『血塗られた月のクドラク』〜余命わずかな病を克服するため、闇の王へと堕ちる話〜 作:人見 広介
大型ガレー船が波の間を分け入り、ぎいぎい揺れながら海を進んでいく。
飛沫に濡れた甲板の上には、少年と少女がいる。その他には誰もいない。
――いや、隅に転がっている瀕死の業魔なども勘定すれば、およそ十数匹はいるか。
(……さっきので三度目の襲撃っスか。夜番が退屈にならないのは、いいことっスけどねえ)
少年――リトー・ソバキンは、マストに身をもたれながら、盃を口に運んだ。
霊草を浸した薬酒が、精神を研ぎ澄ませ、眠気や傲りなどの雑念を祓っていく。
冷たい星々の光すら、息づかいのように肌で感じ取れるほど、感覚は鋭敏になっていた。
(……海に棲む業魔はそう多くない。陸の方が餌となる魂が多いっスからね。このだだっ広い海面で業魔に会う可能性は、そう高くはないスけど……)
本日三度目の襲撃は、ケルピーとスライムの混成集団だった。合わせて三十匹程度だったか。
細長い船体に飛びつき、遮二無二、漕ぎ座へと突入してきた。甲板に飛び乗って、船内を目指そうとする者もいた。
どれも例外なく殺したが、漕ぎ座にいた『聖林』謹製の木造ゴーレム達が何体かやられた。
「……ニーナさん、どうっスか?」
「駄目ねー。記憶を抜き取ったけど、大した情報は持ってなかったわ」
甲板の縁にいた少女が返答する。
青白い長髪を風になびかせ、オーロラのようなマフラーをなびかせる少女だった。
氷のカーテンじみた蒼白のワンピースが、やけに寒々しい。夏場のような軽装だった。
彼女の足元では、絶命したケルピーが虚空へと消えていく。襲撃者のうちの一匹だ。
少女の手元には、氷の結晶が握られている。
「知能が低すぎる。与えられた『命令』にただ従っているだけで、その背景を知らない」
「命令した奴は、ヴォジャノーイっスか? ここらの主と言えば奴らっスけど」
「ご明察。こいつらは使い捨ての尖兵ね」
ヴォジャノーイは半魚人の形をした業魔で、『獣の海』付近に棲息している種族だ。
他の業魔を飼い慣らし、猟犬のように使役する程度の知能を持つ。
よく商船や漁船を襲ったり、港湾都市の狩人と小競り合いしている。
「子飼いの連中に命令して、無軌道に暴れ回らせていたようね。いつもの魂狩りかしら?」
「……にしちゃ、『監督役』の半魚人がいないんスよねえ。何匹かは猟について来るはずなのに」
人間の狩人だって、猟犬だけに獲物を任せたりはしない。飼い主が猟をコントロールする。
ヴォジャノーイとて同じだ。格下に命じて狩猟させる時は、必ず現場監督も付き添わせる。
でなければ、獲物の魂をつまみ食いされる。
「だから、野良のケルピーがスライムを連れてきたのかとも思ったんスけど……そうではないと」
「半魚人共の姿が見えない理由、わかる?」
ヴォジャノーイがいつもとは違う狩りをする理由……はて、何が思いつくだろうか。
いや、発想を転換させるべきかもしれない。
「……そもそも狩りじゃない、とか。海を荒らすことだけが狙いなのかも」
これなら統率する必要はない。最初から魂の収集など二の次なのだろう。
「でも、なにが目的でそんなことを……ヴォジャノーイ共のメリットが見えないっスよ。子飼いの連中をいたずらに失わせるだけのような」
損得勘定があわない、とリトーが呟く。行商人らしい発言だった。
対する少女は、他に転がっている業魔の下へ行きながら、楽しげに推測を口にする。
「海に目を向けさせて、本命の『催し』をブチかますつもりじゃない? どこで何が起きるか、どれぐらいの規模になるかは知らないけどね」
催し。皮肉げな言葉だ。
暗にド級の業魔災害――『狂奔』のことを指している、とすぐに勘づいた。
「でなきゃ、わざわざ狩り場を横断する
「……実際、海が荒れすぎて、船出を見送る漁師や商人が増えているっスからねえ」
『獣の海』沿岸部の都市は、冷え込んだ商取引や漁を再開しようと躍起になっていると聞く。
懐に余裕のある商会なら、商船につける護衛の量を増やす所もある。
話し相手の少女も、護衛として雇われたクチだ。
狩人達が海に集おうとする分、陸地での狩りが多少おろそかになる所もあるはずだ。
