「ボク…今日は帰りたくないな」
「ねえ。このまま、ずっと居ようよ…」
しなだれかかってそう、上目遣いに言う姿に。
男はただ断らず。ただそっと手を伸ばした。
…
……
それは冬の日の静かな夜の日だった。
争論と言うにもささやかなほどの言い違い、鍋の締めは麺にすべきか雑炊にすべきかというくだらない話合いをしていた最中の事だった。ふと、赤い視線が窓の外に向かう。
おお、と軽い感嘆の声。
つられて青年も窓を見て、同じような声を立てる。そうしてから互いに顔を見合わせて、くすりと笑った。
「雪だ」
「ね、雪だ。
どおりで最近寒かったわけだよ」
彼女は肩をすくめて炬燵に脚を入れ直す。
大仰に震える動きをしてから、はぁと息を吐いた。室内気温はその息を白くは染めず、だからその息はただため息だけだった。
「あーあ、やだねえ。昔は雪でも降ったら大喜びしてたものだけど。雪で素直に喜べなくなった時が、大人になってしまったということなのかもしれないな」
「へえ、お前も子供の頃雪で遊んでたのか?
なんか予想できないけどな」
「ふふ、確かにボクは賢い故に変に擦れたヤな餓鬼だったが雪遊びくらいはしていたよ。友人関係も作らなきゃだったし、付き合いでね」
「…ヒねた子供だったんだろうなってのは、今の話だけでもわかった」
しんしんと降り積もっていく雪。夜半の積雪は音と色を奪っていき、窓の結露は朧じみた街灯の光をじんわりと視界に届けていく。
だからどう、ということはなく。二人は鍋の締めをじゃんけんで決めて、まあどちらにせよ美味しく平らげて終わりにしていたところだ。すると青年の目が急に、きらりと光った。
「……よし」
そう言うと、彼は急激に棚の奥から分厚い上着と撥水性のある手袋を取り出して身につけ始める。それを横目で見ながら、くく、とクジョウは笑った。
「なるほど、止み始めた今のうちにもう雪をかいてまとめておこうって事かい?まったく真面目だねえ」
「それじゃ、頑張ってね」
「やっぱり手伝おうって気はないか」
「ボクはまだ食後の休憩中さ〜。それに、こんなかよわい女性に労働させるような鬼畜じゃないだろキミ」
諦めたように微笑んでから、シュウ青年は外に出る。いつぶりに引っ張り出したか、錆びついた鉄のシャベルスコップを担いで外に。
ゆっくりと降り積もり終えた家の周囲はいつもとは全く異なるように見え、それでいて慣れ親しんだ光景という矛盾の白景色。
先まで温かい物を含んでいた口からは、白い息。
ぼうと澱んでいた中身が、ぴりと綺麗になるような感触。やはり彼は、この身を切るような寒さが嫌いではなかった。
ざく、ざく。
がりがりがり。
新雪を踏み締めて、刺して引き摺り、コンクリートを擦る鉄の音が断続的に鳴り続ける。寒さで身体が凍えてしまう前に中に戻ろうかと思っていたが、意外と動く内に身体が暖まる。
誰も外にいない、雪かきの音だけの空間。
ぼうと身体だけを動かして思考が止まる。
気持ちのいい呆然を、別の足音が妨げる。
その足音は不思議と、どこか悠然とした綺麗なものにも聞こえ。もしくは傍若無人で自分勝手にも聞こえた。
「すぐ根を上げて戻ってくるかと思ったけど…いやはや、ほんっとうに真面目極まりないねキミは。それともマゾなのかい?」
「んなわけあるか。素直に褒めてくれよ。
それに、流石にそろそろ戻ろうとしてたとこだ」
「おやそうかい?
