ユウカの話   作:羊の脚

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タイトルの動画を視聴してあまりにも可愛かったので軌道修正した前回の追加です


ユウカ「先生、ちょっとお時間いただけますか?」

小さなソプラノが聞こえてくる。鈴が机の上をそよ風で転がっているようだった。

静寂に満ちた部屋の中で、書類をめくったり電卓を叩く合間に、機嫌の良さそうなハミングが混ざっている。

 

耳を澄ましても、歌詞がわからないので具体的な曲名はわからない。あるいは、鼻歌を歌っている本人でさえわからないのかもしれない。曖昧な形のメロディの一節をふんふんと奏でては黙り込んで、また思い出したように不明瞭な言葉を口遊んでいる。音程は機嫌よくソプラノで、今日はずっとこの調子だった。

カタカタと彼女の打鍵する速度は好調で、始まる前はまた会計の帳尻が合わないだとか、問題を起こして処分を下された部活動の抗議内容がどうのこうのと愚痴をこぼしていたというのに、それはそれとして機嫌よく仕事をしていた。

 

ノアは一旦書類をめくる手を止めて、顔を上げた。

 

「…今日はずいぶんとご機嫌ですね?ユウカちゃん」

 

話しかけられてユウカの鼻歌が、ピタリと止んだ。高機能電卓から指を離して、何を言われたのかわからないように眉をひそめてノアを見返した。

 

「…ん?」

 

「だって作業中ずっと、ご機嫌そうに鼻歌を歌っていたでしょう?」

 

「へ?う、嘘、本当に?」

 

驚いた反応をするユウカを、ノアが不思議そうに見つめた。

 

「…無意識だったんですね。よっぽど嬉しいことでもあったんでしょうか?」

 

「あ、え」

 

「あえ?」

 

「そ、そんなこと、ないけど、別に、そんなの…」

 

やたらとしどろもどろに目を泳がせて、前髪をいじって、もじもじとうつむき加減に机へ視線を落とすのを、ノアが怪訝そうに見つめていた。

 

「うっ…ご、ごめん。黙って作業に集中するから…」

 

咳払いをして、無理やり会話を打ち切るように手元へ目を向ける。電卓を叩く音が戻り、いつもの仕事の一場面に戻る。

 

「…」

 

本人があえて言おうとしないことを無理に追求することもないと思い、ノアはそれきりにして自身も作業に戻った。今日は各所に出向くことなく事務仕事だけで終わりそうだし…と考えていると、スマホの通知音がユウカの方から鳴った。

ノアが視線を向ける。用件だろうか。ユウカはすぐにポケットに手を突っ込んで、指先で幾何学模様を結んでから、画面を覗き込んだ。

しばらく真剣な表情で画面をじっと見つめていて、ノアが気になって見ていると、ユウカはにやと頬を緩めた。

 

「も〜…」

 

「…???」

 

ユウカはそのまま両方の親指を使って画面を操作した。ぐっと眉根を寄せて、悩ましげな表情に、隠しきれない浮ついた笑顔をにじませながら、最後に勢いよく人差し指で画面をタップすると、満足げに、ふん、と息を吐いた。

 

「…ふん♪ふふん♪」

 

鼻歌を歌いながらそそくさとスマホをしまって、作業に戻る。

 

「…ユウカちゃん?」

 

「んー?」

 

子供みたいに無防備でご機嫌な声だった。

 

「…なんでもないです」

 

「そう?書類になにか気になる箇所があったら言ってね〜」

 

「…」

 

ノアは伸びをしつつ、一呼吸つきながら椅子の背もたれを軋ませた。天井を仰ぐ。

 

…鼻歌はまあ、とても可愛らしいのでずっと聞いていたいくらい。でも、様子が変なことはとても気がかり。ノアは首を傾げる。この前までかなり思い詰めているようだったから、なおさら…。

 

「…」

 

とは言っても、ここ最近はもう、浮かれた様子を所構わず垂れ流して、愚痴を言うにもいつもよりも怒ってなさそうに、大変な業務に取り掛かるときも軽やかな表情をして周りを不気味がらせている。まあ、元気になってくれたなら安心したけど…と、ノアはため息を吐いた。軽やかに叩かれる電卓の音に耳を澄ませる。

 

…何がユウカちゃんをあそこまで上機嫌にさせるのだろうと、ノアは天井を見つめながらちょっと思案に耽ったが、考えるまでもなかった。視線を一瞬だけユウカに向ける。

 

「…先生」

 

「ん?」

 

ユウカがパッと顔を上げて、ノアを見た。

 

