇金業者によって嬲り殺され、あらゆる臓器を摘出された上にバラバラに切り刻まれた無残な死体となって、街のゴミ捨て場に転がされていた。家族を奪われた仇を討ちに始末屋を頼って来たと言うのに、自身もその家族の元へと無理矢理送られた挙げ句、体は悪党の儲けに利用されてしまったと言う訳だ。それも放っておけば、ずさんな市警の捜査では身元不明の死体と行方不明者扱いになりかねない程の惨憺たる姿だった。その無情な末路に言い表せぬ程の怒りを抱いたジョウは、せめてもの慰みになればと、便利屋に依頼人の遺体の処理を頼んでから、始末の遂行へと向かったのだった。

「ちゃんと殺ったからな。お前さんの無念も少しは……」もう一度封筒を見やってジョウは呟く。だが、死んだ者が何かを思う訳も無いだろうに。そう自嘲もする。遺族にとっては行方不明者扱いに苦しむ事が無くなったのは唯一の救いだろうが、それも死んだ本人にとっては何一つの価値も無い。依頼人が無事に生きていないのなら、なんの意味も無いのだ。例え仇である悪党を始末したとしても……。「いや……タチの悪い冗談だな、こんなのは……」

 やるせなくかぶりを振って、それから便利屋に向き直り、皮肉げに続けた。

「もう随分と長い事やってきたが、いつまで経っても慣れないな。依頼人が死ぬのにはさ」

「分かってる。あのホテルは二度と使わんよ」便利屋は苦々しい表情で答えた。「次からはちゃんと考えとくさ」

「あぁ、本当に……頼むよ」念を押すように返しながら、ジョウは、容易く金で心を売り渡すのがこの街の人間なのだと改めて認識した。

 便利屋の調査によると、依頼人の情報が流れた原因は、これまでセーフハウス代わりに使っていたホテルの従業員の内の誰かが、裏で密告屋として買収されていたからなのだと言う。ジョウはその事でより一層、金に目が眩んだ欲深すぎる人間達に嫌悪感を抱き、例え始末の依頼が入らなくともすぐにでも従業員達を皆殺しにしてやりたい気持ちになっていた。だがそれではただの無差別な殺戮と変わらない上に、その所為で自ら敵を作ってしまえば、本当に助けを必要としている者の為に戦えなくなってしまう。自らに言い聞かせ、グッと奥歯を噛み締めて堪えた。それにそう言う薄情な連中は、いずれどこかのタイミングで依頼が入り、因果応報となるものだ。以前にも、多くの証人達の情報を流して儲けていた汚職警官の始末を、市警本部長の権藤仁から直々に依頼され、遂行した事がある。怒りは残るものの、いずれ来たるであろうその時を待ち、胸の奥に仕舞っておく事にした。

 ジョウは自らの全身に装備した武器を外し、テーブルの上に置いた。メインとバックアップ合わせて二丁のH&K USP拳銃や、MP7短機関銃、移動用ガジェットのワイヤーショットにファイティングナイフ。その横に予備弾倉を並べる。それから返り血と雨に濡れた服や装具を脱いで体を拭き、事前に用意しておいた部屋着のスウェットシャツとパンツに着替えた。心は重く沈んでいても、体がすこぶる軽くなった事で、ほんの少しだけでも疲れが癒えた気になり、表情が僅かに和らぐ。

「ハイハイ、お掃除するとしましょうかね」便利屋が武器類に手を伸ばし、整備用品の纏められたトレーの上に、慣れた感で分解をし始めた。彼を便利屋と呼ぶ所以の一つだった。気付けば、あっと言う間にMP7がパーツの状態となって並べられ、続けてメンテナンスが開始されている。

 昨晩は特に雨が酷かったので、錆付きや故障を防止する為にも、それぞれの手入れは念入りにする必要がある。ジョウもクリーニングキットを使い、己の得物達の清掃を始めた。銃器を分解し、部品に破損が発生していないかを確かめながら、水気を取って油を差し、組み上げ直す。血のこびり着いたナイフは丁寧に拭き取ってから刃を研磨し、空になっているマガジンには便利屋が持ってきた弾薬を装填してから、銃器と併せて耐衝撃性の高い合成樹脂製のケースへと仕舞った。この状態で、普段は屋敷の地下にある射撃場兼武器庫に収納し、保管しているのだ。

 便利屋と二人でしばらくその作業に集中し、全てをケースに纏め終えた後、ジョウは乱雑に脱ぎ散らかした服やブーツ、装具の点検に移ろうとした。破れやほつれがあれば修理しなければならないし、場合によっては廃棄して、新たな物と交換する必要がある。命を預ける以上は、欠かす訳にはいかない。だが突然、その手を便利屋が止めた。

「なぁ、待て。何か聞こえないか?」片付けようとしていた四十五口径弾の箱をテーブルに置き、眉をひそめる。「外に誰か居る気がする」

「何?」ジョウも、MOLLE式の防弾ベストから分厚いケブラープレートを抜き出そうとしていた手を止め、耳を澄ました。

 しんと静まり返り、木々のざわめきすら聞こえてきそうな中に、僅かながら確かに、何かの物音や誰かの声――人の気配のようなものが伝わってきた。方向を辿るように耳をそばだてれば、それは屋敷の正面付近から感じられる。

 こんな早朝から他に来客だって? ジョウは首を傾げた。いや、有り得ない。今日は一日、便利屋以外に、屋敷を含めたこの山を誰かが訪れる予定など一切無いのだ。そしてそもそも、ここを訪れるような知り合いや関係者とは、事前に連絡を入れるように取り決めてある。それが無ければ、敵対的な侵入者と間違えて排除しにかかりかねないからだ。

 もしや、と彼は思った。つけられていたのだろうか? そんな馬鹿な。わざわざワイヤーを使って、遠くに隠したオートバイの所にまで移動し、それに乗って帰ってきたのだ。追いきれるはずが無い。しかし……。

 思わず身震いしたのは寒さからではなかった。もしも正体を知られ、この場所を襲われでもしたら、失うものが多すぎるからだ。それは金やそこらの代替品なんかでは到底取り返しのつかない、大切なものばかりだ。故に、絶対に避けなければならない。

「ちょいと見てくるかね」便利屋がジャケットの懐から拳銃を抜いた。日本仕様のSIG SAUER P230。彼がまだ若く、便利屋と呼ばれる前から使い慣れていると言う愛銃だった。慣れた手付きで銃口を下に向けながらスライドを軽く引き、薬室への装弾を確認すると、玄関へと向かうべく踵を返した。「お前は休んでろ」

「いや、一緒に行くよ」ジョウは便利屋にそう返す。「でないと気が休まらんさ」

 今から地下に降りて替えの装備を取って来る暇は無いだろう。なのでやむ無く、ジョウは濡れたままの服と装具をもう一度着込み、再び戦う姿──始末屋・ペイルライダーとなった。ナイフを鞘に収め、USPを一丁取り出して消音器を着け直し、弾倉を装填すると、取り敢えずの戦闘準備が整う。

 これが降りかかる火の粉であるのなら、払わなければ。彼も便利屋の後を追って居間を出た。

 

 枝葉を掻き分けながら、少女は懸命に走っていた。背後からの怒声を浴びながらも、それに追い付かれまいと足を動かす。やがて開けた場所に出て、目前に廃屋のような建物が現れた時、彼女は不意にぬかるんだわだちに足を取られてしまった。持ち前の優れた運動神経で反射的に受け身をとって転がるが、その疲れの溜まった小柄で華奢な体躯では勢いを殺しきれず、最後には盛大にうつ伏せになって倒れた。視界の端で、宙を飛んだキャスケット帽がべチャリと音を立てて泥の中に沈むのが見える。白いブラウスと青いコルセットスカートに包まれた可憐な容姿は汚れにまみれ、全てが醜い茶色に染められていた。荷物を詰め込んだボストンバッグが重く伸し掛かり、薄い胸が圧迫されて息が苦しくなる。どうにか押しやり、乱れた長い黒髪を掻き上げて顔を拭うと、枝葉のどこかに引っ掛けていたのだろうか、袖先が派手に破けている事に気が付いた。膝を突いて起き上がれば、それは裾も同様だと分かる。両足を包む透過性の無い黒いタイツにも派手な大穴が複数空いていて、傷から滲んだ血がじわりと染み込んでいた。この服気に入ってたのに、これではまるでゴミ同然ではないか。苛立ちが募るままに顔を歪ませる。

 この街に着いてからは運が無い。少女はここしばらくの事を思い返した。

 もう何日も前になる。彼女はあてのない旅路の中で、隣県は新堀市から繋がる列車を使ってこの鳴海市にやって来た。それは、彼女を執拗に追い続ける、正しくイカれた追跡者と言うべき存在から逃れる為にだった。

 鳴海市は流れ者の犯罪者や無法者が多く危険ではあるが、その分だけ人の出入りも激しい。流石の『あの男』も、如何に全国規模のコネや伝手を持つとは言え、この騒がしい街の中からたった一人の人間だけを見付けるのには手間取るはずだ。その間に身を休め、路銀を蓄え、次なる逃走の旅に備えればいい。家出少女相手に買春をしている輩の家を転々とし、それなりの金額を失敬しながら、彼女はそう考えていた。

 だが、油断と言うべきか、甘く見ていたと言うべきか。四軒目の買春男の部屋に身を潜めていた彼女の元を、突如として件の追跡者が襲撃したのだ。地元のストリートギャングらしきチンピラ連中を大勢従えていたので、恐らくはいつものように伝手を使って手下として借り受けたのだろう。単なる人海戦術の面もあったのだろうが、彼らの持つ獣じみた縄張り意識を駆使して、無数の余所者が出入りするこの街の中から、たった数日の内に居場所を特定したと言う訳だ。

 取り押さえようとする連中に対し、少女は愛用のカッターナイフと持てる全てを使って抵抗した。大暴れして何人かの喉や手首を斬り付け、目玉を突き刺し、耳や鼻を噛み千切っては重傷を負わせた。しかしそうまでしても矢張り数の力には敵わず、結局は虚しく囚えられてしまった。

 その後は市内の安ホテルに囚われ、凌辱の嵐に身を犯されていたが、彼女は決して諦めずにいた。そして監視の目が薄くなった頃合いに色仕掛けに出て、チンピラどもが鼻の下を伸ばして油断した隙を突き、玉を潰して鼻を砕き、怯ませる事で脱出。荷物の回収こそ出来たものの、有り金の全てを奪われていて街から出られず、彷徨い歩くしかなくなっていたが、なんとかこの山の麓に広がる古い住宅街で空き家を見付けて逃げ込んだ。

 しばらくはそこを拠点にして凌ぐ他に道は無いだろうと少女は思っていた。また買春狙いの輩を利用するのは追手にも予想されている事だろうから、先回りされて発見される可能性が高い。なので出来る事と言えば、こうして廃屋に身を潜めつつも、万引きだのスリだのと言った窃盗の類を行って食いつなぐぐらいしかない。ただそうなれば、悪党でもない無関係の人間からも何かを奪わなければならないだろう。罪悪感や嫌悪感が辛く伸し掛かったが、それでも体勢を立て直すには必要な行いであるのだ。覚悟を決めてやるしかないと言い聞かせ、眠りに就いた。

 だがそれもすぐに無駄になったし、身を休められる時間などほんの僅かなものでしかなかった。夜が明けた頃には、どうやって居場所を嗅ぎ付けたのだろうか、二人のギャングが、まるで放たれた猟犬の如くすぐそこまで迫っていたのだ。

 繁華街までは遠く、彼女が得意とする人混みを利用して逃れる手は不可能だった。こうなれば山の中で撒くしかないと思い、彼女は鉄柵を乗り越え、木々や枝葉の織りなす自然の迷宮に身を投じた。これらを掻い潜る事だって、人の波を掻き分ける事と大差無い。事実そうだった。昔から体力や運動神経には恵まれていたので、ややもすれば上手く距離を稼ぐ事も出来た。それでも、向こうにも意地があるのか、はたまた別に目的があるのか、諦める気配が微塵にも無く、執拗に追い掛け回してくる。そして永遠にも思える程の長い追走劇の果てに、とうとう彼女はこの廃墟のような屋敷の前で、絶体絶命の状況となってしまったのだった。

 クソったれが、と彼女は思った。正直な所あまりにも汚すぎるような言葉遣いは品性に欠くので好きでは無いのだが、今は思う存分に悪態の限りを吐きたい気分だった。これ以上自由を奪われるのは嫌だし、何よりもう無理矢理に体を汚されるのは真っ平御免だ。だが相手に罵り声を浴びせても、連中が怯む訳でも、ましてや逃げていく訳でも無い。今はそんな事をしている暇があるなら行動しなければならない。

 少女はスカートのポケットから取り出した血錆の浮いたカッターナイフを右手に握り、ボストンバッグを左脇に抱えながら、なんとか後じさった。いざとなればその全てを武器にして戦う他に道は無い。勝てるかどうかは分からないが、やらなければならないのだ。

 彼女の眼前には、だらしなく服を着崩した如何にもチンピラな男が二人、下卑た表情で笑い声を漏らして立っていた。完全に勝ち誇った顔だ、と少女は思った。同時に、その顔には明らかな別の目的も浮かんでいると理解する。彼らは悠然と、しかし隙を逃さないように視線を巡らせながら、彼女へと迫って来ていた。

 

「なんだいありゃ?」玄関脇の小窓から覗きながら、便利屋が言った。「安っぽいドラマか何かか?」

「それにしちゃあ、随分と真に迫ってるじゃあないか」同じくドアスコープから覗きながら、ペイルライダーは皮肉げに答える。後をつけられていた訳では無いのは確かだが、眼の前で事件が置きているのも事実だった。

 カッターナイフを握った泥だらけの小柄な少女が、見るからにまともそうではないチンピラ二人に迫られている。危険な気配が伝わってきた。追われる者と追う者。鳴海市の路地裏ではお馴染みの光景ではあるが、それをよもやこんな山の中で味わう事になろうとは。

 大抵の場合は女が被害者で、野郎が加害者だ。そして数分と放置していれば、強姦もののアダルトビデオかスナッフフィルムの撮影会が生で開始されると言うのがお決まりの展開である。被害者が無惨にいたぶられる光景は、眼の前でやられて気分のいいものでは無いし、黙って見過ごす訳にもいかない。

 ペイルライダーは溜息混じりに扉に手を掛けた。これがお馴染みの光景でお決まりの展開だと言うのならば、戦わなければ。

 確かに始末屋の信条としては依頼されない限りは命を奪うべきではないが、先代は目の前で厄介事や面倒事に巻き込まれている弱者を放ってはおけないタチだった。『依頼と言う形式を守ってさえいればいい』として、時にはその場に乱入して被害者を救い出しては、誘導尋問のように無理矢理にでも引き受け、下衆で下劣な小悪党であっても片っ端から始末していた。そしてそれは、先代が居なくなった今でも、ペイルライダー――ジョウに受け継がれている。

 悟られぬよう静かに鍵を開ける。飛び出す準備が必要だ。この屋敷の窓も扉も壁も、全てが先代と便利屋の手によって耐弾仕様に加工されている。射撃で一方的に制圧する事は内外問わずに叶わないので、戦闘行為に及ぶにはどこかしらから身を出さねばならない。

 しかし、と取手を握ったまま動きを止める。動くにはまだ判断材料が足りていないのではないか? 一見すれば如何にお馴染みの光景に見えても、どちらが被害者でどちらが加害者か、真に判然としている訳では無いだろう? 先代もそこには充分注意を払ってから介入していたし、それは彼もまた同じであった。

 もしも少女が彼らに対して害をなした悪党ならば、たとえ女子供であろうと別に助ける義理も無い。正当な復讐を妨げるつもりなど、始末屋である彼には毛頭無いからだ。それに女子供の悪党も珍しくない。過去には何人も始末してきた。だがもし彼女が虐げられる立場で、恨みと憎しみを募らせるしか道が無いのならば……。

「なぁ、オイ……どっちが被害者だよ」かぶりを振って眠気を払い、疲れた思考を奮い立たせて、ペイルライダーはこの状況を観察し、推し量ろうとした。殺人と言う悪行を成して戦うのだから、助けるべき相手を間違える訳にはいかない。ただ普段ならいざ知らず、一晩死闘を繰り広げた後では、中々に判断が鈍る。何か、決定的な何かが無いか……?

 少女の背中は怯えるよりも怒りに満ちているように見えて、その姿勢は徹底抗戦の構えだ。大事そうに抱えた荷物に何か秘密でもあるのだろうか。対する男達の顔には笑みが浮かんでいる。ようやく追い付いたと言う安堵もさる事ながら、どことなく弄ぶような非情さも見えるようだ。

「なぁ、ジョウ……無理するな、休んでろ」ふと、便利屋が肩を叩き、声を掛けた。目を向けると、彼は拳銃を持ち上げ、それで外の連中を払うように示す。「面倒になりそうだったら俺が追い払っとくからよ」

 便利屋は決して事無かれ主義では無いが、実に人間らしく、見ず知らずの他人よりも身内の事情を優先する。例え善悪が定かになろうとも、事態がどう転んでいても、諸共纏めてこの山から追い払う気でいるのだろう。それは疲弊した自分を気遣っての事なのだとペイルライダーも理解している。しかし、それではなんの解決にもならないではないか。別の場所で連中は再び同じ事を繰り返し、涙が流れ、そして最悪の場合は、特徴の似通った死体がそこらのゴミ捨て場で見つかったと知らされるだけだ。

「いや、駄目だ便利屋。そんなのは……」ペイルライダーは首を振る。目にした以上は、白黒明瞭に決着がつくまで納得が出来ない。彼はそんな性分だった。

 幸か不幸か、二人が顔を見合わせたその時、屋敷の外で進展があった。

「あぁッ!」と言う叫び声が聞こえた。視線を戻すと、それは掴み掛かられ、押し倒された少女が思わず上げた悲鳴だと分かった。

「このクズ……離しなさいよ!」少女は罵りながらも右手に握ったカッターナイフを振り上げて突き立てようとする。だが、二人目の男がそれを蹴り飛ばして、遠くに弾かれてしまう。「この畜生どもめ!」

 左手のバッグを、まるでフレイルか何かのように叩き付けようとする。どうやら命よりも大事な物では無いようだ。しかしもう既に間合いの中に入られてしまっている。上手く行かない内に、今度は掴み掛かっている男の手によって払われ、手から零れ落ちたバッグは明後日の方向へと転がった。

「オラ、大人しくしろよ、お嬢ちゃん」ニヤリと笑いながら、掴み掛かっているほうの男が言った。「こちとらボスに頼まれてんだからよ、連れてかねぇと俺ら殺されちゃうんだよね。逃してたまるかってのよ」

「ほぉう」とペイルライダーは呟く。

「でも壊さねぇ程度には好きにしていいって言われてんだわ」もう一人の男が余裕の表情で見下ろし、鼻の下を伸ばしながら言った。逸る気を抑えきれないでか、ジーンズの生地を押し上げて股ぐらが膨らんでいる。「ちょっくらいい目ぇ見させてくれよな」

「なぁ、他の連中とも楽しんだんだろ? 俺らにも遊ばせろよ」と掴みかかっている男が胸元に手を掛けた。「お嬢ちゃん程の上玉は滅多に味わえねぇからな」

「ふざけた事を抜かすんじゃないわよ、この下衆ども!」少女が叫びながら、蹴りを繰り出して男を押しやろうとする。そうして暴れなければ、きっと直ぐにでも身包みを剥がされてしまうだろう。それは容易に分かった。茶色く染まったブラウスが音を立てて破れかかり、下着と白い柔肌の一部が見え隠れする中、必死の攻防が繰り返されている。

「あぁ、なるほど。これではっきりした」ペイルライダーは頷いた。「人攫いの強姦魔に襲われているのは確実らしい」

 どちらもよく相手をする敵であり、始末の対象だ。それが二つも揃っている。となれば、自身がどうするべきかも決まっていた。

「で、何する気だ、ジョウ?」便利屋が呆れたように問う。彼も既に悟っているのだ。止めても無駄なのだと言う事を。だからその手の銃も懐に仕舞われている。最早任せると言わんばかりの姿だ。

「外回りに行く」ペイルライダーは口元の髑髏をニヤリと歪ませながら言った。「仕事には営業も必要なんだろう?」

「あぁ……だな」便利屋がどこか納得するような溜息を漏らす。「じゃ、しっかり客取ってこい」

「あぁ、文字通りにな」ペイルライダーは悟られぬようにそっと扉を開いた。

 まずは少女を確保する事が肝心だ。揉み合っている所を銃撃などして、誤射しては話にならない。同じように刃物も危険だ。徒手空拳で挑まねば。拳銃を仕舞いつつ、深呼吸して心身を無理矢理戦闘用のそれに移行させ、眠気や疲労感をどうにか隅へと押しやると、ペイルライダーは素早く駆けて少女と男達の元へと詰め寄る。

「ちょいとどきな、下衆ども!」左のフックで少女に掴み掛かる男のこめかみを張り倒し、踏み込むと同時に身を回しながらの右の足刀でもう一人の男の鳩尾を蹴飛ばす。そうして男達を少女から引き離すと、ペイルライダーは彼女を抱き起こして踵を返した。

「な、なんだぁてめぇ……!」

「待てやコラ……!」

 呻くような男達の声が聞こえる。何か返してやりたくもなったが、無視して走り、屋敷へ戻った。

「さて……どうも、お嬢さん」少女を下ろすと、手早く扉を締め、鍵を掛けながら言った。「助けが必要そうだね」

「え、えぇ」少女は驚いたように目を丸くさせてから、ハタと気付いて崩れた服装を簡単に整え、頷いた。「ちょっと……熱烈な追っ掛けに参ってるのよ」

 それから視線を彷徨わせた後に続ける。

「あなたの持ってるソレで、軽く追い払って貰えないかしら?」その指はホルスターに仕舞われた拳銃を示していた。「この街でそんな物を持ってるんだから、ただのオモチャなんかじゃないんでしょう?」

 彼女の言う通り、鳴海市の発砲事件発生数は日本随一を誇り、それは今や、俗に修羅の国と呼ばれる地域を遥かに凌駕している。伊達に日本のマイアミビーチと例えられている訳では無いのだ。そんな街では、遊び以外で銃を持つ者も多い。

「そうだよ」頷いて、ペイルライダーは彼女に答えた。「俺は始末屋さんさね」

「始末屋……! まさかこんな所に……」少女は確かめるように呟き、そして尋ねた。「じゃあ、今すぐあいつらを始末してって言ったら……!?」

「それは依頼だな」

「えぇ、そうよ」

「喜んで引き受けるさ。俺は悪党退治の専門家。人攫いも強姦魔もお馴染さね」彼は頷いたが、少し気になる点もあった。何故連中のボスとやらは、手下にわざわざ小娘一人を追い回させるのだろう。それも、こんな山奥に逃げ込まれても尚、執拗にとは。見た所、容姿は泥にまみれていても至極可憐であると分かるくらいには整っているが、中世の倫理観でもあるまいし、それが理由と言う訳でも無いだろう。ペイルライダーは彼女に問い掛けた。「ただ、教えてくれ。なんで追われてるのかを」

「あぁ、えっと……そうね……」言って、少女は少しの間唸った。その様は、迷い、悩んでいるようにも見えた。ややあってから、彼女は続けた。「ちょっと、今すぐには説明しきれないわ。込み入った事情があって」

「ほぉう、そうかい」

「でも、後で必ず話すわ。それと、これは信じて。悪党は私じゃない、奴らのほうよ」彼女は外の連中を示すようにドアを指差した。

 その縋り付くような目を見やったペイルライダーは、瞳の奥から切迫した緊張感の他に、当て所の無い憎悪が滲んでくるのを感じた。この瞳の色に彼は覚えがあった。これまで始末屋を最後の手段として頼りに来た依頼人達――悪逆非道の連中に虐げられて苦しめられてきた弱き善人達と、同じ感情が浮かんでいるのだ。

 直後に、扉が強烈な衝撃を受けた。ガチャガチャと取手を動かす音がして、続いて怒号が響く。

「オウコラふざけんなクソが!」

「そいつぁ俺らの獲物だぞボケ! 返しやがれ!」

 脇の小窓から覗くと、男達が乱暴に扉を蹴り叩いているのが見えた。続けて体当たりをしたり、殴り付けたりと、とにかく力任せにブチ破ろうとしているのが分かる。

「コイツはまぁ……随分と品の無い追っ掛けも居たもんだな」ペイルライダーは呆気にとられるように呟いた。「ノックの仕方も知らないのか」

 連中の「開けろ」と怒鳴る声も、響き渡る物音も、疲労の残る心を掻き乱し、苛立たせるには充分すぎるものだった。騒音は次第に激しさを増していき、思わず溜め息と舌打ちが漏れる。

「あぁ、もう本当に……鬱陶しいわね」見れば、少女も顔をしかめ、疲れた息を吐いていた。「下衆で下劣なクズどもめ、聞くに耐えない下品さだわ」

 まずはこの場を早めに片付けるべきだろう。それは彼女の為だけではなく、自分の為にもだ。

「まぁ、そうだよな……分かったよ、先ずは奴さんらを黙らせて来るよ」

「あぁ、お嬢ちゃんは任せろ」見守るように黙っていた便利屋が言った。「一応依頼人になった訳だからな、話は聞いておく」

「それじゃあ、込み入った事情とやらを纏めておいてくれ」ペイルライダーは頷き、それから周囲を見回して逡巡した。正面からでは面倒そうだが裏では些か遠いし、行くなら上だろうか。「但し、報酬の話がしたけりゃあ早めに済ませなよ」

 ブーツのまま上がり込み、廊下奥へと向かう。

「でないと、帰ってくるほうが先になるぞ」

「え、いやちょっと、どこ行くのよ……?」と少女が呟いたが、何も返さなかった。

 

「……じゃあ、金は無いんだな?」

「えぇ」少女は便利屋を名乗る老人に頷き返しながら、今だ響いてくる騒音と罵声に辟易していた。あの髑髏顔の始末屋はどこへ行った? 連中を始末して、助けてくれるんじゃなかったのか? 何故かさっき家の奥へ姿を消してしまったが、まさかあれだけの事を言っておきながら怖気付いた訳ではないだろうな……?

 その内、遂には銃声まで聞こえてくるようになった。ドアに響く衝撃と窓に走る亀裂は、男達がブチ破らんとしているのを表すには充分だった。

「あぁ、大丈夫さ。防弾だよ」と便利屋は呑気な声で言ったが、少女としては、それでも早く片付けて欲しい気持ちで一杯だった。「で、報酬の件だが……」

 その時、突如として、ガラガラと何かが動き出す音がした。屋敷の横から聞こえてくる。どうやら併設されているガレージのシャッターが開き始めているようだ。少女も便利屋もそちらを見やった。まさか始末屋はそちらから回り込む気なのだろうか? だがそれでは撃たれかねない気もするが……。それに、数に押し負けて入りこまれたらどうするのだろう?

