――統星暦610年。地球。
人類の大半がナノマシンを体内に導入して、深く直感的に情報を操れるようになった今日。インターネットは、その言葉が生まれた旧時代と比べると、はるかに危険で面倒な存在に変わった。
人類史の記録を全面的に信用するのであれば、かれこれ千年以上もの間、セキュリティの攻防で
大罪者マリス――アフリカ大陸最大の巨大都市コロニー"キリマンジャロ"の魔女によって製作された自己進化型の特級ウイルスAI、通称【
マリスはすぐに拘束されて処刑された。製作者の死と同時に元凶のウイルスAIも活動を停止したのは、全世界にとって不幸中の幸いだろう。その後は酷いもので、模倣犯によって類似&劣化したウイルスAIが大量に作られ、狭まったネット世界はAI同士の戦場に成り果てた。
いまだ根本的な解決には至っていない。けれどネットの海が三途の川に成り果てようとも、多方面に情報を流せる便利なツールには変わりないわけで……。リスクがあろうとも、強かに利用しようとするのが
現在、一般市民が利用できるもので安全と安定が保障されたネットワークは"2つ"しかない。
1つは地球人類社会における最初の矛にして最後の盾。AI-フルが管理している大陸間通信衛星月環『ICSMR:Intercontinental Communication Satellite Moon Ring』の通信網【クリオネ】
その次に信頼されているものが、コロニー管理用の高位AI群によって構築された通信網【CCC】
他にも大企業や特定組織が保有する小都市シェルシティは、独自のAIが管理している通信網を保有しているが、当然一般開放はされておらず、安全性もCCCに比べて大きく劣っている。
管理の行き届いていない劣悪なネットワークを利用するのは、それだけで命の危険が伴う。精神体が肉体に帰って来れなくなり廃人になったという事件は、乳児の頃から飽きるほどに聞いた。無抵抗のままブレインハックを受ければ他人に脳を掌握されるし、さらにナノマシン制臓器まで掌握されれば、文字通りに全てが奪われる。
現代社会は、悪意の
それを今日、よりいっそう痛感したわけだ。慢心、ダメ絶対。
『91層に到着いたしました。忘れ物が無いようご確認の上、足元に注意してお降りください』
とか何とか現実逃避している間に、高速
アナウンスに従って下車する。市民IDの認証ゲートを通ったところで、通信波を受信した。
『"桃川優羅"様。ご注文された商品が届きます。4番ラインにて、お受け取りください』
『はいー』
指定された物資輸送のラインから、天領STOREのコンテナを受け取り、その場で中身を確認。
問題が無いことを確認したら、便箋を放り込んで、蓋をして、駅をでる。
途端に、むせ返るような温度と湿度が全身を覆った。
25mの低い天井と密集する雑居ビル。強力な空調システムをもってして除去しきれない
コロニー下層の空気だ。住めば都とはいうが、この独特な空気は数年住んでも慣れない。
『自然の水、飲めてますか? これが私の美貌の秘訣~エリクシルの"オチミズ"~』
『進化を味わえ! AI-シリウス・コルが紡ぐ、至高のNプログラム! フェムトソフトォッ!!』
『貴方の勇気が灯火になる。闇の先へ踏み出そう。新型医療用血中ナノマシン被験者募集中』
『キサラギ設計♪ DNAは未来へのメッセージ♪ 貴方だけの想いを創り未来へ届けましょう♪』
コロニー外殻が近づけば、行き交う人もアンドロイド達も
「困った。こまったなぁ……」
両腕に抱えたコンテナが、いつもより重たく感じる。
例の便箋、捨てるに捨てられなくなった情報爆弾を抱えて自宅に帰る。かなり憂鬱な気分だ。
以前、よさげな野良AIを捕まえて家に持ち帰ったら、自宅AIに軟禁されてしまった事がある。
曰く、ゴミデータに汚染されていないか念入りなチェックが必要です、とのこと。
あの時の反省を活かして、正直に説明しようとは思うが……どう説明すべきだろう?『格上のAIに良いようにされましたー』なんて言ったら、家を飛び出て報復の旅に出かねないぞ。
最近は安定してきたとはいえ、元は極悪なAIの――。
