藤咲麻紀乃はいつも突然だ。龍を釣り上げるなんていう突拍子もないことを言ってのける。相模月は彼女に突き合わされ、大晦日と正月の日、干支たる辰の釣りを試みる。

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 あけましておめでとうございます。辰年なので龍を釣る話を書きました。……急いで書いたらどうにか新年に間に合うことができました。急ピッチでしたが書きたいところは書けたのでセーフ、セーフです!今年も皆様にとって良き年になることを祈っております!




【辰年記念】 龍釣り

 

藤咲 麻紀乃(ふじさき まきの):変人の方。

相模月 寅三郎(さがみつき とらさぶろう):苦労人な方。

 

 

 

* * * * * * *

 

 

 

 

「龍を釣りに行こうか。」

 

「ハ……?」

 

 そんな事を言われたのは突然であった。藤咲(ふじさき) 麻紀乃(まきの)、彼女は常に突然なのだ。今日も雪で冷えた寒い体を温めようと、コーヒーを淹れて一口つけるか付けないかくらいでそんな事を言い始めた。俺はてっきり彼女特有のよくわからない冗談でも始めったのかと思って、あまり気にも留めなかった。年越しの蕎麦はどこの店で買おうかなとか、そんな事だけを考えていた。

 

「今年、いや来年の干支じゃないか。龍は、釣りに行けば縁起が良いじゃないか。」

 

「ウウン、そうですかぁ。むしろ罰でも当たりそうなもんですけど。」

 

 俺は適当にそんな言葉を言い返した。時季外れの大学の研究室には、暇を持て余していた俺と彼女しかいない。うっかり彼女の誘いに乗ってクソ寒い中を繰り出してきてしまったが、こんなアホな話をされるためなら家でちょっと早い寝正月を過ごしていればよかった。……今年の年越しは、寒い。それはもう、色んな意味で。何も見る予定がなかった。あまり良いことのない彼女の誘いに乗っかってしまうほどに。

 

 俺の言葉を聞いているのか聞いていないのか、彼女は鞄をゴソゴソとやっている。……この話長いのかな。俺もそばを作って食べるという大事な用事があるのだが……ウウン。こっそり帰った方が良いだろうかと思っていると彼女の声が聞こえた。

 

「その年を制する動物が干支だよォ?それを捕まえて、そして屈服させる!……つまりその年はボクらが制するってことじゃないか。ウン。」

 

「……フウン、そうですかねぇ?大体、龍なんてどうやって捕まえるんです? いやそもそもいるんですか、龍って。兎とか虎を捕まえるならわかりますけど。」

 

「龍だからさ、縁起もいいってもんさ。新年早々、猪や蛇を捕えたら……なんか縁起悪いだろ。」

 

 微妙に話がかみ合っていない。彼女の脳内では恐らく完璧なコミュニケーションが行われているのだろうが、結論を急ぎすぎる余り言葉が結局足りていない、というのは深い観察の果てにようやく俺が彼女について気付いた一つの事実であった。

 

 そのせいで彼女はコミュ障だとか頭のいいだけの変人だとか散々な評価を周囲からは下されている。……いや合ってるか。結局コミュニケーションがまともにとれない女なのは間違いないし、頭が良いのも変人なのも間違っていない。……今まで哀れんでたが、全部その通りじゃないか。俺の目線に何か妙なものを感じ取ったのか、藤咲は片眉を吊り上げた。

 

「……ん、君。なんかボクのこと馬鹿にしてない?」

 

「え、いや……してません。極めて妥当な評価を脳内で下しはしましたが。」

 

「それつまり馬鹿にしてるってことじゃ……。まあいいや。それじゃ、行こうか。」

 

「え、何処に……ていうかこれから?」

 

「ウン、行こう。」

 

 藤咲は極めて真面目そうな顔をしていった。相変わらず彼女の言葉にはどこか俺に対しての説明というか、納得させる材料というかが不足していた。だがかいつまんでみれば、年末のこのクソ寒い雪の吹き荒れるめでたい日にどこかに俺を連れ出そうとしているというのは間違いないだろう。……マジ?今日、大晦日なんだけど。俺は否定されることを望みながら口を開いた。

 

「冗談とかじゃなくマジで行くんですか?」

 

「さっきからそう言ってるだろ。」

 

 彼女が何か細いものを押し付けながらそう言って来た。……え、もしかしてこれ、釣り竿?こんなちっこい川魚でも釣りそうなやつで? マジ? 大晦日をこの女の悪ふざけに捧げないといけないの?