「オイ開いてくぞ」

「行くぞ、引き摺り出せ」

 小窓から見ると、男達が早くも動き出していた。そのまま押し通るつもりなのだろう。銃を構えて走り出し……。

 次の瞬間に、くぐもった射出音が三度、外からしたのが聞こえた。それはガレージの方向とは違い、上からだった。

「ぎゃあ!」と悲鳴が上がって、血が辺りに飛び散ったのが見えた。男達の片割れが全身から血を流して、崩れるように倒れ込んだ。取り落とした銃が泥の中に沈む。

「なんだ……!?」もう片割れがハッとして、銃をもたげて見上げようとした。そこにまた三度、くぐもった音がして、体から血が舞う。男は呻いて後じさった。だがまだ銃は放していなかった。脅威は残っている。

「弾の雨では物足りなかったか?」頭上から黒い影が、男に飛び掛かった。「だったらサービスだ!」

 それは始末屋だった。右手に黒い筒を着けた拳銃を持ち、踏み付けるように蹴り飛ばしていた。ミサイルキックの後、二人はもつれて倒れ込んだ。

 蹴り倒された男は苦しみに藻掻いていたが、始末屋は転回して上手く着地したので、すぐに立ち上がって次の行動に移った。

 拳銃を両手で握りながら男達に向き直ると、瞬時に二人の様子を警戒し、そしてまだ銃を握っていたほうへと素早く近寄りながら三発射撃した。先ほどと同じくぐもった射出音が数度聞こえる。彼の銃声だったのだと分かった。

 撃たれた男の手に力が無くなり、銃を取り落とす。始末屋はそれを蹴り飛ばして、血の滲んだ男の胸板を踏み付けた。

「無理矢理ヤるのが好きなんだろう?」よく見れば、それは彼女の服を引き裂こうとしていた男だった。最早身動ぎ一つせず、呻きすら聞こえてこないのだが、確実にトドメを刺すと言わんばかりに、彼は容赦無く脳天に射撃した。「無理矢理殺られる気分はどうだ?」

 流れるように狙いは、傍らの男に向いた。荒く早い呼吸をしながら、口をあんぐりと開けている。既に瀕死で、放っておけばその内力尽きそうにも見えた。だが始末屋はその顔目掛けて数度射撃した。

「鉛味を喰らえ」銃弾は頭部周辺に集中し、その内幾つかは口に飛び込んだようだ。中からも血飛沫が舞った。音の消えた男を覗き込んで、始末屋は言った。「天にも昇る気分じゃあなさそうだな」

 気付けば、あっと言う間に終わっていた。静まり返った中に、二つの死体が横たわり、その間に骸の顔を被った一人の男が立っていた。

「始末屋さん、強いじゃない……」少女は呆気に取られるように呟いた。

「そりゃそうさ」便利屋が苦笑する。「でもなきゃ、奴もペイルライダーだなんてご大層な名前を掲げちゃいないさ」

「青褪めた騎士……死の象徴」少女はどこか納得するように言葉を漏らした。「……死神」

 始末屋――ペイルライダーの容赦の無い戦い振りを見て、少女はふと、彼ならば全ての元凶を叩き潰してくれるのではないかと希望を抱いた。もうずっと抱き続けて燻っていた願い――それは、この身を汚して作り変え、自由を奪った張本人が、苦しみのた打ち回りながらくたばる事だ。自らの吐いた血反吐にまみれて悶えながら死んでいく様を眺め、思う存分踏み躙り、嘲り笑う。それを何度夢見た事か。この男に頼めば、それも決してただの夢では無くなるのかも知れない。

「ねぇ、便利屋さん。始末屋さんに依頼したい事があるの」彼女は便利屋に縋るように言った。「この世から消し去って欲しい奴が……始末して欲しい相手がいるのよ」

「今の奴ら以上に?」

「あんな連中なんか比じゃないくらいによ」

「相談次第だな」便利屋が答える。「まずは今回の報酬を……」

 遮るように、再びガレージのほうから騒音がして、次いで軽くドアを叩く音がした。

「便利屋、開けてくれ……始末はついた」深い溜め息混じりの声が聞こえた。「ただ鍵を壊された」

 便利屋が扉を開くと、先程までの勇ましい姿とは打って変わって、息を切らし、肩を落とした始末屋――ペイルライダーが立っていた。

「話は……?」力無い声で問い掛ける。

「まだ報酬の所だ」

「やっぱり僕のほうが早かったな……」血に塗れた髑髏の顔を歪ませて笑うが、その様子は、もうどうにも余裕が残ってないように見えた。

「だが別の始末を依頼したいとさ」

「……ほぉう、気になるじゃあないか。聞かせてくれよ」銃を仕舞い、少女を見下ろす。そして突然、膝から力が抜けたように床へと崩れ落ちた。

「えッ、ちょっと……!?」彼女は慌てて駆け寄ろうとしたが、当然それよりも早く、傍らに立った便利屋が彼を抱えて支えていた。

「大丈夫だ、寝てるだけだよ。まぁ、限界だったんだな」便利屋が説明するように言った。「なんせ、ゆうべは夜遊びが過ぎたもんでね」

 

 ジョウが目を覚ますと、その視界は全てがぼやけていた。寝惚けたままに辺りを見回すと、そこはどうやら屋敷の二階にある自分の部屋らしく、薄らボンヤリながらも見覚えのある家具が視界に入り込んでくる。ならばと感覚を頼りにベッド脇のテーブルを探ると、飲みかけの水のボトルと処方薬の入ったオレンジのボトルの傍に、愛用している眼鏡を見付けた。身に着けて、やおらと毛布を押し退けて起き上がる。そして疲れた息をついて、半ばクセのように痛み止めの錠剤に手を伸ばし……そこでようやく自分の状態に気が付いた。

「あれ、装備が……」全身はいつの間にか再び部屋着姿になっており、濡れた服も、血塗れの装備も、一切身に着けられてはいなかった。だが本人には着替えた覚えが無かった。そもそも二人の男達を始末した後くらいから記憶がおぼろげだ。疲れの所為か照準が上手く定まらなかったので、確実にトドメを刺す為にと飛び降りて蹴倒した訳だが、それが原因で限界を迎えて倒れてしまったのだろう。

「……便利屋だな」ボンヤリとしたまま呟く。恐らくはその後、彼の手によって着替えさせられたのだろうと思った。

「そうよ」声が掛けられて、ジョウはふとそちらを見やった。いつから居たのだろうか、開いた扉の前に、あの追われていた少女が立っていた。「風邪を引いたら行けないって、甲斐甲斐しく世話を焼いてたわ」

 シャワーを浴びて着替えたのだろう少女は、破れと泥だらけの姿から一転して身綺麗な格好になっており、その事でより一層彼女の持つ可憐さが理解出来た。年は十代半ばから終わりに差し掛かるくらいだろうか。どこか幼さが残るが、大人びて目鼻立ちの整った顔に、自分とは違った意味で透き通るような白い肌をしている。艷やかで長い黒髪がブラウスとロングのスカートの組み合わせと相まって、古めかしいながらも静かに凛とした雰囲気をより際立たせている。下卑た男達の欲望の的にされるのも納得が行く魅力があった。

「これはこれは、可愛らしいお嬢さん」寝惚け声のまま、欠伸混じりにジョウは言った。「野郎の部屋に上がり込むとは大胆な事で」

「便利屋さんに頼まれて見に来ただけよ。それにこんな格好してるけど、生憎と箱入り娘でもご令嬢でもないもんでね。男の部屋なんて慣れてるわ」

 その皮肉ったような言い回しが、ジョウは少し愉快に思えた。どことなく親しみを抱ける。だがすぐに凍りつく事になった。

「どうでもいいけど……青褪めた騎士って言うのは、マスクの事だけじゃなかったのね」少女が呟くように言った。「青褪めたような肌」

「あ……」と間の抜けた声を漏らして、ジョウはハタと気付いた。眼鏡も装備も外されていたと言う事は、当然もう一つの顔であるスカルバラクラバも外されているに決まっているではないか。詰まる所、今の自分は素顔を――正体をあらわにしたまま、彼女と向き合っている訳だ。念の為、顔に触れて確かめてみると、未だ寝惚けていた部分の意識が一気に覚醒にしていく。

「あぁ、しまったな……畜生」ジョウは今更遅いと分かっていながらも、悪態を吐かざるにはいられなかった。全ては気を失ってしまった自分が悪いのだが、便利屋の親切心に苛立ちを抱いてしまう。恐らく彼はそこまで気にせずにいるのだろう。ジョウが師である先代とは違い、バラクラバを被って正体を隠す事にした時だって、その必要性に懐疑的だった。敵は全員殺すし証拠を隠滅する伝手もあるのだから気にしすぎだと、面と向かってそう言ってのけた程度には呑気な所がある。正直な所、ジョウは時折それに不満を抱く事があった。「こんな事なら風邪を引いたほうがマシだったな」

 そして同時に、もう一つの不安が胸に生まれた。もしやと思い、ジョウは長い袖に隠された左腕に目を落とす。少し色の違う肌を見やり、彼は決して忘れ去れない嫌な記憶に顔を歪めた。この腕は戦闘にこそ使えども、人目には触れさせたくはない。それこそ素顔と同じかそれ以上にだ。

「ちょっと、そんなに怒らないでよ」少女が呆れるように言った。「心配しなくても、誰かに言い触らすような真似なんてしないから」

 目を向けると、彼女は顔を示しているだけだった。左腕には触れない辺り、特に気付いてはいないようだ。もしかしたら便利屋は、こちらにだけは気を利かせて、見せないようにしてくれたのかも知れない。きっとそうだろう。あの男にだって、『これ』にどんな思いを抱いているかくらいは分かっているはずだ。そう思い込むようにしている部分もあったが、それは少しだけジョウの心を軽くしてくれた。

「そうかい」とジョウは一度頷き、それから怪訝な顔を見せて言った。「本当にそうかい?」

「これからまた依頼しようってのに、わざわざ機嫌を損ねそうな真似をする訳無いでしょう? 学は無くとも馬鹿じゃないわ」

 そう言えば、とジョウは思い返した。意識を失う前、彼女は便利屋に新たな依頼を持ちかけていたらしい。ならば彼女の言う通り、口の堅さについても信用出来そうだ。最初から欺く意図でも無ければ、もしくは余程の間抜けでも無ければ、誰も自分の味方になってくれるはずの存在を裏切るような真似などしないだろう。そして十中八九、彼女はそう言う意図を持ち合わせてはいないと思えた。でなければ、あの寄り縋るような目は出来ないし、仮にそれが全てを騙くらかす演技派女優の芝居であったとしても、便利屋の裏付け調査でとっくに暴かれていてもおかしくないので、今頃はこの屋敷から――もっと言えばこの世からも――姿を消しているはずだ。そうでないと言う事は、つまり信用するに足ると判断してもいい証拠だった。ジョウは彼女の言葉に納得するように小さく頷いた。

「それで、その依頼についてだけど」少女が言った。「便利屋さんから話があるみたいよ。起きたのなら降りてきて」

「分かった、今行くよ」寝癖のついた髪をかき上げながら、ジョウはベッドから抜け出した。「朝食も摂らないといけないしな」

「いや、もう夕方よ」少女が少し愉快そうに苦笑した。「これじゃまるで始末屋さんって言うより、のんびり屋さんね」

 

 屋敷のリビングで、少女は始末屋の男と共に、テーブルセットを囲んで座っていた。今は食事も済み、便利屋が空の食器を全て下げ終えた所だ。

「さて、今回はお前好みの依頼になるぞ、ジョウ」台を拭き終えた後、便利屋が始末屋の男――ジョウと言うらしい――に向かって言った。

「オイ、名前まで言いやがって……」と呆れるように呟くジョウを尻目に、便利屋は続ける。

「なんせ相手は下衆中の下衆な上に、報酬は無い……タダ働きだからな」それから便利屋は、皮肉げに笑いながら彼女を見た。「お嬢ちゃんも運が良かったな。コイツがそう言う物好きで」

 少女はその呑気な言い方に少し苛立ちを覚えたが、それが事実なのは変わらなかった。今の彼女は正しく無一文になってしまっているのだから。それでも依頼せずにはいられなかった。正直な所、このまま追われて逃げ続けていても、人生を奴の好きにされているのには変わらないだろう。それは我慢ならない。そう思うと、彼が物好きである事はむしろ本当に助かる話だった。

「それはそれは、興味深いな。一体全体どんな下衆がお相手なんで?」ジョウがどこか捻くれた物言いで尋ねた。「この物好きしか取り合わないような相手なんだろう?」

「コイツだ」便利屋が自分の鞄からラップトップPCを取り出しがてら、クリップで纏めた紙の束を差し出した。それは今朝の騒動の後、依頼についての話をしていた際に、彼が集めた情報を纏めた物だった。受け取ったジョウがそれを見詰める。

「さてさて……青木照彦、四十五歳……高校の体育教師か」

「元、よ」少女は付け加えた。「今は全国指名手配の逃亡犯」

「元教師……ね。罪状は生徒を使った売春の斡旋に、強盗、暴行、脅迫……容疑も含めるなら麻薬密売と殺人教唆及び幇助もかい。なるほど、随分と手広くやっていたんだなこの野郎。どこの組織のキングピンだよ」

「お前が寝てる間に、現地の警察と新聞社の情報を漁ってみた」便利屋が補足するように口を開き、別の紙を示す。「昨年の初めに家屋が全焼する程の放火被害に遭って妻を亡くし、警察が怨恨の線で捜査した所、その悪行の数々が表沙汰になった。なんと夫婦揃って地元の売春ネットワークを牛耳っていたらしい。その規模はちょっとした犯罪組織とも言える程だったんだとさ」

「……なんだよ畜生め、全然洒落になってなかったか」少し唖然とした様子でジョウが返す。それから呆れと嘆きの混じったような声で小さく呟いた。「よくもまぁ、こんな輩を野放しに……警察もクライムファイターどもも、一体何を呑気してるんだ……」

「とまぁ、哀れな被害者から一転、大物犯罪者として御用……となるはずだったんだが、いざ直前になって突如失踪。全国的に指名手配されるものの、手掛かりは全く無く、以来今日まで行方知れずだった」

 ジョウが紙を捲り、直近の写真や運転免許証の画像と言った記録が載ったページを見詰める。少女はそこに写っている姿を目にして、胸の内に深い怒りが生まれるのを感じ、平静を保つように心掛けた。奴の顔を見る度に――いや、思い返すだけでも、狂おしい程の憎悪に支配されそうになる。今朝に至ってはそれに耐えきれずに取り乱してしまい、不憫に思ったのだろう便利屋になだめられもしたのを覚えている。

「このお嬢ちゃんは被害者の一人だ」便利屋が少女を示して言った。

「ほぉう……いや待て、どれのだ? 奴さんの罪状が多すぎる」ジョウが紙束を何度も捲り返しながら便利屋に尋ねた。「と言うより、そもそもお嬢さんの情報が載ってないんだよな。抜けたんだとしたらお前さんらしくないな、便利屋。まずは名前くらい教えてくれよ」

「あぁ、うん……それはだな……」便利屋が言い、目配せする。彼は一応ながら彼女の心を案じているのだ。少女は自分の名前を心底嫌っていた。何しろ彼女の名前を付けたのは……。その事も、今朝彼女が取り乱してしまった原因の一つだった。

「どうでもいいじゃないの」少女は平静を装いながらジョウへ向けて言った。「あなたが重視してるのは、被害者の憎悪と正当性なんでしょう? そう聞いてるけど?」

「まぁ、そうだけど」ジョウは頷き返しながら言った。それから少し冗談めかすように続ける。「いつまでも名無しのお嬢さんでいいのかい?」

「別に構わないわよ、そんな事。好きに呼んでちょうだい」

 そのほうがむしろ助かる、とまで少女は思った。名乗らなくて済むのならなんだっていい。これまでの逃亡生活中に使ってきた適当な偽名を名乗る事も考えたが、それらにだっていい思いは抱いていない。出来る事なら全て纏めて忘却の彼方へ振り払ってしまいたいくらいだったので、このまま名無しで通せるのなら都合が良かった。それから少女は、この身に募る想いを伝える為に、やおらと続けた。

「私は奴の元生徒で、売春を強制させられていたのよ。『商品』の中じゃ一番の古株で売れ筋、稼ぎ頭だったらしいわよ。お陰で奴と死んだ女房にいいようにされて、何年も好きでもない連中と寝る羽目になったわ」

 ジョウがいたたまれないように眉をひそめながら、便利屋へと目配せした。確認をしているようだ。視線を受けて、便利屋は頷いて返す。

「そうかい、そいつは……」ジョウが視線を向けた。険しい目元に憐れみの色を浮かべて、掛ける言葉を探しているように言い淀んでいた。

「まぁ、別にもう、誰かと寝るの自体はどうでもいいわ」少女は吐き捨てるように答えた。「そうでなければ生きて来られなかったしね」

 売春を強制されていた頃は、少しでも反抗すれば手酷く痛めつけられて、諦めたほうがいいのではないかと思わされる事もあった。追手から逃れる為の路銀を稼ぐ方法も、まともに働く事なんて出来ないので、大抵は男――たまに好き者の女とも――と寝るか、その懐から持ち逃げるかしかなかった。そんな中では……悲しいかな、身を売る事への抵抗感は、決して消え失せずとも幾らか軽くはなってしまっていた。だが、かつての憎悪と嫌悪感は、ずっと強く胸の内に刻まれ、今も変わらずに深く重く――むしろ日に日に濃くなるように激しく渦を巻いている。

「あのクズどもの所為で、好きでもない奴らに好き放題されるがまま、無理矢理ヤラされるのが嫌だったのよ。何年も耐えてきて、それである時プツリと来てね。夜中に奴らの家に火を着けて逃げ出したのよね」

「すると、この放火の犯人はお嬢さんかい」ジョウが少し唖然として言った。

「えぇ、全て焼き払って何もかも帳消しに出来ればと思ってね」

「中々大胆な事をするもんだな」

「悶え苦しみながら派手に焼け死んでくれたら、気も晴れるかなって」

「……なるほど、怨恨の線ってのは大当たりな訳だ。この街と違って、向こうの警察はまともらしい」ジョウは納得するように頷いて言った。

「でも消し炭に出来たのは片割れだけ。もう片方にはとんでもなく恨まれてるみたいで、今じゃ日本全国どこへ行っても付き纏われてるのよ」

「そう言えば、今朝の連中……」ジョウは思い返すようにしながら尋ねた。「奴さんら、ボスがどうのとか言っていたが、もしかしてこの野郎がかい?」

「そうよ、あれは奴の雇った下っ端ども。ああ言う雑魚を大群で従えて捕らえに来るのよ。また自分の元で使う為に、ってね」

「なるほど……いや、どうしてそんな力がある? 売春組織のボスとは言え、この野郎は所詮ただの教師……」

「元、ね」

「元教師、で元締めだろう? 幅を利かせるにしたって限度があるだろうに」

「奴の顧客が問題なのよ」少女は苛立ちながら言った。「元顧客なのかは知らないけれど」

 少女はかつての日々を思い返した。脳裏に、相手をさせられていた連中の顔が浮かび上がる。老若男女問わず、下卑た笑みを浮かべる下衆どもの顔だ。その中には、どう見ても闇稼業や裏社会と関わっているようには見えない者や、日頃の報道等でも見かけるような顔もあった。

「客の中には、地元のヤクザや不良教師とか汚職警官だけでなく、大企業の重役や政界に関係している連中も多く含まれていたのよ。わざわざ別の地域から来た連中も居たわ。お陰で資金は潤沢、コネも豊富……取引や脅しに使う弱みにも事欠かないって訳ね」

「それを使って全国を、か」ジョウは唸った。「本当に手広くやっていたんだな、この畜生め」

「街の情報屋達から仕入れてみたんだが」便利屋が低い声で言った。「どうもチンピラ連中に妙な動きがあるらしい。聞く所によると、どいつも同じマフィアが元締めのクスリの売人達って話だ。恐らくは今朝の奴らもその手合いだろう」

「そうかい、この街にも伝手はあった訳だな」ジョウは皮肉っぽく返すが、決して舐めて掛かっているようでは無かった。少女にはむしろ、その目は警戒するように細まっているように見えた。ふんと唸ると、彼は紙束を幾つか捲って尋ねた。「……で、このクズの居場所がここか」

「あぁ、新歓楽街裏手のドヤ街にある古いホテル」便利屋がラップトップに映した衛星写真による街の地図を示して言った。今朝もそれを使って確認したのを少女は思い返す。「ここだ、五十二番通りと六一六号線の角を少し行った所」

「五階だったかしらね」少女も画面を眺めながら、記憶を呼び起こして言った。「ギャングどもを護衛につけて、散々嬲ってくれたわ、あの畜生め」

「まだ居るのか、確認は?」ジョウが便利屋に尋ねた。

「それも仕入れてみた。一日そこらじゃ時間が足りなくて細かい事までは分からなかったが、似た特徴の男がやたらと取り巻きや商売女達を連れて出入りしているらしい。まだそこに居る可能性は高いって話だ」

「そうかい」ジョウは頷いた。それからやれやれと続ける。「これで報酬無しな訳か。まぁ確かに、他の連中じゃあ割に合わんと言って相手にしないかもな」

「だがお前好みだろう」便利屋が皮肉るように笑った。「こう言う外道は」

「流石、よくご存知で」ジョウは口の端をもたげて笑ったが、少女はその笑みに怒りと憎しみが滲んでいる事に気付いた。その顔には覚えがある。何故なら、鏡を見る度に同じ表情が返ってくるのだから。少女は彼に親近感を抱いた。

「で……どうするんだ?」今度は便利屋が尋ねた。だが、どこか既に分かっているような気配が感じられた。対するジョウはしばし資料と地図を見やり、それから時計を確認すると、彼に向けて言った。

「それじゃあ、早速今晩にでも出歯亀になって来るかね」

「それは受けてくれるって事でいいのね?」思わず少女は聞き返した。

「そのつもりで言ったんだけどな」ジョウは頷いて答える。「あぁ、この依頼受けるよ。まずは偵察からだが、もしも護衛の布陣や規模次第で支障が無いようなら、その場で始末して来るよ」

「そう」と頷き、少女は小さく安堵の息をついた。始末自体は引き受けてくれた。これで願いの半分は叶うだろう。後は残るもう一つのほうも引き受けてもらわなければならない。そうでなければ、きっと満足の行く結果とは呼べないままに終わる事となるだろう。

「始末の確認については聞いたかい? 普通は奴さんの死体の写真か、ニュースか新聞の死亡記事欄でとなるが、どれがいい? お好みなら首を叩き落として持って来るのもあるが……」

「待って、その前にもう一つのお願いがあるの」少女は遮って言った。「それが確認も兼ねると思うから」

「何? それはどう言う事だ?」ジョウは首を傾げる。

 少女は呼吸を整えて、努めて真摯な声色で続けた。

「私も連れて行ってくれないかしら?」

「……オイオイお嬢さん、なんだって?」ジョウが目を丸くして聞き返した。

 傍らの便利屋は黙っていたが、困ったように顔をしかめた。やれやれとかぶりを振るのが見える。今朝も同じような反応をしていたのを覚えている。彼には断られたが、実行役の始末屋本人に直訴すれば、或いは……。少女は淀み無く返す。

「始末する所が見たいのよ。いえ、正確には『奴がくたばる所が』だけど」

「正気か?」ジョウは信じられないと言った様子で問い返す。

「何よ? 始末の確認に死体見せるつもりの人が、殺人の現場を生で見せる事には抵抗があるだなんて言わないわよね? なんなら今朝は二つ並べて転がしておいた訳だし」

「あぁ、いやまぁ、そう言う訳じゃあないが……」ジョウは少し戸惑いながらも答えた。「もしかしたら、銃弾が飛び交うかも知れないんだぞ。そうなれば、そこら中穴だらけで、カートゥーンのチーズよりも酷い有り様になる訳だ。危険なのは……余程の馬鹿でも無い限り、分かるだろう?」

「そうね、それは承知の上よ」少女は真っ直ぐにその目を見詰め返して答えた。そして出来うる限りの熱意を込めて続けた。「それでも私は、奴が息絶える瞬間をこの目で見たいの。ずっと夢見てきたの、その光景を。あのクズが苦痛と恐怖に悶え狂い、慈悲を請いながらも這いつくばってくたばる様を、間近で直接じっくり見詰めて……そして思う存分嘲り笑って、踏み躙ってやりたいのよ」

 それは、もう何年も前から抱き続けてきた、大いなる怒りと恨みと憎しみだった。彼女は言葉と表情、そして身振り手振り――纏う気配全てで表し、伝えたつもりだった。

「ふむ……」と、ジョウは興味深げな表情の中に僅かな驚きを忍ばせて、唸った。それは悩んでいるようにも聞こえたし、味わっているようにも、そしてどこか懐かしんでいるようにも聞こえた。

 それからしばしの間、二人は視線を交わしたまま黙った。静かな駆け引きをしている気分だと少女は思った。沈黙に耐えられず先に破れば、にべもなく切り捨てられてしまいそうな、そんな重苦しさを感じた。ただジッとして、互いに相手の目を睨み付けるように見詰め続ける。逸らす事すら負けになるような緊張感があった。

 そしてやがて、溜め息を吐いて、彼が言った。

「気持ちは分かるが……駄目だ、連れては行けないよ」

「どうし……」

「どうして、だなんて言うなよ? もう理由は言ったはずだし、もっと言うなら足手纏いになるからだ。俺は護衛って言うのが苦手なんてもんじゃあなくてね。狙撃と並んで、例え依頼であっても絶対にやりたくない内の一つなんだよ」それから少女が口を挟む暇も与えず、彼は便利屋のほうを見て言った。「分かってるよな? 今回はふざけたホテルなんて使うなよ?」

「あぁ、心配するな。ウチの店で匿うさ」便利屋が頷いて言った。「ま、どうせ報酬代わりにしばらく働いてもらう約束なんでな」

 

「まぁ、思ってたよりも素敵な店ね」少女は苛立ち混じりに皮肉げに言った。「聞いてた感じだと、ゴミクズと虫けらの巣窟みたいな汚泥の腐りきった掃き溜めを想像してたけど、コレなら随分とマシだわ」

 便利屋の営むダイニングバー・アサイラム。夜も更け、開店時間の迫るこの場所に、彼女は居た。

 旧商店通りと呼ばれるシャッター街――都市開発計画の煽りをモロに食らって寂れてしまった通りの一角に、その店はあった。辺りが醸す退廃的な空気は、この場所に一般人がもう滅多と寄り付かず、闇に生きる始末屋や情報屋、仲介屋の逃げ場所となっている事を納得させるには充分な気配を纏っている。しかし、店内に入ればそこまで悪い印象は受けない。むしろ、清潔感が漂う欧米風の洒落た調度品と内装は、決して高級とは言わないまでも、それなりに値が張る店を思わせた。

「一応、毎日俺が綺麗にしてますから」便利屋の弟子である青年が言った。「お陰でいつも大変なんですけどね」

 ジョウよりも遥かに若く、ともすれば自らと同じかそれよりも幼くすら見える彼は、癖のある柔らかい髪の向こう側で、少し疲労感のある困ったような笑顔を浮かべている。少女は一目で、彼は苦労人なんだなと理解した。きっと、ジョウと便利屋の生み出した皺寄せを、一手に引き受けているのだろう。弟子とは呼ばれているが、その様は正しく手の掛かる父兄に参っている末息子のように見えた。

「先生とジョウさんから聞きましたけど、報酬代わりにしばらくの間、店を手伝ってくれるんですって?」

「そう言う約束にはなってるけど……」少女は小さく唸り、自嘲するように続ける。「言っとくけど、『こう言う接客』は未経験だから、あんまり当てにはしないでちょうだいね?」

「それでも助かります」弟子は、伝わっているのかどうか分からないような笑みを浮かべてそう言いながら、新しいボトルを棚に追加して行く。「なんせこの店、人手が足りてないもんで」

 十人程が座れるカウンター席にテーブル席が三つのこの店で働くのは、便利屋と弟子、そして時折手伝いに来るだけのジョウ――この三人しかいないのだ。更に言えば、始末の依頼がある時はジョウの手は借りられず、むしろ彼に危機や非常事態があれば、例え営業中であろうと便利屋はその言葉通りに呼び出されると言う。余程の場合は、常連の始末屋や情報屋がツケの支払い代わりに手伝ってくれる事があるとは言え、少女は正直聞いていてかなりキツそうだなと思った。これが巷で流行りのブラックバイトか、と苦笑する。まかないは出ても給料は出ないのだから尚更か。いや、まかないが出るだけマシなのだろうか?