不意打ちで事を起こすには、いい環境だろう。
「……そう言えば、連中が方々で奴隷を買い漁っているらしいっスね。大規模な仕入だと」
「どこからの情報?」
「一カ月前、野盗に夜襲された時に、頭目がぺらぺら喋ってたっス。……商品を強奪した後に、手前を半魚人共に売るつもりだったらしいっスけど」
ヴォジャノーイのような知恵の回る連中は、ごろつきや人さらいを御用商人として抱え込む。
リトーが遭遇した手合いも、そうした奴隷売買業者を兼任していたようだ。
金払いがいいらしく、奴隷商人にとってはお得意様なのだと聞く。
「へー、大変だったじゃない。そいつらは?」
「細切れにして、土の肥やしにしたっス」
「ふふ、行商人のやる事じゃないわね。……まあ、境遇を考えればしかたないこと、か」
【ギイイッ】と鳴くケルピーの頭部に、少女は指をうずめる。記憶を抜こうとしているのだ。
胸に溜まっていた澱みが、業魔の絶叫にいくぶんか解消させられる。
(そりゃそうっスよ。
リトーは狼領マルザンナで産まれ、尊敬できる人達に囲まれて育った。
――あの日、人さらい共に拉致されて、奴隷として売り飛ばされるまでは。
その頃の古傷が、今でもかすかにうずく。
(……黒仏氏族の皆と会えてなかったら、今でも奴隷のままだったっスね。族長には感謝しないと)
奴隷として終わる生涯が、何の因果かサルトゥイク族長に拾われ、氏族の一人に招き入れられた。
この大恩には報いねばならない。
――怨念に囚われかけていた思考を、頭を振って軌道修正する。
今は、仕事の話に集中すべきだ。
「まあ、お父様が推測している通りなら……ヴォジャノーイが起こす予定の祭りも、他の国々で起きている業魔災害も、
少女が海の果てを見る。黒々とした水平線の果てに、かすかに光が灯っていた。
あそこに灯台があるということだろう。
「見えたわね。港街オキアンダールが」
二人の目的地は、まさにあの港町だった。
ハリストス楽園国北部、『獣の海』に面する陰鬱な港湾都市。
『百腕狩り』の老公「フセスラフ・マヤコフスキー」が治める狩人の地だ。
「あなたのお父君……冬の王は、あそこが一連の事件の発端だって言ったんスよね?」
「うん。各地で騒ぎを起こした業魔が、あそこへ集まっているって」
「……で、その何が起こるかわからない場所を、ニーナさんは物見遊山で観光しようとしていると」
軽くほおを引き攣らせながら質問すると、小柄な少女はあっけらかんと言った。
「だって楽しそうだし。何が起きるにせよ、生で見に行こうかなって」
「極楽とんぼ、ここに極まれりっスね」
「その極楽とんぼの旅について来たがったのは、あなたが初めてね」
狼領マルザンナの港町に彼女が来て、「オキアンダールに行きの船はあるか」と聞き回った時、リトーもその場にいた。
そこで彼女に船を紹介する代わりに、一緒にオキアンダールへ行くことにしたのだ。
「友達の手助けに行くんだっけ?」
「族長のご友人の、っスね。後からオキアンダール入りする方々がいるらしいので」
ニーナと会う一日前、サルトゥイク族長の使い魔が、リトーに指示を届けてきたのだ。
『自分の友人がオキアンダールに行く。探し物の手伝いをしてやってくれ』とのことだった。
文が出された段階では、その友人は草原地方で昏睡状態にあると言う。
大体の事情も聞かされた。病み上がりで死地に赴くとならば、手助けは必要だろう。
「サルトゥイクさんの友人かぁ……」
「おや、族長をご存知で?」
「お父様と飲み友達だもの。戦狂いのド変人ってことは知ってるわ。……その友達で、しかも私と同年代となると、お近づきにはなりたくないわね」
冗談めかした言葉に、何も言えず苦笑を返す。
実際、サルトゥイクが好むような人物は、どこかネジが外れている変人が多かった。
その友人も、英雄願望に憑かれた狂人らしい。
「けど、観光ついでにご友人に協力するのが、船を紹介してもらう対価だものね。忘れてはいないわ」
これが少女と同道している理由だった。
これから先の戦に備えて、フリーの実力者を抱き込んだのだ。
現地で何が起きるか不明な以上、味方は一人でも多い方がいい。