 

「龍釣りさ。君の分の釣り竿もある。ン?」

 

 藤咲の顔はわくわくと明らかに何かを楽しんでいた。その色は猛烈に吹きすさぶ雪すらも溶かしそうなほどの熱い何かを感じさせた。反面、俺の心はどんどん冷える季節にふさわしいように、テンションが下がっていっていた。

 

 

 

* * * * * * *

 

 

 

「龍の伝承というのはね、この地方じゃ有名なのさ。この古文書を……正確にはそれをケータイで撮ったやつだが……まあこれを見たまえ!」

 

「いや、そんな事より!寒い!結局どこですか!ここ!!」

 

「そんな薄着で来るからだ。寒いに決まってるだろ。風邪ひくぞ。」

 

 アンタが碌に説明もしないで連れ出したからだろ! ……そんな事を言う元気もなかった。彼女の運転する車がどんどん雪で覆われた山道に入っていくのを見たときは驚いたが、さらにチェーンを装着して整備もされていなそうな山道を進み始めた時は本気で驚いた。雪国生まれ、雪国育ちの俺もチェーンなんか付けたことはない。もしかしたらこのまま山に捨てられるのではないかと思ったが、それはなかったようで安心した。

 

 彼女に連れられて今は車を降りて、地方の川に来ていた。滝が流れ落ちる天然の美しい風景で、夏の時には何度か来たこともあるが、冬になるとめっきり来ない。そんな寒い冬の中でも川は凍り付くことなく健気に流れ続けていた。珍しいものを見れたのは良かったかもしれない。

 

 まあ死ぬほど寒いのは問題であるが……。ちなみにこの死ぬほど、というのは比喩表現ではない。このままいたら間違いなく凍死するレベルで凍えている。最早指先が痛い位である。一方で藤咲の方は、もこもことした温かそうな服装をしている。ずるい。

 

「ほれ、とりあえず……カイロでもつけてろ。」

 

「お、有難う……ございます。」

 

「あとは上着と色々……焚火の準備もしよう。」

 

 彼女がポイポイと投げてくるたくさんのカイロと上着を受け取る。彼女が大きな背負い鞄からゴソゴソとさらに何かを漁っている。……用意が良いな。俺はとりあえず上着に袖を通しながら思った。

 

 さらに雪を寄せて石を拾い、枝を集めて手際よく火をつけていた。俺はその真面目な様子を見て、これが長丁場になると感じると同時に、ようやく彼女が真面目に龍の捕獲を試みていることを悟った。カイロの封を破り、とりあえず背部に一個を貼り付けた。まだ冷たいがいずれ頼もしい熱を発してくれることだろう。俺は川底をしげしげと眺めながら口を開いた。この時期に魚はいったいどこにいるのだろう。川も凍るかもしれない時期に、ましてや龍なんてどこにいるのだろう。

 

「……龍なんてどうやって釣るんですか。」

 

「その質問はあまり正確ではないな。」

 

「……?」

 

 彼女が着火剤で火をつけた焚火に当たりながらそんな事を言った。(ちなみに山の中で焚火とか、何かの犯罪に引っかかるんじゃないかと思えるがその時は失念していた。多分、寒すぎたし他に優先することがありすぎた。)若干頬を緩ませているところを見ると、大晦日に俺を連れ出した憎々しい女ではなく、可愛らしい一人の女学生のようでもある。しかしその直後に、目を猫のように細めて笑うその顔を見ると……ああ、いつもの藤咲麻紀乃だと安心感さえ湧いてくるのであった。

 

「相模月くん、つまりはだね。どうやって釣るかってのは重要じゃないんだよ。適切な道具と餌を用意し、引っ張ればつまりは釣りとは成立するんだ。重要なのは……獲物がどこに生息しているのか、さ。」

 