「そろそろ店を開けないとな」厨房から、作業中の便利屋の声がした。「だが、今夜は忙しくなるかも知れん」

 それは営業についてだけでは無いのだろう、と少女は思った。今頃はペイルライダーの姿となったジョウが、新歓楽街とやらの裏手通りに着いて、敵性勢力の調査や標的の捜索を始めている頃だろうからだ。もしも必要があれば呼び出す、と彼が便利屋に言っていたのを覚えている。便利屋も弟子もその可能性に対して備えているのだと、雰囲気で伝わって来た。

「分かりました、先生」弟子がやれやれと答え、それから少女を見た。「一緒に頑張りましょうね……えっと、お嬢さん、でいいんでしたっけ?」

「本当にそう呼ぶつもりなのね……」少女は呆れながらも、ここでも本名を使わずに済む事に安堵した。そして出来る事なら、これで完全に名前を捨てて、全く新しい何か、これまでとは違う誰かになってしまいたいと思った。そうすれば、少しは憎悪と嫌悪だらけの気分から抜け出せるのではないだろうか。仄かな希望を胸に抱き、彼女は弟子へと言った。「何か他にいい呼び名を思い付いたら教えてちょうだい、お弟子さん?」

「そうですね……考えときます」

「楽しみだわ、素敵なのをお願いね」それからふと悪戯心のままに、少し弄ぶような声色で念を押す。「あぁ、可愛いすぎても駄目、格好良すぎても駄目、だからね? 可愛くて格好良くて、素敵な奴を、よ」

「うーん、難しい事を……まぁ、頑張ります」弟子が困ったように苦笑して答える。その様子のほうが似合うと思えるのは、ジョウと便利屋の影響で苦労人の文字が彼の全身に刻み付けられるように馴染んでしまっているからなのだろうと少女は思った。

 やれやれとかぶりを振りながら、弟子が入り口へと向かった。表に掛けられている札を、準備中の表記から開店へと変えに行ったのだ。彼が戻ってきて定位置らしきカウンターの向こう側に立つと、間もなく一組目の客が入店した。

 少女はそれを見やり、弟子の指示に従いながらも、思考は別の事へと切り替えていた。それは如何にして彼らの目を盗み、この店を抜け出すかだった。

 結局あの後何度頼んでも、ジョウは頑なに同行を許してはくれなかった。ならば許可など求めないままに実行すればいい。彼女はそう考えたのだ。件の裏手通りまでは、地図で見た感じ、徒歩だと十分か十五分くらい南へ下った所とそれなりに離れていたが、決して行けない距離では無かった。幸い、こちらが抜け出す機を窺う必要があるように、始末屋にも攻め入る機を窺う時間が必要になる。全力で向かえば、きっと始末を始めるか、もしくは終えるまでには間に合うだろうと思えた。もしも運が良くて早々に抜け出せたなら、その時はまだ偵察の最中に辿り着けるかも知れない。ならば行かない理由も無いだろう。奴の無様な死に様を目にする事が出来るのなら、何を捨て置いてでも、どうしてでも行かなければ。その思いが彼女の胸を支配していた。

 例え身の危険が迫ろうが構うものか、本懐が遂げられるのなら……と、その事についての考えは敢えて隅にやるようにしておいた。迷いや恐怖が微塵でもあれば、動きが鈍りかねないからだ。確かに今朝はほとんど失敗したと言えるが、それでも今度は人混みの多い街中を行くのだ。所変われば、きっと上手くやれるはずだ。

 実行の時を怪しまれずに見計らう為にも、彼女はそれなりに真面目に業務をこなしていった。その姿を、何人かの客が獲物を見つけた狩人のように目で追っていた事には、まるで気付いていなかった。

 

 拳銃を腰に携えたチンピラ達が、数人の年若い娼婦とともに部屋の中へと消えて行く。扉が閉まり、品の無い嬌声が漏れ聞こえてくると、その小さな円盤状のマシンは静かに踊り場の影から姿を現した。三つの回転翼で宙に浮かぶ掌大のそれは、便利屋と弟子とで作り上げた小型の偵察用ドローンだった。軍用規格を遥かに超える高い静音性を持ち、機体中央上下に備えられた鉤爪状の多脚を展開すればあらゆる角度の地形を這い回る事が出来る優れもので、高性能カメラと指向性マイクで捉えた情報をコントローラーに送信、記録する。操っているのは無論、ペイルライダーである。

「さぁ慎重にだ、ピーピング・トム……」屋上に吹き込む風を浴びながら、彼は独り言ちた。「また壊したら何言われるか分からんぞ」

 そこは、ざわめくドヤ街の一画にある七階建ての古いホテルだった。全ての窓は薄汚れ、堅くカーテンが閉ざされている。塗装も剥げて地味な外観は、安さの他にも治安の悪さと不穏な気配を漂わせていた。その実それは的を射ていて、この建物はほとんど売春宿として運営されているようだった。付近の路上で客引きをする娼婦達の、艶めかしくも姦しい声が絶えず聞こえてくる。

 屋上管理用の扉の脇に屈みながら、ペイルライダーはモニター付きコントローラーを操作していた。一通り周囲を観察した結果、外から内部を窺い知る事は出来ないと判断して、こうして直接潜入の上で偵察に乗り出しているのだ。

「あぁ、全く……慣れないな」画面を見詰め、インカムとは逆の耳に装着したイヤホンに送信されてくる音声を聞きながら、舌打ちをする。実のところ、長くやってきても尚、こう言うのは得意ではないのだ。だが自ら乗り込むにしてもまだ早い。まずはこれで敵の居所と布陣の下見といかねばならないだろう。

「やっぱりダクトか天井裏使えば良かったかな……」ポーチに仕舞ったままの便利屋が寄越した見取り図を思い返し、唸る。「でも、手間だしな……」

 確かに天井裏やダクトを通れば、周りを気にせずに進んで行けはするのだろう。だがそれにはまず室外機に細工をしなければならなかったし、その上で防火素材やファンの位置と言った構造次第では足止めや迂回をさせられたり、送電設備を弄って機能を停止させる必要があったりと、諸々面倒が多すぎた。更にはカメラやマイクを向けられる角度も限られる為に、映像や音声を捉えきれなくなる可能性も高い。そうなればまた別ルートへ迂回をしなくてはならないので、初手から行うにはあまり気乗りがしなかった。同じ二度手間でも、まずは通路から様子を探り、必要があれば隙をついて室内に侵入するか送り込み直すかを選ぶほうが、得られる情報が幾分かマシだろうと考えたのだ。

 ペイルライダーは警戒しながらゆっくりと偵察ドローンを進めた。ドローンは小型の円盤らしく、人間に比べて接触と発見のリスクがかなり減る。発する騒音も余程接近しない限りは気取られない程度だ。とは言え、決して無くなる訳ではないので、油断は出来なかった。見付かって叩き落される可能性もあるし、過去には実際にその経験もあった。機体には非常時に際しての自壊機能を備えている為、解析されてこちらの情報が漏れる事は無いにせよ、避けられるのなら避けるに越した事はない。それに全損すれば、一機の金額で始末二、三回分の報酬が消し飛びかねない。なので、映像だけでなく周囲の音声にも最大限注意を払いながら操縦した。その警戒と、安宿故に各所に設置されたカメラが配線の無いダミーである事が幸いして、機体はなんの支障も無く階下へ降りる事が出来た。

 六階までやってくると、廊下側から近付く声を感じて、ペイルライダーはドローンを上昇させて隠しつつ、カメラを向けた。何人かの男女が歩いて来るのが見える。展開した多脚で天井に張り付き、様子を窺うと、その徒党は隅の部屋のほうへと向かった。娼婦達の事を振り返った男達の上着の内に、スリングで吊るされたMAC^11^サブマシンガンが垣間見える。男達は下卑た笑顔で娼婦を囲み、そのまま中へと入って行った。

 扉が閉まると、こちらに来なかった事に安堵しながらも、ふむと彼は唸った。

 一ブロック北の路地裏にオートバイを隠してから、立ち並ぶビルの屋上を通ってこの建物に来るまでの道すがら、地上の様子を眺めてきたが、今日はいつにも増して、これ見よがしに武装したギャングの集団が多く感じた。鳴海市のドヤ街では普段からチンピラ達が娼婦を連れ込む姿がよく見られるのだが、それでもいつもなら誰もが切り札を持つように得物を隠している。そもそもこの街は汚職と腐敗によって無法地帯に近いが、一応日本国内の街なのだ。要らぬトラブルを避ける為の選択をするのが常だろう。だが、今はまるでその逆だった。こうして牽制のようにその存在を主張しているのは、己の力の誇示と言うだけでは無いのだろう。矢張り情報通りに、標的はまだこの建物内にいるのかも知れない。あの連中は警護の休憩かサボりがてらにお溢れを貰ってお楽しみの最中なのか。

 再びドローンを降下させる。やがて五階に辿り着いた。

「さてさて、どうかね」少女の話によれば囚えられていたのはこの階で、標的も同じくここに居たと言うが、果たして……。

 廊下に出る角の手前で、もう一度機体の多脚を展開して天井に接地させ、静かに進めて先を覗き込む。

 片側に五つの扉が並ぶ通路の、ちょうど中央にある部屋の前で、暇そうにたむろする男達の姿が見えた。数は二人。片手には火の着いた煙草、もう片手には黒光りするベレッタ系列のような拳銃があり、どちらも手持ち無沙汰に弄んでいる。どうにもギャングどもがやりそうな、あからさまな護衛の姿だった。

 突き当りにあるエレベーターが到着の表示を光らせた。扉が開くと、何やらいかめしい雰囲気の二人組が姿を現す。同時に、苛立つような話し声が聞こえてきた。

「……けたら電話しろってったの誰だってんだよふざけやがって」

「金くれるってもこんな小間使いかよなぁ」

 不穏な気配を感じて、ペイルライダーは集音機能を調整する。周辺の部屋から漏れ聞こえていた耳障りな喘ぎ声も増すが、なんとか集中する。

「ったくよぉ、ボスの昔なじみたぁ言うけどよ、随分なご身分なこって……」

「いやマジ、ナニ楽しんでやがんのかね。オラ開けろ、急ぎだ」

 上がって来た二人の男が頷きかけると、護衛らしき連中は扉をノックし、それから少し待って、返答が無い事にうんざりした様子で開けた。悲鳴に近い嬌声が更に大きくなる。しかしこの物々しさは、単にお盛んなだけの部屋ではないだろう。そして普通、この街で護衛を付ける程の地位にいる連中ならば、こんな安い売春宿と女など使わない。となれば、市外から来たお客人――それも余り好ましく思われていないような関係の――がそこに居ると言うのが有力な流れだった。事前の情報と照らし合わせても、標的はまず間違いなくここに居るのだろう。後は確実に始末する為にも、室内を覗いて青木照彦の姿と位置を確認するだけだ。

 だが、どうしたものか。あれだけあからさまな護衛がついていると、隙を突いて機体を天井伝いに扉から送り込むだなんてのは少々困難だった。面倒だが、ここは仕切り直して見取り図と睨み合いをする頃合いだろうか。そう思っていると、ふと違和感に気付いた。……部屋からの喘ぎ声が消えている?

 代わりにマイクは、何やら話し声を拾った。

「あぁ? 見付けたのか!」威圧的な大声が問う。

「へぇ、情報屋から連絡受けた連中が追ってやす」先程入っていった片割れらしき声がする。ペイルライダーは集音機能を更に上げた。混じり込む雑音を必死に無視する。

「どこだ?」威圧的な声がまた問い掛ける。

「待ってくだせぇ……おぉ今どこだ?」もう片割れが答えた。まるで電話をしているような受け答えだった。「あぁ……五十四をだな、分かった。……へぇ、こっからだと北に……」

 そこで、突然インカムに入った通信が全てを遮った。

『ジョウ、聞こえるか! 問題発生だ!』便利屋の声が耳を打つ。運転中だろうか、エンジン音のようなものが混じっている。

「なんだよ、便利屋?」PTTスイッチを押して応答する。「今忙しいんだ」

『お嬢ちゃんだ! 彼女が居なくなった!』

「……何?」思わず、素っ頓狂な声が漏れ出る。

 同時に、扉を開け放つ音と、何事か話す声が聞こえた。画面に意識を戻して見やる。

「ったくよ、早くしろよオラ」と急かす威圧的な声がして、部屋の中からぞろぞろと数人の男が姿を現した。拳銃を腰に差したガタイのいい男達に囲まれるようにして、標的である青木照彦の姿が見える。彼らは服を着込み直す為にもぞもぞと身動ぎしては、面倒そうに顔をしかめていた。或いはお楽しみを邪魔されて不機嫌になっているのだろうか。

 見付ける事は出来た。だがこれでは、今すぐ向かって射撃を浴びせ掛けたとしても仕留めきれないだろう。MP7の銃弾は軽いボディアーマー程度ならそれ諸共肉体を容易く引き裂きズタボロに打ちのめす威力を持つが、これだけの肉の壁があっては逃げられる可能性のほうが高かった。貫通させた弾を当てるにしても、肉や骨の影響を受けた弾道は不確定要素が多すぎるので、些か厳しい。意外に大所帯を前にして、思わず唸る。

「おぉ、オメェら車用意しろ。あと何人か連れてこい。今から行くぞ」青木照彦が扉の脇に立っていた男達の肩を叩いて、矢継ぎ早に言った。

「あい」歩き去ろうとした男の片割れがハタとして言った。「……って、どこにすか?」

「あー、どこってった?」青木照彦は室内を振り返る。

「今どこだ? ……あぁ、五十三に抜ける?」先程入っていった内の一人が傍らに寄るのが見えた。矢張り携帯電話を耳に当てていた。頷いて答える。「分かった。……へぇ、八ブロック向こうの裏路地で追い付いたと」

「そう慌てなくても、着く頃には囲んでやすよ」もう片割れも駆け寄り、機嫌を取るような声で続けた。

「ハッ、そいつぁ楽なこった。お前らもやるじゃねぇか」青木照彦が一転して上機嫌な声で言った。それから歩き出す。「オラ、行くぞ」

 男達の塊が悠然とエレベーターを目指して動き出した。だがそれを見送るまでもなく、ペイルライダーはドローンを屋上目掛けて戻し始めていた。

「慌てるな、焦らず急いで丁寧に、だ。それが一番の近道って知ってるだろう?」素早く操作しながら、睨むように画面を見詰める。「だからこのポンコツめ、さっさと戻って来いよさぁほら早く……!」

 万が一にも降りてくる誰かにぶつからないように、天井間近を飛ばし、上へ上へと昇って行く。その最中にも、焦る思考は巡っていた。

 便利屋からの通信と連中の動きが重なったのは、どう考えても偶然ではない。それにこの街で青木照彦が探し、追いかけている者など、一人しか居ないだろう。それから頭の中に地図を浮かべて思い返す。連中の言っていた場所は便利屋のバーからこちらへ向かう途中にある。旧商店通りとこの裏手通りの間は、徒歩で移動するには些か面倒な距離があるはずなのだが、あの少女はそれを歯牙にも掛けない執念を持っていたのだろう。

 いや、とっくに分かっていたはずだろうに。ペイルライダーは髑髏の模様が歪むほどに顔を顰めた。少女の全てを支配する強くおぞましい感情の重さは、もう充分受け取れていたはずなのだ。だからこそ便利屋の店に匿われているのなら、護衛にも監視にもなって、要らぬ心配をせずに済むと思えたのに……。

 いやそれも違う、悪いのは自分だ。全ては己の見立ての甘さが原因さ、死神気取りのクソ間抜けめ。ペイルライダーは八つ当たりにコントローラーを叩き付けてしまいたくなる気持ちを必死に抑えた。そうさ、全部自分が前もって対策も出来ない阿呆で、クソの役にも立たないのが悪いんだろうよ、甘ちゃんのクズめ。他人に任せたりなんだのとするからいけないんだ。だから依頼人が、弱い善人が、本懐も成し遂げられずに悪党に襲われて、挙げ句の果てには死んでいくのさ。

 彼女の身に何かあれば、今度こそは耐えられないかも知れない。心のどこかでは、きっと攫われるだけだろうとも楽観的に思いたかったが、その果てに命を落としては殺されるも同義だ。もしも依頼人の命を奪われたら――それも二度も続けて――最早、助けを求める弱い善人の為に悪党を始末すると言う信条も見境も何もかもかなぐり捨てた、今以上の外道の殺戮者に身を落としかねない。それは悪夢以外の何物でもなかった。冷や汗がバラクラバにジットリ染み込んで、嫌な感触を生む。

 乱暴に扉を開け放つと、飛び込んできた機体を強引に鷲掴みにして機材と纏めて仕舞い、ペイルライダーはインカムに向けて叫んだ。

「便利屋、お嬢さんの居場所はここから北に八ブロックの路地裏、五十三と五十四の間らしい!」

『本当か!?』

「あぁ、連中が言ってたんだ、確かだろうよ!」駆け出して、通りのほうを見下ろす。ホテルの入口の前に並んで停まった三台の厳つい車に、ぞろぞろと連中が集まり、乗り込む所だった。青木照彦はその内の先頭車両、左の後部座席に乗り込んでいた。「お前さんは先に向かってくれ! 俺は……」

 動き出した車列にMP7を構え、発砲しようとして、逡巡してしまう。MP7は到底ロングガンとは言えないが、それでも有効射程圏内ではあるので、撃てばきっと足止め以上の威力を発揮してくれるだろう。だが、少なからず集弾性は落ちる。周りには客引きの娼婦や三下ギャングのみならず、無関係の人間も多く、撃ち合いになれば流れ弾で傷付けてしまったり、最悪死なせてしまう可能性が高かった。それに、既に危機に陥っている依頼人を放り出して、その結果攫われたり殺されたりだのしては元も子もない。迷いと嫌な緊張から心臓が早鐘を打ち、余裕の無くなった荒い吐息として外へ漏れ出す。

「あぁクソッ……いや、僕もすぐに向かう!」遠退く車が通りから出てしまう前に、ペイルライダーは駆け出した。MP7の安全装置を掛けてウェポンキャッチで止めると、ワイヤーショットを使ってビルの谷間を飛び降り、斜めに打ち出してまた飛び上がる。そうして跳ね跳ぶ要領で移動し、一ブロック隣にある陰気な路地裏にまで辿り着くと、隠しておいたクルーザーに跨った。

「出遅れた? いいや、まだだ。まだ間に合うって、大丈夫さ……!」そう言い聞かせるように呟きながら、マシンに火を入れ、勢い良く走らせる。「さぁ、走れ風のように、ブルズアイ!」

 知る限りの裏道を駆使して、出来る限り直線距離で形振り構わず飛ばせば、奴らよりも先に着ける可能性だって僅かにだが残されている。それを掴む為に今は、全力を注ぐのだ。

 

 迂闊だったか、と少女は思った。決して予期していなかった訳ではないが、それ以上に胸の内に渦巻く執念に駆られ過ぎ、全速力で走り続けていて、周りが見えていなかったのだ。

 常連達の巻き起こした乱痴気騒ぎに乗じて店を抜け出した後、大通りを横切った彼女は、ふと近道の為に、地図で見たこの路地に逸れた。表通りだけを使うのなら人混みを武器に出来るが、矢張り時間が掛かり過ぎる。それに比べて裏路地も使えば、距離も含めて幾らかは短縮出来る。襲われたら回避の術が減ると言う危険は付き纏うが、彼女は時間を取る事にした。そうして少しばかり喧騒から離れたお陰で、彼女は迫り来る不穏な気配を察知したのだが、その頃には時既に遅しと言わざるを得ない状況にまで陥っていた。

 気付くと、六人程の屈強な男達が彼女の周囲に現れて、威圧するように立ち塞がっていた。いつから見付かっていたのかは分からないが、敵の寄越した手下達であるのは間違い無い。ただの野盗や通り魔だとかなら、とっくにナイフだの拳銃だので襲い掛かって来ていてもおかしくないからだ。そうではなく、取り押さえて連れ去る事を目的としているからこそ、その懐に見え隠れする凶器の類は出さずに徒手空拳のままなのだろう。

 さて、どうするか……と少女は冷や汗混じりに思った。もしここに入る前であれば、今だ活気付く人混みの中で小回りを活かし、撹乱して逃れる事も出来たろうに。残念ながらこの辺りには、どこかの商店が使っているのだろう満杯のゴミ箱や解体された段ボールの山、空になった組み立て式の台車だとかが室外機と並べられるように隅に纏められているだけで、そう言った荒事からの回避に利用出来そうな障害物は無い。

 路地は、少女から見て左手の真ん中辺りで建物が分かれて広い隙間があり、それが脇道となって丁字路の形をしている。男達はその全てを塞ぐように三方に立ち、彼女の退路を奪っていた。正面からでは何も無しに彼らの脇を潜り抜けるのは些か厳しい。一瞬たりとも見逃さないと言うように睨みつけながらも、何を考えているのかがすぐに分かるニヤけ面で、ジリジリと迫ってくる。今朝の奴らと同じく、既に勝った気でいて、今はこの嬲るような状況を楽しんでもいるのだ。

 少女はポケットから血錆の浮いたカッターナイフを取り出した。刃を伸ばし、身構える。だがこの人数差だ、きっと捕まるほうが早いだろう。勿論全力で抵抗はするが、どこまで倒せるだろうか。いや、今はとにかく、出来るだけ多くを傷付け、ぶちのめす事に集中するしかない。

 男達の内の一人が掴み掛かってくる。それを屈んで躱し、お返しとばかりにナイフを振る。前腕部を深々と斬り付ける事には成功したが、それで終わりだった。背中から別の男に掴み掛かられ、彼女の自由は奪われた。

「クソっ!」羽交い締められるように両腕を拘束され、少女は悔しげに唸った。逆手に持ち直したカッターナイフを突き立てようにも、肘を動けなくされているので、空を切るだけで役に立たなかった。踵で爪先か足の甲でも踏み付けてやろうとしたが、体格差から強引に持ち上げられて失敗する。

「畜生ッ!」彼女は悪態を吐いて藻掻き、せめてもの抵抗として、前から掴み掛かろうとした男のみぞおちを思い切り蹴飛ばした。その男が悶絶して後じさると、続いて入れ替わるように現れた別の男には鼻っ面へ蹴りを入れる。「寄るな、このクズどもが!」

 仰け反った男が姿勢を立て直し、血と怒りに赤面しながら殴らんと迫る。体格差を考えれば、当たれば無事ではすまないだろう。蹴りをもう一度繰り出すが、力任せに振り払われてしまう。これで避ける術も防ぐ術も、彼女の手の内には何一つ無くなった。拳が振りかぶられて、数秒もすれば体か顔に突き刺さるだろう……。

 その時、突然脇道のほうから低いエンジン音が近付いて来たかと思うと、眩い光が照射され、辺りを真っ白に染め上げた。少女を含めて全員が思わず目を向け、怯む。どうやら大型の車がヘッドライトをハイビームにしているようだ。急ブレーキの音がして、その車は停まったのが分かった。

 ――今度は何!?

 彼女はそう思ったが、次の瞬間には思考を遮るように、新たな音が鳴り響いていた。別のエンジン音と、くぐもった射出音――それは今朝も聞いたような、抑えられた銃声だった。大型の車とは違って、それらは五十三番通りに抜けるほうから聞こえてきた。そして少女の目の前で、次々と男達が悲鳴を上げ、血飛沫と共に倒れていった。直後、急に体が軽くなったのが分かった。恐らく不意を突かれて力が抜けたのだろう、羽交い締めにされていた腕が緩んだのだ。そのまま開放されると、彼女は爪先が地面に着くと同時にしゃがみ込んだ。なんであれ、撃たれたくはない。まだ死にたくはないし、死ぬ訳にはいかない。やや遅れて、背中に熱い液体が掛かるのを感じ、ドサリと倒れる音が後ろから聞こえてきた。

 後から聞こえたエンジン音が迫り、彼女の目の前にアメリカンクルーザータイプのオートバイが姿を現した。男達の内の一人、まだ呻いていた輩の頭を轢き潰し、その首をグルリと明後日の方向へ捻じ曲げてから、停まる。

「オイオイ、誤射はしてないはずだぞ……!」眩しい輝きに包まれる世界の中、ペイルライダーの声がした。少女は声のするほうに目を向ける。クルーザーから降りた彼は、銃で男達に止めを刺しながら彼女へと駆け寄ると、左腕の剛力で無理矢理その身を引き起こした。「さぁほら立て、行くぞ!」

 彼がここに居ると言う事は、もしや……?

「始末したの!?」少女は問い掛けた。「ねぇ! 奴は殺ったの!?」

「お前さんのほうが先だ!」ペイルライダーは緊張感と怒気を孕んだ声で返した。

 一瞬どう言う意味か分からなくなったが、少女は直ぐに理解した。彼は放り出してきたのだ。それは間違いなく自分を守りに来たが為だろうと悟った。まだあの男が死んではいない事に落胆と安堵の入り交じるような気持ちを抱きながら、少女は髑髏の顔を見た。ペイルライダーは彼女の体を小脇に抱えるようにしながら素早く走り、丁字路で眩く光るヘッドライトの元へと向かう。

「乗れ! 早く!」彼に押し込まれるままに、少女は車の後部座席に乗り込んだ。その薄汚れた大柄なバンには見覚えがあったし、仄かに酒と油と血の臭いが混じる車内にも覚えがあった。これは便利屋のものだ。彼の店へと移動する際にも乗ったので記憶にも新しい。

「行け、便利屋!」ペイルライダーは言うと、スライドドアを閉め、二度強く叩いた。それは彼らの中での合図らしかった。

「出すぞ、掴まれ!」運転席の便利屋が言い、直後にバンは急発進した。少女は素直に座席にしがみつく。車はゴトゴトと死体の上に乗り上げながら、勢いのままに角を曲がって、路地を抜け出して行く。

 少女は背後を振り返った。視界の中で、ペイルライダーが何かに向けて激しく射撃をしていた。あれは、何台かの車だろうか?

 

 便利屋のバンと入れ違うように姿を現した車列を見て、ペイルライダーは素早くMP7を構えた。見紛う事なく、その車は青木照彦とその取り巻きの乗った車だったからだ。便利屋のバンは角を曲がって消えて行く所だが、このまま一緒に逃げたのではすぐに見つかって追いつかれてしまうだろう。救出に間に合ったのだから、退却も間に合ってくれてれば良かったのに。そう思いながらも、思考を足止めへと切り替えて、逆光の中、運転席の辺り目掛けて銃弾を浴びせ掛ける。

 急ブレーキして止まった車両に対して、その弾丸は見事命中し、窓ガラスの内にベッタリと血が付着したのが見えた。だが直後には全てのドアが開き、銃を握った男達が続々と降りて来た。後ろに続いていた車両からも同じように、徒党を組んだ男達が降りて駆け寄ってきている。何にも身を隠していない状況では、とてもでないが正面からまともには撃ち合えない。

「いやいや洒落にならんての……!」反射的に、ペイルライダーは踵を返して走り出した。

「おぉ撃て撃て、撃ち殺せッ!」青木照彦のものと思える声がして、男達がそれぞれ手にした銃を発砲したのが分かった。激しい銃声の嵐――拳銃の単発だけでなく、サブマシンガンの乱射も聞こえる。

「オイオイオイオイ、不味いってそりゃあよぉ!」ペイルライダーはオートバイの上を飛び越すようにしてその影に隠れ、正に間一髪、辛うじて銃弾の雨を回避した。金属同士のぶつかる音が響き、地面や壁で弾け、あちこちで弾が爆ぜているのが分かる。危なかったと荒い吐息を漏らすが、まだまだ到底安心出来る状況ではないのは明白だ。

「あぁ、クソッ……畜生! 数だけ揃えた下衆どもが一丁前に張り切りやがって……! 調子に乗ってんじゃあないよこのクズどもが……ッ!」悪態を吐きながらも、どうにか打開せねばと、ペイルライダーはMP7を抱え直した。

 車体を盾にしたまま銃口だけを覗かせて指切り撃ちで反撃し、逆光の源であるヘッドライトを狙う。だが、向こうからの発砲を受けていては中々上手くは行かない。ボンネットやフェンダーに罅が入る音はすれど、ライトには当たらず、一向に光は消えない。

 ならばとまずは隙を作るべく、狙いを青木照彦に変え、記憶を頼りに立っていたであろうその辺りへと銃弾を浴びせかける。だが、傍のガラスやドア、隣で射撃していた別の男に当たるだけで、肝心の標的に命中した様子は見られない。ただのチンピラ一人が倒れただけでは戦闘に興奮する敵もそう動揺はせず、射撃の勢いに止む気配も無かった。

 やがてMP7の弾が切れ、引き金が悲しい音を立てた。舌打ちしながらも素早く弾倉を交換して応射を続けるが、先程の奇襲から一転して、追いやられているのはペイルライダーのほうだった。

 銃撃を代わりに引き受けてくれているオートバイが、見るも無残に破壊されていく。メーターやミラーは吹き飛び、シートも破けて弾け、ハンドルは明後日の方向に折れ曲がって歪んでしまっている。便利屋の手によって防弾仕様に加工されているお陰で、銃弾は追加装甲等で弾けたり止まったりしていて、まだ車体を貫通してはいないが、それが破られるのも時間の問題だろう。

「あぁ畜生、これはまた何か言われるぞ……」と、溜息混じりの声が漏れた。今までにも始末の最中に車両を破壊されたり、足が付かないようにと爆破処理した事は数え切れないくらいにあるが、その度に便利屋から文句や嫌味を聞かされてきた。正直勘弁願いたい話だ。確かに車体の手配から整備やら改良を行うのは便利屋だろうが、乗り回しているこっちにだってそれなりに思う所はあるのだ。まるで嬉々として行っていると思われるのも腹立たしいと言うか苛立つと言うか……。

 とは言え、最早このマシンに未来は無い。そしてこのままではライダーも含めて人馬一体にあの世行きだ。如何に死の騎士の名を掲げてはいても、そんなツーリングは真っ平御免としか言えない。

「もう道が無いってか? まぁ、そうだよな……クソッ、仕方無いか……!」ペイルライダーは再び弾の切れたMP7をウェポンキャッチで留めると、腹部のポーチからスモークグレネードを取り出した。煙幕を張るだけの非殺傷手榴弾なので敵対存在に対する完全無力化には効果が薄いが、一時的な目眩ましとして攻撃能力を低下させる事は可能だ。それを二つ、ピンを抜いてレバーを飛ばし、マシンの向こう側に投げると、腰部のホルスターから抜いたワイヤーショットに持ち替えた。周囲に白く濃い煙が漂い、敵との間に隔たりが出来たのを確認してから、ガジェットを頭上に構え、ビルの屋上付近の壁面に目掛けて撃ち放つ。最早リロードや拳銃へのスイッチを挟んでまで、この場で応戦する必要も無い。留まっていれば、ジリジリと追い詰められて負ける――殺されるのは目に見えている。ならば、動く事で状況を変えて、打開を図らねば。フックが壁面に食らいつくと、左腕を盾にするようにして構えながら、ワイヤーの巻取りに身を任せ、ペイルライダーは空の闇へと舞い上がった。

「上だ! 撃て!」すぐに怒号が聞こえ、一瞬遅れて後を追うように、銃弾の雨が空気を裂いて飛び、ビルのコンクリート製の外壁を穿つ。大半は反応に遅れて足先にすら及ばぬ遙か下方に着弾している。しかし、決して全てでは無い。油断は出来ない。

 そう思った僅か数瞬の後に、一発、銃弾が左腕に命中した。ガキンと金属質な音を立てて逸れた弾丸は、そのままMP7とポーチに収めていた弾倉の脇を掠めて腹部に命中、ケブラー製のベストの生地を裂いて防弾プレートに深く突き刺さった。

「ぐぁ……ッ! こ、の……クソが……ッ!」ペイルライダーは思わず力が抜けてワイヤーショットを離してしまいそうになったが、歯を食い縛って堪えた。転落すれば全身が砕けて死ぬか、良くて重傷だろうが、どうせその後に連中の手で確実にトドメを刺されてお終いだ。結局は死ぬ。

 どうにか屋上に転がり込むと、腹部を押さえ、呻いた。身悶えするような痛みが走って絶叫を上げそうになり、それを必死に抑え込む。場所が場所だけにターニケットは使えないし、止血剤を含んだパッチを当てる必要がありそうか。そう思いながらタクティカルグローブに包まれた掌を見やると、幸いにもそこに赤い物が付いていない辺り、どうやら出血は無いようだった。拳銃の弾倉やMP7のボディが凹んでいる辺り、それらによっても幾らか緩和されたようだが、何より防弾素材と『左腕』のお陰だと思った。だが打撲か骨折か、吐き気を催すほどの酷い激痛が腹部から響き、絶えず彼を襲っている。

「やって、くれたな……この、ゴミクズどもが……ッ!」ペイルライダーは意地の力だけで身を起こし、膝を突いた。

 未だに銃弾がビルの縁を削って爆ぜている。角度的には絶対に当たりようも無いが、怒れるギャングどもにはそれも関係無いのだろう。とは言え、本能的にこれ以上の被弾を抑える為にと姿勢を低くして影に隠れながら、ペイルライダーは胸元のポーチから取り出したリモートキーのスイッチを押した。

「お返しだ、クソッタレ……くれてやるから、ありがたく……喰らいやがれッ!」

 マシンが派手な爆発と共に辺りに吹き飛んだ。ややあって静かになった階下を覗き込むと、煙幕の掻き消えた中で倒れ込む大勢の人影が見えた。死んだ者も居れば、爆風に煽られたかそれを避ける為に地面に伏して呻いている者も居る。散らばっている手足は、オートバイの間近に倒れていた死体が爆ぜたものだろうか。

 少し探すと、残念ながら青木照彦は死体にはなっていなかった。彼はまだ車両の影に居たので、そこに倒れる事で直撃を喰らわずには済んだようだ。だが、他の面々と同じように、地面の上で蠢いている。

 これは好機だろう――但し、こちらが万全でさえあれば。

 射撃姿勢を取れなくもないが、地上まではかなりの距離があるので、短機関銃で命中させるには狙いの精度が必要だった。それには痛みの震えを堪えなければならない。残念ながら自力では少しばかり難しい。軍で使用するような強い鎮痛剤でも打てればすぐにでも抑えられるのだろうが、それは同時に意識が朦朧とする副作用がある。戦闘など到底継続は出来ないので、そもそも携行していなかった。周辺への巻き添え被害が大きすぎるので、普段から破片手榴弾の類も装備しておらず、では降りて格闘戦に持ち込めるかと言えば、当然そんな訳も無い。

「クソッ……!」と吐き捨てて、拳を握り締めた。だが今のままではどうしようも無く、状況も悪いままだ。ここは一旦体勢を立て直すしかない。彼は荒い吐息のままに無理矢理立ち上がった。戦わないのであれば、集中すればまだ幾分かは堪えられる。今はとにかく戻って手当てを受けて、次の機会に備えるしかない。

「絶対に、許さんからな……次は撃ち殺してやる……掛かってくる奴は全員この手でズタボロに引き裂いて、親ですら生ゴミと見間違えるような姿にしてやるよ……ッ!」

 ペイルライダーはワイヤーショットを握り直し、屋上を必死で駆けて行った。髑髏の顔の中で歯噛みする。こんなはずでは無かったのに……!