彼女の実力は、さっきの戦で見た。
吹き荒れるブリザードの中、『氷の花園』が霜の中から現れる神秘的な光景――。
実力に疑いの余地はないだろう。
「その人の名前を教えてくださる?」
「クドラク・スヴォロフという方っス」
「……へえ、有名な子ね。なるほど、サルトゥイクさんが気にいりそうなタイプか」
ぺろりと唇をなめて、少女は楽しげに笑う。
「そちらもご存知っスか。手前は族長から何度かお話を聞いただけなのですが」
「そりゃね。楽園公の秘蔵っ子、首級を上げまくっている死にたがりとなれば」
「最新情報によれば、お連れの方もいらっしゃるらしいっス。クルースニク・ヴォルスカヤという――こちらは説明するまでもないっスよね?」
狼領マルザンナの姫君――大狼ジーヴィッカが育てた北国の至宝だ。
元は狼領で産まれたリトーだけでなく、少女にとっても馴染み深い名だった。
「へえ、クルースニクも? あいつの友達なら、もちろん手助けするけど――」
水平線上のかすかな光を見つめて、しばし少女は考える素振りを見せた。
「……リトーはその人達と合流しなきゃならないんでしょ? 合流場所は決めてるの?」
「いえ。族長からいただいた地図に、その人達の位置情報が載っているので……合流できそうな場所に先回りしておこうかと」
現地で何が起こるかわからない以上、事前に決めた合流場所に行けないケースも出てくるだろう。
となれば、こちらから直接迎えに行って、会えるのが確実になったタイミングで接触を図りたい。
「ふーん。なら、私は単独行動するわ。先に二人に会ってて」
「へ? 一緒に行動しないんスか? ニーナさんが危険な時にカバーできないっスよ」
族長から話を聞く限り、タルサデューク公自体が業魔信奉者の疑いがあるのだ。
もし敵が公権力を握っているのなら、単独で事件をかぎ回るのは命知らずという他ない。
「業魔の活発度合いを見るに、もう事が起こるまで半月もないわよ。いつ何が起こるかわからない。あなた達が合流する間に、裏を探っておくわ。……クドラクって子の『探し物』も含めてね」
探し物――太古の蛇ヴェレスの欠片。
クドラクに死病を課した原因であり、彼を生きながらえさせる鍵。
幼い英雄を獣へと堕とす、最後の要素。
「業魔共の祭りが開かれたら、あちこちがドンパチだらけで探し物どころじゃなくなるわよ」
「しかし……」
「心配しなくても、事態の引き金を引くつもりはないわ。
手のひらほどの氷結晶を懐から取り出し、少女はリトーへ投げてよこした。
「へ? 殺されるっスか?」
「ふふふ、死に方の手本を見せるの。それにならって罪人は次々と私の後を追う。――くだらない企みを防ぐには、美しい悲劇で塗りつぶせばいいの」
楽しそうな少女の笑みに、虫をいたぶる時のような残虐さが滲み出る。
「ひと足早く、この地に冬が訪れる。冬の王女の死を悼むために。……私を殺した罪人は、まっしろな雪の中で次々と同じ死に様を迎える」
――そして、雪に塗れた舞台の上で、ニーナ・スネグラーチカは再び登場するの。
死んだはずの女が、あなた達を助けるでしょう。
その冷たい言葉が、少女の唇が紡がれた。
――――――――――――――――――
「……『何かあればこの氷に話しかけて。私の呪いがあなた達を手助けするから』って言って、ニーナさんは港町に去っていったっス」
御者台で馬をあやつりながら、リトーは荷台にいる自分達にそう説明した。
がたがた揺れる荷台の中で、午後の明るい日差しに照らされながら思案する。
現在、馬車は森の細道を疾駆している。木々の影を貫くように、一路に奥へと向かっている。
宿屋でリトーの荷物を回収した後、クドラク達はこの名もなき森へと誘われていた。
リトーが何やら見せたいものがあるそうだ。
「……意味、わかるかい? 死ぬことが前提の探索なんて聞いたこともないけど」
「わかるわかる。いつもの茶目っ気だよ。ニーナはそういうホラー的な演出が好きなんだ」
この短い金髪の少女は、今の話に出てきたニーナと友達なのだそうだ。
さっきまで焦りをにじませていた少女は、今はほっとした様子で積荷に背を預けている。