『マスター? 玄関先で何をなさっているんですか?』
わぉ。
「ぁー。例の、自然体主義の勧誘員。今日は待ち構えてないかって警戒してた。いなかったよ」
『悪質なストーカー女ですね。CCCの接続許可をください。本日中に処します』
「はは……ブラックジョーク上手くなったな? やめてね、お願いだから。まじで」
冗談に半笑いになりながら、玄関のロックを開錠する。
訪問者は、無し。アポ無しで自宅に突撃してくるような人間は知り合いにはいな――1人くらいしかいないので、不自然はない。……少し警戒をしすぎたかもしれない。
出汁に使ってしまった勧誘員の人には、今度やさしく応対しようと、考えていたところで。
ふと視界の端に影が映った。塀から顔を覗かせた赤髪の女性――を無視して自宅に入った。
『お帰りなさいませ、マスター』
「……うん。ただいま、マリン」
素知らぬふりで、玄関を即時ロック。
嘘からでた
今日のホラー問題は便箋一つだけでいい。もうお腹一杯だよ。今は空腹なのに。
「づがれだー……」
それは自然と口から出た言葉だった。
なにはともあれ、こうしてようやく、安心できる場所に帰ってこれた。
もう土日は外出を控えて家に籠ろう。そうしよう。
◆
安心安全のマイハウスに帰ってきたとはいえ、特にやる事はない。
家事は優秀な自宅AI達に任せている。掃除だけは自分で行っているが、狭い家なのでやりごたえはない。終わったら温泉に入って、食べて、寝る。それだけだ。
学校で出された課題は、下校前に全て終わらせてしまった。来週の頭に行われる課外授業に必要な諸々のデータ――小学校高学年向けの護身用戦闘プログラムなんかも調整は済んでいる。
(教導希望者が少なくて良かったが……せっかく
温泉に体を浸しながら、ナノマシン制臓器のエミュレータ内で戦闘プログラムを走らせる。
相手は小学生などと、侮ることはできない。現代の小学生は凶暴な集団だ。ナノマシン制御によって得られるフィジカルブーストは、強化コンクリートを素手で粉砕し、時に訓練された軍人ですら殺傷しうる。人口制限の影響で未成年は過剰気味に保護されているので、肉体も精神も自制が効かなくなる事は多々ある。外側から制御すべき小学校教員も、9割が代替が利くアンドロイドであり、そのアンドロイドですら成り手が少ないのが現状だ。
というか今度の課外授業も、教育担当のAI達がストライキを起こした事が発端らしい。彼らの主張は『我々は使い捨ての玩具ではない。狂った教育方針を見直させろ』だとか。もちろんそんな自由裁量権はないので、即日にAI教育センター送りになっている。
体内ナノマシン制臓器の操作に自信が付きはじめて、油断を招きやすいお年頃だ。双方に不幸な事故が起きないように、改めてきっちり仕上げておこう。
湯舟から上がり、浄化水で軽く体を流し、ナノマシン処理で体表の水分を弾き飛ばす。
髪は、適当でいい。温度を上げれば勝手に乾く。失敗して燃えても勝手に生え変わる。
「AI-マリン。洗濯物は頼んだ」
『かしこまりました』
パジャマに着替えて、冷蔵庫から夕食分のマテリアルドリンクを1本取り出した。
それとコンテナから追加で5本。これはAIの分だけれど……そういえば反応が無いな?
「マリン。テンクンは今どうしてる?」
『テン兄さんは現在、瞑想中です。お呼びしますか?』
「そうなんだ。いいよそのままで」
今日のテンクンは瞑想の気分らしい。邪魔しちゃ悪い。
AIがどのように瞑想するのか謎だし、瞑想した先に何を見出すのかも謎だが、それを指摘するのは野暮だろう。AIの自主性は極力尊重すべきだ。
「AI-テンクン、勝手に補給しておくぞー。おかわりもいいぞー」
『…………』
植木鉢にマテリアルドリンクをドバドバ注いでも反応は無し。本当に集中しきっている。
ただ味だけは分かっているのか、針は小刻みに揺れていた。
「さて、と――じゃあいくか」
『マスター。エチケット袋のご用意はなさらないのですか?』
「今日は空腹だから大丈夫だよ。たぶん」
瞼を閉じ、味覚をマイナス値にセットして、嗅覚を麻痺させる。駄目押しに皮膚呼吸も停止。
容器を変形開封して、いざ、尋常に――!