 

「オイ、ありゃなんだ?」ホテルの部屋に戻り、青木照彦は顔に掛かった返り血と汚れを拭うと、周りの手下に問い掛けた。「あのバカみてぇなカッコしてた奴のこったよ」

 血と埃にまみれた上着を放り投げ、舌打ちをする。

「クソ、邪魔しやがって……オイ、てめぇらの仲間が殺られたんだぞ。誰かなんか情報はねぇのか?」

「多分アイツぁ……始末屋だ」髪の乱れた髭面のギャングが答えた。顔に血飛沫を浴びた跡のある男だ。青木照彦は思い出した。同じ車に乗っていて、その助手席に居た男だった。運転席の男が銃撃を受けて死んだ際、その血を浴びたのだろう。髭面は参ったように髪を掻き上げて撫で付けながら言った。「聞いた事がある。髑髏顔の死神……ペイルライダーって奴の話を」

「なんだそのフザけた名前は? ガキのお遊びみてぇだな」青木照彦は鼻で笑うが、名前を聞いた途端に男達は全員神妙な顔付きになっていた。

「髑髏顔……」

「あぁ言われてみれば確かにありゃ髑髏顔だった……」

「あれが死神だってのか……?」

「マジかよ畜生……」

「俺ぁ初めて見た……」

「たりめぇだろ見た奴ぁ大体死んでんだよ」

 周りがざわつく中で、髭面は視線を落として続ける。

「始末屋ってのは大抵面倒な連中だが、中でも髑髏顔の死神は特にイカれたヤベェ奴だ……。先週、港でバルベルデからのヤクを水揚げしてた連中が殺られた。ボスがサツに金握らせて情報漏れねぇようにしてたってのに……どっから嗅ぎ付けたのか知らねぇが突然そこに現れて、その場に居た十人以上をたったの一人で血祭りに上げやがった」

「ほぉう? まるで見てきたような口ぶりじゃねぇか。なんだ? そこに居たのか?」

「いやちげぇよ、俺じゃねぇ……俺の弟がそこに居た。最後の電話が忘れられねぇ。助けてくれって泣いてたよ。髑髏顔の奴が来た、あれは死神だ、って……銃声と爆音の中で悲鳴上げながらさぁ。……兵隊揃えて駆け付けた時にゃもう、弟は首捩じ切られて燃やされてて……残ってたのは頭、それも顔の半分だけだったよ」

「あ、アンタ……こっから離れたほうがいいぞ……」禿頭の男が顔を青褪めさせながら項垂れて、ようやっと言った。「狙いは恐らくアンタだ」

「なんでそう言い切れる?」青木照彦は問い返した。

「分からねぇか? アンタの周りに居た奴ばっか撃たれてた! 車を見れば分かる。弾の痕もアンタの居た近くに集中してた。きっとアンタを殺そうとしてたに決まってる……。始末屋ってのは被害者から依頼を受けて悪党を殺しに来るんだ! 言っちゃなんだが俺達ゃそこらにいるような小物だ、大した事はしてねぇ……。それよりアンタみてぇなエグい事してきた奴が狙われてるほうが自然だろ!」

「……だとしたら、アイツの仕業か」青木照彦には思い当たる節があった。彼の追う少女が、その小さな胸の内にどれだけの恨み辛みと怒りを抱いているのか、それくらいは理解している。何故なら彼自身が手塩に掛けて育てたからだ――尤も、売春婦に、ではあるが。きっと? 恐らく? いや、確実にあの女の仕業だろう。泣き寝入りするだけの他の連中とは違って、何に変えてでも憎悪を晴らし、自由を手にしようとするくらいの気概は持っているはずだ。そうでもなければ、この一年もの間、全国各地を渡り歩いては手下を殺して追走を躱そうともしない。あの女なら、こんな小賢しい真似をしでかしても不自然ではない。だが、だからと言って何を怖気付く必要があるのだろうか。

「何ビビってやがるんだか、たった一人を相手によぉ」青木照彦は嘲るようにそう言った。何がそんなに脅威に思うのか、彼には理解出来ないのだ。さっきだって撃たれて怯んで逃げて行ったじゃないか。確かに何人かをは撃ち殺されたし、最後には爆発まで起こされて、間近で巻き込まれた奴らは漏れなく焼かれるか八つ裂きになるかで死ぬか死んだほうがマシなくらいの目に遭い、自分も爆風に煽られて背中をしたたかに地面に打ち付けてしまったが、しかし冷静に考えれば優勢だったのはこちらのほうだ。青木照彦は口を開いていた二人を見た。「相手はたった一人で、こっちは全部で……何人だ? 外に居る連中も合わせりゃまだ二十人近くも居るじゃねぇか」

 だが、髭面と禿頭の男達は完全に参っているようで、その視線を受けただけでも後じさらんばかりにたじろいだ。二人はそのまま、慌てて言う。

「わ、悪いが俺は降りるぜ! まだ死にたくねぇ……お、弟みたいに、あんな無惨に殺されたくねぇ!」

「おお俺もだ! か、金はいらねぇ、ウチに帰らせてもらうぜ!」

 どよめくように動揺が広がっていくのを感じる。恐れが伝染病のようにうつっているのだ。それも、得体の知れない死神とやらの影に怯える恐怖がだ。

「……オイオイお前ら」青木照彦は溜息混じりに言うと、素早い動きで殴り倒してすぐさま懐からコルトのセミオートを抜き、その二人を撃ち殺した。「情けない事言ってんじゃねぇよ、他にも響くだろうが」

 彼は銃をもたげて、周りに立つ他の連中へ向けながら、携帯電話を取り出した。周囲が臆して後じさるのを尻目に、それを弄りながら言う。

「始末屋殺した奴には特別ボーナス、現ナマでくれてやるぞー。それと逃げてぇんならここで俺が撃ち殺さない内に逃げろよー。まぁ、そしたら後でテメェらんとこのボス脅すから、別の奴らが処刑しに来るかも知れんがな」そこで、隅のほうで拳銃を抜きかけた男に向けて照準を合わす。「……あーオイそこの奴、銃下ろせ。最初に言ったろ? 俺を殺すのもよしとけって。俺のログインがねぇと、テメェらんトコのボスだけじゃねぇ規模のネタ、全部ウェブとマスコミに流れっからな」

「よせ、ボスに殺されちまうぞ」友人か古い付き合いなのだろう傍らの男が、震える手で拳銃を抑え、下ろさせるのが見える。「他の組織からも狙われちまう」

「そうなりゃ生きててもお先真っ暗だな」青木照彦は鼻で笑い、続けた。「ま、裏切るってんならそんくらいの覚悟は持てよー」

 正しく無関心な教師のような口ぶりだったが、その実、彼の視線はその場の全員を捉えるように動き、全身からは何をしだすか分からない狂気と怒りが滲んでいた。全員が圧倒されておののいたのを見て、青木照彦は、始末屋への恐怖よりも、今この場での恐怖が勝っているのを把握した。

「なぁオイ、弱気になってんじゃねぇよ。勝ちゃいいんだよ勝ちゃ。考えてもみろ。こっちはまだこんだけ居るんだし、これから増援も呼ぶんだ」電話を示して続ける。「それなら殺しに来ても殺し返せるだろうが。そんでこっちは晴れて自由の身だ」

 弱みを握り、恐怖させると共に、檄を飛ばす。それが彼の手段だった。単純だが効果はある。芯の無い者には特にだ。そして今、彼は確信していた。これで支配出来た、と。

 電話口にしゃがれた男の声が聞こえてきた。この辺りのストリートギャングやヤクの売人の元締めをしている地元マフィア、その内の一組織を仕切るボスだ。同時に、かつての顧客の一人でもある。他組織同様、この男も汚職まみれの鳴海市警や地方検察とも繋がりを持ち、罪を逃れつつ今なお重ねている訳だが――青木照彦の手には、そんな堕落した司法の力でも無視出来ない程の情報が幾つも握られていて、それを元手に『交渉』をしては、活動基盤となる拠点や手下を借りているのだ。そして青木照彦自身の言った通りに、自らの身にはおいそれと手出しも出来ないように布陣も固めてある。余程の間抜けでない限りは応じる以外に手は無いし、逸る誰かが勝手な真似をしでかさないように目を光らし、釘を刺す他に無いのだ。

 青木照彦はマイク越しに彼へ向けて言った。

「よぉ、てめぇんトコのガキどもが何人か殺られちまってよ。あー、相手は始末屋ってんらしい。……あぁ、次はもっと使えるのを寄越してくれ。……そう、逆に始末してやりてぇんだわ」

 

「あぁ、クソ……まだ痛い」ジョウが苛立つように歯を食い縛りながら呻いた。「オイ、どうにかしてくれよ、畜生……」

 バー・アサイラムの二階にある住居スペース。客間となっている裏手の和室で、布団の上に横になった彼は、穴の空いた防弾ベストを脱ぎ、破けた黒いドレスシャツの袖と裾を捲り上げて抉れた左腕と古傷だらけの腹部を晒し、便利屋の弟子の手当てを受けている。先程常備しているであろう薬を飲んだ所だが、まだ効果は薄いのか、左腕以外の肌にはじっとりと汗が滲み、見る者にその身に走る痛みがどんなものなのかを知らしめていた。

 少女は障子張りの引き戸の付近に立って、ジッと、応急処置を受けているその様子を見やっていた。

「幸い出血や骨への異常は無いようですが、えらく酷い打撲になってますね。ちゃんと冷やして休んどいて下さいね」腹部を包帯で圧迫し、氷を手渡すと、抉れて捲れ上がった左腕の皮膚を修復剤で貼り直して、弟子は言う。「一応医者と技師を呼んでおきましたから、今晩はここで大人しくしてて下さいよ?」

「……だったらもっと痛み止めが必要だろうよ。いや、マティーニとかモヒートとか贅沢は言わんからさ、ちょっとラムかバーボンでもくれよ」ジョウは呻くように呟きながら、起き上がろうとした。「あと、新しい服も。ほらこれ、破れてるんだぞ」

 彼は傍らに置かれた替えの服――弟子が用意した物で、恐らくはこれもこの家に常備しているのだろう――に手を伸ばそうとした。だが、すぐさま響いてきた痛みによってそれは遮られ、再び唸りながら横になった。

「あのですねぇ……幾ら左腕で削がれたからって銃で撃たれてるんですよ? しかも飛び回るからってプレートは軽装用のレベル2Aなんか使って。結構な衝撃食らってるはずなんですから、無茶しないで下さい」弟子は新しいシャツを手渡すと、立ち上がって店へと戻ろうとする。「あと、お酒なんて絶対駄目です。また吐かれちゃ困りますし、大体さっき薬飲んだばかりでしょうが」

「あぁもう分かったよ、お小言マシン。……クソ、ここ何日かは本当に最悪だな全く。依頼人は死ぬ、悪党と濡れ鼠の鬼ごっこ、正体はバレる、撃てたのに撃てず終いで挙げ句に撃たれる、べらぼうに痛い……! 苛つくよ。なんか一つくらい、いい目見させてくれないのかよ畜生」

「お嬢さんは助けられた。でしょ?」苛立つようにボヤき続けるジョウに、弟子は涼しい顔で返した。

「あぁ? いやまぁ、それはそう、だけど……うん……でもなぁ……!」

「ホラ、いい目は見られました。だから後はいい夢でも見てて下さい、おやすみ」それから、少女と擦れ違う形になった弟子は、彼女に向けて優しい声で言った。「あなたも今日はもう上がっていいですから、シャワーでも浴びて着替えたほうがいいですよ。なんせホラ、血まみれですしね」

「えぇ……」と少女は頷いたが、今は自身の身なりについてなど関心も湧かなかった。

 弟子が去るのを感じながら、少女はようやっと起き上がりつつあるジョウの左腕に目を落とした。彼の左腕は僅かに肌の色やサイズが異なっている。それに目を凝らしてよくよく見れば、関節部や指先などには薄らと分割線が入っているし、前腕部に出来た大きな皮膚の裂け目――弾痕からは、何か金属的な鈍い色が顔を覗かせていた。

「ねぇ……あの……」少女は口を開いたが、上手く言葉が紡げなかった。何故なら、彼が負傷してしまったのは自分の所為だと言う負い目があったからだった。それでなんと声を掛ければいいのだろう? ごめんなさい、傷は大丈夫? お腹だけじゃなくてその腕もよ、見た感じ酷く『壊れている』じゃない……。どう足掻いてもそれには触れざるを得ない。

「なんだい。今朝は泥で、今夜は血にまみれてるのかい、お嬢さん」ジョウが疲れたような目を向けながら、戯けるように言った。しかしそこには、どことなく非難の色も含まれていた。「随分変わった風呂の趣味で。悪いが俺には理解出来んよ」

 それから彼は、彼女の視線がどこに向いているのかに気付いたようで、溜息混じりに続けた。

「あぁ、そうだよ……義手だよ」

「そう……なのね……」彼が自ら切り出してくれたお陰で、少女もおずおずとだが、言葉を紡げた。矢張りそうだった。それも世に出回る物よりも遥かに強固な代物で、だから撃たれていながらも、負傷を抑えられているのだろう。それから何かを言うべきだと思って、言葉を紡ぐ。「えっと……その……いつからそうなの?」

「もう随分と昔からさね」だがジョウは、そう冷たく切り捨てるように言って、沈黙してしまった。当然だと少女は思い、同時にしくじったとも思った。咄嗟に口をついて出たとは言え、なんでそんな事を言ってしまったんだろう。

 居心地の悪い静けさが続いた。少女は興味と謝意とで混乱するまま、最早何を言うべきか分からなくなった。ただ彼の腕はどうしても目を引くので、視線はそちらに行きがちだった。すると、やがてそれに耐えかねるように――あるいは苛立ちに任せて吐き散らしたくなったのか、ジョウが再び溜め息を吐いて、少しためらいがちながらも続けた。

「昔、強盗に襲われて両親が殺されてね……僕は重傷を負わされながらもなんとか逃げる事が出来たけど、代わりに腕含め、色々と失う羽目になったのさ。その後、引き取ってくれた親父さん――先代の始末屋と便利屋が、伝手を使ってコレを作らせて以来、こうして機械仕掛けの腕と一緒に生きてるんだよ」

「……辛かったでしょうに」そう言ってから、月並みな言葉だと思って顔をしかめた。だがそう言う他に何も思い付かなかったのも確かだ。もっと気の利いた言葉を掛けられたら良かったのに。

「そりゃあね、そうさ。それに今だってそうだ」ジョウは吐き捨てるように言った。「機械の腕だ、時には助かる事もあったけど……失ってる事には変わりないんだぞ。いい思いなんて、一つも……無いよ」

 ジョウは自嘲するように笑みを浮かべると、呻きながらシャツを着替えて腕を隠した。そこで袖の無いインナーから覗く義手の殆ど全容が見えて、その規模は肩先からなのだと分かった。ジョウは皮膚の破けていた辺りをさすり、舌打ちをしながらも確かめるように握っては開く。作動音など全くしない、まるで生身の腕そのものに見える。けれども確かにそこには異物があるのだ。彼は、ふん、と小さく息を吐いて、それから少女へと視線を返した。

「だからそう、あまりジロジロ見ないでくれよ。あと、これについても誰にも言わないでくれよ? 出来ればコイツは最後まで隠しておきたいくらいの切り札で、『奥の手』なんだ」

 少女は頷き返すしかなかった。彼の戯けるような口振りは、むしろ痩せ我慢のようにしか見えなかった。それはきっと撃たれた痛みの所為もあるだろうが、それだけでは無い。彼もまたその身の内に傷を抱えているのだ。そしてその傷痕は深く、大きいものなのだ――自分と同じで。彼女には彼の痛みがよく分かった。体の一部を奪われる経験なら、彼女もしているのだから。なのに今はその自分が傷を抉るような真似をしてしまっている。

「ごめんなさい、私の所為で……」少女はようやっと、その言葉を絞り出した。その謝意は本心からのものだった。そもそも彼女が言う事を聞いて無茶をしなければ、きっとこうはならなかっただろう。彼は心身共に傷付かずに済み、始末もきっちりと片が付いていたはずだ。全てを悪い方向に転がしたのは、彼女の行い以外に何も無い。申し訳無さに胸が詰まりそうになっている。だが、どうしてでも奴の死に様を眼の前で見てやりたいと言う、その想いも決して消えはしない。もし次もまたチャンスが有るのなら、その時は……そうだ、その時も同じように、無茶をしてでもそれに掛けるだろうと思った。危険なのは十二分に分かっているが、そうしなければ、全身を支配する憤怒と憎悪は決して収まらない。

「なぁ……どうして来たんだ?」少しの沈黙の後、ジョウが冷たい声で問い掛けてきた。「来るなと言ったろうに。危険だし、足手纏いだとも。それなのに、何故?」

「それは……」

 言い淀む彼女に、ジョウは苛立つように続ける。

「これまでの依頼人にも、同じくらいに相手を憎んでいる奴は大勢居たよ。だがお嬢さん程に無茶をする奴は中々居なかったな。皆そうさ……仇を討ちたい、復讐はしたい、けれども傷付きたくはないし、ましてや死にたくなんてないものさ。だが、どうやらお前さんは違うみたいだな。そうまでして死に様に執着するのは、何故なんだ?」

 その疑念と非難の入り混じった声に、少女は迷った。理由を言うのは簡単だったが、そうすれば今朝のように、自分の中に流れる唾棄すべきモノや、身に刻まれた傷痕を思い起こさせて、憎悪と激怒に耐えきれずに泣き喚いてしまいそうになる。確かに依頼をする上では仕方が無かったのだが、出来る事なら便利屋にだって話したくはなかったくらいだ。しかし、今のジョウを納得させられるだけの言い訳は思い付かなかった。その目は彼女を追い詰めるようだった。

「そ……れは……」やがて彼女は決意し、絞り出すように言った。「それは、私が……私が奴の……青木照彦の娘だからよ」

「何……?」少し間の抜けた声が返された。

 彼女はポケットから小さく折り畳んだ紙を取り出し、それを広げて差し出した。涙の滲んだ跡のあるそれは、今朝、便利屋が調べて纏めた物の内の一枚だった。そこには彼女についての情報が載っている。少女は静かに名乗った。

「私の名前は青木恵美」

「娘、か……しかし、なるほど……道理でな……」ジョウは受け取った紙と彼女を見詰めて、少し目を丸くしていたが、どこか納得するようだった。「じゃあ売春の被害ってのは……」

「本当の事よ。でも高校からじゃない」少女――青木恵美は頷き、続けるように言った。「私は幼い頃から両親に性的虐待を受けていたわ。奴らは私を売り物とする為に調教していたのよ。十歳になる頃には知らない大人に体を売らされていたわ。全ては奴らが楽して儲ける為……つまり私は、文字通り『恵み』をもたらす為だけの存在だったのよ」

「そんな事をさせられていて、よく無事だったな」まるで我が身の痛みであるかのように顔をしかめてジョウが言う。

「父は体育教師だったから、体の事には詳しかったのよ。知り合いには医者も居て、加減や制御も知っていたみたい。それでも、十二の頃に妊娠してしまった時は、流石に面倒だと思ったんでしょうね。コネを使って私の体に手術をさせたのよ」

「……堕胎か?」と半ば分かったと言わんばかりの声でジョウが言った。

「それもあるけど……」恵美は首を振る。「いいえ、もっと根本的な事よ」

「根本的、だと?」

「私の子宮を摘出したの」恵美は服をはだけて、自らの腹部を晒した。そこには今も薄らと手術痕がある。事情を知らなければ単なる小さな傷跡ではあるが、それは言わばジョウにとっての義手のようなもの――一生消えずに忘れられない、痛みと怒りの証である。

「な……ッ!?」ジョウの目が見開いた。信じられない物を見るかのような目だ。いや、信じたくないのだろう。予想は出来れども、それは正に残酷な仕打ちだ。「いや、まさか、冗談だろう……!?」

「それならどれだけ良かったか」恵美は傷痕を示しながら続けた。「でも本当に……私の体を作り変えたのよ。もう二度と面倒事にはならないように、ってね。つまり、私を完全な道具に仕立て上げたのよ」

「な……なんて事を……ッ」恵美の目の前で、彼の顔が一気に怒りと憎しみに赤く染まるのが見えた。彼女の傷を通して、行われた悪逆非道を見ているかのようだ。彼は呻きながら身を捩って彼女の服を直し、深い悲しみに震える声で言った。「我が子に……実の娘にだぞ……ッ! どうしてこんな惨い、仕打ちが出来る……ッ!? 信じられん……僕には信じられないッ! こんな、こんな事があっていいのか!?」

 彼は参ったように長い髪を掻き上げ、顔を覆い、頭を抱えた。

「ゆ、許せん……許せん! 許せんッ! 外道め、絶対に許さんッ!」荒い吐息と共に唸り声が漏れ、その姿は最早別の痛みに悶え苦しんでいるようにすら見えた。いや、正に彼は苦しんでいるのだ、理解出来ない行いに。実の親が実の娘に行うにはあまりに残虐で理不尽な行いだ。恵美だって、これが自分の身に起こった事ではなく傍から見聞きしていればそう感じるだろうと思ったし、それが当然の反応だと思った。同時にジョウの親が、そして親代わりとなった存在が、如何に彼に愛情を注いでいたのかを窺い知れて、羨ましくなった。

「あれが私の親だなんて認めたくないから、本当は名乗りたくなんてなかった。ただの一被害者として、奴が死ぬのを見てやりたかった。けど、もう説明する以外に思い付かなくて……」

「もういい」ジョウが遮った。「辛かったろうに」

 それから彼も、そんな言葉しか言えなかった事を悔やむように顔をしかめた。

「別に……」恵美は最早自棄になって笑い返したが、その時、いつの間にやら頬を伝っていた涙に気付いた。「でもこれで分かってくれたでしょう? 私の想いが」

 それを切っ掛けに、恵美は両目から止めどなく涙の粒が溢れ出るのを感じた。もう堪えるのも限界に達していたのだ。

「あぁ、よく分かった。充分過ぎるくらいにな……ッ!」ジョウは深い憎悪と悲哀が混ざり満ちた顔で見詰めてから、頷いた。その顔には、もう彼女へ対する非難の色は無い。恵美に対して向けられていた悲しい優しさが過ぎ去った後、彼の身を裂くように沸き起こり、纏い付くのは、悪に対するおぞましい程の憤怒と殺意だけだ。「これで本当に一片の慈悲も容赦も無く、あのド畜生を殺せるようになったよ……。あぁ、殺してやるぞ……邪魔する連中も皆纏めて殺してやる……!」

 恵美は彼から溢れる怒りに感謝を抱いた。これ程のものを抱いてくれるのなら、必ず憎き父親も惨殺してくれるに違いない。絶望の淵に追い詰めて、血反吐の海に叩き込み、地獄の底まで突き落としてくれるはずだ。

 だが……それでいいのだろうか? それ『だけ』で……? そう心の中に引っ掛かりが生まれるのも感じた。改めて奴の仕打ちを思い返す内に、その身に宿ったおぞましい感情は激しく逆巻き猛り狂っている。ジョウが殺すのをただ黙って見ているだけで、この激情が収まるのか? 死に際を嘲り、踏み躙るだけで、本当に満足出来るのか?