「……それだと龍がどこにいるのかって質問に戻って来るってことじゃないですか? それはつまりは獲物がいなきゃあ釣りは出来ないってことでしょう。」

 

「ここにいるとも、だから来た。」

 

「ここに?」

 

 俺は思わず辺りを見回した。普段なら笑い飛ばしたかもしれない、そんな与太話めいた彼女の言……。しかし彼女の語りのせいであろうか、俺はその言葉を信じ込まされていた。……引き込まれる川の中、雪の降り積もった川辺……生い茂った木々の影……そのどこかに凶暴な龍がいるかのように思えていた。

 

「りゅ、龍ってどのくらいの大きさなんですか? そんなに小さいんですか? そ、それとも何か動物のたとえ話?」

 

「この川の名は琉春川(りゅうしゅんがわ)、だが古くは龍翔川(りゅうしょうがわ)と呼ばれていた。龍の翔ける川さ。ここに龍はいるんだよ。」

 

「ほ、ホントに龍が? あのつまりは何です。コモドオオトカゲとか、違法に放流されたワニのたとえ話ではなく、あのにょろにょろとした龍が?」

 

「ウン、にょろにょろだかひょろひょろだか知らないが、あの細っこい奴だよ。」

 

「……それがホントならすごい事ですが。」

 

「ホントさ。タブン。」

 

「多分って……。」

 

 俺は少しばかり呆気に取られてから言った。彼女の確信めいた予感はいったいどこから湧き上がるのだろうか。それが常に俺にとっては謎であった。知りえない情報を見て、多分殆ど直感で選ぶのが藤咲という存在なのである。ところが、その予感はよく当たるのである。その真実を嗅ぎ分ける嗅覚というものが、一体どこから生まれれるのかは、本当に謎である。

 

 彼女は石に腰かけながらコーヒーカップとケトルをいそいそと取り出しながら、ゆっくりとしながら口を開いた。

 

「正確には、龍はここで生まれるんだ。」

 

「へえ。」

 

 俺もその対角上に手ごろな石を見つけて腰を下ろした。パッパッと払った雪が、木々の間から覗く夕日に照らされて一瞬煌めいた。……この釣りとは、果たしていったいどのくらい続くのだろうか。

 

「龍の年に初めにこの滝を落ちる魚が一匹! 龍に変じると言われている! ……逆に言えば、その話が本当なら直前までそれは魚なんだ! なら釣りあげるということに何の問題もない! 龍に変じたその瞬間釣り上げればいいだけだからな!」

 

「言われているとか……なんか推測が多いですね。」

 

「推測だよ。だって私、龍なんて見たことないもの。」

 

「……。」

 

 なぜそこまで見たことのない物に情熱をかけられるかは謎であった。思わず息を吐いた。白い可視なる水蒸気が、上へ上へと昇って消えていく。その中に一瞬龍の形を幻視した気がした。俺はそれを見て思わず笑っていた。

 

「ふん……へえ……そうですか。」

 

「ん、なんか意味ありげだね。つまりなんだい。」

 

「いや、つまりですねェ……。」

 

 いつの間にかカイロが熱を持って温かくなり始めていた。俺の体も寒さを忘れはじめ、この極寒の川辺にも慣れ始めていた。……彼女との語らいは楽しいのである。いや、突然の事であるのだが、そうなのだ。例えば好きな映画の話をするとき、それを自分は嫌いだと水を差す間柄が、友人間でもそんなに存在するものだろうか。恐らく、いや俺は殆ど確信をもって、それほど多くもないだろうと言える。しかし……そこもまた変人と言われる類の人間であるのだろう。彼女はつまり、それを言うタイプの人間であったし、それを言われるのを許容する人間でもあった。意見の食い違いをただの信念の違いと認識し、決して当人が狂った人格の所有者であるかどうかというような性急な結論と結びつける人間ではなかったのだ。

 

 だから俺はゆっくりと、落ち着いてそれを話した。そう、つまりは大晦日という日だろうが何も変わらない。いつもの意見の対立なのだ。

 

「……フゥ~、馬鹿馬鹿しい。」

 

「ほう、そう思うかね?」

 