「先生がどうしたの?」

 

あまりにも簡単に釣れたので、ノアの口元に苦笑が浮かぶ。

 

「…後で直接先生に確認しようとしていたのを思い出しまして」

 

「そうなの?なら私が後で訊いておいてもいいけど」

 

「…すぐに会う予定でもあるんですか?」

 

「えっ、ないけど…」

 

言葉尻を揺らしながら、慌ててモニターに視線を戻す。

 

「さぁて、仕事仕事っと…」

 

わざとらしい独り言をつぶやいているユウカを眺めて、ノアは、やはり先生関連だ、と確信した。

 

ノアの片側の頬がにんまりと持ち上がる。

先生とデートの約束でも取り付けたのか、はたまた嬉しいプレゼントでも貰ったのか…前までは何だかぎこちなさそうだったけど…先生のせいで落ち込んで、先生のお陰で元気が出たのだろう。心配こそしていたけど、やはり先生が上手にとりなしてくれたのだ。からかいと、ちょっとの疎外感を込めて、ノアはそのことを言及すべく口を開きかけた。それにしてもやけに浮かれている…。

 

「…」

 

…そういえば、ユウカちゃんの口から、先生の話題を最近聞いてないような?以前は先生のことばかり話していたのにパッタリと…不自然なまでに…。

 

ちょっとその事を考え込んで、今のユウカの様子を見て、ふと、ノアは眉をひそめた。

 

「…あれ?」

 

なにかおかしい。

 

「えっと…」

 

ノアは戸惑ってユウカを見る。

…さっきはどうして慌てて隠そうとしたのだろう?

 

「…」

 

…先生について、隠さないといけないこと?

それって…。

 

時計がチクタクと音を立てている。ノアは何だか怖くなって自身の肩をさすった。頭にもたげた重大な可能性をありえないと否定しつつも、拭いきれない疑念のためにもう一度ユウカのことをじっと観察した。

 

「たらら〜♪」

 

可愛らしいソプラノ。ものすごく浮かれている。こんなユウカちゃんを初めて見た…まるで…。

浮かび上がりそうになった単語を吹き飛ばそうとするように、ノアがかるく咳払いをする。

 

…この前まで、二人の関係はややぎこちなかった。主にユウカ側の態度のせいだったと、ノアは見ていた。ぎこちなかった二人が関係修復の際に勢い余って、というのはお話として定番すぎて、ぞっとしてしまう。

生徒との不純異性交遊?ノアは頭を振る。先生はそんな人じゃない。ユウカには可哀想でも、何があっても問題は起きないだろうと、ノアは先生を信頼していた。先生は大人としての責任を誰より知っているから…ですよね?先生?ユウカのスマホにまた通知が届く。先生?

ユウカがすぐにそれを手にとって、にやつきながら返事を打っているのを、ノアが戦々恐々と見つめる。画面に集中しているのか、手の動きと連動して無意識に囁かれる声が、ノアの耳に飛び込んできた。

 

「…しょうが、ない、ですね…と。わたしが、いないと、ダメ、なんだから…」

 

あまりの甘ったるい声に、ノアはつい確信を深めてしまった。

 

これは…ちょっと…ダメじゃないですか…?先生。

だって…いくら…ユウカちゃんが、先生のことを、前から。乾いた喉をゴクリと鳴らす。

ユウカの先生に対する強い気持ちを、ノアはある程度察してはいた。

でも、どんなことがあったとしても、先生は生徒とは結ばれてはいけない。いつもユウカをからかいつつも、心配な気持ちがあった。でもそこは、先生が配慮してくれていたと思っていた…いや、わからない、まだ判断するべきではないのかも…そうだ、さすがに…先生がそんなこと…。

 

でも万一、そうだとして、周りに知れ渡ったら…?今も様子をおかしく思っている子がそこそこいるし…。ノアは怖くなって身体が冷えていくように感じた。

今考えていることが全くの誤解だと、二人のことを信用するべきだろうか…?

ノアは感情の整理がつかないまま、大切な友人であるユウカのことを見つめた。

 

「…ふふ」

 

ユウカが呑気に、子供みたいにニヤニヤとしていた。

…とても幸せそうだった。

 

直視できなくて、ノアは目を伏せる。

…ユウカちゃんの気持ちは痛いほどわかりますけど。

でも、それだけはダメでしょう?ユウカちゃん。だって、先生も一緒に不幸になりますよ?