「あの子は――いや、永久凍土に住む人達は、気象みたいなものなの。肉の器が破壊されただけじゃ、彼らは死なないよ」
「……そんな人間がいるのか?」
「人間と言えるかは、微妙なところじゃないかな」
クルースニクは少し言い淀んだ。
「雪の結晶なんだよ、本来のニーナは。極寒の環境でしか生きられない。その縛りを克服するために、肉の器に入って遠出しているだけ。――器が壊れたら、手近な動物を器に
慣れている風の彼女にはともかく、初耳のクドラクにとっては不気味な内容だ。
「そういう存在だからかな、ニーナは死や狂気を観察するのが好きでね。……大規模な業魔災害が起こる時は、たまに現地へ遊びに来るの」
「……死神みたいな子だな。ここに来たのも、その酔狂からかい?」
「だろうね。まあ、よく現地の狩人に手助けして、被害を抑えているから……いい子なんだよ?」
確かに、今回もクドラクの手助けをしてくれるようだし、律儀な一面はあるらしい。
そもそも、他人の悪意に敏感なクルースニクが、「いい子」というのだ。
人物評は外れていないだろう。
「でも、ニーナが連続殺人犯かあ……捕まったっていうのが不安だけど――」
「たぶん嘘っス。クドラクさんの横に、氷の結晶があるでしょう? 覗いてみてください。――【十二番の映像を表示しろ】」
リトーが振り向いて指示を出すと、クドラクの側に置いてあった青白い氷結晶が光る。
手にとってみると、手のひらサイズの平べったい氷の中に、ある光景が浮かんでいた。
――胸の中央を杭で貫かれた、長い白髪の少女。青白いワンピースは血で染まっていた。
石造りの床に放り出されている姿は、明らかに死後のものだった。
「……これは?」
「ニーナが作った氷――というか、体の一部を加工した端末だね。好きなものを映せるんだよ」
「ご覧のとおり、肉体は死亡済みっス」
あっけらかんとリトーは言う。知人の死を口に出す時のノリではなかった。
「ただ、体内に入っていた『氷の結晶』自体は、敵兵に寄生中とお聞きしたっス」
「つまり、今のニーナの本体は、業魔を乗っ取っているんだね」
「……その人を捕まえたと言ったのは、救助しようとする味方を待ち構えるためか」
自警団の話を鵜呑みにして、公の周辺を探っているとまずかったのだろう。
「となると、連続殺人云々は嘘か?」
「いや、これが嘘とも言いきれないっス。業魔共は人間の賊を抱き込んでいたので、探索中に何回かそいつらと交戦したらしいんスよね」
そういえば、身に覚えのある話だ。
タルサデューク公領に向かう最中、『喉の大河』で呪い師に襲撃されたのだった。
あれが業魔に雇われていたのならば、同じような手合いが他にもいるのか。
「それで何人か殺った、と聞いているっス。日に日に追っ手は多くなり、ついにはニーナさんも胸を串刺しにされてしまったと……」
「まあ、それも仕込みなんスけどね」と言って、リトーはにやりと笑った。
「そういう訳なので、一般人を殺した訳ではないことは、間違いないっスね」
「まあ、そんなことだろうとは思ったけどね。この後、ニーナはどう動くの?」
「あの方は、氷を寄生させた業魔を遠隔で操れるっス。連中も気づいてないみたいだし、このまま隠れて手前らを支援する予定っスね」
なんでもないように報告しているが、二人とも相当に体を張ってくれている。
ほぼ関わりのない自分に対して、大きすぎる献身と言えた。一生物の借りだろう。
「……何から何まで、本当にありがとう。ニーナさんも、リトーも。この恩は忘れない」
クドラクが深く頭を下げると、浅黒い肌の狼少年は苦笑した。
「いえいえ、まだ手前は何もしてないっスから。自警団にとっ捕まっただけで。……はあ、変装すりゃよかった。指名手配されてると知ってりゃ……」
耳をペタンと伏せてへこむ姿に、どうにも犬を連想してしまう。
「港町で別れてからは、表立って接触してなかったので、ニーナさんと無関係の同乗者で済むと思ってたんスけど……甘かったっスね」
「ま、何とかなったしOKでしょ! ちなみに、この数日間で何かつかんだことはあるの?」
クルースニクが聞くと、リトーはうなずいた。
