転生TS天使ちゃんは怠けたい   作:テチス

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おまけ 悪魔事件

 

 『大日本皇国』が誇る国立魔法高等専門学校。

 選ばれた人だけが名乗れる魔法使い。その中でも特筆して才能ある者たちが通う魔法の学び舎。通称魔高に通う少女、瑞城(みずしろ) 詠子(えーこ)が悪魔に出会ったのは今から4日前のことだった。

 

 自室の机で夜遅くまで魔法の練習をしていたら、不意に窓から視線を感じた。

 五軒隣の高齢者が一人で住む家の屋根の上。妙に手足の長い黒い影が踊っていたのが目に映った。

 

『――?』

「っひ!?」

 

 手足をくねらせて見る者を不安にさせる奇妙な動き。黒い影は詠子と目が合うと、大きく口を裂いて嗤った。

 音は聞こえずとも口を動かして言っている。『見つけた、見つけた』。怖くなった詠子は部屋を飛び出した。

 

 両親を叩き起こして、さっき見た怪しい影を報告。

 口やかましく要領を得ない説明だったが、両親は真剣に聞いてくれた。恐る恐る再度三人で詠子の部屋から外を見た。影はもういなかった。

 

 毎日の魔法練習で疲れていたのだろうと言われると何も返せなかった。詠子もなんとなくそんな気がしてきた。

 悪魔に遭遇するなんて一大事、そうそう起きることじゃない。ただの見間違い、気のせいだ。そう思い込んで、結局その日はベッドで布団をかぶっていた。眠ることはできなかった。

 

 翌日、影が踊っていた家の住民が遺体で見つかった。

 死に顔は目を見開いて苦しみ抜いたもの。病死だったという。

 

 詠子は身の毛もよだつ思いだった。

 なぜあんなに元気だったおじいちゃんは突然死んだのか。見間違いなんかじゃない。気のせいなんかじゃない。あの影は人の命を貪った。

 父もこれはおかしいと警察に報告してくれた。もう大丈夫だろうと言ってくれた。だけど心に沁みついた不安は消えなかった。

 

 詠子が再び『影』を見たのは、その日の夜。四軒隣。若い夫妻が住む家の屋根の上だった。

 前回よりもひとつだけ、影は詠子の家に近づいた。

 

 翌日、夫妻の変死体が発見された。

 夫妻は絶命するまで()()()()()()()()()()()()()()という。

 明らかに超常現象の事件。警察の管轄じゃない。

 

 それが二日前のこと。

 日に日に黒い影は詠子の家まで進んでくる。カウントダウンのように、徐々に徐々に、影は詠子に近寄ってくる――道中の住民の命を貪りながら。

 

 怪しい影が踊る家なんかにはいられないと周囲の住民はみんな避難した。

 だけどホテルに逃げても、親戚の家に隠れても。空き家の上で影が踊ると人が死ぬ。

 

 ある人はホテルから飛び降りて自殺した。

 また別の人は避難先の親戚の人に殺された。理由を聞くと「殺さなきゃと思った」などと言っていたらしい。

 

 詠子も隣県まで避難して生活していた。警察の人達も付きっ切りで守ってくれているが不安は拭えない。

 日に日に死が近寄ってくると思うと詠子は気が狂いそうになる。

 

 あの奇妙な影――悪魔――は人を操る能力を持っている……らしい。

 遠隔だろうと、住居を縁として思うがままに人間を操り人形にしてしまう。

 

 魔法を学んでいる詠子だから分かる。それはとんでもない魔法だ。

 あまりに代償が少なく、発動が簡易的過ぎる。とてもじゃないが普通の人間には扱えない超常魔法。

 

 もしかしたら、護衛の警官に撃たれるかもしない。

 もしかしたら、家族と殺し合うのかもしれない。

 

 分かっているのなら対策してよと詠子は嘆いたがダメだった。

 普通の護符や結界は効果を為さず。強力な悪魔を打倒できる『英雄』やその候補と呼ばれる人達も運悪く対応できないという。

 専門部署の職員が大勢で黒い影に挑んだが返り討ち。かなり強さの悪魔だったらしく"爵位級"なんて言っていた。

 

 大型の軍事兵器を使えば結果は変わっただろうが、街中で大規模魔法兵器をぶっ放すわけにはいかない。

 あれは周囲への()()()()がひどくて天使のサポート無しでは、最悪、何千人という死者が出る。かつては魔法兵器が環境を壊したこともある。易々とは使えない。

 