 

「…」

 

何か言おうと思った。まだ何もわかっていないのに、この浮かれきっている友人のために何が言えるかもわからないけど、何か言わないといけないとしたら、それは友人である自分の役目だと思った。

でも結局、ノアには何も言うことができなかった。

言えるわけがなかった。

 

「〜♪」

 

ユウカが嬉しくて、嬉しくてしょうがないといわんばかりに、スマホを眺めていた。

 

ノアは黙り込んだ。そんな顔をするユウカには何も言えない。

 

 

最後の打ち込みを終えて、キーボードを派手に叩いた。処理が終わるのを見送ってから、

 

「よしっ、これで今日のやることは終わり!」

 

想定よりも遅れが生じていることを確認すると、ユウカは慌ただしくPCの電源を落として、書類をしまいこんで、手早く荷物をまとめだした。

 

はやく、はやく…待たせちゃう…。

ああ、もう。少しくらい明日に回しちゃえばよかったかも…。

慌ただしく席を立つユウカに、

 

「…ずいぶん急いでるんですね?」

 

ノアが画面に目を向けつつ、ちょっと暗い声で尋ねた。

ユウカは申し訳無さそうにノアに視線を寄越した。

 

「先にごめん、ちょっと大事な用事があって…」

 

「…先生とデートだったり?」

 

「うぁ、え、なん、えぇっ…?ち、ち、違うけど…?」

 

あからさまに視線を彷徨わせて、ユウカは顔をうつむかせる。

 

「…冗談ですよ。でも、先生に用事があるのはそうなんでしょう?」

 

「…あ、まあ、そうね。うん、ちょっと、会う約束があって、その、そう!シャーレ関連で…あっ!で、伝言するけど!?用件があるんだったっけ!?」

 

「考えたら急ぎでもないので…相変わらずユウカちゃんは、先生のことがお好きなんですねぇ」

 

「え、は、え?」

 

「まるで昔よく遊んでもらってた人に会う、親戚の子供みたいでしたよ?」

 

「あ…そ、そう、かな?」

 

「待ち遠しくてしょうがないみたいな…」

 

「…う…そう…見えた?」

 

そう呟くユウカの顔は赤く、口元に手を添えて、消え入るように目線を下げた。

 

「恥ずかしい…」

 

「…隠す気あるんでしょうか」

 

「え?」

 

「いえ…時間は大丈夫ですか?」

 

「あっ、うっ」

 

「…時間に余裕がないならいくつか仕事を手伝ったのに」

 

「そ、そういうわけにはいかないでしょ…?私用なんかで…」

 

「…私用…いえ…はい、そうですよね。ユウカちゃんは、真面目ですね」

 

ノアがじっと見つめてくるので、ユウカは戸惑った。

 

「…なに?」

 

「…何でもありませんよ」

 

ノアは諦めたようなため息をふっと吐いて、

 

「…何でも気軽に相談してくださいね。私はユウカちゃんの味方ですので」

 

「?うん、ありがと…」

 

「先生とのデート、楽しんでください」

 

「…ち、違うっ、てば」

 

振り絞ったような返事。

ノアが何回もデートと繰り返すので、意識してしまって、ユウカの心臓の鼓動が否応なしに高まる。顔が熱くなるのがユウカ自身でもわかった。

 

苦しそうに息を吐くユウカに、ノアは力なく笑って、

 

「今日付けてるその香水、きっと先生も気に入ってくださるでしょうね?」

 

「…あ、気づい、てた…?」

 

「もしかして、先生からの贈り物でしょうか?」

 

「…」

 

頬はみっともなく真っ赤に紅潮し、潤んだ目でノアを見ていた。

 

「…ほら、本当に間に合わなくなっちゃいますよ」

 

「あ、う、うん…」

 

「…恨みますよ、先生」

 

ノアの最後のつぶやきはユウカの耳には届かなかった。

 

 

小走りで待ち合わせ場所へ向かう。モモトークで少し遅れることを伝えようと画面を見ていて、道端にポツンと立っている街灯にぶつかりそうになって、たたらを踏んだ。

ああもう。

息を落ち着かせる。少し落ち着かなきゃ…。

早足の速度を緩めて、歩く。

このまま走っていったら汗だくになっちゃう。それは嫌。モモトークから、返事が返ってきた。

 

「…」

 

文面を読みながらニヤニヤしていることに気がついて、慌てて頬をグニグニと指で押して無理やり整える。前だって、こういう他愛のない会話をしていたというのに、今はあの人の言葉一つ一つで他愛もなく胸が踊る。こんなにも容易く誰かに感情を左右される今こそが、間違いなく人生で一番幸せだと思う。

 