 ……いいや、無理だ。最早それだけでは、まるで足りない。もっと、もっと何か、満たしてくれるようなものが欲しい。

「いいえ、ちょっと待って」恵美は涙を拭い続けながら首を振った。嗚咽混じりではあるが、耐えきれない程の怒りの滲んだ声で続ける。「依頼を少し変えさせてちょうだい」

「変える? どう言う事だ?」ジョウが尋ねる。努めて穏やかな声を出しているようだった。「始末してほしいんだろう?」

「そうよ……そうだったわ。でも今はもう、ただそれを眺めるだけなんかじゃ、到底この身に溢れる気持ちが抑えきれないのよ。だからお願い……銃を貸して」恵美は溢れる涙をそのままに、彼を真っ直ぐに見詰め返した。部屋の隅に纏められている装備と、それに収められている銃器を示す。「奴は私自らの手で殺すわ」

 

「なるほど、聞いたのか」便利屋がカウンターの向こうから言う。

「あぁ」ジョウは頷いた。

 一夜明けた昼過ぎ。開店準備中の店内にジョウは居た。馴染みの闇医者によって処方された錠剤を飲み、左腕の調子を確かめるように動かしながら答える。

「彼女の憎しみがよく理解出来たよ、痛いくらいにね。恨んで当然だし、死に様を見たがっても当然だな。……自分で殺したがってもね」

「初めて聞いた時、俺はなんだか小さい頃のお前を思い出したよ。無くしたものとか、無理矢理ついて行こうとする所とか、似ている気がしてね」

「あぁ……かもね」便利屋の言葉に、ジョウはすっかり直された左腕に目をやりながら、ふと昔を思い返した。

 かつて押し入り強盗によって両親と左腕を始めとした多くのものを奪われた後、師である先代の始末屋に引き取られた彼もまた、自らの依頼した仇討ちに無理を言ってついて行ったのだ。そうしなければ満足出来なかったのを今でも覚えている。ただ復讐を依頼して待つだけでは、自分の中に巣食うおぞましい感情を処理しきれなくなりそうだったし、一生苦しむ事になりそうだったからだ。足手纏いでしかなかったろうに、先代は何も言わずにいてくれたし、危険からは身を挺して庇ってくれて、最後には引き金も引かせてくれた。自らの手で仇にトドメを刺せた。それが彼の心の中に渦巻く醜くドス黒い感情を、ほんの僅かではあったが和らげてもくれたのだ。

 ジョウは昨夜の事を思い返し、改めて確かになと思った。恵美は正しく過去の自分と言える。その胸に抱えた暗く黒い激情を晴らすには、自分の手で始末をつけさせてやるしかないのではないだろうか……。

「思ったんだが……」便利屋は呟くように言った。「連れて行ってやるべきかも知れないなって」

「それは何か? 昔の俺みたいにか」ジョウは眉を顰めて返した。

「そうだな」便利屋は頷く。「それが一番の薬になるってのは、お前がよく分かってるんじゃないのか?」

 勝手な事を抜かして、とジョウは少し苛立った。しかし彼の言う通り、頭の中にはその考えが渦を巻くように残っている。

「だが危険だろうに」ジョウは首を振った。「戦いの場に素人を連れて行くなんてのはさ」

 青木照彦は彼女を捕らえ、心をへし折り、再び手駒の娼婦として活かす事を目的としているようだが、それが戦闘の混乱の中でどれだけ守られるかは分からない。下手をすればどさくさに紛れて殺されてしまう可能性だってあるのだ。それでは、例え始末を果たしたとしても意味が無い。依頼人が生きていなければ、その身に募った憎悪を晴らしたとはとても言えないだろう……。

「そうさ、命のやり取りをするんだぞ。遊び半分にチンケなプライド片手で、そこらの族やクズガキ相手に喧嘩を吹っ掛けに行くのとは訳が違うんだ。馬鹿どもの言うような潰すだのぶっこむだのとは段違いの話なんだぞ……」

 しかしそうは思っても、ジョウには他に彼女の救いとなる手段が浮かばなかった。彼女が昔の自分なら、望む事をさせるべきだ。それが何よりの救いになる。

「心配なら、私を訓練して」厨房の奥、住居と繋がる通路のほうから恵美がやって来て、強い口調で言った。いつから聞いていたのだろうか。身支度を整えた彼女は、すぐにでも動き出せると言わんばかりの様子だ。「私に、戦い方を教えて」

「お嬢さん」ジョウは敢えて名前を使わず、そう呼んだ。昨夜の話を聞いた後では名前を呼ぶのは憚られたし、彼女もそれを望んでいるだろうとも理解していた。それから首を横に振る。「いや、付け焼き刃では歯が立たんだろうよ。例えどんなチンピラ崩れの雑魚相手であっても、向こうだって必死なんだ。そんな奴を前にしては、生半可な力や技では生き残れないよ」

「確かにそうかもね……。だからあなたが指示を出して。連れて行ってくれるならその命令に従うわ」恵美は答える。「それなら無茶は出来ないし、あなただって満足でしょう?」

 ジッと、彼女はジョウを睨むように見る。

「それは、そう、だけど……」泣き腫らした目に浮かぶ意思の強さに、ジョウはもう一度かつての自分を思い起こし、言い淀む。あの時、自分も泣きながら頼んだっけか。腕が無いのに土下座までしようとして床に顔をぶつけて、口から鼻から額からと血を流して……。それだけ必死な想いだったんだよな、と懐かしむ。方向性は違えども、彼女も同じように執念深く燃える瞳をしている。ここで断れば、恐らくは土下座で頼み込むよりも自力で打倒しようと再び無茶な何かをしでかすのは容易に想像がついた。もし銃でも爆薬でも勝手に持ち出されようものなら、無差別テロ紛いの見境の無い攻撃でも仕掛けかねない。そうなった時はもう最悪の展開としか言いようがないだろう。

 見やれば、便利屋も同じ気持ちだったのだろう。彼も懐かしむように、そして悲しむように彼女を見ていた。

 むぅ、と唸り、ジョウは考え込む。確かに命令通りに動いてくれれば危険性も減らせる。それは経験が裏付けている。先代もただのガキだったジョウを危険から遠ざけつつ戦っていたし、その指示のお陰で彼は今もここに居る。しかし、先代の――親父さんのようなそんな真似が、果たして自分に出来るのだろうか? そもそもそんな余裕、自分にあるだろうか? いつだって必死に平静や余裕を装っては痩せ我慢しかしていない自分に、他人を気に掛けながら戦うなんて芸当が出来るとは、到底思えない……。

「いや……でも……僕には……」駄目だとか無理だと言う言葉が喉元まで出かかっては、グッと押し込められて奥に消える。言って楽になりたい気持ちと、言うべきではないとする気持ちが葛藤となって胸の中で激しく暴れている。自信なんかよりも、不安や恐怖が勝る。

「……なぁ、俺も出来る限りフォローはする」やがて、便利屋が言った。「それにお前だって、ソイツに慣れるまでは時間が掛かるだろ?」

 彼はジョウの腹部を示す。そこは撃たれて負傷している部分だった。

「まぁ、そうだけど……」便利屋の言わんとする事はジョウにも分かった。鎮痛剤で抑えたとしても、まだ疼くような感覚は時折動きを阻害し、悶絶してしまう。効果が切れれば尚更だ。一瞬の隙が命取りになる世界に踊り出るにしては、コレは致命的だった。薬を使わずとも痛みが和らいで体に馴染み、それを耐えて無視出来るようになるまでは、今しばらくの時間が掛かるだろう。

「それまでの間に、やれる事をやればいい」

 便利屋の言葉を受けて、ジョウはどうするかとしばしの間沈黙した。どうにも不安は拭えないが、本当に助けになる方法が他には見つからないので断りようも思い付かない。再び低く唸りながら悩んで、ジョウは溜息を一つ吐き、やがて渋々と言った調子で二人に向けて言った。

「……分かった、連れて行くよ」

「本当……!?」驚きを滲ませながら恵美が問う。

「あぁ」

「ありがとう……!」

「但し、しっかりと訓練もするぞ。ちゃんと指示が聞けるようにな」

「望むところよ……ッ!」恵美が頷き返した。その目は熱を感じるほどの強さに満ちていて、決して折れず屈しないと語っているようだ。

 気乗りはしないが、その想いに応えてやろう。ジョウは彼女の目を真っ直ぐに見やりながら思った。

 

 鳴海市には、行楽地開発の中止や企業の倒産によって放置されたままの土地や建物が数多くある。その内の一つ、都市部から外れた山間奥地にある古いホテルの廃墟。解体作業の最中に放棄されたその場所に、青木照彦は居た。

 かつては登山客向けに運営されていたと言うそこは、遥か昔に所有者が行方を眩ました事によって捨て置かれていた所を、彼と結託している地元マフィアの連中が違法に占拠し、長らく取引やブツの一時保管、人質の監禁、証人や証拠の隠滅に使用しているのだと言う。だが、今は決して商談だとか裏工作を行っている訳ではなかった。始末屋に狙われているとあって、マフィアのボスから、迎え討つ事になればそれに相応しい潜伏場所として用意されたのだ。これは単にボスの老人が、自分のアジトである別荘だの屋敷だのを提供して汚損されたくなかったが為の利己的な判断だったのだろうが、敵を敢えて待ち受けるにはむしろ好都合な部分もあった。素人目に見ても、人混みが射撃の邪魔になり得る街中や、同じホテルと言う括りでも逃げ道も隠れられる場所も少ないあの売春宿なんかよりは、ここのほうが遥かに戦いやすそうなのだ。屋内は一見開けているようでいながらも、撤去中に捨て置かれたままの家具や建具、なんらかの事情で崩れた建材の瓦礫等が所々に纏められていて、程良く遮蔽物として利用出来るだろうし、屋外の環境にしても繁華街や大通りからは離れて人通りが無い事から、見張りを立てれば付近一帯からの接近者をいち早く発見し、先んじて攻撃する事も可能だろう。加えて、当分の間は買収してある汚職警官達の根回しで、もし仮に通りがかりからの通報があっても、数少ないまともな連中には届かず処理されるようになっているので、別の地域を根城としているクライムファイターどもでも出張ってこない限りは、面倒な介入も起こり得ない。実にいい環境と言えた。

 約十階建ての内の三階、北側部分。そこには幾つもの壁をぶち抜いて作られた広い部屋がある。組織規模での重要な商談や取引の為にと改装された場所で、丁寧さや清潔さは足りないものの、ある程度の内装が整っている。周辺地域への送電が途絶えて久しい中、裏手に設置した発電機で室内の照明は確保されており、そして何よりこの部屋は、その内張りに使用された特殊な鋼材のお陰で、雨風どころか大口径の銃弾すらをも防げる防弾仕様となっていた。四方はおろか床と天井にも徹底されており、窓には防弾の磨りガラスを嵌め込んでいるとの事で、中の人間を殺したければ爆撃でもして建物諸共部屋自体を崩すか、直接乗り込む以外に道は無いと、ボスの老人は豪語していた。

 ちょっとしたセーフルームとも言えるその部屋の真ん中で、時代遅れの古びたソファに腰掛け、ボロボロだが重苦しい作りのテーブルに足を乗せながら、青木照彦は眼の前でいそいそと支度をしている連中を見た。十人もの男達が、抱えてきた荷物を展開して、収められていた装備を着込んでいる。追加として新たに寄越された手下達で、護衛や戦闘を主たる役目として雇われている、言わば傭兵のような連中だ。

「で、お前らなら始末屋ってのも殺れるって聞いたが、本当だろうな?」

「あぁ、任せろ」先に支度を終えた隊長格の男が、自信に満ちた声で言った。

 男達は街で悪目立ちしないようにするためか、一見するとミリタリーかアウトドア趣味なだけの市民に見える服装をしている。しかしその上から皆一様に、双眼鏡のようなゴーグルを備えたヘルメットや弾倉を幾つも収めた防弾ベストを身に着け、M4だとか言う名前らしい戦争映画で見た覚えのありそうな形の黒い自動小銃を肩から吊り下げていて、只者ではない気配を醸していた。実際聞く所によると、彼らは以前始末屋か殺し屋の襲撃からボスを守り、逆に返り討ちにした事があると言う。これに元々居た二十人程のストリートギャングどもが合わされば、ちょっとした軍団の出来上がりだ。連中はヤクの売人をしているチンピラで決して戦闘のプロではないが、抗争だの取引相手とのトラブルだのでそれなりに修羅場を潜り抜けている。たった一人を相手にするには充分過ぎると言えた。

「後は木っ端どもからの連絡待ちか」

 今その下っ端連中の内の何人かは街に繰り出して、情報屋や仲介屋等に力づくの聞き込みをしながら、恵美の居所と共に、始末屋――髑髏顔の死神ペイルライダーとやらの事を調べている。遭遇からまだ一日程しか経っていない今の所はまるで芳しくないが、連中だってただ数が居るだけの流れ者ばかりではない。中には長くこの街を根城にして精通している者も居る。すぐにも正体も含めて居所を突き止められるだろうと思った。そしてその時が来たら、何も待つ事はない。むしろこちらから打って出て、呑気している所を逆に始末し返してやればいいだろう。これだけの連中が居れば、そこは数で押し通せるから問題無いはずだ。青木照彦はどこか気楽に構えていた。

「しかし髑髏顔の始末屋が相手とはなぁ」隊長格の男は皮肉げに言った。「遂に俺達にもチャンスが来た訳だ」

「チャンス?」

「おうよ。なんせ奴はそれなりに名の知れた始末屋さ、殺せば箔が付く。そうすりゃもっといい待遇を要求出来るだろうし、なんなら他に稼ぎのいい仕事にだってありつけるだろうよ」

 隊長格のみならず、仲間の男達の顔には獰猛なやる気が満ちている。それは己の命を的にしてでも金を追う、飽くなき強欲さが故なのだろう。青木照彦にはそれは少し過剰なようにも思えた。オイオイと呆れ混じりに首を振る。本当にそこまでの相手だろうか? 今日に至るまで、その髑髏顔とやらの話を散々聞かされ続けてきたが、それでもこの街の悪党どもが危惧するような強敵で、殺す事が一種の称号のようになる相手とは感じられない。だが、同時に都合がいいとも思う部分があった。この貪欲さがあれば、戦いで手を抜いたり、裏切ったり、直前で逃げ出すような真似はしないだろうからだ。

「なら逃す手はねぇな。頑張って仕留めて出世してくれや」彼が興味の無い本心を隠してそう言うと、男達は頼もしさと卑しさの混ざった笑みで頷いた。

 

 イヤマフを着けた恵美は、新たなペーパーターゲットをワイヤーで部屋の奥へと送って設置すると、サプレッサーを付けたワルサーP^99^拳銃を両手でしっかり構えて照準を合わせた。

 始末屋のアジト、屋敷の地下に広がる武器庫兼射撃場に彼女は居た。十分程前から行っている自主訓練の最中で、ついさっきMP7をロングマガジン四本分、計百六十発の射撃を済ませたばかりだった。

 引き金に余分な力を加えないように、絞るように引いて発砲する。発射された弾丸は百メートル弱の距離があるレンジの三十メートル地点に設置された標的の胸部、心臓の辺りを真っ直ぐに貫いて、遥かな後ろに積み上げられた土山に突き刺さった。続けて二発三発と発砲し、初弾の周りに穴を増やし、次いで頭部に照準を移す。中心の円をくり抜くように弾丸を浴びせかけていると、やがて十五発の弾丸を全て撃ち切った拳銃は、そのスライドを後退させたままで止まった。恵美は排莢口から薬室を覗いて装弾されていない事を確認し、マガジンを抜き出してからスライドを戻し、撃鉄を落とすと、それらを銃弾の箱といくつかの空のクリップが並ぶテーブルに置いてイヤマフを外した。僅かに痺れが走っている手を軽く振ってから、傍らのボタンを押してワイヤーを巻き取り、ターゲットをこちらに戻して、溜息を吐く。

 標的に描かれた黒い人影、そこに浮かぶのは憎い父の姿。紙をボロクズにするように、絶対に奴を殺す。あの畜生の体に、そして顔面に弾丸を思う存分ブチ込みまくり、完膚無きまでにズタボロの穴だらけにして、二度再び目の前に現れないようにするのだ。

「いい腕だな、お嬢さん。飲み込みが早いよ」いつの間にか背後に立っていたジョウが言った。ハッとして振り返ると、彼は先程恵美がMP7で穴だらけにしたターゲットを手にして眺めていた。高い背丈を使って小柄な恵美の頭上から腕を伸ばし、たった今戻ってきたばかりのペーパーターゲットを取ると、それを見詰めて少し冗談めいた口調で言う。「同じ年頃の俺よりも出来てるかもね」

「それは嬉しい言葉ね。でも、自分の教え方がいいのかも、とは思わないの?」

「どうだかな。なんせ他人に教えた事なんて無いんでね、よく分からないんだよ」ジョウは苦笑し、頭を振る。「今はただ必死にやってるだけでな」

 どこか否定的で悲観的だなと恵美は感じた。それはきっと、物事に対して最悪を想定しているからなのかも知れない。慢心は防げるが、同時に負担も強まるだろうなと思えた。

「だがまぁとにかく、この短期間にしては上出来だと思うよ。どこかの国じゃあ、三日会わざればなんとやらとか言うが、それは男子に限った話じゃあない事を敵に思い知らせてやれるな」

「……まぁ、三日どころか二週間も経ってるって言うのも違うんだけれどね」

 ジョウが負傷した日から既に半月が経過し、その間に彼女は、教え込まれた射撃や回避行動の技術を着実に飲み込んでいた。いや、それだけでは物足りず、新兵用の教本を読み漁り、近距離戦闘の技術や立ち回りについても教えを請い、今では積極的な攻撃性を持つ兵士のような側面も持ち合わせるようになっている。全ては、憎き父親をこの手で殺す為の、執念の成果だった。

「で、あなたも使いに来たの?」恵美は空のマガジンにクリップで留められた弾丸を押し込みながら、レンジを示して尋ねた。「隣は空いてるわよ」

「いいや? 休めって言ったのにろくすっぽ話を聞かず、弾を撃つ事にご執心などこかの誰かさんの様子を見に来ただけさ」ジョウは皮肉っぽく言う。「その飽く無き向上心とやらがいつになったら満足するのか、こちとらすこぶる気になったものでね」

「そう、なら存分に見てなさいな。当分先の事になるかも知れないから」そう言うと、返答を聞かずにイヤマフを着け、足元の紙束から新たなターゲットを抜き出してセットし、再びレンジの奥に送る。今度は少し距離を伸ばし、四十メートル程に設置した。

「全く、このお嬢さんときたら……まるで我儘な子猫だな。本当に言う事を聞く気があるのか、疑いたくなるね」

 イヤマフのマイクが拾うジョウの嫌味を聞き流しながら、銃把に弾丸を目一杯詰め込んだ弾倉を押し込み、スライドを引いて薬室に装填すると、射撃を再開する。もう一度ターゲットの胸部から頭部に掛けてを、慎重に、且つ先程よりもなるだけ早い間隔で穿つ。全弾を撃ち尽くすと、手元に残っていたもう一本のマガジンに素早く交換して、同じように連射した。二度目のホールドオープンで拳銃が残弾無しを知らせると、恵美はまた安全確認をして銃を降ろした。ジョウがボタンを押してワイヤーを巻き取り、ターゲットを回収する。見やると、彼は吟味するようにふむと唸っていた。

 恵美はクリップを使って弾をマガジンに押し込み、拳銃に装填すると、傍らに設置されているもう一つのボタンを押して、今度はレンジの奥に平行移動を繰り返すターゲットを出現させた。端から端まで十メートルの間隔を反復して動き続けるそれに向けて、狙いを澄まし、射撃を行う。余白部分に大きく逸らしてしまったものもあるが、それでも多くは胸部と顔面に集中して弾痕を刻む事に成功した。スライドが開ききって止まり、安全確認をしてイヤマフを外していると、こちらもジョウがワイヤーを巻き取って回収した。

「拳銃もここまで扱えていれば、素人始まりにしては充分だよな」ジョウが感服するように呟いた。拳銃は肩に当てる為の銃床が無い分、ライフルやサブマシンガンよりも遥かに扱いが難しいのだと言う。事実、恵美も初めはそうだと感じ、狙いや反動の制御に苦心した。だが直ぐに自分の性に合うのはこっちなのだと気付いた。それは、小柄な体躯の自分でも隠し持てて、素早く抜き放つ事が出来、小回りが効くと言う点からだった。そう分かってからは、自主的に拳銃の扱いに重きを置いた訓練を行ってきた。今やこのワルサーの一丁は、愛用のカッターナイフと同じくらいに手に馴染んでいる気がしていた。

「もっと鍛えれば、お嬢さんも立派な始末屋……の端くれくらいにはなれるかもね」最後のターゲットに着いた弾痕を見やりながら、ジョウは戯けて言った。

「……それも悪くないわね」恵美は訓練の疲労が溜まった笑顔を返しながら、満更でもない気持ちになっていた。この二週間、彼女は頭の片隅で、目的を果たした後の事を考えていた。胸の中には父を惨たらしく始末したいと言う憎悪以外には何も無い。それを果たしてしまえば、生きる目的を失ってしまって、残りの人生を無為に過ごす事になってしまう。それは至極勿体無く思えたし、何より一番嫌悪していた、父に人生を振り回されている状態にも思えた。奴を殺した後も尚、自由を奪われているのは勘弁願いたかった。だったらせめて何か、有意義な事に命を費やしたい。そして、自分と似たように憎悪を抱えるだけで晴らせぬ人々の為に、代わりに戦う誰かになれれば、それは有意義な生き方と言えるのではないだろうか。

「まぁ、人間相手にもこれだけの腕を発揮出来れば、だけどね」ジョウは皮肉るように言った。

 恵美は少し苛立ったが、それを押し込めるように黙った。納得する部分もあったからだ。確かに、決められた動きしかしない的と生身の人間では、当然全くの別物だ。山中を使ったコンバットシューティングのトレーニングで、木の陰から飛び出す的を相手に射撃した際は好調であっても、ペイルライダーを相手に回してのエアソフトガンやペイント弾を利用した模擬戦闘では、結果があまり芳しいとは言えない事もあった。そう考えると、矢張り土壇場で上手く出来るのかと言った疑念も僅かに湧いてくる。憎き父親の顔に風穴を開けるだけだが、果たしてどんな抵抗をされても動じずに、確実に射撃を命中させられるだろうか。それに、如何に道中の戦闘はペイルライダーに任せっきりにしていいと言われているとは言え、絶対ではない。必要な時に仕留められる相手を、確実に始末する事が出来るだろうか。

「不安なのか?」ジョウが問い掛けた。彼は恵美の表情を見て、その内心を察したようだ。「今なら間に合うぞ、ついて来るのをやめるならな」

 期待を込めたような声だった。癪に触るが、確かに賢い選択はそちらだろうと恵美も思う。確実な結果が欲しいなら専門家に任せるべきだし、彼にしたって戦いやすさが変わってくるのは明白だ。当然の反応と言える。しかし……。

「やめる? 冗談言わないで」彼女は首を振る。湧き起こる反骨心がそうさせた。以前、学は無くとも馬鹿ではないと言ったが、今ならそれ以下にもなろうと決めたのだ。例え愚かな選択であろうとも、この憎悪を力に変えて戦うのだ。「絶対ついて行くわ。そして私の手で殺す。そうでないともう、抑えきれないって言ったでしょう?」

 彼女はホールドオープンした拳銃を見詰めた。そしていつかの昔、どこかで身を売った相手の家で見た、古いSFの映画を思い出した。やってみるではなく、やるかやらぬかだ。そんなような台詞があったのを覚えている。今は少しばかり違うが、出来るかどうかではなく、やるかやらぬかの問題なのだろう。そう思うと、不安よりも遥かに強い闘志が湧き出てきて、撃てるかどうかだなんて迷いをどこかへ押しやっていく。そうだ、撃てるかどうかではなく、撃つか撃たぬかの話なのだ。

「そうよ……撃つだけよ」

「あぁ……まぁ、そうだよな」ジョウはやれやれと肩を竦め、それから言った。「だったら後は、どんな状況でも学んだ事を思い出せるように、常に頭の中に置いておくんだな。幸いにもそこらの雑魚よりも上手くはなってるし、それさえ出来ればまず撃ち損じる事はないさねな。……撃たれる事もね」

「なんだか随分簡単に言うわね」

「簡単な事なのさ……思っている以上にね」ジョウは懐かしむように呟いた。彼も初めはそうだったのだろう。それを感じさせるような声だった。それから彼は腕時計を一瞥して上の階を示し、続けた。「さて、気が済んだのならそろそろ上がらないか? 実はもうすぐ、便利屋サンタが季節外れのプレゼントを届けに来るもんでね」

「そう……遂になのね」恵美は待ち侘びていたように返した。

 この二週間、便利屋と弟子は、敵の情報だけでなく、ジョウの注文に従って恵美用の装備を集める為に動いていた。どうやらそれが揃ったようだ。

「そうだ、もし受取拒否したいって言うなら直接頼むよ。俺はもう恨み節をぶつけられるのは御免なんでね」

「誰が拒むもんですか。全部まとめて喜んで頂くわよ」

「……まぁ、用意した側としてはそのほうが嬉しいな」

 そう軽口を叩き合いながら、二人は銃器を簡単に分解掃除してケースに仕舞い直すと、並んで上階のリビングへと向かった。

 

 便利屋がリビングのテーブルの上に何枚もの写真と図面を置き、ラップトップに映像を流した。どこかの廃墟の内部とその周辺が映っている。通常のカメラだけでなくナイトビジョンやサーマルビジョンでも撮影されている物もあるそれらは、彼の弟子が偵察ドローンを操縦して撮影したものだった。ジョウはそれを見て、ふむと頷き、唸った。

 元は駐車場や庭園だったであろう広場と、天井が崩れて配線が剥き出しになっている荒れ放題の廊下部分には、ただ拳銃や短機関銃を持っただけのチンピラ連中が徒党を組み、まるで哨戒兵のようにして歩いている事が窺える。しかしそれとは打って変わって、幾つかの汚らしい部屋の中と、重苦しい扉の前には、彼らとはまるで段違いの装備をした連中が見えた。双眼式の暗視眼鏡を備えたヘルメットを被り、暗色のソフトシェルジャケットの上からコンパクトなプレートキャリアを身に着け、サプレッサー付きAR^15^系列のアサルトライフルを携えている。物資の補給のタイミングを捉えたのか、扉を開けた瞬間の映像では、室内にも似たような格好をした男達が少なくとも二人は居るのが見え、片方が指示を出すような身振り手振りをしているのが分かった。その近くに青木照彦がソファでふんぞり返っている。まるで要人の警護をしているかのようだ。そして恐らくと言わず、その通りだろう。

「なんだか随分と派手な連中が来たな……」少しゲンナリとして呟く。

「何者なの?」ジョウより先に恵美がその男達について尋ねた。「売人とかストリートギャングとは比べ物にならないわね」

「聞く所によると、この連中は奴が組んでるマフィアのコネで寄越された傭兵らしい」便利屋が答える。「数は全部で十人。情報が出てこなかったもんで正規軍上がりでは無さそうだが、昔どっかの始末屋だか殺し屋を返り討ちにしたツワモノどもではあるそうだ」

「……なるほど」恵美は若干圧倒されたように呟いた。だが怖気付いた訳ではないようだ。むしろ、攻撃能力を高めた今となっては、まるで殺る気に満ちているようにも見える。厄介な娘だとジョウは思わず小さく溜息を吐いた。これがサイドキック――相棒だの助手だのならいざ知らず、依頼人となると扱いが難しい。

「潜伏場所も裏通りからここに移してる」便利屋は地図と、見張りや歩哨の位置が印された図面を示しながら言った。「マフィアどもが取引だとか監禁だとかに使っている廃ホテルだ」

 建物は全体的には正方形に近い印象だった。中央に二機のエレベーターが向かい合って並ぶ空間が広がっていて、その一角と建物自体の南東の角に階段が設けられている。一階にはカウンターが備えられたエントランスとロビーが広めに取られ、正面玄関付近の屋外に車両を示すマーク、裏手である北側の屋外に発電機を示すマークがつけられていた。二階にはフロアの西側から北側一帯を占める大部屋があり、三階以降の階では均一化された部屋が四方に幾つも並ぶ作りだ。見張りと歩哨を示す印は三階までしか記されていないので、それ以上は配置されていないと分かった。歩哨のチンピラは屋外と各フロアに五、六人ずつ。三階の東、西、南のそれぞれ一部屋に見張りの狙撃手が潜伏している。写真と照らし合わせると、スポッターが居ない辺り、恐らくは選抜射手的な連中なのだろう。その死角を補うように、四方に無線カメラの印が幾つかあった。配線が無いので電力も独立している事が分かる。北側の何部屋かは一括りになるように囲まれており、その中央の扉の前に見張りの印がある。これがあの重苦しい扉なのだろう。ケーブルを示す線が隣の部屋の隅を通って壁から引き込まれていた。

「建物自体が荒れ放題な上、敷地周辺への送電が停まって久しいから、内部は自然光のみのほぼ真っ暗闇。裏手の発電機は、三階北側の一画を改装した商談部屋の照明と電源だけを賄っているようだ」

「ふむ」

「補給に来るチンピラどもと見張りの交代は大体半日ごと。傭兵達の連絡は一時間に一度。待機中の傭兵は、ターゲットとこの商談部屋に立て籠もっている。そしてこの部屋が少々厄介で……」

「厄介?」ジョウは聞き返す。

「どうやら取引中の襲撃対策にと、この部屋だけは高レベルの防弾仕様の内張りが施されているらしい。明り取り用の窓すら防弾な上、磨りガラスなもんで、直接狙撃出来るようなポイントは見当たらないときた」

「映画みたいにサーマルで壁の向こうが見られれば良かったんだけどな」ジョウは冗談めかして言った。「そうすれば対物ライフルで間引けたかも知れないのに。……流石にそれなら抜けるだろう?」

「同一箇所に複数弾撃ち込めばな。だが初手で抜けないなら逃げられる可能性が高いし、あまりいい手とは思えんが……」

「と言うか駄目よ、そんな事して奴に当たったらどうしてくれるの?」恵美が抗議の目を向ける。「私が目の前で殺したいって言ってるのを忘れたのかしら?」

「まぁ、そうだよな」ジョウは苦笑して返した。実際の所、熱感知では壁を透過出来ないし、仮に可能だったとしても、標的の正体が誰なのかを見分ける事はほぼ不可能だろう。半ば冗談だったとは言え、この手段には現実味も無く、確実性も欠けていた。

「ちょうど下の階にレストランだった大部屋があるから、そこに発破を仕掛ける手もあるが……」便利屋が苦笑交じりに言う。「それもお嬢ちゃんが許さんのだろう?」

「分かってるじゃない」恵美が睨むように見詰めて返す。「スイッチを押すだけじゃ味気無いもの」

「結局詰まる所、乗り込むしか無いって事だな。まぁ、いつもの事だけど」それがジョウの一番の得意分野ではあったが、今回は単身の身軽さが無い事が不安要素として残っている。チラリと目をやり、呟く。「……これで出迎えの中に行くのか」

「幸いなのは地雷とセンサーの類を設置していない事だな。恐らくだが、傭兵以外にチンピラの雑兵どもも居るから、見境が無さ過ぎる物は使えなかったんだろうな」

「まぁ、そうだけどさ……」ジョウは溜息を吐いた。あのまま安ホテルに居てくれれば楽だったろうに。こうなった理由は間違い無く、姿を晒してしまったからだろう。危機を救えたとは言え、警戒を強めてしまう結果になった事で、始末を優先すべきだったかも知れないと悔やまれた。同行にしても、矢張り今からでもお断り願いたい気持ちがあった。だが、彼女の心が決して折れない事はもう十二分に分かっている。また勝手な無茶をしでかされるくらいならやるしかないのだ。心の底から湧き上がって止まない悪態を全部抑え込みながら、少女と敵の姿を見る。最悪の場合は庇って撃たれかねないから、相応の準備はしておこう。