 天界にも支援要請をしているが、こういう悪魔絡みの事件に対応してくれる『統制局』は世界中から仕事が集まってきており、申請から決裁まで時間が掛かる。

 詠子の事件も対応してもらえるまで後数日は掛かると聞かされた。死者がでていることもあり、これでもかなり早い対応だという。

 

 ――数日。

 あと数日で解決すれば、爵位級の悪魔が出現してから人間の死者が10人足らずで終わり。それだけ考えればなんという被害の少なさか。

 関係各所は十分な役目を果たしたと褒められるだろう。

 

 だけど、その時には詠子は死んでいる。

 もう今夜なのだ。詠子の番が、くる。

 

 

 

「掛けまくも畏き神の大前を拝み奉りて、かしこみかしこみもうす」

 

 避難先のホテルの一室で。

 人払いをした詠子は、盆に汲んだ水に手を翳して祝詞を紡いだ。

 

「大神の広き厚き御惠をかたじけなき奉り、高き尊き神教のまにまに天を仰ぎ奉り」

 

 詠子は胸の奥底、己が魂から全力で魔力を練り上げる。それでも足りないと絞り取る。魂がきしみを上げた。

 強引な魔力抽出はやってはいけないこと。危険だから、絶対に避けるべきと教えられる外法のひとつ。それを詠子は敢行した。

 

 どうせ今夜には死ぬのだ。ならば朝死のうが、夜死のうが関係ない。

 詠子は決死の覚悟決めて祈りの旋律を奏で続ける。

 

「諸々の禍事、罪、穢、有らむをば祓へ給え清め給えと、もうすことを聞こし召せと――!」

 

 過剰な魔力抽出の苦痛で息が漏れる。視界が霞む。だけど言葉を絶やしてはいけない。これは神への懇願だ。始めたら最後、やり遂げるか死ぬしかない。

 

 矮小な人間が奇跡を齎せと神域に手を差し込んだ。

 運命を覆し、道を切り拓く代償。指先から塩に変わって崩れ落ちていく。失敗の予兆。

 詠子はアドリブで詠唱の一部を切り替えた。呪言を身を護る祈りへと変える。

 

「――幸魂(さきみたま)奇魂(くしみたま)、守りたまえ、幸へたまえ!」

 

 これらは日本の神へと贈る祝詞だ。

 古来より日本を守ると考えられていた八百万の神々への祈り。だが、奉られるべき神がもう居ない事は証明されている。

 かつて古代神族が人間を支配するために名乗った神々の名は、近代に入り天使が顕現した事で廃れていった。

 詠子が『古式呪法』を用いて紡ぐ祝詞の先に神などいない。

 

 しかし無駄にはならない。

 行き先を失った祈りは、巡り巡って一柱の神の元へと辿り着く。

 ――サーヴィトリー・サラニュ・サティヤヴァット。

 世界に現存するたった一柱の太陽神にして顔も分からぬ唯一の神族。

 

 自分の神名ではない祈りで救いを求める声など無視されて当たり前。なのに詠子が懸命に祈ると、計り知れない力が包み込んでくれるような温もりを覚えた。

 

『――がんばって。あと少し』

 

 加護だ。詠子は確かにいま神の息吹きを感じとった。彼女の境遇を憐れんだ神が少しだけ手助けしてくれた。

 詠子は力を取り戻したように呪言を進める。

 

「世の為人の為に尽さしめ給えと、かしこみかしこみもまおす!」

 

 そして神への祈り――古式呪法の詠唱が終わり。

 詠子は荒くなった息をのんで推移を見守った。

 

「どう。文字は? 呪法の成否は!?」

 

 警察も専門機関も、もはや誰にも詠子達を救えない。自分の未来は自分で切り拓くしかない。

 そうして詠子が挑んだ人智を超える魔法。1000年以上前の神秘全盛期に編み出された『天啓賜杯呪法』。

 

 水を汲んだ杯に多大な魔力を籠めて、運命を映しだす水鏡に変える魔法。死に瀕した者だけが使える、危急を脱する手段を知る方法。

 