傾きつつある陽が無機質な建物や自販機の表情を翳らせる。すれ違うミレニアム生たちの楽しそうなはしゃぎ声を耳に入れながら、ユウカは今自分のことを待っているだろう、先生のことを想った。

 

「ふん…ふふん…」

 

歩く速度が知らず上がって、早くあの人に会おうとする。

 

「ふふっ」

 

一人で勝手に笑ってしまって、ユウカは周りを気にしつつ、ニヤけ続ける口元をたまらなく手の甲で抑えようとする。目を細めて、先生が送ってくれたメッセージをもう一度見直して、その文字を愛おしそうに人差し指でなぞった。先生の優しい声がユウカの脳内で何度も何度もリフレインされて、笑顔が止まらなかったが、すれ違う誰もユウカを気にしている素振りもなく、楽しげに誰かと話しながら歩いていた。ハッと自分の症状に気がついて、ふっ、と息をつく。

 

「…気をつけないと」

 

ユウカのまだ辛うじて残っている冷静な部分が、自分に言い聞かせるように独り言を呟いた。先生の迷惑にならないように、気をつけて行動しないといけないんだから…。

それに…。

…こんな、浮かれてるようじゃ、先生に呆れられてしまうかもしれないし。

約束の場所までの道を、逸る気持ちを抑えて、歩く。火照った頬をそよぐ風が気持ちいい。今日ずっと、先生の声が聞きたかった…先生も同じ気持ちでいてくれてる?きっとそう。

 

今日学園にいる時送ってくれたメッセージを思い返して、ユウカは苦笑してしまう。ユウカの声が聞きたくなってしまっただなんて…そんな可愛いことを言われて、思わず仕事を放りだして通話をしてしまいそうになった。そんなこと、決してしないんだけど…ノアの迷惑にもなるし…。

 

ふと、ユウカは手首を顔に近づけた。人工的な甘い香りがふわりと鼻をくすぐる。今になって恥ずかしくなって、口元がニヨニヨとしてしまう。朝、迷ったけど、ノアにも気づかれてしまって…。

でも、先生がくれたものだから…。

 

待ち合わせ場所の近くにある高層ビルが見えた。もうすぐ到着する。はやる気持ちをぐっとこらえて、ユウカは歩いたまま、先生のいる場所へと向かう。

…はしゃぎすぎているように思われるのも、あんまり良くないと思うし。

…恋人として。

 

「〜〜っ」

 

顔が赤くなってしまって、こらえきれない感情が胸の奥から湧き上がってくる。

きっとこれを、幸せと呼ぶのだろう。

 

 

広場の、道に面してある柵にもたれながら先生は、ぼーっと空を見上げているようだった。雲がまばらに散らばって、浮かび上がる幾何学的な模様が赤く染まっている。

くたびれてはいるけど、清潔感に気を遣われたいつもの服を着て、何も考えていないような後ろ姿を晒していた。

後頭部の髪の毛が少しはねていて、ユウカは離れた場所から咳払いをして、声のチューニングをした。

表情を落ち着かせていって、それに反比例して大きくなる身体の中の鼓動を水面下に頑張って押し込みながら、足音を忍ばせて、ユウカは先生の後頭部にそっと指を這わせた。

 

「えっ」

 

「もう、先生…寝癖がついてますよ?」

 

「…あれ、そうなの」

 

「誰かに先生がだらしないって思われるの、嫌です」

 

「うん…」

 

指で何度なぞっても、頑固にぴょんと跳ねて戻ってしまう。ユウカは諦めて、ため息を吐いた。

 

「先生ってばもう…私が毎朝、身だしなみチェックをして差し上げましょうか?」

 

「後頭部まで念入りに?」

 

「細かいところまで見られてるものですよ。先生は注目される立場の人なんですから」

 

「そういうものかな…」

 

呟きながら先生が振り返って、ユウカにいつもの優しい笑顔を見せた。

 

「やあ、ユウカ。今日もお仕事お疲れ様」

 

高揚をさとられないようにしながら、ユウカも微笑む。

 

「先生も、お仕事お疲れ様です…お待たせしちゃいましたか?」

 

「いや全然。それじゃ、行こうか」

 

「はい、先生」

 

ユウカは内心、完璧に振る舞えている自分を称賛した。スマートに、自然に先生の横にならぶユウカの笑顔に得意げな色が交ざる。すると、先生がちらりとユウカを見て、

 

「…あれ」

 

身を屈めて、ユウカの耳にそっと近づくと、ユウカの身体がピンと跳ねた。周囲に聞こえないくらいの、低い声で囁かれる。

 