 彼女の目が三日月のように細められた。しかし引くようなことでもない。俺の言っていることは、それほどおかしなことでもない。空気を読めないと言えば、俺が悪し様にも聞こえるだろうが、実際には俺は無理やり連れてこられてだけだ。……そして、これは勘違いだろうか。多分、彼女も意見の対立という奴を楽しむ人間であった。その色が、瞳の奥に覗いているのを見た気がする。

 

 俺は寒空の下に連れてこられた鬱憤をはらすかのように(実際には心情的にそれほど嫌でもなかったのだが)演技しながら、その言葉をつづけた。多分笑っていたと思う。俺も彼女も、である。

 

「古文書、でしょう。生憎俺は幽霊もお化けも信じないたちでしてね。そんな嘘くさい民間伝承らしい話は一切信じませんよ。」

 

「ふーん、じゃあ賭けるかい?」

 

「エ……?」

 

 賭ける? 何を。それを思っていると、彼女は立ち上がるとその右手を曲げて自身に向けた。思わず怪訝な顔を向けると、彼女は自信ありげにその声を山に響かせた。

 

「龍を捕まえられたら、私の勝ちだ。来年も私に付いて来い。でも龍がいなかったら、つまりは一月一日朝七時まで観測をすることが出来なかったら……。私に何でも命令して良いぞ!」

 

「…………なんでもォ?」

 

「フッフッフ、やる気出て来たかい?」

 

「いや……別に。そういうのマジで止めた方が良いですよ。負けたときどうするんですか。」

 

「フッフッフ。」

 

「……どうするんですか?」

 

 彼女は相変わらず不気味に笑うだけであったので、俺はそこに気味の悪いものを感じていた。

 

 

 

* * * * * * *

 

 

 俺たちは火を始末した後、荷物を残したまま山道に戻って、滝の上の方に向かい始めていた。藤咲さんの作戦を聞くに、どうやら針をかけた魚に滝を泳がせることで竜の捕獲を試みるようであった。そうであれば滝の上に陣取るのは妥当ではあった。日の落ちきる前に滝の上に移動したいというのも、視界の悪い山道を考えれば気が早いとも思わなかった。

 

 しかし山道を歩き始めると、俺の中では聞きそびれた疑問が大きくなってきていた。俺はもう一つ、龍が現れなかった時にしなければならない賭けの内容について考えていた。正確に言えば、それをどうやって誤魔化すかを考えていた。彼女は自分で言いだした賭けの変更を許容する女ではなかった。俺の命令とやらを聞くまで梃子でも動かない。頭脳明晰ではあるが、基本的に迷惑千万な意地っ張りの変人であるのだ。

 

 ともかく俺はその考えを中断し、ずっと気になっていた疑問を口にすることにした。

 

「藤咲さん。」

 

「ン、なんだい。」

 

「龍なんて捕まえてどうするんですか。」

 

「ん、つまらんこと聞くね。」

 

 捕まえるのが目的、ということだろうか。スポーツハンティングみたいな……。そういうと昔の貴族みたいのようだ。だが彼女は当たり前の事でもいうかのように、こちらを振り向いて言った。

 

「食べるんだよ。」

 

「……エ!? 食べる、龍をですか!?」

 

「ウン、捕まえたら責任もをもって食べよう。ほら、包丁とフライパンもあるぜ。でもまずは、串に刺して塩を振って丸焼きだな。」

 

「えぇ……?」

 

 思わずそんな声が出た。どこまで本気なのだろうか。そう思って、少しだけ足を速めて先行く彼女の顔をちらりと伺ってみた。その顔はワクワクとしていて、まるでクリスマスの朝を望む子供のようなのである。

 

 ああ、そうか……。多分、彼女は全部本気なのだ。俺は龍ってどんな味すんのかな……と。そんな現実逃避じみた思考もまた、考え始めていたのである。

 

 

 

* * * * * * *

 

 

 22時30分。あと90分もすれば年越である時間帯に我々は行動を開始した。少し気の早い時刻であるが、目的は新年を迎えて初めて滝を泳ぐ魚である。視界の暗さも考えれば、仕掛けを張るのはそのくらいが良かった。

 

「……なんです、滝って。全然コンクリート張りじゃないですか。」

 

