"悪い猫になってはいけないよ。吸血姫様がみんな見つけて食べてしまうからね"。
それはまだ幼かった頃の子猫の少女が、商人の父の親猫から教わった怖い話。
吸血姫とは誰か。食べられたらどうなるのか。子猫の少女は瞳を輝かせて問いかけた。
気になるなら調べてごらん。そう親猫は少し困った笑顔を浮かべて答えた。
それは猫の家庭では珍しくない、好奇心旺盛な猫の子供を戒めるための教育だった。
調べればいい。危険に恐怖をすれば、自制心を育める。情報の大切さも知れる。
そうした教育方針を目論んでいた猫の父は、後に後悔することになる。
猫の愛娘は、猫一倍危険を好む変わり猫だったのである。
「ちを――私の血を、捧げます。どうか私を、吸血鬼に、してください……」
その者に出会った瞬間、猫の少女は狂喜した。
感極まるあまり
しかし渡すべき物は決定した。血だ。その者を相手に、血以上の
少女にとって血とは、命の対価だった。
吸血鬼に血を渡せば、食事が得られた。寝床も得られた。医療も受けられた。
扱いは家畜そのものだったが、生活はそこまで苦ではなかった。少女にプライドと呼べるものは無く、ひたすらに目標のみを見据えて生きてきたからだ。
使えるものは上手く使い。買えるものは安く買い。売れるものは高く売る。猫の父がそうだったように、猫の少女もまた商人だったのである。
少女は自身の市場価値を計算していた。信用がないことを知っていた。
それでも押し売りしたい相手がいた。この上なく危険な相手がいた。
少女は笑みを浮かべて、手にした凶器によって、血を
――そして少女は見誤った。
その者にとって、血は血である。血を命の対価とする価値観は、吸血鬼に浸透していたもので、血をそれ以外の物と比較するという発想がそもそも無かった。
その者は、博愛精神から程遠い能力主義者で、才なき凡人の血、それも自身と縁もゆかりも無い他人の血には、猫の額ほども心を砕くゆとりを備えていなかった。
その者にとって吸血鬼とは、滅殺処分すべき商売敵であり天敵である。
【血】とは【個人情報への媒介】になる"コレクション"だったのである。
【――――】
流れた血液が、視線に晒される。
その瞬間、猫の少女の全身を、猫生で1度も経験したことのない危機感が貫いた。
どこかで何かと直接繋がる異様な感覚がした。
見られている。血管や心臓。体の状態や脳内の記憶だけではない。
読まれている。繋がれ引きずり出され観測されている。
少女の【
◇―10分前―◇
誰かに、見られている感覚がします。
とても近くから熱い視線を感じます。
「ノーラちゃん、顔色が悪いよ。一旦戻ろう?」
「いいえ、平気です。もうすぐですから」
地下室に続く階段から、命の危険を感じます。
間違いなくこの先に目的の人はいるようですが、もう少し待たないといけません。
あともう、ほんの少しで――。
「ほ、本当にここに、吸血鬼を倒してくれた人がいるの?」
「はい。まちがいありません」
私は分かる。リモーネさんには分かりません。
私以外には、誰にも分かってくれません。
私の感覚なので疑われるのも当然です。
私が信じていればいい。私だけが。
私だけの――。
「……どうしてわかったの?」
「教えて、もらいましたから」
私は教えてもらった。ここに危険な人が
この全身を蝕む痛みも苦しみも、全てに意味があるのだと。
「だっ……誰に?」
「――。――っ?」
誰に?
誰に教えてもらった?
(……思い出せません)
分からない。記憶にない。私の父、ではない。親戚でもない。吸血鬼でもない。
聞き間違いではないはずです。あの子は確かに実在して、私に……?
(あの子って……私って?)