「…私が以前贈った香水を使ってくれてるんだね。嬉しいよ」

 

「はっ、はぃ…」

 

声が上擦った。耳からゾクゾクした感覚が心臓まで走る。すぐに顔が赤くなった。

 

先生は微笑んで、自然にユウカの手に触れた。

先生の指先が、問うように固く握りしめられた手をつつくと、乞われるままそろそろと開いて、先生を受け入れた。

 

…手に力を込めなければよかった。熱が籠もってるだろうし、汗で濡れているかもしれないし、今ハンカチで拭くのも、変だし。

心のなかでブツブツと独り言を呟いているうちに、大人の先生の大きな手のひらが、ユウカの手を包んだ。

 

「…人通りがないようだから、いいかな」

 

ユウカが黙って何度も頷く。先生はニッコリと笑って、ユウカと影をつなげながら歩いた。

 

「少し早いけど、途中でご飯を一緒に食べない?」

 

コクコクと頷く。

 

「これでデートの代わりというわけじゃないけど…ごめんね。ちゃんとしたのはいつか必ず」

 

「あっ、いえそんなっ、仕方ない、ことですし…お互いに、忙しいのも、ありますから…」

 

消え入りそうな、かすれ声。ユウカがそっと先生を見上げると、先生は笑いかけていた。

 

「ユウカは優しいね」

 

弱いところを握られている。

すっかり隠しきれなくなった、自分の慕情にあえて逆らう気もおきずに、ユウカは先生の手をぎゅっと強く握って、甘えた。それに対して、握り返してくれたことが嬉しくて、胸がきゅうっと高鳴る。

 

「あっ…」

 

上ずった声のまま思い切って、誰にも聞こえないように、やけに小さな声で、

 

「…先生」

 

「ん?」

 

「…今日も、その…いい、ですか?」

 

「…わかった。後でね」

 

ユウカはますます深く、真っ赤になってる顔をうつむかせた。先生の手をさらに強く握って、決して離さないようにした。

 

広場から離れて、人気の少なさそうな小道を選んで歩く。先生の温かい人肌から離れがたくて、どうか人が来ないようにと祈る。肩が触れそうなくらいに近づいてみると、先生の身体を思い出してドキドキした。

火照る顔のままユウカは咳払いをして、涼しい顔をして歩く先生のことを、ジトッと見つめた。

 

「…普段からは想像してませんでしたけど」

 

「うん?」

 

「こういう時、先生は大人なんだって、思ってしまいますね?」

 

「そりゃ、いつも大人であろうとしているけど」

 

「そういうことじゃなくて…こういう、私の扱い方…とか」

 

「…ユウカに喜んでもらいたくて、いつも考えてるんだよ」

 

「…ほら、そういう、私を喜ばせるの」

 

何だか急に意地悪を言いたくなった。ユウカは口をちょっと尖らせる。

 

「…もしかして、経験豊富なんですか?」

 

「えっ、そういうふうに見える?」

 

「だって、普段のちょっとだらしない言動とは別人みたいじゃないですか」

 

「まあ…恋人の前だからね」

 

「っ…」

 

さりげなく先生の口から恋人という言葉が出てきて、ユウカの心臓が飛び跳ねた。先生がユウカに向かって笑う。

 

「いや、こっちが本当なんだよ。実はもっとスマートなんだよね、うん」

 

冗談めいた言い方に、ユウカが笑みを浮かべる。

 

「…自分から言うのは、説得力がなくなっちゃいますね。私に無駄遣いで怒られる先生はいないんですか?」

 

「本当はそう。寂しい?」

 

「清々します。でもまあ、たまになら、相手してあげてもいいですよ?」

 

ユウカがクスクスと笑う。それを見て先生は満足そうに、「やっぱりユウカは優しいね」と笑った。

 

楽しい。

こんな時間が一生続けばいいのに。

 

誰もいない細い小路を二人並んで歩いていると、繋いだ手からお互いの温かさが伝わって、濃密な二人だけの時間を過ごせている。他人同士の距離の空いた会話よりもずっと深く胸の内を曝け出している気がした。

先生になら安心して心を預けられる。

不安でさみしくて仕方のなかったこの前までのことなんて、忘れてしまいそう。

 

思い切って、よろけた振りをして、先生の肩にぶつかってみた。電車に揺られるように、ゆっくり離れてまた先生にぶつかる。先生は何も言わずに、黙ってユウカを受け止めた。揺れ幅が次第に小さくなって、そのうち密着した。指と指が深く絡み合っている。

 

「…先生は、今日どんなお仕事をされたんですか?」

 

