織田作之助青春賞に応募した作品を供養します。ちなみに一次落ちでした。……虎の子とはいかぬまでも、山猫の子くらいには思っていた作品でしたが、一次すら通りませんでした。当作は初めて公募した作品でしたが……ウウン、小説の公募って大変なんだなぁと骨身にしみました。自身で粗が見つけられているうちは駄目なのかもしれません。

 まあともかく、新年に向けて今年中に供養させていただきます。よければ寛大な心と共にお読みください。



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月写し、池にて

 

 僕らの関係は初めから終わっていたといえる。始まる事すらなく、そこには終わりが横たわるだけであったのだ。僕と彼女の乖離はまさしく彼岸と此岸であった。言葉を交わすことは出来ても決して交わらない。終わりを迎えた彼女と、まだ歩んでいる自分。ただそれだけの差は、明確に残酷に我々を区別していた。僕と彼女の交わりはむしろ悪性であり、幼い子供たちの不純なる行いよりも忌み嫌われるものである。しかし僕は彼女に惹きつけられた。それはフェロモンに誘引される虫のように、むしろ抗いがたいものであった。

 

 

 森の中を歩んでいくと、途中から暗い夜を蛍の光が照らし始める。現代の電灯に慣れた人間からすれば、その光はむしろ暗いものである。暗い光、ある種の矛盾のようなものを蛍も彼女も抱えていたといえる。それは彼らの性質がというよりも、むしろ時代の変質がそうしたのであった。暗く明るい、穢れた美しさ、時にそのような矛盾は同居する。そのような曖昧さはまさしくあらゆる物を刺し貫く矛であり、全てを受け止める盾であるのだ。人々は……無論僕も含めて……そのような愚かしさを内在する間違いの方を時に好む。

 

 森を歩んでいくとその身に偽物の月を宿した池が現れてくる。それは言うなれば神秘的な物であり、本質的には着飾り化粧をした女と変わりないとしても、清涼と退廃を伝えてくるのである。その池に僕は花束を抱えていった。その花束には様々な意味がある。祝福であり、追悼であり、約束の印でもある。池の畔では、その女がたたずんでいた。

 

「やあ。」

 

 その人が言った。落ち着いた声色はそのような神秘的な光景の中にあってなお、際立つものである。ぼうっとした霞のような彼女は上半身より上しかなかった。女は幽霊であり、溺死した水死体であった。

 

「こんばんは。」

 

 僕がそのように言うと彼女はにこりと笑った。それはまさしく男を射殺す毒であり、わざと影とつくりその祝福を選ぶ月の光であるのだ。彼女は笑みを絶やさぬ人であった。しかしその笑みには絶対的に幸福というものが欠けていた。けれどそれは不器用な男たちがする作り笑いではなく、ある年頃を越えた女たちがそうするように清楚な美しさの中に淫蕩さを隠した微笑みなのである。僕は彼女に惹きつけられていた。それは恋愛的な意味もそうであるが、それ以上に知的好奇心という方が強かったのかもしれない。男が女に惹かれる時、あるいは女が男を誘引する時、それは恋愛的な感情や性的興奮よりもむしろ知的欲求や好奇心によって引き起こされる。

 

「今日も会いに来てくれてうれしく思うよ。」

 

「そうですか。」

 

「花、くれないのかい?」

 

「……どうぞ。」

 

 僕はそう言いながら地面に花を置いた。かすかに水面に白い花々が映った。幽霊である彼女が花を持てるはずがないと気遣ったのである。彼女はそれで満足したらしかった。僕は常々疑問に思っていた。愛される女とは幸福に生きるものである。彼女の死因は自死であった。彼女がどうして事故でもなく、病気でもなく、まして殺されるでもなく、自分で自分を殺さなければならなかったかが疑問であった。僕はその疑問に従い彼女に近づき、またその疑問を盾にしていた。僕にとっては好意も疑問も、本心から湧き出たものであった。

 

「少し話そうか。」

 

「ええ。」

 