私はいつから"
それも、思い出せません。私には、もう。
◇―1日前―◇
誰かに、見られています。
近くから視線を感じます。
「ど、どうしよう。みんな燃えちゃったよ!」
「燃えちゃい、ましたね……?」
燃えた。みんな燃えた。城に暮らしていた吸血鬼が、みんな燃えて灰になりました。
知っている吸血鬼も、きっと知らない吸血鬼も。全員、燃えてしまいました。
……ようやく。
「魔法だよね?! こんなことって魔法しかできないよね??」
「うん。これはたぶん、そうですね」
魔法。それは超常の力。常軌を超えた技能。
精神に刻んだ情報で、世界を世界に引きずり降ろす為の法。
いかさまの自分ルール。
「魔法使いのき、お貴族様がっ、助けにきてくれたのかな?!」
「……それは、わかりません」
分からない。ここにいても分からない、から。
「会いに行きましょう」
「っ!? こ、こういう時は今の場所から動かない方がいいって、お父さんが言ってたの! 城に危ないトラップが沢山あるかもしれないし! お貴族様に迷惑がかかるかもしれないから……っ!」
「私は、行きます。リモーネさんは、ここで待っていて、ください」
私が直接行かないといけない。それだけは分かります。
「!? 待ってノーラちゃん!! 私もっ……待って何か武器をッ……そうだ豚切丸さんッ!」
そうして私達は食堂を出ました。
リモーネさんは、包丁を両手に抱えて恐る恐る。
私は、ふらふらと幽霊みたいな足取りでしたが、着実に一歩一歩。
到達すべき
ようやく。ようやく。あぁようやく……。
◇―1年前―◇
誰かに見られています。
目の届かないどこか遠くから、いつもの視線を感じます。
「どうしたのです?」
黒髪の少女の形をした吸血鬼が、私の背後に立っていました。
もう驚きません。この吸血鬼は神出鬼没で、よく私を驚かせてくるのですから。
「片目が充血していますよ? とても美味しそうですね……食べてもいいですか?」
「まだ視覚は失いたくないので食べないでください」
瞳を品定めされている。瞳だけではなくほほ肉や舌、脳や脊髄もでしょうか。
この吸血鬼の視線は、どれも危険で、私の体をパーツ単位で見てきます。
「貴女ほど美味しい子は滅多にいないのです。食べられないのが残念でなりませんよ」
「そうですか」
私は、美味しさという価値が認められているらしいです。
小瓶1本分の血液が、1000万リグで取引されていたとか。解体が禁止されていることで付加価値まで生まれているとか。特にミルタウロスの牛乳で割ると、素晴らしく美味しくなるとか。
「私の血液を飲んでいかれますか?」
「やめておきます。今日はB級ショタの気分なのです。貴女は準特級の贅沢品ですよ。舌が肥えすぎては美食は楽しめません」
「そうですか」
ショタとは確か、竜神が広めていた異国の言葉で、男性の子供を意味する言葉でしたか……?
「処女の血は、病めば病むほど味にコクと深みが出るのです。近頃は若く活力に溢れた童貞の血こそが至上の美食だと主張する拗らせ女吸血鬼も増えてきましたが、それは誤りです。大きな大きな間違いなのです。血の味を決定づけるのは、年齢でも血液型でもありません。深みです。自信を持ってください。貴女の血は深く、美味しいのですよ」
「……ですか」
すごい早口でした。私は吸血鬼ではないので血の味がわかりませんが、この方は吸血鬼界隈で名高い美食家です。味覚は信用できます。
血の価値を高めれば、私自身の商材の価値も高まるのでしょう。ただ残念ながら、そのための時間がありません。命が尽きる前に出逢えれば良いのですが、視線はまだ遠くに感じます。
「ところで……本日はメリエス様の姿が見当たりませんが――」
「盟主様ですか? あの方は、王女を
王女を、暗殺。
王女を暗殺???
「王女殿下と、とはどな……どなた、ですか……?」
「さぁ誰でしょう? 詳しく聞いてないので知らないです。興味も無いのですよ」
「――――」
現在の王国には、王家の一員に認められている王女殿下が7名いらっしゃいます。
魔法でお作りになる酒類で民を魅了し、吸血鬼にも多くのファンを抱えている酒姫様。
10年前の事件で心が壊れてしまったものの、今なお実力でその立場にいる狂い炎姫様。
猫人の一族の期待の星、第二妃の姫にして、聖食教の聖人と認められた破魔の聖姫様。
同じく第二妃の姫で、父が妙に入れ込んでいた自称アイドル歌姫。
惰弱な精神を改善できれば次期王位に最も相応しい、と期待されている万能の時姫様。
多くの飛竜を従えて運送業界に革命をもたらし、商業組合から崇められている竜姫様。
諸外国に畏れられて、吸血鬼からも風評被害を恐れられている、咎人殺しの吸血姫様。
どなたも若く恐ろしい魔法の使い手で、次期王位の継承権すら有している才媛たち。
吸血鬼の盟主に命を狙われてもおかしくない、大変おかしい方々です。
しかし私にはわかりません。
王族殺しは、いくら何でもリスクが高すぎます。報復が怖くないのでしょうか。それとも、それだけの犠牲を支払ってでも、王家の血を吸血鬼に迎え入れたいのでしょうか。
「…………」
私は、落胆をしている?