ユウカが先生を見上げる。

 

「ゲヘナでちょっと揉め事があってね…さっきまで出向いてたんだよ」

 

「片付きました?」

 

「なんとかね…忙しいだろうにヒナが手伝ってくれて」

 

「あ…他の子の話題」

 

「えっ」

 

「…冗談です」

 

ユウカの指が先生の手の甲をいたずらするようにくすぐる。甘い声色を出す。

 

「もう不安になんてなりませんから。ねえ、先生」

 

「…あ。もうすぐ大通りに出るね」

 

「あ…」

 

耳をすますと、遠くからのざわめく声が聞こえてきた。

 

「…」

 

ユウカはさみしげに、指先でツンツンと先生の手をつついた。先生が囁く。

 

「…後でね」

 

「…約束、ですよ」

 

離れる間際にユウカの指が何度も先生の手にしがみついて絡んだ。

先生から丁寧に手を離すとユウカは拗ねたようなさみしげな上目遣いをした。

 

「今日はゆっくり時間をとれるから、我慢して」

 

「…はい」

 

「…秘密にしないといけないの、大丈夫そう?」

 

「あっ…大丈夫、です。ちゃんと、守ってますから」

 

「本当かな…」

 

「し、信じてください…私は、ミレニアムの機密事項をたくさん知ってますが、それと同じくらいに秘密にしてます!」

 

「冗談だよ。いつも頼りにしてる」

 

「…ふふっ…まあ先生は私の仕事ぶりをご存知ですからね…良くも、悪くも…」

 

「仕事の時のユウカも、今のこういう可愛いユウカのことも、大好きだよ」

 

「…恐縮、です」

 

「いや、いつも可愛いんだけどね、ユウカは」

 

「先生…もう…続きは、今日の終わりに…」

 

「欲しがりさんだね」

 

「…も〜、せーんーせーいー?」

 

先に見える大通りへの合流地点の方から、大きな人の話し声が飛び込んできて、二人は急にスン、と距離を離した。沈黙が続いて、

 

「…ぷっ、あはは」

 

こんなことすらおかしくて、ユウカは子供みたいに噴き出した。

クスクスと笑いながら、幸せを噛みしめる。

そんなユウカのことを、先生は見つめていた。

 

先生の選んだ店は落ち着いた隠れた名店のような雰囲気のところで、提供される料理にユウカは満足そうに舌鼓を打った。

生徒も、そうでない人も同じくらいの数だけテーブルに座っていて、先生とユウカの二人連れもそれに違和感なく紛れ込んでいた。

 

「こんなお店、よくご存知でしたね?」

 

「うん、この前教えてもらったんだ」

 

「へえ…」

 

カップの中に満たされた液体をスプーンでカチャカチャと掻きませながら、ユウカは先生の目を窺った。

 

「…その人と一緒に来たんですか?」

 

「教えてもらっただけだよ。機会があったら寄ってみようかなって」

 

「そうですか…それならまた、一緒に来たいですね。今度は違うメニューも頼んでみたいし」

 

「そうだね…あまり頻繁には、だけど」

 

「…一緒に御飯食べるくらい、普通じゃないですか?先生だって、他の子とよくしてますよね?」

 

「まあ、そうかな…」

 

「…なんちゃって、冗談です。一人の生徒とばかり一緒にいたら怪しまれますよね。先生が正しいと思います」

 

「まあでも、ユウカのことは特別扱いしたいから」

 

「…」

 

さりげなくそう言われて、ユウカはスプーンを持つ手を止めて、驚いたように先生のことを見つめた。

 

「どうしたの?」

 

「あ、いえ…何でも…」

 

またカチャカチャとかき混ぜる。甲高くこすれる音がする。

 

「…もうそれ十分混ざってるんじゃない?」

 

「まあ、はい…」

 

動揺と、心にあるどうしようもない感情を表情に出さないようにして、ユウカは曖昧な笑顔を浮かべた。意味もなくスプーンでぐるぐるとカップの中身をかき回し続ける。ぐるぐる、ぐるぐると。

 

「…」

 

ユウカが音をたてて立ち上がる。

 

「…そ、そろそろお店出ましょうか」

 

「えっ、まだそれ飲んでないのに?」

 

カップを掴んで、ユウカは一気にそれをあおる。

 

「あつっ…」

 

「大丈夫?」

 

「…行きましょう、大丈夫です」

 

先生の袖をぐいと引っ張って、慌ただしく店を出ていった。

前へ引っ張る足早なユウカのことを、先生は不思議そうに眺めた。店やビルの並び立つ歩道を次々と進んでいく。

 