 運命を覗き込み、己が望む未来すら引き寄せる『天啓賜杯呪法』は、人間には過ぎたる力として伝わってきた。使いこなせた術師は数えるほどしか居ない。

 この1000年間。何百という術師が自分の腕を過信しては、塩の柱になって死んでいった。

 とてもじゃないが学生の詠子に扱えるレベルの秘術ではない。命を懸けてなんとか指先が届くかどうかという難度。

 だが、ここ百年で天使が人間界で度々見かけるようになっている。人間界の神秘は再び濃くなりつつある。

 "神"だって手助けしてくれた。成功する可能性は決してゼロじゃない。

 

 1分待ち、3分待ち。

 詠子が固唾を飲んで見守る中。盆の水面に文字が浮かび上がった。

 

『方位は亥下中、河川の傍に救いの光あり。向かうは一人。乗車は凶。魔法は禁忌。静寂こそが導き手ならば、何事にも口を開くべからず也』

 

 ――成功だ。

 詠子は喜びに湧く心を抑えつけ、すぐさま天啓に従って遠くの川まで移動した。歩いて4時間。目的地はなんとなくイメージで伝わってきた。

 

 人里離れた溪谷。道路もない草木が生い茂った獣道。

 決して、物音を立ててはいけない。魔法に頼ってもいけない。

 詠子は頭上に落ちてきた虫や、引っかかった蜘蛛の糸に悲鳴をあげそうになったが、そのたびに思い出す。

 

 ――何事にも口を開くべからず。

 

 声を出したら救いの光は逃げてしまう。それが何故なのかは分からない。だけど天啓がそう言った。

 天啓の導きに逆らえば引き寄せた輝かしい未来は泡沫のように消えていく。

 急勾配の斜面を下って、転んで。大きな岩を登って川辺を覗きこむ。そこで詠子は『運命』と出会った。

 

「わ、見つかった」

 

 川辺に居た子はとても幼げで、だけど、とても怖い気配を放つ。可愛らしい天使さんだった。

 

【挿絵表示】

 

 

 

 

 

 

 

 今日は女神様に誘われて人間界をお散歩中。

 綺麗な川を見つけて休憩がてら景色を眺めていたら人間さんに見つかった。

 

 いや……別にいいんだけどね、見つかっても。天使が姿を見られちゃいけないなんて規則ないし。

 だけど、かなり気が緩んでいるなと反省。戦闘から離れ過ぎてスイッチを完全にOFFにしていたようだ。警戒心が足りない。

 

 女神様を連れているのだから、なんか物音するなぁと気付いた時点で逃げるべきだった。まさか人間とは思わなかった。

 

「女神様、行こー」

 

 あんまり人目に女神様を晒したくない。

 だって女神様、凄く綺麗で可愛らしいから。そこら辺のモデルとか俳優なんか眼じゃないから。その容貌と優しい性格を知られたら、人間界のテレビを席捲すること間違いなし。

 女神様が人間たちにも超絶人気になってしまう。それはそれで嬉しいことだけど……なんかイヤ。

 

 ……え? 独占欲? まあ、そうね。

 これが厄介古参の思考か。同担拒否なのか。俺も他の天使を笑えない。

 

「女神、さま……?」

「あ」

 

 人間が信じられない単語を聞いたとばかりに目を見開いた。

 

「こら、ザラキエル」

 

 すぐ隣から女神様がひょこっと顔を出した。

 人間の目が俺の羽と、女神様の顔を往復する。

 

「め、め……めぐみ様ー」

 

 女神様じゃないよ。めぐみ様だよ。

 え? なに聞き間違えた? ばっかだなー。

 

 ……どう? だめ?

 

「女神様……え? めぐみ、様?」

「ザラキエル。その誤魔化しは厳しいでしょう……」

 

 あ、ダメらしい。

 俺の言い訳を聞いて、二人の顔がなんとも言えない顔になる。

 

 上手い誤魔化しだと思ったんだけど、ダメか。

 ……じゃあ仕方ない。記憶を消す。

 俺はため息一つ。手に魔力を集めて目撃者の顔に近づけた。

 

「っ……! な、なーんだ! めぐみさんかぁ! 思わず『女神様』かと聞き間違えて、ビックリしちゃったなぁ! もう!」

「あ、あははー! たまに言われるんですよー! 似てるってー!」

「……」

 

 いや、無理でしょ。その誤魔化し。

 二人とも急に物わかり良くなりすぎでしょう。

 