 その滝……だと思っていた上流に昇ってみると、巧妙に自然に似せようとする努力はあるものの、そこは人の手の入ったコンクリート張りの川であったのだ。……こんな人工的な場所に本当に龍なんているのか? そんな疑問が脳裏をよぎっていた。

 

「そりゃそうさ。ここ結構流れが速いところだからな。昔は氾濫とかもしてたらしい。人の手も入ってるよ。」

 

「ふうん。こんな場所に、龍ですか?」

 

「ふん、その疑問に答えるのは後数時間早いってのはわかってもらえるだろ?」

 

「うーん、そうですね。」

 

 俺はそんな事を返した。彼女は鞄の中身を相変わらずゴソゴソと漁っていたが、何かを取り出すとこっちに放り投げてよこした。一体何かと思ったが、それは夏に海で使うようなゴムボートであった。

 

「……え? 船で釣るんですか? ここ、流れのはやい滝の近くですけど。」

 

「ちょっと中洲の位置が滝と遠い。……こいつを一応持ってきてよかったね。まあちゃんと固定はするよ。いわば埋立地としての利用さ。じゃあ膨らませてくれ。」

 

 膨らませたゴムボートは浅めの川にも浮かんでくれた。ゆらゆらと水の上で踊っているが、むしろ浅い位置にある石が度々ぶつかり、せき止められるのがむしろ良かった。彼女は小さな園芸用のスコップを取り出すと、ゴムボートに繋がれた紐に結び付けて、川底にスコップを突き刺した。さらにその上にごつごつとした石を積み上げて即席の錨としていた。

 

「それじゃ、頃合いまで仕掛けをして待とうか。」

 

 彼女が満足そうに笑いながら言った。

 

 

* * * * * * *

 

 

 

 カイロの科学的な温かさが、何か人智を超えたものを相手取るという今の状況では、ほんの少しばかり頼もしく思えた。……そう、まさしく吹雪の中でゆらめくかがり火程度の頼もしさではあるが……。

 

 

 現在時刻、0:30。いつの間にか、時計を見るのも忘れていたが年があけていたようだ。だが額をじっとりと濡らす冷たい汗が、微妙な緊張感を伝えていた。携帯式の明かりで川辺を照らしまくっていたが、それでもやはり視界は悪かった。いつ魚影が現れてもおかしくはなかった。

 

「……掛かってはいないな。」

 

 藤咲さんが仕掛けた針を確認しながら言った。その後長靴をジャブジャブと言わせながらゴムボートに戻って来る。俺は虎の子である、ゴムボートに備えられた二つの釣り竿──それもやはり少しも動かない──を見ていた。

 

「この季節です。魚、いないんじゃないですか。」

 

「いないこともないかと思うけど……ううん。泳ぎ回るほど元気な奴はなかなかいないみたいだな。」

 

 彼女の策略は、恐らくとらえた魚に針を付けたまま泳がせて、それに滝まで泳がせるという手法であったと思う。しかしこの時間まで新鮮な魚がかかることはなく、結局ぶっつけ本番になるかと思われた。

 

「魚なら、何か頃合いのものを買っておけばよかったんじゃないですか?」

 

 その俺の言葉は、少なくとも俺の中で非難ではなかった。その発想に彼女が至らぬわけはないからである。俺程度が思いつく発想が、彼女にないわけがないのである。藤咲さんは悩まし気に顎に手を当てながら口を開いた。

 

「うーん、それでもいいかと思ったが、やはりこの川の魚がいいかな、とな。それに……。」

 

「それに?」

 

「龍になるんだ。私が買った、なんて理由ではなく自分で泳いできた魚の方が良い。」

 

「……。」

 

 それは、確かに……うん。その通りだと俺も思った。

 

 

* * * * * * *

 

 

 時刻、5:30。安っぽいが実はカーボン製だというその短竿……しかしそれが働くことは未だなかった。薄明りの中で俺たちはまだ現れぬ魚影を持っていた。……その頃になると、気を張ってはいたものの、眠気に目が揺らぎ始め、少し集中力という奴は切れ始めていた。

 

「……。」

 

「……来ませんね。」

 

「来るさ。」

 

「そうですか。」

 