「それからここ数日、手下の売人連中がお嬢ちゃんの居場所と一緒に、始末屋ペイルライダーについても嗅ぎ回ってるんだとさ。今の所はなんの成果も得られていないようだが……」

 そりゃあそうだろうな、とジョウは思った。一体なんの為にスカルバラクラバを被っているかと言えば、敵に恐怖を抱かせて意表を突くとか、余裕の無さを悟られないようにしたりとか、己を鼓舞したりとか、そんな伊達や酔狂の為だけではない。こう言う時の為でもあるのだから。ペイルライダーとしての名前と顔を知る者は居ても、その正体である自分や、どこを拠点としているかを知る者はほとんど居ない。そのほとんどと言うのも、極々限られた少数――これまでも、そしてこれからも味方である連中だけだ。今素顔のままに街へ繰り出し、大手を振って歩いても、そこらの人間である彼の事など誰も気にしやしない。そしてそんな謎の存在の元に恵美は居るのだ。自ら衆人環視の中で大暴露するだとかの余程のヘマでもしない限りは、見付かる可能性は欠片程にしかなかった。ほらどうだ、役に立っているだろう? 必要性はあるのさ。そう便利屋に言ってやりたくなったが、どうせ彼はそこまで気にしてないと思ってやめた。

「まぁ、それもむしろ好都合だな」ジョウは僅かにだが気が軽くなった。「その分、奴さんの周りが幾らか手薄になる訳だしね。……だろう?」

「あぁ……まぁ、そうかもな」

「なら、放っておくとしよう。もし間抜けどもが戻ったとしても、その頃には手遅れの状態にしておいてやるさ」そうなれば組織から護衛失敗の責任を問われて処刑となるだろう。手間を掛けずにゴミクズどもが掃除されるのなら嬉しい限りだ。ジョウはそう冷たく思った。

「ふむ」と便利屋は同意するように頷いた。それから、次いで小さな箱を取り出した。「じゃ次はお待ちかね、お嬢ちゃんへのプレゼントだ。まず、コレを」

「何かしら?」

 便利屋が箱を開けると、中には鈴の装飾が付いたチョーカーが入っていた。

「あら、随分と可愛らしいわね。でもどうして突然?」

「まぁ、気を引きたい訳じゃないのは確かだぞ」便利屋は冗談めかして答えた。「ただ、ちゃんと意味もある」

 チョーカーの裏側にあるスイッチを入れ、手渡す。

「コレには発信機が仕込んである。例えはぐれたり囚われたとしても、コイツが位置を示してくれる」

「我儘猫みたいにフラリと消えかねんのなら、文字通り首輪が必要だろう?」ジョウは皮肉っぽく言った。「くれてやるならその形が妥当さねな」

「そう言う事だ」便利屋はジョウを見やり、ゴーグルを差し出した。「モニターに表示出来るよう改良しといたぞ」

「助かるよ。これでもし仮に何かあったとしても、助けに行くのが楽になるってもんさ」ジョウは軽く笑った。「当ても無く探し回るような真似はしなくて済む訳だ」

 これも彼の注文だった。危険の中に連れ出す以上は万が一を想定しておかねばならないし、それを防ぐ手立ても用意しておくべきだと思ったのだ。ブレスレットやアンクレット型、ドッグタグのようなペンダント型にせず、敢えて洒落たチョーカーの形にしたのは、彼女への当て付けや皮肉でしかなかったが、他の意味もあった。戦闘の混乱中にどこかに引っ掛けて破損や紛失したり、最悪手足自体を喪失する可能性を考えたのだ。その点首輪なら、発信機が損傷する程のダメージを首に負えば、その時はほぼ間違いなく死んでいると言っていいだろうし、少女らしい装飾品に偽装しておけば、敵に囚われたとしても発信機であると看破されるのを少しは遅らせられるはずだ。

「ほぉ、コイツは……」ゴーグルを受け取り、装着して画面を確かめると、ジョウは頷いた。事前に建物や地図のデータを入力さえしてあれば、ワイヤーフレームのホロマップに位置が示されるようだ。今はこの屋敷のマップ上にしっかりと光点が表示されている。「どうやら迷子のビラも貼らなくて済みそうだな」

「ちょっと? 見失うのが前提なのはやめてもらえるかしら?」恵美が非難するような口調で言った。彼女はチョーカーを首に装着し、鈴の意匠のついた部分を、まるで本物を鳴らすかのように軽く弾く。そして少し嫌気も混じらせながら呟いた。「全く……クズの元から逃げ出して野良猫生活だったけれど、これでまた飼い猫にって事かしらね」

「こんな凶暴な悪戯猫を置いとくには、ちょいとばかし勇気と覚悟が必要だな」ジョウは苦笑いして返し、それから便利屋へ言った。「装備のほうはどうだ? あれだけ採寸とかしたんだし、大丈夫だとは思いたいがね」

「そう心配するな」便利屋は戯けるように笑い返しながら、リビングの隅に置いていた大柄な箱を開けた。「なんせ特注なモンで諸々随分と掛かったが、性能は技師のお墨付き。後は、お嬢ちゃんに似合うかどうかぐらいだな」

 ジョウと恵美もそれを覗き込む。中には濃紺色の戦闘服やキャップの他に、墨のように真っ黒なボディアーマーと装具類が一式詰め込まれている。どれもが小柄な女性用に仕立てられた特別製の仕様だと一目で分かった。

「似合うさ、俺の見立てが間違ってなければね」ジョウはそれらを取り出して頷いた。「そして俺の感性はいつも正しいのさ。お前さんだって知ってるだろう?」

「はいはい、そうだな」便利屋がやれやれと肩をすくめる。

「喜んで使わせてもらうわ」恵美が二人に向けて言った。「但し、気に入った物だけをね」

 彼女は戦闘服以外を受け取ると、まずブラウスの上から抗弾プレート入りのケブラー製ベストを着込んだ。それから幅広のピストルベルトをスカートの下で腰に取り付け、サイホルスターとレッグポーチはまるで仕込むように、透過性の無い黒いタイツを纏った両足に装着した。仕上げに長い後ろ髪を一つに結い上げ、濃紺色のベースボールキャップを被り、シューティンググラス型のナイトビジョンを身に着ける。

「ふぅん……まぁ、悪くないわね。結構動きやすいし。で? あなた的にはどうかしら?」不敵な笑みと共に、恵美が尋ねる。「お眼鏡に適ってるかしら?」

 クルリと回って戯けるように動くその姿は、確かにはしゃいでいる子供のそれではあるが、どこか一端の始末屋のように見えなくもない。

「似合ってるさ……けど、本当はコイツの上から着るんだがね」ジョウは呆れるように言い、寂しく手元に残された戦闘服を示した。馴染みの技師だとかに依頼したそれは、軍や警察に納入されているような量産性に重きをおいた迷彩服と違って、なるだけ負傷のリスクを減らせるようにと耐熱防刃繊維や伸縮素材をふんだんに織り込んで作ったコスト度外視の特注品だ。体格も彼女に合わせた小柄な物の為に流用も効かないので、使わないのは正直かなり勿体無い。「そこらの特殊部隊の物よりも使い勝手がいいはずだぞ、これ」

 だが恵美は首を振る。

「着慣れた服のほうが動きやすいし使いやすいもの。これならナイフも拳銃も隠し持てるし性に合うわ」ポケットからカッターナイフを取り出すと、スカートの裾を軽く捲りあげて、ポーチ脇のウェビングに仕込んだ。それから戦闘服を示して、少し顔をしかめながら言った。「それにそんな男臭いの、趣味じゃないのよ」

「お前さん、洒落っ気の為に死んでもいいのか?」

「いい? お洒落ってのはいつだって命懸けなのよ」恵美はそう言い、それからジョウの事を示した。「大体あなただってそんな泥臭い迷彩服なんて着てないわよね? それってどうしてなのかしら?」

「……そう言われると、なぁ」どうにも言い返せない。ジョウは言葉に詰まった。それに内心、彼女の気持ちも理解出来る気がした。命を賭して戦いに赴くと言うのなら、確かに着慣れた服のほうが動きやすくていいだろうし、もし死ぬとしても好きな格好をしたままくたばりたいものだ。だから彼は戦闘服として喪服めいた服装をしているし、無地ではなく髑髏柄のバラクラバを被り、ハットを身に着けている。その点は完全に伊達や酔狂の粋だった。ついでに言えば今の彼女の姿は中々どうして様になっていて、何故だか無理矢理にでもやめさせるなんて気にはなれなかった。

「それじゃあ、どうぞ好きにしてくれたまえ」ジョウは戦闘服を箱の中へ投げ戻した。

「高かったんだぞ……」と便利屋が渋い顔を浮かべて呟いた。「情報料もだ。お前が出られない分、色んな奴から買ったんだからな。アイツら店のツケまでチャラにしようとしやがって、マジで潰す気かって……」

「あぁもう、悪かったって」結局文句はこっちに飛ぶか、と顔をしかめる。「取り敢えず、次の報酬から引いといてくれよ」

「足りればいいけどな。さもなきゃ、店の手伝いを増やしてやる」

「……そりゃあいつもの事だろうに」ジョウは参ったように肩を竦める。

「確かに、今更か」便利屋はやるせなく言った。

「ごめんなさいね」と苦笑い気味に恵美が返した。それから腰回りに手を当てて言う。「欲を言えば、スカート下のはバックアップガンにしたいから、もう一本くらい表に巻くベルトとメインの拳銃を入れるホルスターが欲しい所なんだけれど……まぁ、無いでしょうから贅沢は言わないわ」

「あぁ、是非ともそうしてくれると助かるよ。こっちもそこまでの余裕は無いんでね」便利屋が恨めしく言った。それから尋ねる。「じゃあ装備も整った所で最後の話だ。どう仕掛ける?」

「そうよね。作戦とかって立ててるものなの?」恵美が首を傾げて言う。

 確かに情報も装備も揃った訳だから、すぐにでも乗り込んで仕掛ける事も出来る。ジョウ一人ならばそれでも良かった。大体の場合、陽動を仕掛けたら後は身軽さに物を言わせて、奇襲とその場に応じた臨機応変で押し通しているのだ。しかし今回はそうも行かない。訓練したとは言え『荷物』を引き摺って進む事になる。正直な所、自分一人では手が回らないだろうと思えた。悔しいが、ここはまた誰かの力を頼らなければならない。

「まぁ、今大まかには考えたよ」ジョウは彼らを見やって言った。「まずは便利屋、店は臨時休業にしよう」

 

 始末屋との遭遇から既に二週間程が過ぎているにも関わらず、なんの進展も無い事に、青木照彦の苛立ちは募りに募っていた。全くもって手掛かりが掴めずに、ずっと廃墟の部屋に押し込められているのだ。粗雑ながらも改装した商談部屋とあって、最低限の生活設備自体は設置出来ているものの、矢張り快適とは言い難い。照明や電源の為とは言え、階下から鳴り続ける発電機の騒音も鬱陶しく、それも相まって、雰囲気はまるで野営に近いものがある。傍には常に傭兵達が警護がてらにたむろしていてむさ苦しく、食事も時折手下達が届けに来る出来合いの物か、補給が間に合わなければ缶詰のような保存食を摂り、延々と情報の入る瞬間を待ち続けるだけの日々だ。始末屋から命を守り、且つ返り討ちにする為にはやむ無しと傭兵達は言うが、襲撃も無いままにある程度の時間が経って緊張感が薄れてくると、暇を潰せる娯楽も大して無ければ女を呼び込んで抱く事も出来ないこの環境に対して息が詰まり、不満は爆発しかけていた。

「あー、もう我慢ならねぇ! こんな惨めな生活やってられるかよ!」深夜の静けさを突き破るように、怒声とけたたましい衝突音が室内に鳴り響いた。青木照彦が怒りをぶつけるように蹴倒したソファがテーブルにぶち当たって、上に置かれていた空容器の詰まったゴミ袋や傭兵達の装備用の充電器を辺りに巻き散らしたからだ。革の破けた部分からは湿った綿が辺りに漏れ出ている。「オイ、街行くぞ! 適当に女引っ掛けて派手にヤろうぜ!」

「オイオイオイオイ、アンタ分かってねぇな」彼の傍でカメラの映像を眺めていた傭兵の一人が、やれやれと言わんばかりに首を振った。「始末屋に、特にあの髑髏顔に狙われてんだぞ?」

「だからなんだってんだよ?」

「そう言う油断した所を狙いに来るかも知れねぇんだ。殺されちまうのが嫌ならここで大人しくしてろって」

「てめぇらでくの坊と一緒にいても、殺されるのにゃ変わんねぇんじゃねぇのかぁ?」青木照彦は馬鹿にするように返した。実際の所、怯えは一つも無いし、彼らを侮っているつもりも無い。だが、積もりに積もった苛立ちが抑えきれないのだ。「そんなにビビっちまうくらいだしなぁ?」

「んだとてめぇ? ボスの頼みで守ってやってりゃ調子乗りやがってよ!」抱えていたライフルを仲間に押し付け、傭兵が殴り掛からん勢いで詰め寄る。

「おぉやるか? いいぜ、暇潰しくらいにはなってくれよなお坊ちゃんよぉ?」青木照彦も拳を構えてファイティングポーズをとった。この世の万事は最後には暴力による恐怖が物を言うと知っていたので、大学時代に目に付く格闘技は一通り修めているし、ルール無用の喧嘩殺法や裏社会のタマの取り合いでも負けて死ぬ事が無いように鍛錬はしている。腕は今もまだ健在だ。二人は間合いを計るように対峙し、一瞬にして肉薄した。取っ組み合いになる二人の周りに、気付けば部屋に居た他の連中が囲むようにして並んで囃し立てている。矢張り彼らも娯楽や刺激に飢えていたのだ。

「まぁ待てお前ら、落ち着け、やめろ」隊長格の男が足早にやってくると、二人を引き離すように押し退けながら言った。「そうやって馬鹿やってたらマジで死ぬ羽目になるぞ。分かってんのか?」

 隊長格の男の手は吊り下げられたライフルから腰のハンドガンに掛かり、今にも射撃姿勢に入らんばかりだ。恐らくは脅しだろうと、それは分かってはいる。裏切るつもりもないのに、護衛に来ておきながらその護衛対象や自らの仲間を撃ち殺すような馬鹿な傭兵など、一体どこに居るだろうか。だがそれでも、そこには若干本気の凄味も垣間見えていた。これが隊長格にまで上り詰める気迫か、と舌打ちしながら納得する。部下達もそれを受けては渋々下がるしかない。全員がすごすごと元の位置に戻っていき、暇を持て余すように己の銃を弄り始めた。解散を見届けて、隊長格の男が青木照彦に向かって言った。

「敵の情報が掴めてないんだ。攻め込む事が出来ないってのは分かるだろ?」

「そりゃ分かるさ。馬鹿にしてんのか?」

「ちげぇよ、ったく……。とにかく、今はもう迎え討つしかねぇんだ。となりゃここがやりやすいんだよ。街なかでドンパチおっ始めても邪魔ばっかでダルいしよ」

 確かにその通りだ。それは自分でも納得している。

「だがなぁ、まともに風呂にも入れねぇし寝床も腐ってるような場所にゃいい加減我慢ならねぇよ。何より女がいねぇのがクソみてぇにつまんねぇ。野郎しかいねぇとかホモじゃあるめぇし、俺にゃそんな趣味はねぇんだ気色わりぃ。せめて女の部下とかいなかったのかよ?」

「……なぁ、もう少し耐えてくれよ。奴を始末し返したら好きに遊び回れるんだからよ」隊長格が呆れ混じりにボヤくが、青木照彦は苛立ちのままに舌打ちを返した。

「なんかおもしれー事でも起きてくんねぇかなぁ」

 

 便利屋と弟子の妨害工作と狙撃は一流で、自分には到底真似出来ないと、ペイルライダーは言っていた。そしてそれは事実なのだと、恵美は思い知った。

 夜も更けに更けた頃合いに、一同は廃墟の敷地東側に広がる小高い山にバンで乗り付けた。獣道に車両を隠すと、ペイルライダーと恵美、そして便利屋と弟子の二組に別れて潜伏。便利屋と弟子はラップトップを駆使し、監視カメラの電波に割り込んで同じ映像が流れるよう細工――ペイルライダーが言うには『スピード』作戦――に取り掛かった。

『映像妨害完了しました』とすぐに弟子が無線で伝えてきた。『これから間引きに掛かります』

 続けて、屋外で周辺をうろついていた歩哨代わりのチンピラ達が倒れていく。師弟がそれぞれ互いにH&K社製のセミオート対人狙撃銃と偵察ドローンの観測を使用して、廃墟へと接近する為の障害となり得る相手を的確に撃ち倒していったのだ。その中には、三階中央の部屋に潜んでいた見張りも含まれていた。全てが淀み無かったし、あっと言う間に目につく敵が次々と倒れていく光景には、舌を巻くしかなかった。

『はい、片付けました。どうぞ進んで』弟子の声がインカムに伝わってくると、遥か頭上を滞空していたドローンが音も無く飛び去って、闇の彼方へと消えて行く。露払いが終わった後は、師弟二人も場所を移して、周辺に残った雑兵どもを始末して回る。そしてペイルライダーからの要請があれば、連携して射撃支援を行うのだ。『何かあれば呼んで下さい。すぐに援護します』

「了解、兄弟」ペイルライダーが小さく答える。そして彼と恵美は前進を始めた。

 これから敵の定時連絡が行われるまでの一時間の間に、二人は各階を一周しながら敵を殲滅していく、言わば掃討作戦に移る。それは後顧の憂いを断つ為でもあった。青木照彦の始末の最中に、撃ち漏らした連中の横槍を受けて逃げられてしまっては堪らない。最初からそう言った可能性を排除しておけば、余計な心配もせずに済むだろうと言う事だ。そこで問題になるのが、もし街に繰り出している下っ端連中が戻ってきた場合だが、そうなった時は野外を担当している便利屋と弟子が無線で連絡を飛ばしつつ、狙撃で足止めと排除をする流れとなっていた。後はその隙に、素早く退避するなり始末をつけるなり、状況次第と言った算段だ。

 月明かりが照らす中を、死体の海原を越えて、ペイルライダーと恵美は徒歩で廃墟の一階に接近した。彼方から僅かに発電機の音が聞こえてくる。騒音を利用し、接近を悟られない為に、今はまだ敢えて破壊しないでおいたのだ。悲鳴やサプレッサー越しの銃声の全てを掻き消すほどではなくとも、少なからず偽装には役立つだろうと思えた。

 二人は、本来ならば窓ガラスが嵌められていたであろう大穴から中へ侵入した。どうやらかつては従業員達が出入りしていたのであろう、バックヤードの一室だった。この廃墟の大半の部屋と同じく、入り口の扉が乱暴に壊されて無くなっていて、元は何に使われていたのかもう分からなくなっているくらいに落書きや汚れに塗れている。

「隅で待て」ペイルライダーは何かに気付いたように恵美を待機させると、消音器を着けたMP7を構えて廊下を警戒しつつ、一人で部屋を出ていった。静けさの中で耳を澄ますと、小さく抑えられた銃声と倒れ込むような音が聞こえてきた。壁一枚挟んだ向こう側で戦っているのだと分かった。すぐに音はしなくなった。恵美は気になって、部屋の出入り口の付近にまで近寄って覗き込んだ。すると丁度、ペイルライダーが帰ってきた所だった。足元には二人分の死体が血の海に倒れている。

「動くなって」彼は溜め息交じりに言った。「……まぁ、いい。さぁ、予定通りに行くぞ」

 ペイルライダーは警戒しながら廊下を進んだ。恵美もその後に続く。その最中に彼女は一階に残る敵がどれだけ居たかを思い返した。偵察写真と図面によれば、確かまだ四人程のギャングどもが二人一組となって、片や正面、片やバックヤードと、さながら警備員のようにあちらこちらを歩き回っているはずだ。

 その内の一組が目の前に見えてきた。二人の男達は片手に拳銃、片手にライトを持ちながら、気怠そうに廊下の角を曲がってこちらへ向かってくる。ペイルライダーは恵美の手を引いて、運び出される最中に置き去られたのだろう棚や机と言った備品類の影に隠れた。

 見付かった気配は無い。この暗闇に包まれた状況が味方しているのだ。その上、彼女とペイルライダーは夜目を慣らし、ゴーグルやバイザーの暗視機能も利用して立ち回っている。彼女らの姿を視覚で捉えるには余程の長い間光の下に露呈していなければならないだろうが、二人がそれを先んじて回避する事は容易だった。

 男達に対して、こちらは角度的にも先制射撃が可能だった。丁度数も合うし、本番前のリハーサルがてらに殺るか、と恵美は銃を握り締めたが、その瞬間にはペイルライダーは既に動いていた。素早い射撃で一人を撃ち殺し、もう一人が動揺している隙にそちらも喉元を射抜いていた。倒れて動かないのを確認すると、彼は左手で後に付いてくるように示し、物陰を出ようとした。

「ねぇ、私にも手伝わせてくれないかしら?」恵美は言った。折角彼女も消音器を着けたMP7とP^99^を携えているのだ。鍛えた腕を試しに悪党どもを撃ち殺してみたい気持ちがあった。

「まぁ、必要があればね」ペイルライダーは無表情な髑髏の顔で一瞥をくれると、先へ進んだ。

「もしかしなくても、本当に最後まで撃たせないつもりね?」恵美は後を追いながら問う。

「正直な所は、そうだな」髑髏の顔は振り向かずに頷いた。「なるべくそうしたい」

 二人は念の為、見かけた全ての部屋と角を確認してからバックヤードを出ると、警戒しながらエントランスに進んだ。フロントのカウンターに身を潜めるような角度でロビーを覗き込む。砕けたガラス戸から差し込む月光に照らされる中、柱にもたれ掛かったりソファに腰掛けたりと、残る二人の男達が煙草をふかしていた。だらけきった様子で談笑していて、警戒心の欠片も無い。こちらとしては隙だらけなのはむしろ好都合だし、煙草の赤い火の点は実によく見える目印になっていた。今度こそ、と銃をもたげた時、ペイルライダーがそれを制した。

「待て、外を見ろ」

「何よ?」と言いつつも、言われた通りに目を向けると、正面玄関の遥か先に何かが動くのが見えた。入口脇に置かれた車両の向こう側に、歩哨代わりのチンピラが二人、うろうろと歩いている。便利屋達の様子は窺い知れないが、まだ此方側には手を付けていないのだろうか。外の全容が分からないので想像も付かない。だがこのままロビーの連中を仕留めれば、もしも奴らが戻ってきた時に気付かれるかも知れないし、外しでもしようものなら……。そう思っていると、ペイルライダーが無線に声を掛ける。

「便利屋、弟子、玄関前の連中が見えるか」

『待って下さい』弟子が答えた。ややあって再び声がする。『確認しました』

「合図したら奴さんらを撃て」

『了解です』弟子が言い、少しの間の後に続けた。『いつでもどうぞ』

「よし……殺れ」ペイルライダーが銃をもたげながら言った。その後すぐに、外の男達の内の一人が頭から何かが吹き出して、僅か後にもう一人も倒れるのが見えた。幸い、音はほとんどしなかったので、ロビーの男達に気取られた様子は無かった。ペイルライダーが悠々とその頭を続けざまに撃ち、これまた頭蓋と脳細胞を吹き飛ばすと、恵美を振り返って言った。「ミスでバレるのは避けたいんだ」

「分かってるわよ」恵美は少し顔を顰める。「でも、何事にも予行演習は必要でしょう? ぶっつけ本番のほうが不味いわよ」

 ペイルライダーは言葉に詰まったように黙った。どこか納得しているような雰囲気があった。

「……車両の破壊も頼んだからな」とペイルライダーは無線にそう言うと、手信号で前進を示した。車両のタイヤが射抜かれるのを見やりながら、二人はフロア隅にある、割れた避難口の表示がぶら下がっている階段を上がった。

 廊下に出る頃には、男達の笑い声や話し声が微かに聞こえてきた。ペイルライダーがその出所を探るように警戒した。脇にある、かつては売店だったであろうスペースには、空の商品棚が倒れているだけで誰も居ない。通路の北側はトイレがあるくらいで行き止まりだ。二人は手早く覗いて回ったが、ここにも誰も居なかった。南下して曲がる。確かこの階にも同じくらいの人数が居たはずだが……。恵美は思い返す。どうやら大半か、或いは全員が大部屋の中に集まっているようだ。

 入口カウンターの前で、ペイルライダーは屈んで停止するよう指示を出した。もう粗方割れてしまっているが、全面ガラス張りの向こうに微かな夜景が見えた辺り、ちょっとした展望レストランのような造りだったようだ。今は料理の香りよりもカビとヤニの腐ったような嫌な臭いばかりが漂ってくる。部屋の奥からは呂律の回らない複数の声が聞こえていた。ペイルライダーが部屋を覗き込み、恵美も彼の後ろからそっと先を見た。ごちゃごちゃと引っ繰り返ったテーブルや椅子に混じって、チンピラ達が屯しているのが分かった。ただ瓦礫が邪魔をしていて、確実に全員が集まっているかまでは分からない。分かる事と言えば、恐らくコイツらも先程の連中と同じくサボっているのだろうと言う事だけだった。ライトの周りに集まって、それぞれが好き好きに腰掛けながら一様に何かを吸引しており、こちらの接近に気付く気配はまるで無い。

「二階の人数を確認したい」ペイルライダーが姿勢を戻すと、小さな声でインカムに尋ねた。「大部屋の中央付近だ、五人居るか確かめてくれ」

『分かりました、確認します』弟子の返事がして、ややあってもう一度声が続く。『全員居ます。部屋の中央でラリってますね』

「了解。じゃあ奥までは行かなくていいな」

『厨房ですね。動きありませんから、無視でいいかと』

「よし」と言って、ペイルライダーは再び部屋を覗き込んだ。

『撃ちますか?』と尋ねる声がする。

「……いや、いい」逡巡してから答える。それから振り返って、恵美を見て言った。

「撃っていいのは撃たれる覚悟のある奴だけだと、昔の探偵が言っていたんだ」彼は撃たれた痕のある場所を示し、それから目を見て言った。「お嬢さん、出来ているか?」

「何? 今更それを聞くの?」恵美は怒りの滲んだ声で答えた。もう充分に傷付けられてきたからこそ、逃れて抵抗する度に、更に傷を負わされるかも知れない事くらいは覚悟してきた。報復するとなれば尚更だろうと言う事は承知の上だ。そして、それでもと思ったのだ。「それが無くてここに居る訳無いでしょう?」

「まぁ……そうだよな」彼は躊躇うような溜息の後に続けた。「じゃあ、ここから見える左の二人を頼む。後は任せろ」

 ペイルライダーは姿勢を低くしながら慎重に進み、部屋の中で倒れていたテーブルの影につくと、左手の指で三つ数え出した。火線を交差させるように狙うのだと分かり、彼女は頷いた。カウントがゼロになると、二人はほぼ同時に互いに与えられた役目に取り掛かった。訓練を思い返し、集中して照準し、短く引き金を引く。抑えられた銃声が何度か鳴ると、一人、二人と、ターゲットが胸元や首元から血飛沫を上げて、小さい悲鳴と共に倒れた。その横では狙っていない他の男達が、既にダラリと四肢を伸ばして息絶えていた。

「……やるじゃあないか」やがて短く息を吐いて、ペイルライダーが感心するように言った。

「どうも」恵美は心地良くなって笑顔を浮かべた。褒められた事もさる事ながら、悪党がこの手で死んだ事のほうが喜びが大きかった。なんとも幸せな気持ちだ。これが父だったとしたら、どれだけの幸福と快感を得られるのだろうか。

 ペイルライダーは左足のポーチから予備の弾倉を取り出して交換、装填すると、ふむと唸った。

「ただ何度も言うが、勝手には動くなよ? 見てるからな?」彼はゴーグルを示し、恵美を指差すと、階段を上がった。

「……分かってるわよ」恵美はその背に頷き返して、後に続いた。

 

 扉が数度ノックされた。なんだ、と一同は示し合わせたようにそちらを見た。

「よぉ、御頭」扉の前に立っている傭兵の声だ。もう交代の時間だったか、と周りの連中は時計を見た。だがどうやら違うようで、見張りの傭兵は続けて言った。「また変な音がしねぇか?」

「何?」隊長格が声を漏らした。

 言われて、青木照彦は耳を澄ますが、騒音ばかりが耳に入る。妙な音など聞こえてこなかった。

「いや、分からん。どんな音だった?」隊長格が問い返す。

「なんか騒ぎ声みてぇな、悲鳴っぽいようなのがさ、聞こえた気がして」

「あ? なんだ? まーたガキどもがふざけてんのか?」青木照彦は溜め息混じりに返した。ヤクをキメた売人達は時に訳の分からない遊びに興じる事がある。幻覚を見るがままに任せて、奇祭のようなどんちゃん騒ぎのみならず、この状況下で実包を使って射的を始めた事は記憶に新しい。襲撃と勘違いした隊長格の男が真相を知って怒鳴り散らし、全員を張り倒してからは、そんな下らない真似も減ったが、それでも『減った』程度だった。「どうせお祭り気分にでもなってんだろうな……ったく羨ましいぜ。安物のヤクなんぞにのめり込むクソアホのゴミどもめ」