「――許してください! 悪気はなかったんです! 私が女神様のご尊顔を見てしまったのは事故なんです!」

「ザラキエル……記憶を消すのはやりすぎです。別に私は顔を見られたからって気にしませんよ?」

 

「言いふらす可能性がある。女神様が秘密裏に人間界に降りていたことが周知されるのは、幾分、外聞が悪い」

 

「言わないです! 私、絶対、言わないよ!」

「ほら、この子も言ってますし。ザラキエル、暴力はいけません!」

 

 人間は涙目になるし、女神様からメッってされた。

 

 なんで俺が悪者みたいになってるのか……。

 別にいいじゃん。記憶の改竄くらい。死にはしないって。失敗しても記憶が全部消し飛んで赤ちゃんになるくらいだって。

 そう言ったら、余計に人間はぷるぷる首を振った。また女神様にメってされた。

 

 むぅ……まあ、口を滑らせた俺が悪いのは間違いない。

 仕方ない。"契約"で済ませよう。

 

「じゃあ女神様がここに居た事、黙っててね」

「は、はい!」

 

 何度も頷いて、黙ってるよアピールしてくれる人間さん。

 よかったよかった。素直に契約魔法も結んでくれたし、これで一安心。

 

 ……だけど、ちょっと申し訳ない。

 俺の失敗で本来は気付かなくて済んだ俺達を見ちゃった訳だし、無駄に契約を結ばされた。まあ契約に実害があるかと言われると、無いんだけど。

 今日出会った女神様のことを他人に伝えようとしたら、息が詰まって死にそうになるくらいだけど。

 

 んー……。

 少女の右手が崩れているから、お詫びに治してあげるか。

 塩の結晶と成りつつある右肘に触れると人間がビクリと震えた。

 

「っ……」

「痛い? 痛くはないでしょ」

 

 何をやったらこんな腕になるのかな。

 よくよく調べれば、内臓も塩になりつつある様子。ゆっくりとだが身体の内外から塩化は進んでいた。たぶん来週には全身が塩の柱になって死んでそう。

 

 あー……なるなる。

 こいつ、魔力の過剰抽出に加えて『運命』に触れたな。俺でも成功率6割の()()()()だ。

 となると今回の出会いは偶然じゃない? そうなるように()()()()()()()()()可能性。

 

 まあいいか。

 この人間、才能あるかもしれない。

 

「わ、治った……?」

「いや。無防備に禁忌に触れた塩化は治らないよ。直しただけ。まあ、女神様の方が上手いけど」

 

 神を神たらしめる奇跡の魔法――そのひとつ。

 俺も以前やって貰った『対象物の状態を過去に戻す時間遡行の魔法』は神力の方がやりやすい。

 神力ではなく、ましてや少ない魔力で発動するのは、いわば車で空を飛べというようなもの。普通に無理難題だ。けど不可能という訳じゃない。

 

 今の俺では時間を戻せて一日が精々。でも十分。

 女神様も人間の腕を確かめて頷いた。俺の頭を撫でて「凄いですねザラキエル」なんて褒めてくれる。

 おれ、がんばった。えへん。

 

「ぁ……私の右手……ぐすっ……あ、ぅ……!」

「え? え!?」

 

 そしたら少女に突然泣かれた。

 なに!? なにごとぉ!?

 

 

 

 

 

 

 その悪魔――王級の悪魔『デモゴルゴン』は狡猾だった。

 

 細身で筋肉質な体格。灰色の肢体は滑らかで強靭だ。異形の怪物が多い悪魔にしては身体のシルエットが人間的にも見える。

 だが首から上がおかしい。

 顔は無数の歯が生えそろった花弁のように六つに裂けて花開き、人間らしいパーツは何もない。ただ肉の花弁が真っ赤な内部を晒して、獲物を貪り食わんと蠢いている。

 

 その悪魔、デモゴルゴンは老獪だった。 

 上司である『アスモデウス』によって人間界に召喚されたが、無謀な決戦を行うと聞いて勝ち目無しと判断。戦闘前にアスモデウスに見切りを付けて逃げだした。

 

 人間の『英雄』ないしはその候補の居場所を把握して、すぐに対応できない場所で活動する。

 下手人と事件の脅威性を低く見せて楽観視させる。また同時多発的に軽い事件を起こすことで対処を遅らせる。

 デモゴルゴンは、そうやって人間界に根を張った。

 