 それから再び沈黙が支配し始めた。釣り、というものは待つものであるという。しかし来るかどうかもわからない、実在すら知れないものを待つというのは、これはこれで辛いものがあった。

 

「年の初めにこの滝を泳ぐ魚が……でしたよね。それは例えば一月二日とか三日……或いは春になってからとかもあるんでしょうか。」

 

「そんなにかかるとは思わないけどね……。龍はこの年を制する生き物だ。つまり十二の月をきちんと支配し、管理しなくてはならない。……来るはずだ。恐らくは今日に……。」

 

「そうで……ん?」

 

 その瞬間、何か早いものが視界の隅に映った。魚の銀が一瞬、薄く辺りを照らし始めた朝日に反射して水面に揺らいでいるのが見えた。その何の変哲のないはずの魚が、まるで滝に飛び込む前の景気づけであるかのように、薄明りの中で餌に食いつくのが見えた気がした。

 

 ひゅうっ、そんな喉を吹き抜ける風の音はどちらから漏れたものであったろうか。俺たちはほとんど同時にそちらの方に視線を向けていた。その瞬間、釣り竿が大きくしなり始めて俺は慌ててそれに飛びついた。それでもなお引っ張られていく。

 

「お、おおおおおお!?」

 

 それは既に魚の力ではなかった。ゴムボートから足を乗り出し、川底に突っ張りながらであるというのにどんどん滑らされるように引っ張られていく。全力で引いていたはずである。俺の背に藤咲さんが飛びついて、加勢してきた。

 

「藤咲さんっ!!」

 

「来た来た来た、『龍』が来たぜェェェェェ!!」

 

 彼女がそんな風に興奮そのままに叫んだ。小舟がどんどん釣り上げられていく。小舟が、である。釣りとはこういうものであったろうか。むしろどんどん我々の体が滝の方に引き寄せられていく。魚がどんどん巨大に変身してくのが見える。ゴムボートがあまりの力に傾き始めた。

 

「あ、龍に逃げられる……ええい、出航ォォォ!!」

 

「あ、馬鹿!! こんな場所で固定を外したらッ!」

 

 彼女が錨代わりの固定具を蹴り飛ばした。途端に滝の流れにゴムボートが引っ張られ始める。いや、正確には……浅瀬である。水の流れにというよりも、どんどん巨大に変身する魚に……いや龍に! 引き込まれ始めていたのである!

 

「ぬおおおおおお、引っ張ら……れる! 君ももっと強く握れ!」

 

 彼女が両の手でもって、全力の握力を使って俺の手の上から釣り竿を握りしめていた。その間にもどんどん滝は近づいてきていた。俺は悲鳴のような声をあげた。

 

「お、落ちますよ!このままだとっ!」

 

「ハッハッハ、この先に龍がいるんだぞ! 落ちたって離すものかぁっ! 全速前進だぜェェェェェ!!」

 

 藤咲麻紀乃……この女は。俺はその時初めて……それこそ愚かな事である。その時初めて、この女についてきたことを後悔したのだ。彼女がここまでイカレているとは思っていなかった。

 

「そろそろ滝が来るぞっ!気合入れてくれよ!」

 

「お、おおおお!? 重い……なんだ、これ鮫みてぇだっ!」

 

 さらに手ごたえが強くなる。鮫といったが……むしろ糸の先で象が暴れているかのような、人間が勝ちうる可能性すらないと思うほどに、圧倒的な力量差を感じていた。

 

 その時、竿が大きくしなった。ミシミシと嫌な音と共にカーボン製の竿がその身の限界を主張していた。

 

「藤咲さん、折れますよっ!」

 

「ええい、限界か……! 一か八か釣り上げるぞっ! 一、二の……三!」

 

 俺と彼女は、限界も忘れて思い切り腕を振るった。竿が大きくしなり、釣り糸とその先の生き物を引っ張っていく。……その瞬間。

 

 視界に映ったのは既に魚の銀影ではなかった。茶褐色の鱗が鈍く輝き、自分で発光しているようであった。そして、その大きさと偉大さたるや。空に踊り始めた時はまだ、俺たちよりもずっと小さかった体は、俺たちの頭を通り過ぎるころには既に長く、大きく、千年生きた巨木のように変じていた。