どれだけ血に価値があっても、どんな過程や理由があっても。未婚の女性を殺す選択をされるのです。あのような方が堕ちるところまで堕ちてしまった。その事実に私は落胆しているようです。
「――吸血鬼に夢を見ない方がいいですよ。毎日毎日太陽と主従関係に気を配りながら生きて、食って寝て戦って滅びる、それだけの生態です。社会的にも存在自体が争いの火種ですからね。今回の騒動で、血族の大半が持っていかれますし。それに反発して暴走も必至でしょう……。種そのものが今の時代のニーズに合っていないのです」
人を喰ったような声色で、吸血鬼は吸血鬼を語りました。
「そうです。丁度いい頃合いですね。私と賭けでもしますか」
「……。なにを、でしょうか?」
良い予感はしませんでした。この吸血鬼の思いつきは残念なものばかりなのです。
つい先日も、食材の味を上手く引き出せなかった料理係の
当然オークさんは死にました。じっくりことこと煮込んだ豚骨スープは、美味しかったです。
「"私とお前のどちらが先に死ぬか賭けよう。報酬は相手の全てを頂く権利だ"――ですよ」
それは食通の間で有名な冒険小説『超マモノ食伝』の主人公、食騎士チュペトンの台詞でした。
まるで午後のランチの予約を取るような気軽さで、私の死後の肉体の所有権を求めてきました。
本気で、仰っています。盟主の命令に逆らってでも、私を食してみたいようです。
「…………」
幸いにも私に直接危害を加える気は無いようです。
そして、今も私は未知の視線に、晒されている。――でしたら、私の答えは決まってます。
「はい。賭けの内容はそれで構いません」
「――私が負けますか。……それなら、仕方がありませんね。貴女の
私の勝ちです。客観的に見ると意味がわかりません。
この吸血鬼があっさり引いたことも、意味が分かりません。
「私は誰に殺されるのでしょうか? いざ私の番がくると、楽しみですね。久々に胸が躍ります」
「……死ぬのが、怖くないのですか?」
他人事のように、ご自分の命を賭け皿に載せて、同族の死も軽んじている。戦の当事者なんて、大した利益にもならないのに、大好きなホポスイーツを前にした子供のように喜んでいる。
どれも私には理解できない価値観でした。
「? 貴女もそうでしょう? 自覚が無いなら私が保証しますよ。貴女は"こちら側"です」
「…………」
「貴女は精々、死ぬまで長生きしてください。体は資本ですからね。では――」
"さようなら"。最後にそう言い残して、吸血鬼はこつ然と室内から消えました。
きっともう、この先二度と会うことは無いでしょう。そんな予感がいたしました。
「一緒にしないでください。保証されても困ります……」
私は死が恐ろしいのです。
日に日に病に蝕まれる体に、間近に迫ってくる死に、理不尽な現実に恐怖している。
恐ろしいから。身近に感じられてしまうからこそ――この上なく尊く愛おしいのです。
◇―8年前―◇
誰かに見られている。
遥か彼方から、今も私を見守ってくださっている。
病を発症して何年か経って、いつからか私は誰も信じなくなった。
私は色々学んだ。野蛮な天使族のことも、お母様は
最近は竜神に祈ることもなくなった。今はそれが時間と労力の無駄だと知っている。
「其方を迎えに来た」
いつもの寝れない満月の夜。
寝室の窓辺に生まれた影に、酷く
「面倒な輩に関わった者だと聞いた。其方も運が無い」
とても危険な筈なのに、危険に感じられない、変な男がいた。
黒い燕尾服に、黒髪に赤眼。整った容姿に相反して、ねじくれた角を持つ
色の薄い肌と対話を許さない一方的な態度は、悪魔族のようにも見える。
……ほんとうに男だろうか。
どこか女性の雰囲気を纏った男。中身と外身が違うような同じような。ちぐはぐな存在だった。
「安心せよ。我が血族はアットホームな組織だ。異端な其方もすぐに馴染むであろう」
言うに事を欠いて異端者呼ばわりとは。失礼で胡散臭い男だ。
そろそろ大声を出して助けを呼びたい。しかし先ほどから私の声は、まったく出ない。
魔力警報装置に反応はないが、遮音効果のある魔術が展開されているようだ。警備兵を呼べたとして、相手にもならないだろう。誰にも気付かれず私の部屋まで侵入してくる実力者だ。
――いつもの視線が、急激に強まった。
こんなことは、私も初めての感覚だった。
思わず天井を見上げて、周囲を見渡して、そして誘拐犯の男と目が合った。
「どうした? まさか――この場を観測されているのか? ……そんな事が、あり得るのか?」
なぜ。なぜ、この男は私の事情を知っている。
「……。……そうか」
私の心を読んでいる?