 僕はそのように返した。情けないことに僕と彼女の話を主導するのは、いつも彼女の方であった。僕の心には幽霊に対して抱く生者の驕りなどなかった。まさしく、ただの生来の性質として、女人を楽しませるような話し方というのが出来ない人間であったのだ。彼女はそんな僕にいつも楽し気に話しかけるのであった。

 

「君は空に浮かぶ月と、池に映った影の月。どちらを愛する?」

 

「後の方を。」

 

 僕は迷いなく答えた。彼女は僕の目を見つめながら──その目は吸い込まれる、という表現も生ぬるい。星空のような、空を飛ぶ蛍の群れのような、いっそ溺れるような色であった……──ゆっくりと口を開いた。

 

「どうして?」

 

「え。」

 

 僕は答えに詰まった。何かを考えて、というよりも彼女を喜ばせようと思ってそのように答えたのである。仕方なしに頭を動かし、納得できる返答を絞り出そうとした。益体のない言葉で切り抜けることは幾らでもできた。それをしなかったのは、彼女の前で僕はなるべく真実でいたかったのだ。言葉少なく振舞いながら、生者と亡霊の間柄でありながら、僕は彼女に愛されることを望んでいた。

 

「空に映った月よりも、初めから嘘と分かった水面の月の方が幾分、誠実じゃないですか。自分が嘘つきではないという人よりも、自分が嘘つきであるという人の方が誠実といえるじゃありませんか。」

 

「へえ、成程。面白い。」

 

 そう言って彼女は月を見た。それは数秒であった。次に水面の月を見た。彼女はそちらの方をずっと見つめていた。それはむしろ月を通して、水の底を見つめていたのかもしれない。その池から遺体が回収されたという話は聞いたことがなかった。そのため彼女の死体はきっとまだ池の底にあるのだろう。想像上の溶けて腐った女の死体と、この目の前でほほ笑む幽霊が同じ存在であるという事はどこか信じがたいものがあった。

 

「私は……。」

 

 彼女が間をたっぷりととってから言った。

 

「私に好意を抱いたから影の月を愛したのかと思ったのだけれど。」

 

「それは……傲慢なんじゃないですか。」

 

 僕は心にもないことを言った。愛しているからこそ、彼女の言葉を否定した。否定せざるを得なかった。結婚を迫られた男が仕方なしに女を愛していると語るように、受け身の告白など相応しくないものである思った。するりと心から、指の隙間から溶け落ちるような愛の発露こそが、彼女にはあるべきだと思っていた。

 

「私の事が嫌いかい?」

 

「貴方は亡霊じゃないですか。」

 

「嫌いかい。」

 

 彼女はそう繰り返した。僕は困った。彼女の瞳は射抜く狩人のような真剣さであった。僕はこのような女の瞳をこそ愛しているのだろう。愛の可能性を試そうとする初心な女よりもむしろ、決心をした死地に赴く兵士然としているのである。そのようなある種の狂える覚悟……捨て身の覚悟のようなものを感じさせた。彼女がゆっくりと息を吸うように見えた。もちろん、彼女に呼吸の必要はないのだが……。

 

「私はね、今日覚悟をしてきたよ。」

 

「覚悟とは……一体……。」

 

「嫌いかい?私の事が。」

 

 彼女は三度、繰り返した。その口調にはある種の女性的な傲慢さが潜んでいた。すなわち恋愛に対する優越であり、替えの利く男に対して接する軽薄さである。ところが、その瞳は相も変わらず死を覚悟した兵士なのである。僕は困惑した。困惑したまま、しかし僕は混乱した脳に任せるというよりもむしろ心の内奥を発した。

 

「嫌いではありません。」

 

「嫌いかい?もっとはっきり言ってくれ。それは傲慢さだ。男が女を弄ぶときに使うような曖昧な表現であり、この場においては相応しくない。たとえ、私が女で君が男だとしても……。むしろだからこそ……。」

 