「そんなに急がなくても大丈夫だよ」

 

「でも、一緒にいられる時間がその分増えるじゃないですか」

 

「ゆっくり歩いてる時間も楽しいよ」

 

「先生だってはやく、私と、二人だけで過ごしたいですよね?」

 

「…うん。そうだね」

 

「なら、いいじゃないですか」

 

「ユウカ」

 

かたくなに前を向き続けるユウカを引っ張って、足を止めさせると、先生はゆっくりと口をユウカの耳に近づけた。

 

「…心配しないで」

 

「…」

 

「全部うまくいくから」

 

「…先生」

 

「…だらしない大人でごめんね」

 

「先生はっ、何も悪くな…」

 

「ユウカ」

 

先生が急に肩を抱いて、身体が小さく震える。とても、とても小さな声で、先生が囁く。

 

「大好きだよ、ユウカ」

 

「あっ…」

 

こわばっていた身体から、ふっと力が抜けた。難しいことを考える力が急に無くなって、優しく肩を掴む力を、ユウカの身体がそのまま受け入れた。

 

「行こうか」

 

「…はい」

 

ユウカは、静かな期待に満ちた目で先生を見上げながら、消え入るようにそう呟いた。

 

 

いつも使っているシャーレの一室に灯りが点いて、煌々とした光が室内を照らした。

 

先生がパネルを押して空調を調節する。ユウカは荷物をそこら辺に置き、部屋に備え付けられている冷蔵庫から飲み物を取り出して、キャップを外す。喉を鳴らして、ペットボトルから口を離すときに、小さく息を吐いた。

 

空調の音が大きく部屋に響き渡る。先生が上着を脱いでハンガーにかけるところをユウカは隠し見ていた。先生が振り返るので、ユウカは慌てて視線を逸らして、ペットボトルを手にぎゅっと握りしめる。

 

「座ったら?」

 

「…」

 

大人しく言うことに従って、ユウカはベッドに腰を下ろす。ぎしっ、とベッドがきしんだ音を立てた。手を伸ばすと枕があって、表面を優しく撫でた。

 

「ごめんね、今椅子がなくて」

 

先生がユウカの隣に腰を下ろす。ユウカの身体がびくりと震える。握りしめた手を膝の上にのせてうつむく。震えそうになるのを抑えて、声を出す。

 

「先生…」

 

切なげに、熱を込めて先生を呼びながら、堪えきれない様子で身体を近づけて、先生の肩へ小さく手を添えた。

 

「先生」

 

ユウカが先生に顔を近づける。

先生が視線だけユウカに向けると、顔を真赤にした可愛らしく必死な表情のユウカが、口をすぼめて、先生のほっぺにキスをするところだった。

 

しばらくくっついてから、ちょっとだけ顔を離したところで、漏らした熱い吐息が耳に意図せずかかって、先生の身体がビクッとなった。

 

「先生、先生…」

 

肩を加減できずにぎゅっと掴む。唇をまた頬に触れさせて、目を閉じながら、先生の手を探り当てて、貪るように指と指を深く絡めさせ合う。

先生は動かない。

ひとしきりキスを重ねた後に、ユウカは長い息を吐いて、

 

「先生…?」

 

耳まで赤くしているユウカの視線に応えるように、先生は空いた手でユウカの肩へ優しく触れる。

 

「あっ…」

 

ベッドのきしむ音。先生がユウカの柔らかい頬に口を近づけるので、ユウカがプルプルと眉根を寄せて目をぎゅっとつぶっていた。

 

頬に触れる感触に、ユウカは短い声を漏らして、潤んだ目で先生を愛おしそうに見つめた。

 

「先生、先生」

 

ユウカがえいやっと、もう一度先生のほっぺにちゅうをした。ユウカの手が先生の手の甲に軽く爪を立てる。ベッドが揺れてスプリングの軋む音が続く。

 

ひとしきり行為が終わると、ユウカは息をちょっと荒げながらトロンとした目つきで先生の肩にもたれかかった。

 

「先生…よかったですか…?」

 

「うん、ユウカのほっぺは柔らかいね」

 

「…もう」

 

ユウカは笑みを含んだ小さな掠れ声を漏らすと、紅潮した頬にはりついた自分の髪の毛をそっと撫でた。もう片方の手は相変わらず先生の手に深く絡んでいる。ユウカが物欲しげに小声でささやく。

 

「…もう少し、こうしてていいですか…?」

 

「うん」

 

「先生、好きです」

 

「私も」

 