 以前見かけた女学生――瑞城詠子の『恐怖』は美味だった。

 将来は"英雄"に匹敵するだろう才ある少女が恐怖に慄き不安を抱く。絶望が現実になる瞬間は、きっと最高だ。

 

『恐怖には鮮度がありやす。人間の瑞々しく新鮮な恐怖と死の味を上手く調理するなら、あっしにお任せを』

 

 かつて、デモゴルゴンにそう言った悪魔がいた。

 デモゴルゴンもそんな調理を真似てみた。

 

 あえて『影』をさらして恐怖を植え付け、熟成させた。

 鮮度とは真逆の手法だが、これはこれで美味だった。

 人間の絶望、恐怖、苦痛。負の感情を食す悪魔にとって才ある人間の絶望ほど美味なモノはない。

 そして今日、ようやく少女の全てを収穫する。

 

 その悪魔、デモゴルゴンは狡知だった。

 だが――同時に愚かだった。悠長に事を運び過ぎた。運の尽きる時が来た。

 

 

 

「見つけた」

「っ!?」

 

 人目の少ない河川敷の橋の下。日が沈み周囲が闇夜に包まれた。そろそろ詠子も喰い時というタイミング。

 突然、迫ってきた投げナイフをデモゴルゴンは何とか回避した。

 

「ナニモノだ?」

「……」

 

 デモゴルゴンの声は怪物が無理やり人間らしい声を出すような、聞き取りずらいものだった。

 問い掛けへの返答はない。小さな影は地を這うように迫りくる。

 

『――暗夜の礫』

 

 デモゴルゴンは魔術言語を用いて、無言の襲撃者を迎撃する。

 川の中から大粒の石が浮かび上がると鋭利な凶器の形にカットされた。『闇の衣』を纏って襲撃者へと射出。

 

 『闇の衣』を纏った、夜に溶ける不可視の一撃だ。

 襲撃のタイミングを間違ったなとデモゴルゴンは見下した。

 

「――オヤ?」

 

 だが襲撃者は事もなげに足を止めない。

 無数の礫を躱しながらデモゴルゴンの懐まで迫りくる。

 

 疾い。

 速度はさほどでも無いのに、回避動作と移動に無駄がない。全てのエネルギーが効率的。それこそが速く見える理由。

 襲撃者はポケットから小さな銀色の刃を抜いた。

 

「ナルホド、ナルホドなぁ……! キミが噂に聞く殺戮の天使カ!」

「……」

 

 特殊な魔法が籠められたナイフだった。

 デモゴルゴンは目の前に突き付けられたそれを、舐めるように検分。指先で触れると弾かれた。破邪が籠っている。

 

「たしかキミは邪眼が得意だったカナ? 生憎、私には目がナイのでね」

「……」

「無言とはつれないナァ。一緒にお話しようじゃナイか。タノシイよ?」

 

 あと数センチ。ナイフを進めればデモゴルゴンの首に届く。

 致命傷まではいかずとも大ダメージ間違いなしの一撃だが、殺戮の天使――ザラキエルは直前で凶刃を止めた。

 

「これだから悪魔は嫌い」

「オヤ、オヤオヤ? 私は好きダヨ、天使チャン。皆、無垢で、善性で、愚かなのダカラ。可愛がり甲斐があるというモノ」

 

 デモゴルゴンの後方。ザラキエルに見せつけるように五人の人間が立っていた。

 全員が目を瞑り、己が首元に包丁を突き付けている。そこに自由意思などない。肉体だけが、デモゴルゴンの支配下にある。

 

「だ、誰かいるのか!? 助けてくれぇ! 身体が勝手に動くんだ!」

「血が止まらない……! 寒い……寒いよ」

 

 人質だ。

 デモゴルゴンは人間の命を盾にザラキエルを止めてみた。

 事前警告など要らない。天使の視界に映るよう一人の人質に己の頸動脈を掻っ捌かせた。そうしたらザラキエルは予想通り、動きを止めた。

 

 天使ほど操りやすいものはない。

 無辜の民を用意すればアイツ等はすぐ止まる。

 

 首から鮮血を撒き散らす人間に身体の支配権を返してやる。

 そいつは慌てて包丁を投げ捨てると、自分の首元を懸命に抑えて止血を試みた。目に恐怖を浮かべてデモゴルゴンとザラキエルを見上げてくる。

 