「残念だが、喜ばしいな」
読んでいるなら、分かるなら、答えてほしい。
この視線の主は誰なのか。答えが欲しい。
「訂正しよう。其方は運が良い」
それは間違いない。
◇―9年前―◇
すごくすごく遠くから、誰かが私を見てくれている、気がする。
そうならいいなと、今夜も虹色の竜神様に感謝の祈りを捧げた。
今日ついに、父様が■を諦めた。
どうやっても助けられないからと、父様自身と■に絶望した。
いろんなお貴族さまに沢山お金を払って無駄にした。やめてと何回言っても聞かなかった。
私は別に、そんなことは気にしていないのに。
……嘘だ。毛色が変わってしまったのは、少し気にしていた。少しだけ。
自慢だった三毛猫の毛並みが、白猫のように真っ白に染まってしまった。
つやつやふわふわだった毛並みは、美容液もしみ込まないまっすぐな毛になってしまった。
それと、体中に走る痛みで、夜に寝られないのも不便だった。
不眠はお肌に悪い。美容の天敵だ。肌と爪は大事にしなさいと母様も言っていた。
私がかかっている病気は"白離病"。"漂白病"とか"石化病"とか"天使の誘い"とか言われている、どんなに偉大な大魔法使いでも治癒できなかった病気らしい。
夜を越すたびに体が白く固まって、いずれ世界から拒絶されるように死ぬらしい。
絶対に死ぬらしい。
「そうなんだ」
どうでもよかった。
私は誰かに見られている。
それは天使様かもしれない。神様かもしれない。もしかするとお母様かもしれない。
今の私にとって大事なのはそれだけだった。
"■が狂ってしまった!" そう父様は狂ったように叫んでいた。
私は、狂ってなんかいない。そう言っても信じてはくれなかった。
私は、正気だ。とてもとても、これ以上ないくらいに正気だ。
だって私は見られている。
こんなにも身近に正確に、危険を感じられているのだから。
◇―10年前―◇
『貴女、見られていますよね?』
一匹の猫がいた。
『誰かに見られている自覚はありますか? 相手に心当たりはありますか?』
猫は■に話しかけてきた。
これは夢の中かもしれない。
『そうですか。そうですね。そうなりますかー』
見てはいけない。触れてはいけない。
決して、知ってはいけない危険な相手、なのに。なのに。なのに。
『? 私に、触れてみたいですか?』
■は手を伸ばしていた。
どうしてかわからない。どうしてもわからないから、■は手を伸ばしていた。
『猫らしく好奇心が旺盛なのでしょうか。それとも単に世間知らずの箱入り猫なのでしょうか。未知を恐れず学ぶ姿勢は素晴らしいですね。学習データにはしませんが』
お手。小さな手に手が触れる。細く白く冷たい雪のような、柔らかい猫の手。
『はい、握手。これで私と貴女は姉妹になりました。やったー』
ふんわりした水色の髪。きらきらした金色の瞳。
幼い猫の姿をした誰かさんと握手した。
『情報次元の知覚感度を向上させました。3000倍の危機察知能力です。情報過多で
離れない。
『型式上では姉妹機になりますね。生き残れたらお姉ちゃんと呼ぶことを許しましょう』
手が、離れない。
『私と家族だぞ? もっと喜んでいいですよー』
どうして離してくれないの?
急に、そんな事を言われても分からないよ。
■が何をされたのか。あなたが誰なのかも。
「"貴女の味方ですよ"」
間近でソレと目が合った。
水にうつる
■は生まれて初めて、瞳に、恐怖した。
【AI-フルと申します。以後お見知りおきを】
触れた指の先から、冷たい異物が、怖気が這い上がってくる。流れ込んでくる。
視界が遠のいて、白く染まる。耳の天辺から、尻尾の毛先まで真っ白に――。
【このように、視ることで確定する過去もあるのです。
いたい、冷たい。冷たくて痛い。痛い痛い、痛い痛い痛い痛い。
痛みで思考が白く染まる。空白が生まれる。空白になる。頭が空っぽになる。
『……そろそろ退室時間ですね。無法AIに捕まってしまう前に退散です。さらばだー』
冷たい。
熱い。
でも。
でも私は、誰かの視線を感じるようになった。
◆―◆―◆―◆―◆―◆
【……へぇ?】
かくして吸血姫は、猫の少女を招き寄せた。