「知ってますよ…ふふっ」

 

今日一で甘ったるい声だった。満足げに息を吐いて、より先生に身体を預ける。先生の手を握りしめてない方の指先が、先生の膝をくすぐるように触る。

 

「生徒とこんなことして…いけない人ですね…」

 

「やっぱりこれアウトなのかなぁ」

 

「…なんて、最初に私が誘ったんですけどね」

 

「あれは可愛かったね…」

 

「先生…」

 

ユウカの暗い声。つらそうに、さみしげで、どこか不安そうに揺れていた。

 

「すみません…私…先生の前では、可愛げがあって完璧な生徒でいたかったのに…」

 

「ユウカ…私が決めたことだよ」

 

「…呆れないでくださいね…みんなに見放されても、ずっと一緒にいてくださいね」

 

「うん、約束する。ずっと一緒」

 

「約束しましたからね…」

 

「愛してるよ、ユウカ」

 

「…」

 

「…ユウカ?」

 

「…先生…もう、一回」

 

「はいはい、ほっぺだして…愛してるよ、ユウカ」

 

「…んっ」

 

 

 

「それでは私は帰りますが…」

 

ユウカが先生を振り返る。すっかり調子が戻った様子の取り繕った顔で、ちらりと机の上に置かれた書類の山を見遣った。

 

「…もしかして先生、これからお仕事です?」

 

「うん、まあ…」

 

「…手伝いましょうか?」

 

「大丈夫、大丈夫」

 

「でも、私にお時間割いてもらったから…」

 

「楽しかったよ。ユウカのおかげでまた仕事を頑張れる」

 

「…本当に、先生は優しいんだから」

 

クスリと笑って、聞こえないように独り言を小さく呟いた。

 

「…そういうところも大好きですよ」

 

「私もだよ」

 

「なっ、なんで、聞こえるんですか…!」

 

照れ隠しに大げさな咳払いをして、乱暴に部屋の扉を片手で開ける。

 

「…無理だと思ったら早めに連絡くださいね」

 

「ありがとう」

 

「…無理だと思わなくても、連絡ください。先生の声が、聞きたいので」

 

しおらしい声をいきなり出して、はにかんだ笑顔を残して、ユウカは帰っていった。ご機嫌そうな鼻歌が遠ざかっていくのを聞いてから、先生は扉を閉じた。

 

ふーっと息を吐いて、机の前の椅子に座る。

 

口元の前に両手を合わせて思案げに目を閉じる。

 

「…」

 

また、ため息を吐いた。

 

「どうしよう」

 

「…先生」

 

モニターに薄い色素の女の子が浮かび上がる。表情は困り顔で、のろのろと死んだ目を向けてくる先生を心配そうにしていた。

 

「アロナ…どうしよう…」

 

「どうしようと…言われましても…」

 

「どうしたらいいんだ…」

 

先生は頭を抱えた。

 

「このまま突っ切るしかないのでは…」

 

「ヒリヒリするね…ふふ…」

 

「先生、そんなおっしゃり方、ユウカさんが可哀想です…」

 

「いや、そういうつもりじゃなくて…」

 

先生はうろうろと立ち上がって、白湯を沸かした。カップを片手に戻って、熱く透明な液体を一気に飲み込んだ。

 

「…選ぶ前は正解なんてわからないのに、後には間違いだとわかるのはなんだろうね」

 

「どの選択肢でもそれなりの傷が残ったと思いますよ、先生…」

 

「そうかな…そうかも…」

 

「うまく行けばこれで誰も傷つかないですし…先生の胃以外は…」

 

「ユウカの哀しむ顔を見たくなかったのは本当なんだ…責任は必ず取るし…」

 

「先生…大丈夫です!バレませんよ!だってユウカさんは、いつもミスなんてしない完璧な方ですから!」

 

「そうかな…そうかなぁ?」

 

「そうですよ!先生が不安がってたら、余計に怪しまれちゃいます」

 

「…そうだね。こうなった以上、腹をくくって」

 

「…あっ」

 

「えっ、なに?」

 

「…先生、モモトークをご覧いただけますか…?」

 

「…ノアから大量のメッセージが来てるね」

 

「…」

 

「せ、説明を、きちんとした、説明を」

 

「あっ、先生!今度は別の生徒さんからアプローチ強めのメッセージが!」

 

「…」

 

先生は長い沈黙の後、スマホを置いた。

 

「ユウカは可愛いなぁ」

 

「現実逃避しないでください…また相談にのりますから…」

 

「はい…」

 

こうして、キヴォトスの夜は更けていくのだった。

 

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