 彼女は一息にそのような事を言った。僕は驚いた。彼女のような明るい者がこのように世界を認識しているということも驚き、僕が自分でも気づかないうちに彼女のような人間はこのようなことを言わないだろうと軽んじていたということも驚いた。愛した人間のすべてを知ることなどあるだろうか。そのような新鮮な発見は、人の間柄を木の根のように繋ぎ止める。彼女はまさしく底の深い池であった。彼女の事を何も知ってはいないという事に、僕は苦い喜びを覚えた。

 

「僕は……好きなどという表現は相応しくないと思います。」

 

「…………。」

 

「同時に、愛しているというのも違う。人は人のことを愛すものでしょうか。欲求と欲求こそが人を結び付け、そこに高尚な理由として愛を当てはめているだけなのではないでしょうか。……仮に人が人を愛するなどという事があれば、それはきっと人の魂を愛するという事なのでしょう。」 

 

「俗説的だね。それで?」

 

 彼女の返答は短く、そっけないものであった。僕は表面上、それに落胆した。しかしむしろ歯の浮くような洒落た台詞は僕が嫌悪するものであり、そのような女性を喜ばせようとする発言はにじみ出る嘘であると思っていた。それは人が愛であるとしようとした思い込みの産物であるのだ。同時に彼女が口調とは裏腹に、熱心な視線を向けてくるので僕はむしろ浮き立つような酩酊間の中に迷い込み始めていた。

 

「人が愛を自覚する瞬間とは何でしょうか。突き詰めれば、何かを求めることというのは結局のところそれは動物的本能に根差しているのではないでしょうか。そうであるのならば愛とはプラトニックなものなどは存在せずに、肉欲によってのみ支えられるのではないでしょうか。僕はそのように思っていたのです。」

 

「…………。」

 

「僕は知りたいと思いました。……貴方の事を。幽霊のあなたをです。これには肉体的な欲求は介在する余地などありません。……僕は貴方と会って初めて愛を発見したのです。」

 

「……ハハハ、長いよ。そして回りくどい。……でもいいね。」

 

 彼女は下を俯きながら言った。僕は彼女の表情が知りたくなった。全てのものがガラクタと断じる、いずれ露と消える亡霊との語らいだとしても僕にとっては何よりも価値のある事だった。世の中に輝く女たちよりも、生命の残滓に過ぎない彼女の方を僕は求めていた。これも或いは矛盾なのであろうか。

 

 彼女がふと顔をあげた。月を見上げて微笑んでいる。辺りには蛍の光が、点き、消え……明滅を繰り返していた。僕はその様子を見て、見惚れていた。彼女に感じ入ったという表現は正しくない。その光景の中にたたずむ麗人に、絵画の一枚を写し取ったような視界に、ただ僕が介在する余地のない、触れえることも出来ない神聖を帯びた美しさを見出していた。彼女が突然こちらを見た。いつの間にか彼女の瞳は狩人であった。

 

「私は君を愛しているよ。」

 

「そうですか。」

 

 僕はさらりと答えた。こういう時、想像上の恋仲の男女はお互いに心臓を鳴らしているものであった。ところが僕の心臓は安らぎを持っているかのように、風でさざめく池の水のように穏やかなのであった。ふと、彼女が僕の目の前に来た。白い霧のような彼女は、微笑みを携えたまま、こちらを睨むように見つめていた。僕はその視線の奥に揺れる水面を見た。そこに何か深い悲しみを見た気がした。僕は声をあげて「なぜ貴方は自死したのですか。」と、聞こうとした。しかしその前に彼女の手が、僕の手を掴んだ。驚く暇もなく僕は前に倒れ込んだ。

 

「じゃあ一緒に行こうよ。」

 

「え……あ……?」

 

 彼女はあるいは蛍であった。一等強く輝き、異なる僕を引き寄せた類まれなる光であった。飛んで火にいる夏の虫……まさしく、まさしく、まさしく。僕は火に溺れる羽虫のようであった。彼女が突然池に飛び込み、私をその中に引きずり込んだのだ。突然のことに驚くと、呼吸も忘れ、むしろ水中でも溺れにくい。そのようなことに僕は気づいた。ぼんやりと水中を漂いながら、ああ、死ぬのは嫌だなと思い始めていた。だが……ふと水中で彼女と目が合った。美しく、珍しく真面目な表情でこちらを見つめている。彼女の手が僕の手首を握っている……。僕は迷った。その末にもがき始めることにした。彼女の手が僕の手を離れていった。