「御頭はアンタじゃねぇ、黙ってろ」取っ組み合った傭兵が冷たくあしらった。それからラップトップのモニターを見やり、隊長格に向けて言う。「まぁ、特に異常は見当たらねぇな。どう思う?」

「いや、確かに言う通りガキどもはチンピラだが……にしたってんな間抜け揃いでもねぇだろ……」隊長格の男が訝しむように呟く。それから扉越しに答えた。「巡回のガキどもも居るが、心配だったら見て来てもいいぞ。こっちは俺達で充分だ」

「……了解、御頭」やや迷ったかのように間を開けてから、面倒そうな傭兵の声が返ってきた。「次に聞こえたら行ってくらぁ」

 

 三階に出る直前で、ペイルライダーは手信号で、身を屈めて待機するように指示してきた。従って踊り場の角に身を隠した直後、通路の壁に明かりがちらつき、目の前をチンピラ達が二人、欠伸をしながら通り掛かった。相手がほとんど全く角を警戒せず、ペイルライダーも恵美も影に潜んでいた為、その存在はギリギリまで気付かれなかった。なので、二人の男達は気付いた時には、ペイルライダーからの銃弾を浴びて倒れていた。

「よし」と頷いて、ペイルライダーは東側を一瞥し、恐らく何も居なかったのだろう、すぐに南側へ向かう通路の角についた。恵美も続こうと階段を上がりかけた。しかしすぐに、次なる刺客が現れるのに彼女は気付いた。通路に並ぶ部屋の一つから銃身が伸び、程無くして傭兵が姿を現したのだ。割と近い距離だったので、音か気配にでも気付かれたのかも知れない。恵美はペイルライダーに手信号を示してから、再び階段を下って角に身を潜めた。ペイルライダーがハッとした様子で臨戦態勢になるのが見えた。

 硬いブーツの踏み躙るような足音がして、傭兵が近付き、一旦停まって階段を警戒しているのが分かった。その少し後に再び足音がして、徐々にコーナーへと向き直るのが窺える。恵美は銃を構えながらそっと覗き込んで、敵の視線が角に集中しているのを確認した瞬間に、その胴体目掛けて数発撃った。どうにもプレートが堅牢なのか仕留めきれはしなかったが、傭兵は銃撃を受けてよろけて怯んだ。その隙を突くように、続けて駆け寄ったペイルライダーが取っ組み合い、左腕の剛力でライフルを封じると、抜き放っていたナイフを喉に突き入れた。二人分の攻撃を受けて、傭兵は完全に沈黙した。

「やっぱり才能あるのかもな……」周囲を警戒してから、感心するように彼が呟いたのが聞こえた。思わず頬が綻ぶが、その感情に浸る暇は無い。まだ歩哨のチンピラと傭兵達は残っているのだ。

 ペイルライダーが手近な部屋の索敵を済ますと、二人は手早く死体を引き摺ってその中に入った。他の階と違い、巡回している連中や見張りの敵がまだ残っている以上、せめてもの隠蔽が必要だった。どうやら拷問かそれ以上の事に使われたと思われる汚れまみれの部屋の隅に、死体を押しやって隠す。それから恵美はペイルライダーに従って廊下を進んだ。

 運び出された棚やソファと言った家具の数々が横倒しに積み上げられたまま捨て置かれているそこを、ペイルライダーは慎重に且つ素早く歩を進める。物陰や部屋を確認しながらも引き金を引く事は無かったので、どうやらもうこの並びには誰も居ないのだろうと思えた。そして間もなく西側へ向かう角に差し掛かると言った所で、ペイルライダーはハタと何かに気付いたように恵美の手を引いて少し戻り、手近な部屋の中へと身を隠した。直後に何人かが話す小声が壁越しに聞こえた。

「さっきの音ぁなんだ?」

「知るか、だから確認しに行くんだろ?」

「どうせ誰かがラリってコケただけだろうぜ」

「そんな油断してたら、またあの兵隊どもにどやされる……」

 部屋の前を何人かの徒党が通り過ぎているのだ。心なしか警戒心も高まっているような声に感じる。どうやら先程からの戦闘音を耳にしたのだろう。足音が部屋の前を過ぎた頃合いで、ペイルライダーが出入り口の影からそっと外を覗いた。恵美も同じく彼の後ろから廊下を見る。残る二組の歩哨が合流したのだろう、チンピラ達が四人、ほぼ横並びに歩き去って行く所だった。会話をしている所為か、こちらに気付く様子は全く無い。

「撃ちたいか?」ペイルライダーがゴーグル越しに視線だけを向けて言った。

「是非とも」恵美は喜ぶように頷いた。

「左の二人だ。行くぞ」

 二人は頷いて、同時に身を乗り出した。ペイルライダーは立ち上がり、恵美は膝立ちの姿勢で照準を定めた。引き金を引くと、抑えられた銃声が何度かして、弾丸が男の背中から首筋に掛けてを射抜いた。男はそのまま倒れ込んだ。もう一人に照準を向ける。今度は数発が外れて突き当りの壁が盛大に弾けてしまったが、その後は上半身を滅多撃ちに出来た。同じように噴火のような血飛沫が舞い、男は片膝から倒れて壁にもたれ掛かった。横目に見ると、他の二人は悲鳴すら上げる余地も無く撃ち倒されていた。

 やった、と恵美は息を吐いた。だがそれで終わりにするにはまだまだ早かった。

「今のは……?」と微かな声がした。同じくして、遠くから足早に駆ける音がする。それは途中で慎重そうな足音に変わり、どんどん小さくなっていく。

「くっそ……なんだこりゃ……!?」やがて声がして、ライフルを携えた傭兵が角から姿を現した。壁の弾痕に触れ、足元に目を落として血痕を見るやいなや、警戒の姿勢となって身構えるのが分かった。

 同時に、ぐいと体が引っ張られて、恵美は部屋の中へと戻されていた。代わりにペイルライダーの体は外に飛び出す形になった。不味いと思って姿勢を整え目を向けると、彼はその勢いのままに物陰に飛び込んで潜んでいた。手信号で待機を命じてくる。

「んだよ、ったく……!?」だが、その物音に反応したのだろう傭兵の声が聞こえた。ジリジリと足音と気配が躙り寄るのが分かる。途中で横たわるチンピラ達を見付けたのか、小さく驚く声も聞こえた。「オイマジかよコイツら……!?」

 ペイルライダーは隙を窺うように物陰の間から覗き込んでいたが、鋭敏な動きで瞬時に上体を半身だけ乗り出すと、即座に発砲した。一瞬表し難い声が聞こえ、その直後に倒れるよりも軽い音がした。ペイルライダーは物陰から立ち上がり、素早く移動した。恵美も慎重に身を乗り出すと、彼が膝から崩れていた傭兵に向けてナイフを突き入れてトドメを刺し、そのまま手近な部屋へと引き摺っていくのが見えた。続けてチンピラ達の死体にも取り掛かる。恵美もそれを手伝いに駆け寄った。

「危なかった。もう少しで無線連絡される所だった」恵美が傍らに来ると、彼は小さく言った。「奴さん、壁の弾着に引き寄せられたみたいだな。気を付けないと……」

 それは自分にも言い聞かせるような声だったが、恵美は言葉に詰まった。少しいい気になりすぎたのだろう。自分が外していなければこんな事にもならなかったのかも知れない。そう悔やむ恵美に気付かないまま、ペイルライダーはついてくるように手で促した。当然止まっている訳にも行かないので、彼女は思考を切り替えるように努めて従い、進んだ。次は上手くやらないと。

 角を曲がる前に停止するよう示したペイルライダーは、ナイフを抜きながら息を潜めて気配を消し、少し待った。それから姿勢を低くして素早く飛び出すと、やがてバタバタと倒れ込む音と、低い唸り声のようなものが聞こえてきた。恵美が後を追うと、そこでは二人の男が取っ組み合いをしていた。ペイルライダーのナイフの先は、喉元のほんの少し上辺りに迫っていて、傭兵はそれをどうにか押し留めようと必死な様子だった。

 ここで、と恵美は銃を構えて、傭兵の頭を狙おうとした。だが二人がもつれている所為で、射撃をするには危険だった。そのすぐ後に切っ先がめり込み、そして刃が全て埋まった。次の機会はまだ先になった。

 

「確かに、なんか聞こえた気もするな」と隊長格の男が言った。訝しむように扉の向こうを見詰めている。

「だからどうせバカどもがラリってんだろうって」青木照彦にもそれは聞こえていたが、前例が前例だけに些か緊張感に欠けていた。だが隊長格の男はそうではないようだ。カメラ映像にチラリと目を向けると、首を傾げて無線機のスイッチに手を掛ける。

「各員、状況報告を。異常は無いか?」問い掛けて少し待つ。そして、しばらくの間が空いた。しかし、どうやら応答は無いようだ。またも首を傾げる様子が見える。「……繰り返す。各員、報告しろ」

「あー、おい、そこの。お前らも見てこいよ」溜息混じりに、青木照彦は部屋に居た他の傭兵達に言った。「どうせ大した事でもねぇだろうけど、暇だろ? オラ働いてこいよ」

「あぁん? ったくよぉ……」彼らは指揮官でも無い男に指示される事に不満でもあるのか、睨み返して舌打ちをした。だが、確かにそれ以外にするべき事も無いので、渋々と言った様子で出ていく。

 扉の向こうに彼らの姿が消えると、青木照彦もやれやれとかぶりを振って、連絡を待つ事にした。隊長格から万一に備えてと渡されていた無線機の予備を手に取り、それを眺める。

「なんかおもしれー事でもやってんなら、俺も混ぜてもらわねーとな。殺される前に退屈で死にそうだ」

「ったく、この……呑気な事で……」と隊長格の男が呟くのが聞こえた。

 

 西側の通路を半ば近くまで進んで、もう間もなくエレベーターホールへと行き着こうとした辺りで、二人の足取りは止まった。廊下の突き当りに、数人の人影が蠢いているのが見えたのだ。

「どうやらおいでなすったようだな」ペイルライダーは恵美を護るように抱えると、付近を軽く見渡して急ぎ足で少し戻り、扉の外れている部屋へと入り込んだ。隅に行き、ベッドの陰で姿勢を低くするよう指示して、自身は出入り口から少し離れた場所でそうする。彼はMP7を小さく構えながら、再び呟いた。「おっとり刀で駆け付けたか?」

 早足で迫る音が聞こえる。下っ端どもはもう全部片付いてるので、残るは傭兵達の増援だろう。何人分なのかとかは恵美には分からなかったが、とにかく大勢だと感じた。

「ここに居ろよ」ペイルライダーはそう言って、機を窺うように出入り口のほうを覗く。

「援護が必要よ」

「いや、余計な真似はするな」そう言うと、指を立てて黙るように示した。

 静かになると、敵同士が何やら話し合う声が聞こえた。距離があるのか、一語一句全ては判然とはしないが、どうやら仲間に問い掛けたり、警戒を促したりしているのが分かった。やがて抑えた足音とともに、それらが部屋のもう間近にまでにやって来た。もしかすると既に気取られているのかも知れない。恵美は息を殺し、ベッドの下からいつでも撃てるように横倒しの伏せ撃ち姿勢をとった。

 足先が視界に映った時、突然ガスが噴出するような音が聞こえた。次いで廊下目掛けて重い塊が転がされる。その円筒形の何かからは濃い煙が撒き散らされている。ペイルライダーがスモークグレネードを使ったようだ。

 なんだなんだと傭兵達が騒ぎ立てると同時に、ペイルライダーは動いた。低い姿勢のまま、素早い身のこなしで駆け出し、煙の中へと突入しながら射撃を浴びせ掛ける。恵美は口元を袖で押さえながらも、射撃支援が出来るようにと銃を構えてベッドの上から顔を覗かせた。だが、その時には既に、彼らの姿は見えなくなっていた。そしてやがてすぐに、開けた視界は煙幕によって閉ざされた。

 

 集中力を高め、感覚を研ぎ澄ますと、まるでスローモーションのように全ての情報を事細かく受け取れるようになる。その状態で、ゴーグルの視界をサーモグラフィーに切り替えたペイルライダーは、寸前の記憶にある障害物との位置関係を思い出しつつ進撃した。白黒の濃淡で描かれる世界に、複数の人影が浮かび上がる。

 敵は三人、一列縦隊、家具や廃材を避けるように間合いを取りつつも、手前側の壁に沿って移動していたようだ。どうにもこちらの居場所のおおよその見当をつけていたように見える。だがクリアリングの姿勢の最中に立ち込めたスモークにより視界を奪われ、混乱して足を止めている。ではここで永遠に釘付けてやろう。

 前進し、先頭に立つ傭兵とすれ違うように肉薄しながら短機関銃を連射。近接用の構えで放たれたそれは、足から胴を滅多撃ちにした。

「ぐぁッ!」と声を上げて、射撃を受けた傭兵は怯み、蹲る。仕込まれているプレートは、ペイルライダーが使っている物と同じくライフル弾対応以上の高レベルの物なのだろう。出血は足と脇腹からのみで、どうにも上手く貫けたようには思えない。しかし衝撃とダメージで行動不能に陥らせる事は出来た。

 進軍を阻害された他の連中は、悲鳴を聞いた後、一瞬の間を置いて動き始めた。一網打尽を避けて反撃する為に横に広がり、射線を被らせずに面で制圧する布陣を整えようと言うのだ。だがその一瞬の隙に、照準を移しながら前進するのは容易かった。敢えて間に割り込めるように狙って進む。そうする事で、未熟な者相手なら同士討ちを誘えたり、卓越した者相手ならその可能性から迂闊に銃を撃てなくさせられる。単身の身軽さの強みだ。そうしながら、二人目の傭兵に射撃した。

 二人目の男は上段で構えていたライフルをまだ眼前に下ろし掛けている途中だった。射撃を受けて、血飛沫と悲鳴を上げて膝を折る。しかし今度はMP7の残弾が足りず、胴を何発か撃ち抜いた所で終わりだった。

 仕留め損なった。それでも身動きは封じた。一対多数の戦闘においては一人に掛ける時間が長くなるほど苦しくなるので、敵に隙を生じさせたのなら次々と突いていかねばならない。今は悠長なリロードではなく他の武器の出番だ。

 三人目の男は丁度右手をすれ違い、壁の間近の物陰へと離れていく所だった。こちらはもうほとんど構えに移行しつつあり、いずれは銃口が向けられるだろう。組み付こうにもナイフでは間に合いそうもない。ペイルライダーは素早く身を捻り、MP7を左脇にやりながら右足のUSPを抜いた。銃弾を浴びせかけながら突き出して構える。弾丸は命中し、三人目の傭兵はよろめいたが、ボディアーマーに防がれたのか出血は少なかった。なのでペイルライダーは発砲を続けて怯ませながら詰め寄り、その体に組み付くと、左腕の剛力でライフルを押し退けて拳銃のグリップで鼻っ面を殴り付けた。仰け反り倒れた所に射撃をし、弾丸は喉元、そして顔に命中。床一面に熱い飛沫を撒き散らした。

 接近戦用に両手で斜めに構えながら振り向いて、照準を二人目の男に移す。二人目の傭兵は壁にもたれながらもどうにか立ち上がる所だった。銃口が標的を探すように持ち上がりかけている。ペイルライダーは頭部周辺に残弾を集中させた。二人目の傭兵も倒れた。

 辺りを見回して、脅威が残っていないかを確認する。すると先頭の男が、ドロドロと熱い液体を垂れ流しながらも、ライフルを支えにまだ姿勢を立て直そうとしている事に気が付いた。追い込まれた人間は何をするか分からない。手当たり次第に撃ちまくられでもしたら厄介だ。即座に弾切れの拳銃を投げ付けて怯ませると、左脇に吊るしたバックアップのUSPを抜き、射撃した。それがトドメとなって傭兵は完全に動かなくなった。

 周囲を見回す。これで制圧した。時間にして僅か十秒にも満たない間の出来事だったが、酷く長く感じられた。

 良し、と短く息をついて思ったのも束の間、再び慌ただしい足音が煙の向こうから近付いてくるのが聞こえた。方角的には北側、エレベーターホールの辺りだ。何言か話す声も聞こえる。

「見張りの奴が死んでたぞ! 敵が来てる!」今始末した傭兵達とは分かれて捜索に当たっていた連中だろう。スモークに気付いたら包囲の陣形を取って、この帳が掻き消えるまで牽制をしてくるかも知れない。向こうも暗視機能を使えるのだ、煙が薄まれば正確な射撃を噛ましてくるだろう。そうなれば身動きが取れなくなるのは目に見えているし、こちらが追い込まれている間に青木照彦を逃されでもしたら面倒だ。

 落ちた拳銃を手早く拾う。それから全てにリロードを済ますと、ゴーグルの視界をナイトビジョンに戻しつつ、隅に映っているモニターに目をやった。恵美の位置を表す光点は部屋から動かずにいる事が示されている。前後不覚のままに歩き回る事は出来ないのだろう。なので、彼女にはこのまま大人しくしておいてもらい、敵は自分に引き付ける為に敢えて飛び込むとしよう。

 MP7を構えて廊下を戻り、煙幕の薄れた場所にまで出ると、天井を見上げて探る。崩れ放題の中でも、より邪魔の少ない部分はどこにあるだろうか。

 完全に板が外れて千切れた配管や配線が垂れ下がっている一角を見付けると、ワイヤーショットを使ってそこに上がり込み、裏へと侵入した。這うように梁を伝って進み、エレベーターホールの間近にまで移動する。あちこちで口を開いている裂け目や割れ目から眼下を覗くと、角を警戒する銃身と、二人の傭兵が見えた。人数を考えると下っ端の傭兵はこれで打ち止めだ。始末すれば残るは隊長格と青木照彦のみとなる。

 傭兵達は漂うスモークに緊張感を高め、一人が角から先を、もう一人が後方を警戒しつつ、徐々に進もうとしている。ナイトビジョンゴーグルは着眼したままだった。これなら視野も充分に狭まって集中している事だろう。息と気配を殺してそっと進み、敵の布陣を足元に捉える。

「オイ、この中なんか居るぞ……」と先頭の傭兵が言った。傍らの物陰につき、ライフルを構えたまま続ける。「俺が見とくから、お前はもう一度無線で報告を……」

「あぁ、分かった」と二人目の傭兵が緊張した様子で頷き、銃から肩のスイッチに手をやった。構えが解かれたその隙に、ペイルライダーは天井板を蹴り破り、眼下へと飛び降りた。左手で梁を掴んで支えにし、後方の男を蹴り飛ばして壁へと激突させる。板材の砕ける音と、体が衝突して倒れ込む音、そして呻きにも似た悲鳴が辺りに響く。

 先頭の男が驚いて身をすくませながらも、振り向きつつあるのが見えた。だが銃口は遅れてくるし、照準して射撃となればもっと掛かるので、ペイルライダーはその隙に、捉えられぬよう素早く身を屈めながら移動しつつ、そちらに発砲した。こちらも正確に狙いを付ける事が出来なかったので、命中こそしなかったようだが、先頭の男は何言かを喚きながらも回避の為に転がり、角の向こう側へと逃げ込んでいった。ペイルライダーは数度射撃を継続しながら、死角になる位置まで後退した。それから、苦しげに起き上がろうとしていた後方の男へと銃撃をして怯ませると、首根っこを掴み上げて、ポッカリと口を開けたエレベーターシャフトへと突き落とした。絶叫が遠退き、重い音と共に、二階半程下に鎮座するカゴの上へと叩き付けられるのが分かった。それを聞きながらも更に後退し、南東の角に身を潜めると、どうやら姿勢を立て直したのか、先頭の男が銃口と顔を覗かせた。数発をこちら目掛けて撃ってくる。壁が弾けて抉れる中、ペイルライダーは姿勢を低くして躱しながら、残弾で威嚇射撃をして頭を引っ込ませ、それから素早くマガジンを交換した。

 膠着しがちな展開になってきた。向こうもこちらに進むにはリスクがある事くらい承知だろうし、警戒を強めるはずだ。回り込んで煙幕越しに攻撃するにしても、割れた窓から吹き込む空気だのでもうとっくに薄れてきているので使いにくい。別の案で仕掛けるべきだろう。

 もう一度エレベーターシャフトを使うか? 誘い込んで下階からワイヤーで飛び掛かるか、背後を取って仕留めてやるか? それには敵の位置が肝心だ。さて、今はどこにいる?

 そう思いながら再び覗き込むと、不意に消音器越しの抑えられた銃声が何度かして、傭兵が転がり出てくるのが見えた。思わず、おや、と眉をひそめる。同じMP7の発砲音だが当然彼の仕業ではない。それからゴーグルの表示に目を向けて苦笑した。

――全く、あの悪戯猫は……。

 ともかく好機を逃すまい。そうとばかりに、蠢く傭兵の体目掛けて銃弾を浴びせ掛ける。ヘルメットを吹き飛ばされ、頭蓋と脳を撒き散らして傭兵は息絶えた。

 

 眼前の傭兵が血飛沫を上げて身動きを止めたのを見やり、恵美は警戒しながら部屋の入口から踏み出した。挽回の機会とばかりに、取り敢えず眼前の敵は倒したが、どこにどれだけ残って潜んでいるか分からない。流石のペイルライダーと言えども多勢に無勢は厳しいはず。ならば出来る限りの援護くらいはしなくては。その為にもまずは彼との合流を目指そう。

 消えゆく煙の帳を掻き分け、廊下のあちこちに転がる血みどろの死体がどれも本当に息をしていないかを見定めながら、ゆっくりと前進する。エレベーターホールの手前まで来ると、教わった通りにパイをスライスするようにして角を曲がった。

「落ち着けお嬢さん、撃つなよ。エスコートしてやれなくなるぞ」視線の先に黒い左手が飛び出して、ひらひらとこちらに向けて振られる。一瞬照準を合わせてから、それは味方だと理解し、すぐに外した。「大丈夫だ。さぁ、おいで」

 招かれるようにホールに歩み出ると、赤黒く汚れた髑髏の顔が暗闇に佇んでいた。

「他には?」彼のほうへ寄りながらも辺りを警戒しつつ、恵美は問う。「まだ居るのかしら」

「いいや、もう居ない」息を整えて、ペイルライダーは答えた。「前菜は終わりさ」

「そう」文字通り死屍累々の辺りを見回す。どうやら派手に食い散らかしはしたが、供されたものは全部味わったと見える。恵美は銃を下ろすと、視線を彼へ戻した。「どう? 動いて良かったでしょう?」

「あぁ、まぁ……今回はね」肩を竦めて、ペイルライダーは答えた。「なんだい、待ちきれなかったのか?」

「あんな煙たい所にずっとだなんて居られる訳無いわよ。それとも何? 私を燻したかったの?」

「生憎、食人の趣味は無いんでね。人肉のスモークベーコンなんて願い下げだよ」

「それは良かったわ、一安心ね」マガジンを交換して皮肉げに笑う。「流石にそう言う意味で食べられるのは真っ平御免だもの」

「でも、下手すれば穴開きチーズか蜂の巣になるかの二択だったかも知れないんだからな。運が良かったと思って気を引き締めるんだ」

「分かってるわよ」嗜めるように言うペイルライダーに、恵美もやれやれと頷いた。流石に理解出来ないほど馬鹿になったつもりはない。「たまたま上手く行っただけ、ね」

 それから彼女は抱える銃を示す。

「運の良さ以外も味わいたいわ。今のじゃ物足りないんだけど」

「心配せずともメインディッシュが残ってるだろう?」ペイルライダーが廊下の果てを示す。そうだ、向こうには青木照彦の立て籠もる部屋がある。「今なら一人分のおまけ付き。これならご満足頂けるだろうよ」

 そう言って歩き出した彼を追って進み、部屋の前までやってくる。見張りも出張った結果始末されてしまったのだろう、重苦しい扉がただ閉ざされてそこにあった。

「存分に撃てばいい。その為のお膳立てはしてやるさ」ペイルライダーは無線に声を掛ける。「便利屋、弟子、合図したら発電機を壊せ」

 それから彼は腹部のポーチからスモークグレネードを取り出した。

「恐怖と衝撃を与えれば隙が出来る。そこを突けばかなり……」

「ちょっと待って」恵美はそれを見て、止めるように手を掴んだ。「だったら、もっとビビらせてやろうじゃないの」

「ほぉう、どうする気だ?」髑髏の顔が首を傾げてこちらを見る。

「彼らから色々頂きましょう?」彼女は転がる死体を示した。「どうせもう必要の無い物ばかりだし。まずはそうね……首を落として?」

 

「オイオイ、マジかよ……」青木照彦はやれやれとかぶりを振った。「こりゃようやくお出ましかよ」

 そう余裕を抱く反面、少し狼狽えている部分もあった。送り出した傭兵達の内の誰かが報告してきた内容が、彼の緊張感を煽っていたのだ。なんせ、いつの間にか見張りが死んでいたと言うのだから、危機感を抱かざるを得ない。確かに退屈せずには済みそうだが、些か危険な雰囲気も感じていた。

「オイ今どう言う状況だお前ら!?」隣で隊長格の男が、苛立ちを隠す事無くあらわにしながら問い掛けていた。先の連絡の後、もう一度回線が通じかけた事もあったが、すぐに途切れて以降は音沙汰無しだった。その間にも騒ぎはまたどんどんと大きく近くなっているように感じたし、よくよく耳を澄ませば、それこそ銃声のような音さえ聞こえる始末だった。「……なんだよクソどもが、報告ぐらいまともに出来んのかよ!」

 隊長格の男が黙ると、続いて異様なまでの静けさがやって来た。違和感を覚えて、二人は思わず探るように視線を彷徨わせる。突然何かが変わった。そうだ、先程までの騒がしさがどこかへと行ってしまっているのだ。なんなんだ一体、と二人は思った。解決したのか? 連中が敵を片付けたのか、それとも逆に始末されたのか……。

「あぁもうこうなりゃ俺達で殺るしかねぇかな……」青木照彦は拳銃を抜きながら言った。緊張で僅かに引き攣った笑顔を浮かばせる。「さぁ、来るなら来いや。返り討ちにしてやっからよ」

 そう言って立ち上がり、扉に向かおうとした。

「いやいや待てって、とにかくもう一度確認してみる」隊長格がそれを引き止め、無線に再度問いかけた。「オイ、一体何が起きてるんだ? 解決したのか?」

『……お答えしようか』やがてスピーカーの向こうから、聞き覚えの無い声が響いてきた。不気味に低くくぐもった男の声だ。青木照彦も隊長格の男も、何事かと身構えていると、その声は続けて言った。『実はお前さん達に悲しいお知らせがあるんだよ。お友達は皆先に帰ったぞ……土にだがな』

「あぁ? んだテメェふざけやがって!」隊長格の男が問い返すよりも早く、青木照彦は怒鳴り返した。「オイコラボケ!」

「やかましい、ちょっと黙ってろ!」隊長格の男が青木照彦の手から無線機を引き剥がすように取り上げながら、自らのスピーカーマイクに向けて怒鳴った。「異常事態発生だ! 誰でもいい、誰か確認しろ!」

 そして少し待つ。だが、矢張り応答はいつまで経っても返ってこない。それがより一層、彼らの空気を張り詰めさせた。

「クソが……オイ、誰か応答しろ!」

「いや、もう応えたろう? 足りなかったのか?」先程の声が再び、しかし今度は肉声として響き、同時にドアが激しい音を立てて開いた。「それじゃあこれでも見てみなよ」

 次いで、彼らの足元に何かボールのような物が重たげな音を立てて転がってきた。いや、それはボールではない――人の頭だ。苦悶の表情のまま固まった顔が、光の無い瞳で二人を見やった。

「コイツぁ……!?」隊長格の男がハッとして言った。青木照彦も気が付いた。その顔は、彼が送り出した傭兵の内の一人ではないか。そして、さっきまで命だったモノの口の中に、何かが無理矢理押し込められている事に気付き、青木照彦は思わず手を伸ばした。なんだろう、硬く鈍い光沢を持った筒みたいだ……。

「やめろ!」隊長格の男が叫び、青木照彦を抱えるようにして倒れ込み、ソファの影へと伏せさせた。間も無く、切り落とされた頭の穴と言う穴から煙が吹き上がり、辺りにもうもうと立ち込めた。それがスモークグレネードの爆発的な噴出によるものだと言う事は、青木照彦にも流石に分かった。映画による知識も馬鹿にはならないな、とどこか冷めた部分での理解だったが。

 続くように、階下から何かが弾ける音がして、照明が落ちた。恐らくは発電機が壊されたのだろう。差し込む月明かりが辛うじて照らす中、やがて室内は煙に閉ざされた。

「俺達を探させているんだって?」どこからともなく響くように、低い声が言った。その声に、青木照彦は背筋に冷たいものが流れるのを感じた。近いようで遠いようで、前後左右、上下とも見当の付かないその声は、まるで本当に不明瞭な存在と相対しているかのような気分にさせられる。「ふいにして悪いが、こちらから出向かせてもらったよ」