「たす、助けて……! 死にたく――」

 

 喧しかったので隣の男に殺させる。人質の存在をアピールできたらならお前はもう要らない。

 

 死した女の魂をデモゴルゴンの顔元に呼び寄せて肉の花弁で咀嚼する。

 ぐちゃぐちゃと汚らしい食事。恐怖、絶望、苦痛、そして人間の魂は美味だった。

 

「ぷハァ――さあ、キミは人質を何人救いタイ? 100人? 1000人?」

 

 川辺に建つ家の窓が次々開いて、ザラキエルへと顔を向ける人、人、人の群れ。

 

 いつか天使が討伐に来ることは分かっていた。だから対抗手段を用意した。

 デモゴルゴンはこの街の住民、その全てを支配下に置いていた。

 命ずれば、ここは瞬く間に死の街に変わるだろう。何万という死体の山が築かれる。それは善性たる天使にとって看過できることではない。

 

「……」

「フゥン、表情も変えないんダ」

 

 なのにザラキエルは焦り一つ浮かべない。それがデモゴルゴンはつまらない。

 

「なんとか言ってみナヨ」

 

 近くの民家。その窓から母親に赤子を投げ捨てさせる。甲高い悲鳴と泣き声、遅れて肉の潰れる音がした。

 

「ほら、キミのせいでまた死んだ。キミが悪いんダ。キミが私とオハナシしてくれないから」

 

 無限の命を持つ悪魔にとって、生きることは退屈凌ぎ。ただ面白そうだからやってみる。それはなんという悪逆か。

 

「殺戮の天使ナンテ、けったいな名前で呼ばれて、その気にナッチャッタ? でも戦いハ殺し合いだけが全てじゃないんダヨ。勉強にナッてよかったネー?」

「……」

「ンー。涼しげな顔、不快ダネ。そうやってキミが喋らないナラ、喋りたくなるまで殺そうカ」

 

 デモゴルゴンは、指揮者のように腕を掲げてみせた。

 天使とは罪なき者が殺されるのを好まない。ここで普通の天使であれば「待て!」とか「止めろ!」とか言ってくる。

 なのに、ザラキエルからは焦りすら感じられない。『やりたきゃ、勝手にやってみろ』そう言わんばかりの態度。それがデモゴルゴンは不愉快だ。

 

 腕を振り下ろす。

 周囲の家から次々と人間が投身自殺を始めた。望まぬ死を与えられた人間達の悲鳴が街中からこだまする。

 中には死にきれずに呻き声をあげる者もいる。この街はまさに阿鼻地獄と化していた。

 

「……」

「き……キミ、ホントに天使?」

 

 この瞬間で数百の命が散った。なのにザラキエルは眉ひとつ動かさない。苦しむ人間へ慈悲を思わない。

 悪魔のデモゴルゴンすら疑う天使ザラキエルの態度だった。

 

 だが……思う所はあるようだ。

 ザラキエルは冷めた目でデモゴルゴンを見下した。

 

「――私は、お前がキライ」

 

 ザラキエルは武器を捨てて戦闘態勢を解除した。

 無防備に背中を向けるとデモゴルゴンから遠ざかっていく。

 

「立場を振りかざして他者を弄ぶ奴。力で支配して自由を奪う奴。みんなきらい。私はもう他人に踊らされるのが、大きらい」

「イイネェ。それで人質を救うためにキミは何をくれるノ? 取引だ。私とキミの契約ダ!」

 

 ザラキエルの行動を戦闘放棄の意志とみたデモゴルゴンが嬉しそうに膝を叩く。だが、それは早計だ。

 

「――なにを言ってるの?」

 

 パァンとザラキエルは柏手一つ。

 呪印を結んで振り返る。

 

忌み宵の人面月(コントラクト・ムーンフェイス)

「ア?」

 

 極々小さな魔力消費。大した魔法も発動できないそれで一体何になる。

 デモゴルゴンは訝し気にザラキエルの行動を見守った。何が起きても対処できるように注意深く。

 

「何も起きないよ。これはただの呼び水だから」

「アア?」

「上」

 

 天を指さすザラキエルに釣られて、空を見る。

 月だ。()()()()()()が、闇夜を赤く染め始めていた。

 

「イヤ……おかしいダロウ」

 

 月はどんどんと近づいてきた。そして、ゆっくりと回転を始めた。

 月がその裏側をこちらに向ける。禍々しく恐ろしい顔が現われた。大きく窪んだ眼窩。剥き出しの歯列。

 月面に浮かんだ狂気の顔。月の瞳がデモゴルゴンを見下ろした。

 

 なんだ……あれは!? 幻術なのか?