 

 足のつかないまま、バタバタと池の水をはねていると、突然自身の体が浮き上がった。そうして自分の顔が突然生温かいものに触れ、呼吸が楽になった。それは空であった。見上げる星空は美しかった。だがそれを見る暇もなく、僕は隣にいた、僕を助け上げたらしい男に怒鳴られた。

 

「馬鹿野郎!」

 

「あ、貴方は?」

 

 男は七坐郎と名乗った。この池は深く、長い水草が生えている。度々足を滑らせて落ち、水草に足を絡まれて溺れるものがいるため、こうして見回りに来ているらしい。彼の妹もここで死んだらしい。僕は言われて辺りを見回した。置いていた白い花束が散り散りになっている。彼女は既にいなくなっていた。

 

 僕はそれからその池に近づくことはなくなった。彼女は悪霊であったらしい。しかし、僕は彼女に裏切られたことよりもむしろ、彼女と会えなくなったことの方を悲しんでいた。

 

 

 

 

 

 それから二年ほどが経った夏、帰郷していた僕は突然思った。言いようのしれない不安感が湧きおこり始めた。あれはむしろ彼女なりの別れであったのではないかと。引き込むのではなく、むしろ僕をわざと遠ざけたのではないと思い始めていた。それはあるいは亡霊としての別れであり、もう一方の意味として男に対して女がするように愛を試されたのではないかと思い始めた。

 

 僕の中の知りたいという感情は消え去り、愛はただ深い悲しみに変貌をしていた。

 

 こんな事なら水の底に連れて行ってもらうのだった。そのように思い始めた。彼女はこの事さえも予想して、僕の手を引いてくれたのではないかと思い始めた。そう思えばもう足は止まらなかった。僕は数年ぶりにあの場所を訪れなければならなかった。

 

 

 そのような思いは、始まりと同じく手遅れであった。彼女のいた池は危険であるとして、後年訪れた時には既に埋め立てられていた。いうなればそれは火葬であった。既に終わっているものを、生者がそうであると認識するための儀式であった。そうして初めて、僕の中の彼女が死んだのだと気づかされた。

 

 僕はその足で海を見に行った。僕には月の映る綺麗な大鏡が必要であった。そしていつかと同じく、誰かと同じように、深い悲しみを抱き留める広大な水瓶が必要であった。ぽつりと広大な海には寂しげに月が一人で浮かんでいた。僕はそこに向かって石を投げた。一瞬だけ水面に波をたたせた後、その石は深くに沈んで行った。

 

「代わりになりはしないじゃありませんか。」

 

 僕は海面の月を眺めながら言った。死のうと思った。この死に意味はなく、きっと何の役にも立ちはしない。ただ深い悲しみに潰れて、それが服に入れた石のように重く、深くまで人を連れて行ってしまうものなのだ。僕は海水の中に進み、ぼんやりと映る白い顔を見ていた。

 

 ところが蛍が辺りを埋め尽くした。あの日のように、辺りには暗い灯りが充満した。僕はそれを見ていた。いつまでも見つめ続けた。

 

 

 

 

 

 蛍の小さな光は、明確に陰と陽を区別しない。それは溶けあう曖昧さであり、間違いを抱擁する寛容さである。そしてそれはある種の悪性でもある。間違いを正さず、ただ堕した人間をそのまま愛する悪婦の行いである。

 

 僕はきっと溺れていた。生きたまま、呼吸のできる様にされたまま、池の底で溺れていた。あるいは彼女の行動は解放であったのだろう。僕を生かせ、道を進ませるための先達としての正しい行動であったのだろう。しかし僕は間違いを望んでいたのだ。それがただ彼女を愛する道であるならば。夏の一夜に、名も知らぬ女と共に朝日を迎えるよりも、ずっと深く、暗い、深海のような間違いを望んでいた。

 

 


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