 

 そして彼は、その人間大程もある大きな瞳で俺たちを一瞬だけ見ると、釣り糸を悠然と軽々喰いちぎって、ゆらり、ゆらりと空を泳ぎ始めた。……ああ、魚は龍に変じたの……か。俺は何とかそれだけを、ぼんやりと思っていた。

 

「……ァ? 逃げられた?」

 

「……あ、藤咲さん! 滝、滝!!」

 

「え? おわーっ!? 脱出~~~~!!」

 

 いつの間にか流れ落ちる滝が、目前に迫っていた。藤咲さんが我先にとゴムボートから飛び降りて、真冬の川の中に逃げ出した。俺も必死にその後を追った。冬だとか、濡れるとか、冷たいとか。不思議とそんな事を思う暇はなかった。

 

 

 

* * * * * * *

 

 

「失敗した。」

 

 冬の真水を被ってびしょぬれになった彼女が川辺に寝そべりながら言った。その荒い息は白い靄となって空に溶けていく。俺も彼女と同じく、冷たい水にさらされていたが、むしろ熱気で籠った上着の中にとっては涼しかった。

 

「龍は空を飛ぶんだから、釣りあげてハイ終わりってはならないじゃないか。魚釣りとは違うんだな。なんかこう……でかい筒みたいなタモがないとな……次回までの課題だな。」

 

「え、次回? だってそれ十二年後でしょう。伝承によると。」

 

「ウン、何か問題が? その時は勿論、君も来てくれるだろ?」

 

「エエ……。」

 

 彼女が「当然だろう。」とでもいうような顔をしていたので、俺は思わず呆れた声を出した。……危険だったよォ。なにせ滝に落ちかけたし、巨大な龍も目の前に見た。正直怒らせたかと思ったし、死んだかなとも思った。

 

 …ああ、しかし。しかしだ。結局のところ、俺は彼女に付いてきた時点でこうなることを期待していたのではなかろうか。俺のような凡庸な人間の予想を裏切ってくれることを、期待していたのではなかろうか。……そう思えばこそ、俺は気が付けばその言葉を口にしていた。

 

「まあ、来てもいいですかね「ブエックション!!あれ、風邪ひいたかな?」」

 

「……。」

 

 俺の言葉は彼女の大きなくしゃみにかき消された。彼女は寒そうにその身を震わせていたので、俺の視線に気づくことはなかった。……まあ、いいか。

 

 

 

 藤咲麻紀乃、彼女が寝転がったままこちらの方を向いた。その口端を歪めて彩られた笑顔……それが降り注ぐ涼やかな雪の中に映えていた。彼女は腕を組みながらその笑顔のまま言った。

 

「ところで、龍はいただろ? 君に何を聞いてもらうかってことなんだが……実のところあまり考えてなかったな。ウン。」

 

「信じてたんじゃないんですか?」

 

「信じてたさ。でも実際に見れるかどうか話は別さ。」

 

 彼女がそんな事を少しだけ寂しそうに言った。俺は薄明るくなり始めた空を見上げた。そろそろ朝日が昇ることだろう。俺は東の方角に手をかざしながらゆっくりと口を開いた。

 

「龍を捕まえたら、でしょう。賭けは無効ですよ。」

 

「あれ、そうだったかな。」

 

「正確には龍を捕まえたら貴方についてくですし……龍がいなかったら命令……そんな賭けでしたよ。ま、つまりはやっぱり無効ですね。」

 

「ああ、そうか……まあいいさ。賭けなんて。」

 

 彼女がどこか不貞腐れたように言った。俺はそれを見て苦笑を押し殺しながら、口を開いた。

 

「……でも、来年もついてきますよ。新年早々、すごいものを見た……。」

 

「……ふうん。ああ、新年、新年か……。相模月君。」

 

「……なんです?」

 

「あけましておめでとう。ことよろ。」

 

「……今年もよろしくお願いします、藤咲さん。」

 

 いつの間にか朝日が昇っていた。新年であろうが太陽は素知らぬ顔で昇っている。その影に細く揺らめく生き物が、見えた気がした。

 

 

 

 

 

 


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