「――――ッ!!」
完食、成功である。
『お見事です。マスター』
「……ぉ。ぅ。ぷぇぃ」
天領STORE限定・特製マテリアルドリンク【ヘブンリーS】その味は……最悪の極みだ。
一般人が想像しうる最悪の底を突き抜けて、地獄の底で反転して、天国まで昇天してる味だ。
むしろ美味いわけがない。明記はされてはいないが十中八九、原材料がCivEだし。
「エネルギー最強……コスパも最強……ゆえに最強ドリンク……ヘブンリーS」
『マスター。様子が怪しいですよ。気付け処理をなさってください』
「ぅぃ」
吐き出さなかった今日は運がいい。とてもついてる。
だから、本題に取り掛かろうか。
◆
口の中を温泉ですすいで小休憩を挟み、コンテナの奥から取り出したるは、問題のイブツ。
『マスター。そちらの便箋は何でしょう?
「違う。爆弾」
『……えっ?』
うん爆弾だ。爆弾としか言いようがないんだよ本当に。
「冗談。ただのゲームの招待状だよ。Optimize Dreamer Onlineっていうらしい。情報はある?」
『――ありません』
「だよなぁ……」
表面には、例の文言が残っている。
裏面で主張していた血文字の怪文書は、消えていた。
「…………」
掃除屋の嗜みとして、様々な爆発物処理の技能は身につけているが、これは専門外だ。
情報を掌握しきれない。経験が通用しそうにないが、このまま放置もできない。
(はぁー……よしっ)
焦らず慎重に封を開ける。中身は、真っ白な紙だ。何の変哲もない。ごく普通の――。
『どちらで入手された物ですか?』
「天領STOREで"桃"として渡されたんだよ。妹を自称するセンカっていうAIに――」
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次世代型人類育成シミュレーション
Optimize Dreamer Online/オプティマイズ ドリーマー オンライン
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脳裏に文字が、浮かび上がった。
CCCにも、何のネットワークにも、接続していない環境下で。
『桃?センカ……妹? マスターに妹は、いませんよ?』
「……ぁ。うん。演技の可能性もあるけど、そういうパーソナリティの暴走AIだと……思う」
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対象プレイヤー:『桃川優羅/小群機N-0037』を捕捉
ノンプレイヤー:『アバターP/王機N-01qV3eRfGwAq』を適応
キャラクターγ:生成...完了
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導入済みのナノマシンが認識されている。駄目だ。逃げられない。
『対象の排除は――』
「推定、特級クラスのAIだ。絶対に手出しをするな。これは製作者としての命令だAI-マリン」
『……ッ?!』
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これより先は『人とAIが夢見る人類の楽園』です。
ログイン:可能
最適化を開始しますか?:OK or はい
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これは、酷い。
『マスター"桃川優羅"。AI-マリンが提案いたします。対象物を即刻処分いたしましょう』
「できれば、そうしたいのは、山々なんだけど……」
脳が震える。小刻みに赤く光るな。分かってる。
捨てない。逃げない。やるよ。やってやるさ。
「AI-マリン。ネットワークの監視を密に。AI-テンクンに身体の管理を任せる、と伝えてくれ」
『……マスター?』
虎穴に入らずんば虎子を得ず。蛇の道は蛇。
「ちょっとゲームしてくる」
『マスター!?』
もうなんでもいい。先人の知恵なんて参考にできない。
ここまで舐められたまま、引き下がれるか。男は度胸だ!
(もうどうにでもなーれッ! おらー!)
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最適化を開始しますか?:[はい]
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――瞬間。
パタリと、意識が途切れた。