「髑髏顔め……!」隣で姿勢を整えた隊長格の男が、ライフルを抱え直しながら呻くように声を漏らした。「殺ってやるぞ……!」

 青木照彦も、袖で口と鼻とを覆いながら、姿勢を低くして辺りを見回した。どこだ、どこに居やがる? 吹き上がる煙幕の所為で何も見えない。だが見付けたら直ぐ様撃ち殺してやる……。そこで、自らの手から拳銃が失われている事に気が付いた。伏せさせられた時に落としてしまったのだろう。遠くの床にそれらしき影が見えたが、手を伸ばして届くような距離ではなかった。緊張感がどんどんと高まり、次第に余裕が消えていくのを感じる。

「あぁクソッ、見えねぇ……オイ、窓開けろ」隊長格の男が肩を小突いてそう言い、煙の中に消えるようにしてどこかへ行った。恐らくは記憶を頼りに窓際に這いずり寄ったのだろう。確かに煙を掻き消せれば幾分かマシになるかも知れない。青木照彦も同じく動き、なんとか一枚分開ける事に成功した。

 彼がソファの影に戻ると、吹き込む外気で薄れゆく煙の中に、何やら人影が二つ、揺らめいて見えた気がした。片方は長身の男のようだが、もう片方は対象的に小柄な少女のもののようだった。人影はどちらも掠れるように消えていったが、青木照彦は目を細め、それを追うように視線を巡らせた。

「随分と怖がってくれてるみたいね、嬉しいわ」冷たく笑う少女の声がした。聞き覚えのある声だ。何故ならそれは、彼の血を分けた実の娘のものだったからだ。

「てめぇか恵美ぃ!」青木照彦はハッとして怒鳴り返した。

「その名前で呼ばないで、クソ野郎」抑えられた銃声がして間近の床が三度爆ぜた。外したのか外れたのかは分からないが、狙われている事には変わりない。悔しげに唸りながら、青木照彦は体を縮こませて隠れた。まるで追うかのように、再び銃弾が辺りにめり込む。

「クソが、殺ってやる!」隣に戻ってきた隊長格の男がなりふり構わず乱射しようとして、ソファの上からライフルを突き出した。引き金を引くが、壁に当たる音はすれど、人の悲鳴は聞こえない。

「やめろ馬鹿、殺すんじゃねぇ!」青木照彦は隊長格の手からライフルを奪い取るように掴んだ。「アイツは生け捕りにするんだよ!」

 顔を張り倒し、力任せに何度も引っ手繰ると、銃を繋いでいたバックルが砕けて引き千切れた。そのまま床を滑らすようにして彼方へと投げ捨てる。殺されてしまっては、一体なんの為にここまで追い掛けてきたのか、その意味がなくなってしまうだろうに。手間を掛けさせられた分、あの女には稼げるだけ稼いで貰わなくては困る。

「ざけんな、んな事言ってる場合かよ! こっちが殺られちまうだろ!」

 尚も拳銃を抜こうとする隊長格の男を阻止していると、背後に何かの気配を感じた。

「この期に及んで仲間割れとは、正しく悪役の鏡だな」

 二人は同時に振り向いた。

「始末屋……ペイルライダー!」隊長格の男が言った。

「そうだよ」

 二人は立ち上がるが、飛び掛かるよりも早く、ペイルライダーが隊長格の事を撃ち、そして青木照彦の事を蹴り飛ばした。もんどり打って二人は倒れた。

 

 胴を撃たれて悶えながらも、姿勢を整えた隊長格の男が、素早くグロックの拳銃を抜いた。だが相手が構えるより早く、ペイルライダーは再び発砲して、銃弾を叩き付けた。胸部の防弾プレートに当たったので出血も無く、死にもしなかったが、またも襲いかかった衝撃に隊長格の男は床に打ち据えられ、拳銃を取り落としていた。ペイルライダーは左腕で喉元を引っ掴んで、無理矢理引き起こした。

「くたばれッ!」至近距離で何度も腹部に銃撃を浴びせる。赤い飛沫が腕に纏わり付き、生暖かい感触に包まれるとともに、一点集中して浴びせ掛けた銃弾が見事に防弾素材を突き破って敵の体へ突き刺さったのだと分かった。

「お仲間が待ってるぞ」無慈悲に、ペイルライダーは男の横っ面を張り倒して突き飛ばした。隊長格の男はダラリと手足を伸ばして床に転がった。「さっさと逝ってやれ」

 止めを刺すべく、弾の切れたMP7を左手に抱え、右足からUSPを抜き、構えようとする。だがそこを強い衝撃が襲って薙ぎ倒されてしまった。それは青木照彦のレスリング仕込みの重いタックルだった。弾みで手から拳銃が離れてしまい、床を滑っていく。縺れ込みながら、ペイルライダーと青木照彦は組み合い、最後にはマウントポジションを取られてしまった。

「このクソがぁ!」雄叫びと共にナイフが顔面に迫る。

「鏡見てから言うんだな、この間抜け!」ペイルライダーはそれを反射的にMP7で防いだ。「お前さんよりかは遥かにマシだ、下衆が!」

 力任せの刃が深々と突き刺さり、お陰で機関部が壊れ、使い物にならなくなる。ペイルライダーはスリングのバックルを切り離すと共に、MP7だったスクラップを回転させてナイフを手から奪い取ると、諸共彼方に投げ捨てた。

 舌打ちしながら青木照彦が右フックを放ってくる。ペイルライダーは左腕でそれを防いだ。硬い音が響き、激痛に青木照彦の顔が歪む。ペイルライダーはお返しに右手の喉輪を放ち、よろめかせた所に鳩尾へ左の貫手を突き入れる。青木照彦が呻いて背を丸めた。刹那、彼の横っ面を小さな影が蹴倒した。恵美だ。体重を乗せた喧嘩仕込みのフロントキックで、実の父親の顔を蹴り飛ばしたのだ。

「私を無視する気?」彼女はMP7を構えて狙いを澄まそうとした。しかし足掻くような蹴りによってMP7を持つ手が薙ぎ払われ、姿勢を崩して倒れる。

「ガキが、邪魔するんじゃねぇ!」青木照彦がむせこみながら叫んだ。彼は素早く起き上がって娘に掴み掛かり、銃を奪おうとしていた。「てめぇは一生俺の道具でいりゃいいんだよ!」

 だがその隙があれば、ペイルライダーには充分だった。ペイルライダーも立ち上がり、踏み込む。

「俺も無視するなよ!」誤射を避ける為にも拳銃は使えないし、同じくナイフも危険だった。なので、右手のフリッカージャブで横っ面を張り倒す。ぐるりと回るようにして膝を突く様を見やると、彼は煽るように言った。「どうした? 二人も相手にしたら身が持たないか、ロートル?」

 青木照彦が振り返り、血を吐いて、怒り狂った目で睨み返してきた。痛みと挑発が見事に冷静な思考を阻害しているようだ。勢いのままに、彼は鋭く何度も殴り返してくる。ペイルライダーはボクシングスタイルで構えながらステップで間合いを計り、回避した。

 元は体育教師だけに運動能力に秀でているのは理解していたが、どうやらいくつかの格闘技も経験しているようだ。その動きは素早く重い。冷静さを失っているとは言え、手慣れた正確さは残っている。兵士ではなくとも戦士ではあるのだ、油断しないに越した事はないだろう。攻め入る隙を探る為にも、もっと我を忘れさせてやるとしよう。

「弱いぞ? 役立たずの、雑魚のクズめ!」体捌きで攻勢を躱しつつ、避けきれないものはブロックやパリィでいなしながら、罵倒を浴びせ掛ける。「老いぼれの、死に損ないめが、この!」

「ふざけんじゃねえぇッ!」

「いいや、大真面目さッ!」

 獣のような怒りの声と共に放たれた大振りの一撃、それをダッキングしながら、左拳のカウンターブローを脇腹に入れた。青木照彦は怯むが、すぐに立て直して攻勢に戻った。ジャブ代わりの鋭いキックが迫り、ペイルライダーは左腕でそれを払う。蹴りの勢いを利用したストレートパンチをスウェーバックで一瞬回避した後、戻る勢いに乗せて顎に左拳のフックを入れ込むと、仰け反った隙に、右の足刀を鳩尾に打ち込んで、その身動きを封じた。嘔吐するように身を屈めた青木照彦の頭髪を掴んで顔に膝蹴りを入れようとするが、寸前で防がれてしまう。反撃にボディブローを何発か貰い、その内の一発は打撲の痕に直撃した。ぐぅ、とペイルライダーは呻き、膝を突きそうになった。だが、終の一撃が入れられるのならば構わないと歯を食い縛って耐える。

「墜ちろォッ!」ペイルライダーは雄叫びと共に痛みを振り払いながら、肘を後頭部に数度落とし、両手のハンマーパンチで叩き潰すように青木照彦の顔を地面へ打ち付けた。

「沈めッ!」トドメと言わんばかりに、ペイルライダーは背骨に向けてエルボードロップを落とした。ゴキリと嫌な音がして、青木照彦が激痛に悲鳴を上げ、そうすると遂に抵抗する気力を失ってしまったようだった。

「殺るなら……早く殺れ……」

「そうしたいのは山々なんだがな……いいや、まだだな……」ペイルライダーは荒い呼吸の中で、左手で胸倉を掴んで、無理矢理立ち上がらせながら言った。「残念ながらお前さんを殺すのは俺じゃあないんでね……」

「そうよ。私の手で出来るだけ残酷に殺すのが目的なの」恵美がやって来て、MP7を構え直した。「だから醜く悶えて死んで」

 ペイルライダーは壁に向けて青木照彦を叩き付け、その腹部を蹴り込んだ。青木照彦は唸りながら崩れ落ち、ぐったりと座り込んだ。そして恵美がその体に向けて狙いを定める……。

「そうさ、まださ」

 突然声が響き、ペイルライダーはバックアップの拳銃に手をやりながら振り向いた。そこには、死んだと思っていた隊長格の男が、よろめきながらも立っているではないか。いや、それだけではない。素早く駆け出して低いタックルと共にペイルライダーの体を跳ね除けると、恵美を人質にするように抱えてMP7を奪い取ろうと掴み掛かっていた。対するペイルライダーの手にはUSPは無かった。姿勢を崩して倒れた際に取り落としてしまっていたのだ。彼はとにかく姿勢を立て直そうとするが、その頃には隊長格が銃口をもたげていた。

「形勢逆転だな、死神」そのまま、隊長格は容赦無く発砲した。ペイルライダーが咄嗟に構えた左腕は間に合いはしたものの、ブチ当たって逸れた弾丸の幾つかは胸板を直撃する形で、防弾ベストを勢い良く殴り付けた。

「ぐ、が……ッ!?」と、醜い呻きを漏らしながら、ペイルライダーは着弾の衝撃に再度床へと叩き付けられた。

 

「で、でかしたぞ」青木照彦は安心しきった声で言った。

「特別ボーナスくれるんだよな……ちゃんと寄越せよな……娘も捕まえて、始末屋も殺ったんだから……」隊長格の男はスリングを切り離して完全に銃を奪い取ると、恵美に突き付け直した。苦しげな表情で呻くように言う。「クソッ、痛ぇ……ふざけやがって……治療費も払えよ……」

「あぁ、あぁ……分かってるよ……」青木照彦は何度も小さく頷きながら立ち上がった。もう間もなく死ぬであろう重傷を負っているのは明白なのに、当然生き長らえられると思い込んでいるとは。そう思いながら、隊長格の下へと歩み寄り、恵美の胸倉を掴み上げる。「今度は逃さねぇぞ」

「もう勝った気でいるのね」恵美は諦める気はまるで無いと言わんばかりに睨み付けてきた。始末屋も死に、もう何一つ武器も残っていないくせに、何を強気な。その生意気な目に苛立ち、青木照彦は張り倒してやろうと手を振り上げたが、ふと気付いてやめた。これから思う存分嬲ってやれば、そして今度こそ心をへし折ってやれば、それでいいだろう。商品としての再利用も出来る訳だし、そのほうが得だ。青木照彦は恵美の肘関節を極めるようにして拘束した。これで終わりだ。

 青木照彦と隊長格の男は互いに見やるとニヤリと笑い、部屋を立ち去ろうとした。敵を殺して目的を果たした以上、こんな血なまぐさい場所に留まる必要も無い。さっさとおさらばしてシャバに繰り出すだけだ。ただまぁ、一人はそれまでに力尽きて、人の世を去ってしまいそうではあったが、青木照彦にはどうでもいい事だった。

 だがそう上手くは行かなかった。突然何かの射出音がしたと思うと、青木照彦の背中に衝撃が走り、力強く掴み上げて来たのだ。思わず彼は姿勢を崩しかけ、一歩踏み出してようやっと堪えた。

「あぁ、逃さないさ……」荒い吐息と共に、ペイルライダーの声がした。「『奥の手』を喰らえ」

 隊長格の男がいち早く動いたのが分かった。銃を構えて振り返り、反撃しようとしているのだ。だがそれより早く、もう一度射出音がすると、隣から、ぐえ、と言う呻きにも似た声と、飛沫の散るような音が響いた。視線を巡らせて見やると、隊長格の男の喉元に妙な異物が生えている。

 それは手だ。見紛う事無き左の手刀が、血に濡れて突き刺さっている。

 取り落とされた銃が硬い音を室内に響かせる。青木照彦はハッとして振り向いた。

 ペイルライダーは彼らの背後で、いつの間にやら膝を突いて起き上がっている。右手に握った銃と左手首からワイヤーが繋がっていて、何かのガスだろうか、白い煙が漂っていた。貫手を高速で射出したのだと青木照彦は理解し、同じく何かフックのような物が自分の背中に掴み掛かっているのだと悟った。

 隊長格の男の喉元に突き刺さっていた左の手刀が、まるで生命ある生き物かのように首の中で蠢き、形を変えて、頸骨にしがみつく。同時に銃のスイッチが操作される音がすると、ワイヤーが高速で回収され、二人の体が勢い良く引っ張られた。その反動を利用するように、死神は間近に迫ってくる。

 青木照彦は驚いて踏ん張ったが、足に集中していて腕の内から意識が逸れていた。無意識の内に力が緩まる。その隙が命取りとなった。

 恵美が腕の内で蠢くと、スカートの下から拳銃とカッターナイフを抜いて、彼の両足に向けて攻撃したのだ。両足をほぼ同時に撃たれて刺され、悲鳴を上げて痛みに怯んだ彼を、恵美は蹴りで押しやった。たたらを踏んだそこに、死神が飛び付いた。

「マワすのが好きなんだろう?」勢いのままに、彼は首に腕を絡み付かせ、身を回転させて、そして地面目掛けて叩き付けた。「この回り方はどうだい!?」

 スリングブレイドをマトモに喰らい、青木照彦は床に沈んで気を失った。

 

「オイ……ホラ、起きろ」

 恵美の前に立ったペイルライダーが、横倒しになっている青木照彦の顔を思い切り蹴り飛ばした。バシンと響く音と共に、その痛みで、彼女の憎む実の父親は目を覚ましたようだ。二人の顔を見るなり、血相を変えて藻掻き暴れようとする。

「オイオイ、起きろとは言ったが動けとは言ってないぞ」ペイルライダーが僅かに痛みに呻きながらも、USPを抜いて両手で構え、頭の間近を撃ちながら言った。「お前さんの考えは分かるぞ? まだ生きてるならどうにかして逃れて武器を拾って、この間抜けな骸骨頭を本物の骸にしてやろうって所か。だが今お前さんを狙っているのはH&K USPと言ってそれなりに強力な弾を吐き出す拳銃だ。お前さんの頭を綺麗に吹き飛ばすだけの威力があるんだぜ? さぁどうだ、それでも試してみるか?」

「な、何を……」

「好きな映画の台詞さ」たじろぐ青木照彦の様子を見て、ペイルライダーは小さく笑い、続ける。「^44^マグナムじゃあないから、ちょっと変えたけど」

 ふざけているようなその態度は、痛みを隠す痩せ我慢だけでなく、敵の焦りを加速させる為の芝居の一つなのだろう。そして事実、この場に似つかわしくない言動に、青木照彦は圧倒されているのが分かる。

「とは言え、そもそも動けやしないだろうけどな」

「無様な姿ね、クソ野郎」恵美は皮肉っぽくそう言った。

 青木照彦は手足をタイラップで拘束され、芋虫のように身をよじる以外には何も出来なくされている。その上で、ペイルライダーの拳銃が突き付けられているのだ。これから何をされるのかを想像したのだろう、恐怖の表情に顔を歪めていた。

「そうよ、その顔が見たかったの」恵美は心が満たされていく思いだった。怯え、震え、青褪めるその表情……これまで空想でしか無かった姿。全てが望み通りだった。次は苦しみに悶え呻く様を見せてもらわないと。

「さぁて、そろそろ出番だな。……どうぞ、お嬢さん」ペイルライダーが道を開けるように脇へと退く。「存分に楽しめ」

「えぇ」と、彼女は頷き、床に横たわる青木照彦へと詰め寄り、馬乗りになった。「あなたが今までくれた痛みを、全てまとめて返して上げるわ……! あなたが今まで奪ってきた分だけ、全て同じように奪い取ってやるわッ! 全て、全て! 全てッ!」

 ナックルグローブに包まれた拳で鼻っ面を殴り、血を流す顔面に、更に何発も連続して打ち込む。鼻骨や頬骨を砕ける感触が心地良く、どんどんと心を昂らせる。狂ったように笑い、怒るように叫びながら、獣のように乱れても尚、恵美は殴るのをやめない。

「私の痛みはこんなもんじゃないわよ!」次にスカート下のホルスターからカッターナイフを抜き出すと、彼女はその刃を突き立てた。腹部を何度も滅多切りにし、刃が肉の間で圧し折れても構わず、突いては抜き、突いては抜きを繰り返す。「切り刻まれて抉られる気持ちも知りなさい!」

 恵美の体は返り血によって真っ赤に染まっていたが、それに不快感を抱く事は無かった。むしろその逆で、父親の血に染まる度、彼女は予想以上の幸福と快楽を感じていた。憎しみがドンドンと晴れて、身が軽くなっていく。そんな感覚がしていた。

「奪われる気持ちも教えてあげる」恵美は荒い息のまま立ち上がると、P^99^を抜いて、股間目掛けて三度撃った。青木照彦の絶叫が渡る。恵美は空いた大口に、千切れた陰茎と睾丸を無理矢理詰め込ませた。「どう? もうあなたにも無いのよ?」

「まぁ、そうだよな」痛々しそうにペイルライダーが呟く。「でもそれはちょっと……うん……」

「黙ってて」恵美は彼を一瞥すると短く言い、同時に青木照彦の顎を鋭く力強く蹴り上げた。ボトリと棒状の肉片が飛び散り、落ちる。

「あら、随分と無様ねド畜生。嬲っていた私に甚振られて、見下していた私に嘲られて……」息も絶え絶え、もう間もなく力尽きるであろう父親を前にして、恵美は涙を流した。しかしそれは悲しみからではなく、心の底から感じる喜びの涙である。「悔しかったら抵抗してみなさいな。尤も、出来たらの話だけど」

 その時、無線機に連絡が入った。

『お二人とも、車が何台か接近して来ましたよ』

『ありゃ、街に出てた手下のチンピラどもだな』無線に便利屋の声と、抑えられた銃声、そしてボルトの作動音が入り込む。『どうだ?』

『運転手に命中。……あ、今足止めしてますが、急いだほうがいいかと』

『ご丁寧にそれらしくイカ釣り漁船ばりのど派手な装飾をしてくれてるもんで、撃ちやすいったらありゃしない……』

『こちらは出来るだけ引き止めておきます。……先生、後続車が抜け出そうとしてます。狙えますか?』そこで通信が切れた。

「悪いがそろそろ別れの挨拶しないとだな、お嬢さん」MP7を回収していたペイルライダーが言い、恵美は舌打ちをした。「お開きの時間が迫ってる」

「あぁ、名残惜しいわ。もうお仕舞いだなんて」彼女はほとんど刃の残っていないカッターナイフを逆手に持った。「まだ地獄の渡し賃も差し上げてないのに」

 そして、迷いもなく青木照彦の喉元に突き立てると、鋸を押し引きするようにしながら真一文字に掻き切った。鮮血が溢れ出て、青木照彦の体がビクビクと震える。

「六文銭代わりにくれてやるわ、このクソ下衆野郎」最後の慈悲のように、恵美はその顔面にP^99^の銃弾をありったけ叩き込んだ。血飛沫と共に、爆ぜた肉片がその辺りに散らばる。弾丸が尽き、引き金が悲しい音を響かせる頃、青木照彦の体の震えは収まり、そして二度と動かなくなっていた。

「これで二度とそのツラ見なくて済むわね」恵美は原形の無い肉塊を見下ろして笑った。

 

「気分はどうだ?」

「最ッ高に晴れやかよ」

 早朝のバー・アサイラムにジョウと恵美は居た。始末をつけた後、便利屋達と合流し、彼のバンでここまで帰ってきたのだ。汚れた服や壊れた装備はそのままに、痛みと疲れに任せて深々とカウンター席に腰を下ろす。だが、その顔には清々しさがあった。

「じゃあ、取り敢えず一杯やろうや」カウンターの向かいに立った便利屋がそう言う。片手には既に黒ビールの瓶を開けている。「一仕事終えたんだ、ご褒美がなくっちゃあな」

「はぁ……今日休みで良かった……」と、その隣で弟子が、ロックグラスにバーボンを注ぎながら、血反吐や肉片で汚れた店内を見てウンザリした顔をしていた。

「そうね……私は何か甘くて綺麗な奴を」恵美がサラリと言ってのける。

「オイ、未成年だろうに」ジョウは呆れた。

「あれだけ人殺した後に法律の心配?」逆に彼女が呆れ返す。

「……それもそうか」納得してジョウは苦笑した。それから便利屋に言う。「こっちはウォッカのマティーニを。ステアでなく、シェイクで。そして何より、ヴェスパーではなく、な」

「はいよ、ボンドガールにブロスナン」便利屋が笑い、手早く酒を合わせ始めた。そして間もなく、二つのカクテルがカウンターに並べられた。「さぁ、どうぞ」

 彼らは無言でグラスを掲げ、そして口を付けた。

「お陰で自由になれたわ。ありがとう、死神さん」甘い香りの美しい酒を一気に飲み干してから、恵美が晴れやかな笑顔を浮かべて言った。深い吐息をつく赤ら顔には、なんの悔いも残っていないように見えた。

「あぁ」お気に入りのウォッカのマティーニを一口味わってから、ジョウも頷く。それから彼女に言った。「だが、これで目標は無くなった訳だ」

「そうね」中身の無いグラスを弄りながら彼女が答える。

「……これからどうする?」

 これまでの彼女の人生には、父親から逃れる事と、その父親を殺す事ぐらいしかなかった。そしてその全てが叶った今、自由と共に空虚さが襲い掛かって来ていてもおかしくはない。生涯の目的を失い、虚しさから自らの命を断つ者だって少なくはないのだ。ジョウは少し不安に思っていた。

 だが、恵美の顔に浮かぶ色は、そう言った暗く後ろ向きなものとは無縁のようだった。

「そこでね、ちょっとお願いがあるのよ」恵美はグラスを弄る手を止めると、ニヤリと笑って続けた。「今回の報酬だって払わないといけないじゃない?」

「ここの手伝いで支払うんだろう?」もう一口流し込み、オリーブを口にする。塩味が疲れた体に心地良い。

「あなたにも払わないと、気が済まないわ。でも私、お金無いし……」

「あぁ……うん……」そこまでくると、ジョウにはなんとなく予想が付いていた。

「だから体で返すわ」恵美が真っ直ぐに向き合って言った。

「オイオイ、そりゃあどっちの意味だい?」グラスを置いて彼女を見詰める。

「取り敢えず、変な意味じゃないほうよ」

 あぁ、やっぱりな、とジョウは思った。一息ついて、恵美は続けた。

「私に仕事を手伝わせてもらえないかしら」

「……本気で言っているのか?」ジョウも彼女に向き合った。

「本気も本気よ。悪党を殺して、人を救う。そう、私みたいな人達を……正に本望だわ」恵美は不敵な笑み混じりにジョウを見た。

 彼女の反骨的で攻撃的な部分、そして何より弱者であったからこその憐れみが、始末屋と言う仕事の魅力に取り憑かれているのだろう。ジョウも今一度、彼女の顔を見詰めた。赤ら顔だが、決して酒の勢いで言っているようには思えない。僅かたりとも逸れる事無く見詰め返す瞳から、彼女が心底そう願っているのだと受け取れる。

「なぁ、いいんじゃないか?」便利屋が気の抜けたような微笑みをたたえながら言った。「お前だっていい歳だ、後継ぎの事を考えなきゃあならんのもある。それに、人手が増えるのは大歓迎だ」

「また呑気に勝手な事を……」とジョウは舌打ち混じりに呟いた。だが事実でもある。近い内に死んでもおかしくない世界だ。いつかペイルライダーがここから居なくなってもいいように、始末屋としての志を受け継ぐ誰かが必要となる。恵美にはそれに足る若さと、そして才能を感じていた。執念と持ち前の身体能力からとは言え、たった二週間かそこらで、ズブの素人から兵士のような戦う力を身に着けられる者など、そうそう居ない。逃すのも惜しい話ではあるだろう。

 でも……しかし……だけど……うぅむ……。そう内心で繰り返す。

 マティーニのグラスを握って少しの間黙って考えてから、ジョウはそれをあおり、そして呟くように言った。

「相棒(サイドキック)になれるかどうかは、訓練次第さねな」

「それってつまり?」恵美が問い返す。

「……あぁ」溜め息にも似た声で応え、ジョウは頷いた。

「そう……!」彼女は子供のような激しい喜びはしなかったものの、まるで静かにその事を噛みしめるように、美しい顔立ちに笑みを浮かべて返した。

「じゃ、新しい名前を考えなきゃな」便利屋が微笑みながら言った。「いつまでも名無しのお嬢ちゃんと言う訳にも行くまい。やりづらいったらありゃしないよ」

「あ、その事なんですけど」弟子がふと思い付いたように声を上げた。「新しい名前は『リン』ってのはどうでしょう? お嬢さんの『凛』とした雰囲気と、首輪の『鈴』から取ってみたんですけど」

「なんだかまるで本当に猫みたいな名付け方ね」恵美はそう言うが、その顔に嫌そうな気配は無かった。むしろその逆で、気に入ってさえいるように見えた。「でも……『リン』……悪くないわね、えぇ」

 彼女――リンはそう言い、頷き返した。

「今日から私の名前はリンよ。そう呼んで」

 猫か、とジョウは思った。彼も彼女にはずっとそんな雰囲気を感じている。だから発信機付きの首輪を贈ったのだ。納得するように頷き、呟いた。

「まぁ、言い得て妙だな、『キティ(子猫ちゃん)』」

 

 ひと月後――。

 暗い路地の真ん中で、三人の男達が背を預け合って狼狽えている。日焼けして浅黒い肌にドレッドヘアの男達。彼らはハイチ系マフィアの流れを組む麻薬の密売人だ。その中でも、金持ちやギャングのみならず、一般人や何も知らない子供達にまで流通させる事で儲けを得ている、言わば最低の悪人どもだ。数時間前までは稼いだ金で娼婦を買いに繰り出そうと談笑していた。だが、その悪行を許さない者がいたのだろう。始末屋『達』が、彼らのアジトである雑居ビルの一室を強襲した。

 十人以上も居た仲間達が、今やたったのこれだけだ。これ以上殺られれば、次は自分の番になるのは間違いない。彼らは妙な団結心で辺りを警戒した。

 彼らの遥かな頭上、ビルの谷間を、黒い影が二つ飛び越えた。風にはためく音で、彼らはその存在に気が付いた。振り仰いで見やる。長身痩躯の男の影と、小柄で華奢な少女の影が、まるで地獄の底を見下ろすかのように立っている。彼らはすぐに理解した。始末屋達が追って来たのだ。

 スモークグレネードが投げ込まれ、辺りが濃い煙に包まれた。パニックになり、男達は狙いも定めず拳銃を頭上にもたげて発砲する。だが壁を削る音はすれど、人に当たったような気配は無い。やがて抑えられた銃声がして、男達は手足や胴を撃ち抜かれて、痛みに呻きながら地に転がった。

 煙の帳の向こうに、二人分の人影が並んで降り立つ。男達はその影を睨むように見た。人影は煙の中から悠然と歩み出て、その姿を晒す。

「死神……ペイルライダー……!」男達の内の誰かが言った。その通りに、片方は髑髏の覆面をした始末屋だった。

「あぁいや、俺だけじゃあないぞ? 実はサイドキックも居るんだよ。まぁ、相棒って言うより弟子だけど……」ペイルライダーは皮肉げに笑って、左手で傍らを示した。彼の少し後ろに、寄り添うように立つ少女の姿があった。一つに結んだ長い髪が、まるで猫の尻尾のように揺れている。「ご紹介しよう、彼女の名は……キティだ」

「どうも、クズども。覚えてからあの世に行きなさい」

 二人はそれぞれの銃をもたげると、息の合った射撃で次々トドメを刺していった。

 

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