「『探し物』の捜索は難航してるっスが、いくつか情報を仕入れたっス。まず、今起ころうとしている狂奔についての話っスが――」
全体の話を要約すると、こうだった。
1:今まで得た情報は正しい。各地から集めた魂を元手に、一週間後に業魔達が狂奔を行う。
2:現在、タルサデューク公領全域の地下に、巨大な異空間が形成されている。
3:そこで冥府への門を開き、大量の業魔を地上に吐き出す計画である。
「――地上で門を開こうとしても、『聖林』の監査部隊とかに見つかるのがオチっスから。どうせなら邪魔の入らない空間を作ろうって魂胆かと」
同じようなことを考える業魔は、規模こそ違うがこれまでもいた。
だが、公領全域に根城を作ろうという輩は、さすがにお目にかかったことがない。
「推測したとおりだね」
「それで、よく現地の狩人に隠し通せたな。誰か一匹でも、近隣の村でつまみ食いをしようって輩はいなかったのか? ……いない訳ないな」
それでも、今なお巫女達に拠点を気取られてない理由は、ただ一つしか考えられなかった。
「公が騒ぎをもみ消している、か?」
「お察しのとおりっス。地下の根城に、タルサデューク公の側近、および『
やはり、クロか。計画の途中ででた人死にを、公権力を使ってもみ消したのだろう。
公直属の狩人を抱き込んでいるのだ。どうとでも被害をごまかせられる。
「『探し物』の手がかりも、おそらくあるっス。どうも支配者の業魔が、古くからタルサデューク公と共同研究を行っていたそうで」
「……名前は?」
「メテフィラ・ボギンスカヤ。数百年を生きた魔女らしいっスが、ご存知っスか?」
脳に何かが引っかかる。聞いた覚えがある名だ。
「『呪いの強化』をテーマにしている研究者だ。論文を読んだことがある」
「……業魔の学者っスか?」
「よくある話だ。イドリシチェ尖塔郡の狂科学者は、業魔から研究成果を買い取ることがある」
クドラクが読んだものも、尖塔郡から闇市場に横流しされた写本だった。
呪いの火力を底上げする鍛錬法が書かれていて、実用的な内容だったのを覚えている。
確か、著者はクラゲ型業魔の「スペクター」だと聞いたことがあるが……。
「で、これからどうする? その地下とやらに行って、門の予定地ごと全部粉砕しちゃう?」
クルースニクの意見は一理ある。
これ以上、妙な企みの準備を整えられる前に、丸ごと連中を皆殺しにしたい。
ヴェレスの欠片のありかも、メテフィラに尋問したいところだ。
「タルサデューク公に逃げられそうだけど」
「ニーナさんが城内部にも潜り込んでいるって話なので、逃亡しようとすればわかるかと」
「そもそも、巫女さんも公の周辺を監視してるんでしょ? 確保はそっちに任せるってのも手だよ」
確かに、たとえ公が巫女達に逮捕されても、後で自分達の知りたいことを尋問すればいい話か。
クドラクは巫女達の協力者だ。要請すれば、二人きりの時間を設けてくれるはずだろう。
よしんば、その間に欠片を巫女が手に入れたら、背後から強奪すれば済む。
追われる身になるのが早まるだけで、さほどデメリットはないだろう。
クルースニク達は先に帰して、自分一人が泥を被ればいい話だ。
「……わかった。巫女達と連携して、公の確保と地下施設破壊を同時にやろう」
「施設の規模から判断して、巫女さんに手伝ってもらわないと、討ち漏れが出るからね!」
「ああ、今日すぐにとは行かないかもしれない。ひとまず今夜にでも作戦を練って――」
《――少し遅いかもしれないわね。連中の動きに、変化が現れたわ》
最後の声は、手元の結晶から放たれた。
鈴が鳴るような愛らしい声――しかし、なぜか得体の知れない不気味な印象を受ける。
「おっ、ニーナだ」
「ニーナさんっスか?」
二人の驚いたような反応を見るに、声の主が例の狩人か。
「この結晶、通話できるんだな」
《そりゃ私の一部だからね。……「初めまして」も「久しぶり」も言いたいけど、それよりちょっと急ぎの連絡事項があるの。後にしましょう?》
くすくす、と結晶の中にいる意思が笑う。
《リトーから大体の状況は聞いたわね? 今、私が氷を寄生させた業魔達が、祭りの準備にかかりっきりになっていてね。それを知らせにきたの》