ならついでにこれを渡しておこう」
スレンダーなコートと、黒い手袋を着けて外に出てきたクジョウ。その手には二つのマグカップが握られていた。
どちらもの内側から、甘い湯気が立ち込めて。
ぴと。手袋を外して触れた時の、普通ならば熱すぎるその気温は、外気に冷やされた手にはちょうど良く、溶けるような快感だった。
「コーヒー…じゃなくてココアか」
「もう夜だしね。
寒空の下のこの気遣いを感謝してくれよう?」
「いや、ほんと嬉しいよ。
手伝ってくれたらもっと嬉しかったけどな」
「いーやーだ。ボクはキミみたいなマゾヒズム拗らせた変態じゃないんだから」
「俺がMって前提で話を進めるのはやめろ!」
そうして暫く無言でカップを啜る。
何かを喋るでもなく、また部屋の中に戻ることもなく、そこに居続けたのは互いのどういう心からだったろうか。
ただ少なくとも、悪感情でないのは確かだろう。
「…雪か。
あまり良い思い出は、正直ないけど…」
「ふふっ。不思議だね。
キミがこうしてかいたからかな?
一緒に見てるからかな。初めて綺麗に見えるよ」
いつも飄々と話す彼女の目に、この時にはどこか潤みと優しさが出ていた気がして。青年はその理由や想いを問いただしはせず、代わりにカップを置いてまた手袋を付け直した。
そうして、雪を握ると…
「ん?どうし…うわあっ!何を急に…!わっぷ」
「ははっ、一本!」
「……へえ」
一度投げた雪玉は避けられ。それに驚愕している彼女の顔に、今度こそ雪玉が直撃した。そのまま、動かなくなったクジョウを見てやりすぎたか、と思って。その後に飛んできた雪玉の鋭い軌道に少しだけ後悔を深めた。白雪の奥から見える赤い目が、異常に恐ろしく。
「うわあ、待った待った!ギブだ!」
「んー?聞こえないなあ!
もっと大きな声で言ってくれないと」
「勘弁してくれ、もう降参だって!」
「おやおや、夜中にそんな大声を出すものじゃないよ。近所迷惑じゃあないか」
楽しそうに雪玉を次々と作り上げてこちらを追い詰めてくる彼女を、恐怖の混じった感情で見返す。
クジョウが、彼を追い詰める顔は楽しそうだ。彼はそれを見て少しほっとした。どういった理由で雪が好きでないかはわからない。だけれどこれで、雪を見て、一つは楽しい思い出が出来てくれたんじゃないか、と。
(…なんて、思ってるのかな?シュウくん)
(ほんと、お人好しなんだから。
それに、思い出作りとかは大きなお世話だって)
彼にはまだわかっていない。彼女にとっては、何かイベントが無くても。ただ、それを横で過ごせた方が何よりも大事で、何よりもかけがえのない思い出であるという事が。
彼にはわかってない。
クジョウには、ただこうして笑い合えることそのものが、何よりも大きなイベントであるということが。
…
……
「うぅ、ぶるぶる…はしゃぎすぎたね。
いい歳こいて何やってるんだかボクたちは」
「だな…シャワー浴びるか?
先にいいぞ」
「お。そういうセリフはもっとロマンチックな場面で聞きたかったな」
さて、雪だらけになって戻った二人の身体はすっかりと冷え込み。暖房の効いた部屋の中でもとても寒々しくなった。
だからそうして湯で身体を温めたのだが、その間にまた再び雪は降り始めてしまっていた。さっきまでの雪かきが、無駄なほどに。
そしてその降雪を見て、思う。
「…これ、お前帰れなくないか?」
「いやいや、一応帰れなくはないよ。
超無理してこの雪の中を走り回ればだけど」
…温まった後に。もう一回この、殺人的な寒さの中を歩いて帰る。想像をするだけで、残酷な所業だろう。
どちらもが同じ事を考えついて、固まる。
ふぅー、と意を決したようにクジョウはシュウの目を見て。そうしてからしなだれかかり、少し冷や汗を垂らしながら言った。
「……ねえ、ボク今日は帰りたくないな。このままずっと一緒にいようよ、今日は。ねぇ、ねぇ」
「そういう言葉はもっとロマンチックな場面で聞きたかったぞ、俺は…」
…そうして、その日は布団を譲る事となる。
そしてまた珍しい事に。
なんだい、ボクだってもっとロマンチックな状況でねぇ、と。そんなことを口の中で抑えるように、ぶつくさと言う姿が見受けられた。