 イヤ、幻術じゃない……! ……いや幻術か。また幻術なのか……イヤ……何だあれは!?

 

「あれ私のペット」

「イヤ、オカシイだろう!?」

 

 今にもこの世の全てを滅ぼさんばかりの、禍々しい人面月が浮かんでいた。

 

『オ…オデは食う…ぜ…ぜんぶ食う…』

 

 しかもなんか言っている。

 

「昔、月と契約してたから。んー……! 久しぶりに魔力が滾るー」

 

 気持ちよさそうに伸びをするザラキエル。

 同時にデモゴルゴンは支配下の人間が次々と倒れていくのを感じた。

 

 ――人面月だ。

 あの月の瞳を見てしまった人間が倒れたのだ。邪眼の応用だ。

 

「ナルホド、それで人質を解放するつもりカ!」

「だから何を言ってるの?」

 

 心底不思議そうにザラキエルは首を傾げた。

 

「邪眼の対象は人間でもお前でもない。対象は――この地球。世界そのものだよ」

 

 月の瞳に晒されて。世界が勘違いを始める。

 今日この日。世界中で人間は誰一人死んでないし、死にはしない。デモゴルゴンの支配を受けた人間など誰も居ない。

 世界がそう思ったなら現実はそれに倣って書き換わる。ただし、あまり大きな改変はしない方がいい。揺り戻しも大きくなるから。

 

「――っ! そんな馬鹿ナ!」

 

 世界にノイズが走って、意識が僅かにブレた。

 デモゴルゴンが震える悲鳴をあげる。一瞬にして全ての"手足"を奪われた。

 

「それでどうするの。次は貴方が踊ってくれる番。上手なんでしょう?」

「フザケテル! こんなバケモノ相手してられるカ――!」

 

 デモゴルゴンはわき目も振らず逃走開始。

 相手は無限に等しい月の魔力をその身に宿した殺戮の怪物だ。人質も無しで抵抗できるわけがない。

 

 血だまりに倒れ伏して、だけど傷一つない人間をザラキエルが助け起こしている隙に距離を取る。

 いくつもの屋根を跳ぶように駆ける。瞬く間に街を抜け、山を越え、遥か彼方まで逃げていく。だけど月の瞳からは逃げられない。どこまで行っても真っ赤な夜から抜け出せない。

 

「貴方の踊りはもう終わり? 存外つまらなかったね」

「っウ!?」

 

 立ちはだかるように現れた。殺戮の天使は虫を見るような眼で、愉しげに口を歪めて――デモゴルゴンの記憶はそこで途絶えたのだった。

 

【挿絵表示】

 

 

 

 

 

 

 

「やり過ぎです」

 

 女神様に怒られた。

 

「でも……」

「何ですかアレは! なんであんなに月が怖いんですか!?」

「知らない。契約したら、ああなった」

「飼い主に似た!?」

 

『オ、オデ……悪魔喰った……うまかった』

 

 なんか見た事あるよね、君。具体的には前世のゲームで見た気がする。

 というか、そろそろ元の位置に戻ってくれないかな。空の大半が顔で埋まってるし、いよいよ月が墜ちてきそう。重力まで変わってるんだけど?

 

「ばっく、ばっく。戻ってー」

『あ、アイ……』

 

 あ、帰ってくれた。

 ゆっくりと後ろを向いて、元の月へと姿を変える。

 

「ええっと……まずは世界各国に説明して、たぶん事故も起きてるから、それの対処と……ああ、魔力汚染もありそうですね」

「狂気的だったね。月」

 

「なんでそんな他人事なんですか!? 悪魔を祓ったことは褒めますが……あなたの責任も有るんですからね!? ザラキエルもきちんと人間達に説明するんですよ!」

「あ、アイ……」

 

 この日、天導院と統制局の仕事が10倍に増えたという。

 そして俺は『月魔法』が禁止された。然もありなん。

 

 




明日、ラスト一話投稿して蛇足編おわります
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