「……侵攻の予定が早まると?」
《正確には、一部の兵士共を先に呼んで、施設が攻め込まれた時の備えにするっぽいわね。巫女達の動きを警戒したんじゃない?》
楽園公の配下達は、隠密に公の計画を探っていたはずだ。
それを気取られたか。敵が増えると、探索するにも攻略するにも厄介だ。
第一波の兵隊だけで、先に狂奔をおっぱじめる可能性もある。
呼び出した連中の食い扶持を支えるには、地上で現地調達してもらうのが手っ取り早いはずだ。
《今日の夜には、第一波が来る。それまでに企みを潰すのがベストね。……敵地に突っ込むのが恐いなら、やめといた方がいいけどね?》
「……クルースニク、いけるかい?」
「もちろん!」
「巫女に文を飛ばして、街の防備をお願いする。地下で討ち漏れた業魔をあちらで潰してもらう。……その共有が済むまでは待つべきだ」
馬車の中にピリついた空気が流れる。言外にクドラクはこう言った。
今夜、門が開かれる前に、異界を制圧すると。
「手前もご一緒するっス。戦の心得があるもんで」
「リトーも? しかし……」
「あの街でのご恩があるっス。恩人を死地に行かせて、手前一人だけイモ引くのは無しっスね」
脇に立てかけていた、宝石があしらわれた大曲刀の鞘をリトーは叩く。
不安ではあるが、サルトゥイクが頼みを遂行しうると見込んだ人物なのだ。
おそらくは、いっぱしの戦士だろう。
「……わかった。異界への入り口はどこだ?」
《リトーが知ってる。最初っから、地下への入り口に案内しようとしていたみたいだから》
「施設の中を軽くお見せしようとはしただけで、今日潰すとは読めなかったけど……この辺りっスよ」
ほどなくして、馬車が森の奥地で止まった。
今や、太陽は山頂に沈んでおり、昼の日差しもこの森にはさほど届かない。
細道は糸のようにぷつりと途切れており、もう後は鬱蒼とした木々と苔むした草地しかない。
「昔は、この先に村があったそうなんスけどね。デーモン襲撃の折に壊滅したそうで。……なぜか、その廃村の中に入り口があるんスよ」
三人して馬車から降りる。今は、近辺に業魔の気配を感じない。
「侵入の段取りなんスが、ニーナさんの器になった業魔が、出迎えをする流れっス」
《連中の思考は、私が操作できるの。あなた達をいいように認識させるわ》
怖いことをさらりと告げるニーナに、思わずほおを引き攣らせる。
やっていることが、思考を操作する類の寄生虫のそれである。
「問題は、どういう形で入るかっス。手前の物資にでも紛れ込んで、頃合いを見て飛び出るか――」
「案はある。これを使う」
右人差し指の指輪を外し、宙へ放り投げる。
――ぴたっと中空で指輪が止まった。
すぐさま大穴のようなブラックホールができ、その中から白い骨のようなものが現れる。
白骨化した前足を穴のふちにかけ、山羊角の生えた頭骨を覗かせ、ずるりと体を引きずりだす。
牙のように生えそろった肋骨と、船の梁のような背骨が、見る物を威圧する。
長大な尻尾まで引きずり出されれば、一軒家ほどもある巨体が木漏れ日の元にさらされた。
「これは――
リトーがまじまじ見上げる先で、怪物はほの暗い眼窩に赤い鬼火を光らせる。
骨の肉体に、もやのような影がまとわりつく。
上古の代にいたとされる頂点捕食者──今は、冥府で覇権を築いている怪物の王。
災厄の権化「
「それをベースにした人造の業魔……いや、魂の拡張パーツだね。これ自体に意思はない。使用者の魂と繋がって、手足のように動かせる道具だ」
クドラクがむき出しの肋骨を触ると、まるで捕食するかのように、がばっと肋骨が開く。
「名を『
TIPS:『ヴォジャノーイ』
知能の高い業魔の一種。深海都市に棲まう種族で、魚や船舶などを獲物とする。
金銭や宝物の価値を理解しており、人間の奴隷商人から贄を買うこともある。
独自の宗教を持ち、『海神』に対して絶対の忠誠を誓っている。
深海は獲物が少ない。拠点を構えるには不向きで、まして都市を築く利点などない。
しかし、あえてそうする理由が、彼らにはあるのだと言われている。
何者にも邪魔されたくない『秘め事』を、暗闇の底で計画しているのだと。